仲谷一志さん(俳優・座長/劇団ショーマンシップ)
*仲谷さんはプロデュース能力に長けている。(テアトルハカタ時代から)提案してきた企画は目のつけどころに感心するし、人を巻き込む力があって、また人と人を結び付けることもうまい。インタビューではカットしているけれど、枝光のアイアンシアターを見つけて劇場に仕立てたのは仲谷さんだと聞いて驚いた。でもお話を聞いている内に、テアトルハカタの一劇団員だった時にも「劇団にとっての良い道筋や劇団の在り方」を考えていて、唐人町に移ってからは地域の活性化と一体化を考え、福岡の演劇界に必要なことを考え…常に「芝居・劇団」を広い視野で捉えている人だと気づいて、納得した。成しとげたこれまでについて「運がいいことに」「ありがたいことに」と、まるで偶然の賜物だったかのような表現をするんだけど、仮に幸運だったとしても、そこに至るまでの積み重ねがあったはず! 2時間に及ぶ長いインタビューで(残念だけどかなりカットした)そんなことをしみじみ思いました。

インタビュー
柴山:ショーマンシップも32年と長く続いている劇団ですね。創立のことからお話しいただけますか。
仲谷:27の年にテアトルハカタを離れたと記憶しています。18から始めて丸々10年はいたから。24才からラジオのレギュラーとかを、テアトルハカタがマネージメントして。27才までの日常というのは、朝事務所に出勤する、午後1時ぐらいかなRKBのスタジオに入る、夕方に番組が終わる、夜はお稽古、みたいな形で頑張ってたんですね。劇団事務所から固定給ももらっていて、個人のタレント業はテアトルハカタからマネージメント料を数%取られていたので安かったですけど、20代の男が生活するには、他の演劇をやっている人よりも苦労せずに安定した収入でやっていけました。それで制作部長みたいな役割をやっていたんですよ。あの頃のJA中央会さんや三洋信販さんをスポンサーにつけるとか自分なりにやっていた。でも出演する仕事をやりたくてこの世界に入ったんじゃないかというジレンマが生まれた。そこで制作の作業が滞ることも出始めて。今思えばキャパオーバーだけど当時はその感覚もなかったので被害妄想みたいになっちゃって。さらに上層部に出された結論が「お前はメディアの仕事もしているし、出演者だけでいいんじゃないか」だった。男としてのプライドは傷ついたし、なのにもらえるお金は倍になったんですよ。本来、劇団というのはいろんな立場の人がいてそれぞれに価値があって、劇団を維持するためにそれぞれが頑張っていくものと思っていたので、単に自分の商品価値でお金をもらえることに理不尽さを感じたのと、自分が動かしていると思っていた劇団がそうじゃないと突き付けられたようなショックを感じた。それでテアトルハカタを飛び出しました。
それから1年半くらいはフリータレントで。不思議なもので、スケジュールが開くと割とすぐ売れっ子になっちゃったんですよ。なんだけど、演劇と違って稽古をしないから暇なんですよ。その時、テアトル時代にお付き合いがあったデザイン会社が「じゃあ、自分の事務所に机を置き」と言ってくれて会計の方が電話番とスケジュール管理をしてくれて、タレント業とかイベントの制作とかしてたんですけど、それでも暇なんですよ。これではいかんなと思って一人芝居を始めたんですよ。市岡が本を書いて演出してくれて、一人芝居を3本作ったんですね。『三四郎』『好色一代男』『話せば長くなりますが』を。市岡はまだテアトルハカタに残っていたんですけど、僕との一人芝居で自分の脚本演出ができるということですごい面白かったみたいで、テアトルハカタをやめて二人でツインズっていう事務所を荒戸に作ったんです。僕が広い1LDKに住んで一部屋だけ自分の部屋にしてあとは事務所にする形でした。
一人芝居は、キャビンホールで3ステか4ステ、400人ぐらい入ったんですよ。北九州公演とかもやったんですよ。スミックスホール。必ず福岡でやってその他の場所でも。なんだけど、主催の福岡公演のお客さんがだんだん入らなくなったんですよ。よく考えたら、面白いものとか観客が求めているものを作っているのではなく自分が俳優でいたいというこっちの都合でやっているし、一人芝居という手法が本当に自分がやりたかったものかというと違う。『シティ情報ふくおか』さんの担当記者に劇団作ろうかなと言ったら「仲谷一志、劇団作っちゃおうかな宣言」という記事を書いてくれて。
柴山:何年ですか?
