福岡の演劇の歴史6 憲法普及劇とひまわり一座

*日本国憲法と演劇という組み合わせに、首をかしげる人も多いかもしれない。…というのも、憲法はあまり身近なものではないと多くの人が思っている。だからこそ芝居の題材として憲法が登場することはほとんどない。それがたとえ人権にかかわるテーマや大きな歴史的問題を扱う作品であっても。

 しかし、福岡において、全く異なる2つの「憲法を扱う芝居」があった(ある)ことをご存じだろうか。一つは戦後すぐに公布されたばかりの新憲法を知らしめるための「憲法普及劇」、もう一つは今から35年以上も前から現在も続く「憲法の意義を伝える活動」である。後述するように、この二つは時代も目的も内容も全く異なっている。「憲法を扱っている」という共通項だけで並べるのは乱暴だと承知しているが、興味深いことに両者とも演劇を「使って」憲法を伝える舞台活動であり、それはある意味、演劇というメディアの伝える力を信用しての活動と言える。二つの活動のそれぞれを紹介していこう。

 1946年11月3日、日本国憲法が公布された。その翌日、政府は「この新憲法の精神を広めていくこと、そのための具体的な政策の大枠を国民に公表していくから実現に向けて国民に協力をしてほしい」といった内容の声明を出している*1。そして12月には、政府と議会は帝国議会内に「憲法普及会」を設置したという。この「憲法普及会 事業概要報告」は、独立行政法人 国立公文書館のHPで閲覧することができる*2

 憲法普及会とは何か。これは出来たばかりの憲法を広く国民に浸透させるための活動を担う会*3で、貴衆両院議員を中心として政府当局者と学識経験者とで構成され、GHQの後押しもあったという。1年足らず(1946年12月~1947年11月)という短い期間ではあったが、「憲法の精神」を普及するために、講習会はもちろんのこと、映画や幻燈、歌、踊り、かるたの作成など様々なメディアを用いていて憲法を理解してもらおうとしていたらしい*4。その中には演劇を活用した事例は残されていないが、早稲田大学演劇博物館に所蔵されているダイザー・コレクション*5の中に、憲法普及会が関わった劇台本が8つ残っている。それらは山口県、佐賀県、福岡県で上演された台本で、そのうち一つだけが福岡のもの、平田汲月による『博多仁和加 新しい憲法 八景』である。

 まず「博多にわか」を簡単に説明すると、半面をつけた登場人物たちが、会話の後に語呂合わせなど(=地口)のオチをつけて話を決着させるものである。由来は諸説あるようだが江戸中期に生れ、半面は幕末頃からつけるようになったようだ。

博多の情報発信サイト「博多の魅力」より

 「にわか」の表記もいろいろある*6のだが、ここでは「博多にわか」とひらがなにする。さて博多にわかの重要な点として強調しておきたいのは、この古くからの民俗芸能に風刺の精神が宿っていた点である。江戸末期の頃には町人が侍を揶揄するにわかが盛んになっていたようだし、明治時代には政治風刺をやって劇場の「警官席」から中止の声がかかったこともあったそうだ。大正時代にも政権批判をする大衆運動の団体を応援して売り上げを寄付することもしている*7

 ところが『博多仁和加 新しい憲法 八景』を書いた平田汲月の経歴を見ると、この作品をどういうつもりで書いたのかわからない所がある。平田汲月(1894-1972)は脚本だけを作るにわか作者であるが、もともと即興劇だったにわかには台本はなく、汲月がにわか作者の先駆だったという。ラジオにわかをやったり、「汲月会」を作って興行したりと、博多にわかの普及と振興に尽力した人物である*8。1932年には彼自身が「博多にわかの神髄は諷刺にある」と語っている*9のだが、戦争が始まるとその風刺や批判精神はどこへやら、一転して国策に倣ったにわかを作るようになる。1938年には「博多仁和加芸術協会」を作り、披露演芸会でも『国家総動員』という作品を上演し啓蒙宣伝を行っている。戦時中は慰問芸能団として活躍し、『慰問袋』『軍団の花』『兄のために』『隣り組』『防空』といった外題の作品を作っていた*8。戦争に協力的だった汲月が、戦後には憲法普及劇を作っていたという事実に驚く。早稲田演劇博物館のデジタルアーカイブでもその内容を見ることはできないのだが、備考欄に掲載されている概要を読むと、以下の様なものらしい。