仲谷: 94年の10月ぐらいかもしんないです。それで人が集まって。
柴山:それは覚悟より先におぜん立てされちゃったという感じですか。
仲谷:覚悟はなかったですね~。その頃、博多駅裏に大きなギフトショップのビルが空いているのでそこをコーディネイトしている人が、無償でいいからそこに僕の事務所を置かないかと。それで喜び勇んでそこに行ったんですよ。福岡の芸能関係者が集う場所にしたかったみたいなんですけど、その内いろいろあったらしくて急に出ていってほしいと言われた。代わりに港町、荒戸に場所を見つけてきてくれて。劇団半分、居酒屋さん半分で、稽古場と事務所みたいなものを作ったんですよね。居酒屋さんと僕とでお金を出して。これがあるから劇団作ろうと言い出した、のかな。「港町エンターテイメントステーション」と僕らが呼んで小劇場化した。
劇団が何であるかという理念はかなり僕はテアトルハカタから継承していて、やっぱり稽古場と劇場があると求心力みたいなものがあって。そしてシティ情報ふくおかさんのことがあって人が集まっちゃったんですよ。でもさっき言ったようにすごい覚悟があるわけじゃなく、「明るく楽しい演劇コース」とか「命がけ演劇コース」とかタレント養成所みたいな感じの仕立てだったと思います。…生田がその時の二期生ぐらい。
柴山:養成所のシステムを作ったということなんですか。
仲谷:養成所システムとは自分は意識してなかったしそんなこと謳ってないんですけど、考えてみればお月謝、団費みたいなものをもらって運営していくというスタイルですよね。レッスンもやってました。劇団員に対して、僕が教えたり市岡が教えたり、ジャズダンスの先生近藤勇人というテアトルハカタの仲間の子で、しっかりやってましたね。
『探偵、夢野又兵衛頑張ル!』というのが実質的な旗揚げ公演、それを市岡が書いて演出して、ベスト電器のベストホールでやった。1ステはベスト電器が買い取ってくれて、でもなかなか招待しても客が集まらなかった…そういうところから始まりましたね。


柴山:ベスト電器が買い取ってくれたのはどういう経緯から?
仲谷:テアトルハカタ時代のつてが一つ残ってたんですよ。テアトルハカタベスト劇場という巡演、僕が制作窓口だったので。その頃に繋がっていた方が応援してくれて。
柴山:テアトルで一度ご縁があったことが生きたんですね。
仲谷:生きてます。その頃、演歌歌手をベスト電器全体が応援してて、その子がラジオ番組にゲストとかで来てたんでベスト電器さんも付いてきてて。したたかにそれを見てて、これはやれるんじゃないかと思って。
柴山:『探偵、夢野又兵衛頑張ル!』は昔の付き合いのご縁を繋ぎ直したんですね。
仲谷:その前にプレ公演をしたんですけど、それが実質の旗揚げ。…違う! 学校公演をやったんですよ。まだ劇団できてないのに。それこそまだテアトルハカタの頃の…僕に連絡してくださった方が「今どうしてるの」って。「いや、自分で劇団作ろうとしてます」って言って…『ハート姫の大冒険』を学校公演でやってますね。10本ぐらい学校廻る仕事をしてますね。
創立2年目の3月に旗揚げ公演『ふつつかなボク、ふしだらなワタシ』というのを大博多ホールで上演して。8月は『石ころと50円玉とカレーライス』後藤香の作品をアクロスの小ホールでやってるんです。それで12月に『夢野又兵衛』をベストホールで僕の主演でやったんですね。これをシリーズ化しようとして市岡が頑張ってくれたんですね。


柴山:できたばかりの養成所の若い子たちと一緒に学校公演をなさったということですか。
仲谷:そうですね、やりましたね。市岡、僕、そのときいたスタッフ周りはテアトルハカタのメンバーだったのでもう出来上がっていたようなもので、演者が若いだけということですね。
柴山:皆さんその頃はテアトルをおやめになっていた?
仲谷:やめていたり宙ぶらりんになっていたり。そのタイミングもあったのかも。そして翌年1996年に「港町エンターテイメントステーション」という名前を付けました。それまでは単なる稽古場だったんですよね。事務所兼稽古場。手作りで改装したんですよ、みんなで。それはテアトルハカタの「博多こもんど4.22」の模倣ですね。というのも、この時に居酒屋さんがやめることになって家賃を急に倍を払わなくてはならなくなった。劇場を借りるよりそこで公演を打ったら家賃ぐらい払えるよねという発想で、劇場作ってコント中心の公演を「マンスリーショーマンシップ」という言い方で毎月やってたんですね。

柴山:これはどのくらいの人数が入ったんですか?
仲谷:30人から40人。月1で3~4ステージやっていたと思います。その頃は手売りですね。まだSNSもないし。DMも。何人か応援してくれているファンがいましたもんね。デートで来たカップルが時間を間違えて終演後の打ち上げをしている時に来たんですよ。もいっかいやろうと言って仕込み直してやったことがあります。
柴山:えぇ? 二人のために? そりゃぁもう、ファンになりますね。コントも市岡さんが書かれた?
仲谷:いえ、自分たちでネタ出ししてましたね。1時間ぐらいで。構成は僕がしたり市岡がしたりして。だんだんそれも「これ、演劇じゃないよね」と。
それで『おばけリンゴ』とかを翌年やってるんですね、やっぱり面白いんですよ、観客の反応もいいし。また『夢野又兵衛』シリーズを市岡が書いてくれて。荒戸時代で一番元気良かったのは『スカパンの悪だくみ』です。2カ月間毎週やって。それを学校に持っていったりもしてたんですよ。
柴山:ロングランというのは劇場があるからできることですよね。場所があるから公演を頻繁にできるようになっていたんですね。


仲谷:そうですね。ただ活動が頻繁になると、上が民家だったんで普通に住んでいらっしゃったんで、もめて。だいたい僕の理念、劇団の理念というのが「地域に愛される」なのに上の人ともめてどうするんだと。そしたら唐人町の話があって、それが5年目。と同時に多少ぼくなりに覚悟もできた。この時に劇団をプロ化したいと思って有限会社にしたんですね。有限会社にしたからこの唐人町とも契約ができて。1999年です。
柴山:まずどうして唐人町の話が来たのかを教えてください。
仲谷:港町エンターテイメントステーションで上の住人の方ともめた時に、事務所にファックスが届いて、「唐人町商店街の中に多目的ホールができますが、もしできたら利用しますか?」というヒアリングがあったんですよ。それで僕が自分で電話して「使いますか」ではなく話が聞きたいと。そしたら皆さんは全部がテナントじゃ面白くないからホールを作ろうという発想まではあった。でもどう運営したらいいか分からない。我々は一応小さいけれども劇場運営はしてきた。けど箱がないと。それでお互いの利益が合致して。もう一つよかったのは、当時まだメディアの露出が多かったから「え、あんた役者さんなの?」「劇団の人なの?」って。じゃぁ、運営するにはどうするか、それなら劇団ごと来ます、と。「山義さん」ていうかまぼこ屋さんが大家さんだったから、安く貸してくれて。当時は運営費20万ぐらいをもらっていました。
柴山:どこからもらっていたんですか。
仲谷:協同組合唐人町プラザ甘棠館、この建物の中の組合、みたいな。
柴山:依頼されてここを管理しますよということだったんですね。こんな言い方は失礼かもしれませんが、ラッキーですよね…。
仲谷:ラッキーですよ。だから唐人町に来て僕らがいまでも唐人町にシンパシー、っていうか自分の仕事と思ってるのは、一つは唐人町に来て劇団が大きく飛躍したこと、商店街に劇場があってそれを運営している劇団って福岡じゃ唯一無二だったし、もう一つは僕の本籍地が唐人町だったこと(笑)。偶然にも。親父とお袋が結婚して最初に借りたアパートがここだったみたいで。来て最初にした事は、地域に溶け込むためにはお祭…納涼夜市に劇団員たちで出てやってて。そうすると喜びますよね。商店街の人たち、高齢化している中。当時の僕で32、劇団員がみんな20代ですから。時計屋さんのおかみさんが「唐っ子倶楽部」っておかみさんの会を作っていた時期だったんで、あそこにご挨拶行きなさいとか教えてもらって。その後にやった公演は唐っ子倶楽部のおばちゃんたちがみんなで法被着て見にきてくれるとか。だからドラマ作りもそうですし、唐人町商店街にやってきたということも全面的にやれることはやりましたね。
柴山:コンペもせずにお宅に、と決まったわけですよね?