全八景。第一景前口上、オチは「博多仁和加で見せるとぢやけんなんもかんもオトシて行く」という口合オチ。第二景日本国憲法字幕、オチは「どうかジー(字)とみて実行してやんなさい」という口合オチ。第三景男女平等・戦争放棄・信教の自由、オチは「受けにやならんといふにや、大体この憲法は国民全体がオマモリせにゃならん」という口合オチ。第四景象徴天皇制、オチは「なんのかわろうかい、タッタ一人の天皇さまぢやけんオカワリはない」という口合オチ。第五景戦争放棄、オチはなし。第六景男女同権、途中荒木又右衛門の奉書試合の芝居有り、オチは「五月三日からの新憲法(新ケンポウ-新剣法)で勝ちとった」という口合オチ。第七景三権分立、オチは「新憲法でこげな役人はみなコーボク(坑木-公僕)となる」という口合オチ。第八景婚姻は両性の合意のみにもとづく、オチは「たった今アイとコイとで夫婦になっとる」という口合オチ。一枚切り取ったあとあり*10

 新憲法の精神を伝えているとは言い難いと思うのは私だけだろうか。そもそも「新しい理念を理解してもらい浸透させる」ことに、博多にわかのダジャレ(地口)オチが適しているようには思えない*11。風刺が効いているでもなく、また戦時からの変わり身を思えば、汲月自身が憲法を理解し普及させようとしているのではなく「国の政策に従って」「仕事として依頼されて」といった理由で憲法普及劇に取り組んだとしか見えない。後生の目には、戦前・戦中の「戦争に加担するかのような啓蒙活動」と戦後の「新憲法の普及、民主主義の啓蒙活動」は全く別物に見えるが、汲月にとっては国家体制に協力しているというだけでそこに思想や信条はなく、ひょっとするとにわかの普及・存続のためのなりふり構わぬ活動だった…のかもしれない。

 時代は下って…1989年、福岡市に「憲法を持つ意義」を問うために芝居を作る一風変わった劇団が誕生した。「憲法劇団 ひまわり一座」、憲法にこだわった芝居を作り続ける全国でも珍しい劇団である。「ひまわり」が示すように(弁護士バッヂはひまわりの形をしている)、弁護士によって作られ、弁護士を中心とした劇団であるが、一般市民も参加し一緒に憲法の意義を伝える芝居をしている所が大きな特徴と言える。

 ひまわり一座誕生のきっかけは、憲法集会である。1947年5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念して5月3日は「憲法記念日」に制定されているが、毎年この前後に開かれるのが憲法集会だ。憲法について改めて考えること、その重要性を説くことを目的としている。基本的には年に一度開かれ、福岡で初めて開かれたのは1977年のことだった*12。内容は、社会党や共産党といった革新系の議員たちによる挨拶に始まりそのあとは学者による憲法講演会と報告会などお堅い印象だが、4年目からは講演に加えて関連する映画上映も行っていた*13。それが、第8回(1984年)の集会において芝居をやろうと、故・八尋八郎弁護士が提案する。その方が退屈しないし子どもにも伝わるとの理由だった。そこで、当時の福岡市で古くからやっている劇団「生活舞台」と「福岡現代劇場」に協力を求め*14、『今日、わたしはリンゴの木を植える』(作・ふじたあさや)*15を上演することにしたという。出演は両劇団の団員と青年法律家協会(以後、青法協)会員の弁護士たち、演出は「福岡現代劇場」の猿渡公一が担当し、大手門会館で行われた。手応えや感想などわからないが集会参加人数が前年より100人増の記録が残っているから、芝居をやった効果はあったとみていいだろう。

 翌年にもまた芝居をやろうと気炎を上げ、今度は青法協福岡支部の弁護士たちが脚本を担当し『構成劇 家族たちの核シェルター』を上演する。演出は「劇団 生活舞台」の高尾豊。ここまでが「ひまわり一座」の前史である。

 さてここから3年ほど空いて1989年に「憲法劇団 ひまわり一座」が誕生した。過去二回の集まりとは違い、座長と事務局長を立てた劇団として出発したのである。前上演からなぜ空白の数年があるのか、なぜ再びやりだしたのかの理由は定かではないが、その少し前に神奈川県・横浜市で弁護士と市民による憲法劇が上演されたことに刺激されたのかもしれない。余談になるが横浜の活動を少し紹介しよう。

 1986年12月、神奈川県では憲法施行四十周年を記念して憲法劇をやろうという運動が起きた。この時期は、国家秘密法案の上程、教科書裁判、厚木爆音訴訟など憲法理念を揺るがす判決や社会的動向があり、危機感をいだいた者たちが集会を開き*16、その盛り上がりが憲法劇をやることに繋がったのだ。そして翌1987年、ミュージカル憲法劇『がんばれッ! 日本国憲法』(作・演出:濱田重行/劇団蒼生樹)を上演した。実行委員会形式で運営し、若者も参加して出演者総勢60名、観客動員数は1000人を超え、翌年には昼夜2回の公演を成功させている。この活動は1988年5月の朝日新聞社説にも取り上げられたから、「ひまわり一座」結成の後押しになったのかもしれない。ちなみに横浜でのこの運動は、休止・再始動を経て現在は休止中だが、25回も上演を重ねている。

 ひまわり一座とは、劇団