仲谷:そうです。
柴山:甘棠館をどんなふうにしつらえをするか、なども仲谷さんたちはそこから?
仲谷:いえ、箱全体はもう決まっていて、高さとか。でも中をどう区切るかについては市岡が図面を引いてできる範囲のことはアイデアは出しましたね。名前も、「甘棠館」は入れてくれとのことだったので、「甘棠館show劇場」で、「ホール」って入れたくなかったんですよ。ちょっとショーマンシップをほのめかすのと、見せるんだよという意味で名前を付けましたね。


柴山:貸し館の管理運営も兼ねて運営費20万ということなんですね。使うにあたってショーマンシップさんが優先とかあったんですか?
仲谷:当時は、ショーマンシップが使う時は基本料金の半分でいいと。かなり最初は空いていたので稽古場として使うのは無償とか、そのうちだんだんルール化していったんですけどね。
柴山:経済的な話を伺うと、基本的に仲谷さんが1人で払っていたのか、なんとかまかなえていたのか。
仲谷:おふくろがその時経理をしてくれていて、だいたい赤字が年間50~60万かな。一応劇団としての会計をつけていたんですよ。確定申告は両方劇団と僕を合わせて、僕が申告してました。一緒に出していたんで、劇団で50~60万の赤字は許容できた、僕の売り上げで。全然許容できてました。5年目ぐらいまでは。
柴山:それでも仲谷さんの手出しという形ですよね。それが有限会社化することによって変わるんですか。
仲谷:その時は、…つい先日まではそういう意識なんですけど、言っても自営業者意識だから、自分の会社、自分のものという感覚があるんです。でも法律的に言うと別人格になるわけですから会社のお金と自分のお金を区別その頃からし始めて、これは会社のために使ったお金だなと思ったら領収書を切ると。最初は節税になると思ったんですよ。法人化しておくと。自分のお給料は設定してるけれども洋服とか衣装とかの名目でお金も落とせるから節税になるなぐらいの気持ちで始めたんですけど、いざ蓋開けて見ると社会保険とかどんどんかかっていって、そこからお金の苦労が始まっちゃったんですけど、ただ、法人だから行政の仕事もできるようになったし唐人町の仕事もできるようになったし、信用はついたし。ちょうど世の中の動きも、放送局もフリーよりも会社を通した方が良くなっていたし。結果的にはその後、巡回公演とか文化庁の仕事をするときには法人じゃないとできないので。当時は、僕が代表で市岡が取締役。資本は全部僕でした。
柴山:養成所、劇団員さんにとっては、有限会社化したことでの変化は?
仲谷:事務所で5人雇いました。最初5万円。生田入れて5人。ちょうどこっちに移る時に。それまでも経理デスクだけは雇ってたんですけど、こっちに移った時に5万円ぐらいで雇って。それじゃ生活できないって言われて、巡演の仕事を取ってきて。出演料は別だったので、固定給が5万ってことで。
柴山:では有限会社化する前は出演料は払ってなかった?
仲谷:いや、少しでも払ってましたね。有限会社になってからは支払調書も出さなきゃいけないし、税理士さんをつけて。そこからはある意味、当時どっかでメディアに対してもプロダクション化したいという思いがあったのかもしれませんね。唐人町に移ってからいきなり『I love唐人町』っていうオール唐人町ロケのドラマを作ったんですよ。地上波で。視聴率が10%超えて話題になって久留米で作ったり小倉で作ったり最終的に新天町で作る時には角川三人娘だった渡辺典子を呼んで作ったんですよ。
柴山:作るというのはどういう意味ですか。
仲谷:脚本は生田晃二で、演出が僕で唐人町で作りました。その後、監督がRKBから来るようになって。
柴山:これは撮る話がどこかから来たんですか。
仲谷:いや、「劇団が来た、そしたら唐人町の宣伝の映像を作ってくれませんか」と言われたので、面白いねそれをドラマ仕立てでしましょうねって言って、僕が放送局の子会社に「見積もりをあげてくんない?」と言ったらそれが当時のプロデューサーの目に留まって「詳しい話を聞かせて、だったらそれ地上波でやらない?」って。
柴山:放送局での見積もりというのは、あくまでも経費の概算を知りたかったということなんですね? 放送してくれという意味ではなかった?
仲谷:なかった。ラッキーです。だけどいいことと悪いことは一緒にやって来るというか、みんなもう疲弊しちゃって。放送局の人たちのスピードと我々のスピードが違うというか。最初は視聴率がとれていれば何でもよかったんですけど、2回目場所変えてやったら数字がのびなくて、そしたら役者の演技が悪いんじゃないかってことを言われたりして憤りを感じていました。
柴山:では唐人町に来て劇団のシステムは何か変化は?
仲谷:劇団と名乗ってからは「研究生」という立場を作って半年から1年は勉強してもらうと。そこから残るか残らないかで「劇団員」になるという仕組みでずっと来てたんですけど、コロナ前で一度途絶えてこの前久しぶりに「研究生」という立場を作りました。
柴山:途絶えたというのは、新しい子が入って来なくなったということですか。
仲谷:いえ、先も見えないのに人を入れてちゃんとやっていけるのかという不安もあったし、公演ごとにフリーの俳優さんも福岡に増えてきていて、時代の流れで劇団員じゃなくても他の俳優さんたちと座組を作るということを我々もやり始めたんですよね。でもなんだか…今回6人入ったんですけど、その20代のうちの役者たちがやっぱり後輩が要ると。このままだったら閉塞感を感じていて、言いだしてくれて任せていたらなんとかかんとか運営してくれているんで。
柴山:ショーマンシップさんは学校巡演を旗揚げの時に既にやられていますね、そこからずっとやられてるんですか?
仲谷:やってます。一つ転機は、割と早くに児演協に加盟したんですよ。日本児童青少年演劇劇団協同組合という。今、僕はそこの理事をやってます。「道化」さん「風の子」さん、僕は学校公演を始めた時に半分は仁義を切るつもりで、半分は勉強のために、どういうようなセールスの仕方をしてるんですかと聞きにいったんです。「ようライバルのところに聞きに来たね」と驚かれましたけど、隠すことなく教えてくれて、その内に交流が生まれて。児演協に入ったらいいよ、と。入ることによって文化庁の仕事がかなり近くなったんですね。2010年から入って文化庁の仕事をもらってますね。
柴山:それまでの15年は飛び込みで営業ですか?
仲谷:作品が『Who am I?』というゴダイゴのベーシストのスティーブ・フォックスさんが牧師になって書かれた本を題材にしたんですよ。その頃、作品を選ぶ教頭先生たちはゴダイゴの名前で(決めてくれた)。また音楽を(今は亡くなった)ギタリストの浅野孝巳さんが作ってくれたりとか。耳当たりのいいセールストークがあって。それと生徒参加というのを始めた。それは僕が独自に始めたんですよね、今は文化庁がワークショップという形で事前に行って子どもたちと触れ合ってその後、生徒さんが演劇を体験するシーンを作りなさいと言われてるんですけど、僕らはその前から独自にやってたんですよ。それが当たって。
柴山:2010年文化庁の仕事が始まってからはしらみつぶしに回っていくのではなく話が来るようになったんですか。
仲谷:いや、それはそれでやってるんです。ただそれとは別に「今年はここをやんなさい」と文化庁から来る仕事は…今はもう沖縄と北海道以外は全部回ってるんですよ。割り当てです。その年に採択された劇団があって、今年はこの地区を回ってくださいと言うのが割り当てられるんですね。
柴山:劇団本公演と学校巡演のスケジュールの兼ね合いはかなり難しくなると思うのですが。
仲谷:そこは来た順番です。まず本公演を何となく前の年までに決まってて、会議をするわけじゃないですけど、市岡と生田と僕の雑談の中で生まれる。それでまずスケジュールを押さえるでしょ、それとこっちに来た年から3年間は「ツアー公演」、一つの作品を作って北部九州を7か所とか回ってたんですよ。学校じゃなくてホールに営業に行って。坂本龍馬の話や『ノートルダム物語』は最初その形で作ったんです。それから当時は甘棠館で本公演を必ずやっていたんで。
柴山:今はやってないんですか。
仲谷:甘棠館プロデュースではやっても甘棠館での主催公演は…ショーマンシップでやると売り上げが落ちちゃうというのがあってギャランティを考えると成立しないんですよ。いろんな物が高くなってきてて、装置とかも作っちゃうと補助金が出ないと成り立たないし、コロナ以降、やりだしたのがこの間の西鉄ホールなので、この甘棠館をどう回すかというのも模索の途中なんですね。今年、西鉄ホールでやって甘棠館プロデュース公演をやって年末に博多座でやる、これを基本にしてこれにもう1公演増やしたいなと思っていて、それが全部利益が出るようにしないと学校公演がもう生徒さんが少なくなったり先生が働き方改革でどんどん減ったりしてるんでそこはもう収益の柱にはならないと判断してるので。
柴山:先ほど、甘棠館は半額で使用できるという話でしたが…
仲谷:今は、甘棠館株式会社にしちゃって僕が代表なんで、二つの会社を経営している形でやっているので。
柴山:株式会社甘棠館、それと一番初めに作った有限会社ショーマンシップですね。これは使い分けしてるんですか?
仲谷:してます。甘棠館の方は劇場管理運営とまぁ裏方ですね、大道具や小道具そういうものを製作していく会社ですね。ショーマンシップは芝居を作っていく会社。
柴山:今は使う時は?
仲谷:半額を支払う形で。あるいはショーマンシップが受けた仕事で補助金をもらった時に、甘棠館が製作したものを甘棠館に払えるんです、普通は一社でやっていると他所から借りてきたりよそに払ったりしなきゃいけないですけど。
柴山:なるほど。創作面での話を伺います。ショーマンシップの特徴として地元の歴史物を創作していますね。
仲谷:当初からオリジナルにはこだわっていたんですけど、甘棠館に来てから時代劇をやってきました。後付けなんだけど、それがこの劇団が唯一無二の劇団になれる方法だし、地域の話を地域でやるというのはよその劇団にはできないし。おかげで何とかここまでやって来れているんですけど、品質はどうなのかと。お芝居のクオリティの判断はものすごく難しいでしょう? 観客動員数だけで測れないし、笑いとか拍手とかそういうものは数値化できないし。自己評価と他者評価のバランスを取っていくかということを、創立数年目から考えだして甘棠館プロデュースを始めました。演者やスタッフの向上意識をどう上げていくかと思い始めて。


柴山:それで甘棠館のプロデュースを始めたんですね。最初は10周年『アームストロング・コンプレックス』でしたよね?
仲谷:あれが事実上最初ですね。「劇団ショーマンシップwithヤングジェネレーション」という言い方をしてました。
柴山:今おっしゃったような意識で、囲い込みの劇団員だけでなく質を上げる、客観性を上げるために10周年を機にやったということですね?
仲谷:そうですね。それと同時に、テアトルハカタの系譜にいるじゃないですか、そうすると福岡の他の演劇をやっている人たちの系譜とちょっと違うという意識が芽生えて。孤高の人になりたいわけじゃないし結びつきをやり始めて。ガラパの椎木(樹人)の付き合いとか。どちらからともなく、ですけどね。それこそ僕は川口君の作品が好きだったし、福岡でこれだけのことをできる人たちがいるんだっていう、自分たちの街のことを自分たちが評価できなくてどうするんだって思うようになって。
柴山:ギンギラ太陽’Sの大塚さんとも一緒になさいましたよね。
仲谷:ギンギラ太陽’Sとショーマンシップで5年くらい芝居を作ってました。『奪われた手紙』。

柴山:甘棠館で1カ月やりましたね。
仲谷:広田弘毅の『沈黙は語る』っていうお芝居を大名小学校が並行する時に大名小学校で作って修猷館でやって甘棠館でやるというお芝居をやったんですよ。広田弘毅が修猷館出身なんで。その時に僕が大塚(ムネト)さんに連絡してダブルキャストでやったんですよ、僕の役を大塚さんにやってくれないかと。そしたら大塚さんの僕の印象が変わって、大塚さんは何となく僕のことは知っていて、でもタレント活動をメインにやっていてちょっと演劇を自己満足のためにやってる、ぐらいの印象が、必死に出ながら演出しながらやってる姿に、ちょっとでも僕の役に立つようにと演出助手みたいなことをやってくれて。ギンギラさんは舞台装置を作らないから、最初うちが小劇場で盆(回り舞台)を回したりするのにびっくりしてくれて、それでショーマンシップの作り方を喜んでくれて、それが2013年から2014年にかけて『沈黙は語る』をやってたんです。その翌年にうちは『奪われた手紙』を独自にやろうとしてたんですけど、ちょうど戦後70年だったんで何かやりたいねと。まずはギンギラの芝居『天神開拓使』の再演に僕が出る。そして『奪われた手紙』に一緒に作る。そして脚本を生田と大塚さんが書いて、演出を僕と大塚さんでやるという、かなりヒリヒリしてたんですけど楽しかったんですよ。15年に1カ月間甘棠館でやったんですね。それを東京・大阪・福岡でやる。17年は広島・長崎でやる。2015年から17年まで『奪われた手紙』は形を変えて、我々なりの平和を願う公演をやりました。2020年から『ピースヒル』という岡部平太の話をやったんですけど、2021年には『ピースヒル2』をやってそれぐらいがっつりやりました。


柴山:その他にショーマンシップが他劇団と組んでやったというのはありますか?
仲谷:一度、川口(大樹)君の脚本でうちが『フチガミさんのフトモモ』(ウィークリーショーマンシップ)というのをやったりとか、劇団太陽マジックという東京の劇団の方にうちの劇団に本を書いてもらったりとか。品質の向上というか、クリエイティブ意識、作り手の意識みたいなものを上げるために。なかなか福岡だと自分たちで行動を起こさないと出会えないし。
柴山:ショーマンのプロデュース公演としては、『アームストロング・コンプレックス』があって、その後は。
仲谷:20周年の時に『20』というタイトルでシャッフルしてやったんですよね。川口大樹、ぼく、椎木、中嶋さと、4人の演出家に、本が、生田晃二、泊篤志、川口大樹、中嶋さと。それをシャッフルして、それぞれの劇団の人間もシャッフルしてやるという。
柴山:これも仲谷さんが企画して、仲谷さんが声かけて。仲谷さんってプロデュース能力ものすごくありますよね。以前テアトルハカタ時代のお話を伺った時も思いました。
仲谷:それは分からないんですけど、テアトルハカタ時代に野尻敏彦が制作をやれと言った時の口説き文句が「制作ができることがどれだけ俳優にとって自分を長生きさせられるか」。それを覚えていて。いろんな方々を見てきましたが、自分で制作ができる人が、イッセー尾形もそうだし加藤健一さんもそうだし、それはやり続けるために必要な。
柴山:そしてご自身のプロデュースだけではないでしょう、結局、ご自身が関係なかったとしても人を繋げて。私情を挟まずに「芝居のためになる」という判断で。そういう純粋さも含めて非常にプロデュース能力に長けていらっしゃるなと思っています。話を戻すと、その『20』の後が、この間のover40歳の『滑落、我ら大八食産登山部』ですか。25年周年。作品もとても面白くていろんな意味で成功されたと思います。なかなかお目にかからない役者さんもお出になっていて、目に新しくて。若い観客には初めての役者さんも多かったのではないかと思います。


仲谷:あれはもう、僕の中での問題意識…。核となるのは揺らいでないから。何となくそう思っているけれども、演劇人がやっているのではなくて、小さな小さな世界のビジネスモデルみたいになっちゃってるところにみんなも何か感じてるみたいで。だから早かったですもんね、役者が集まるの。
これからは創作にも力を入れないといけないと思っています。演者の人たちの‥ぼくは演劇だけの人じゃダメだと思っていて、キャスティングアプローチも必要なので、福岡でタレント活動もしてきて、長く活動して来てお客さんに人気がある人はやっぱり何かがあると思うんですね、演者としてのパワーってあるんで。そういった人たち。『大正くるま浪漫~矢野倖一の挑戦~』というのを作った時にオペラ歌手を入れたんですね。そういう他ジャンルの芸能の人たちとの交流をしていきたいなと思っています。
柴山:そうですね、そういうことはできる人が限られているから、仲谷さんしかできないことかもしれませんね。これからも、人と人を繋ぐ活動と、地域に根差した活動とを期待しています。

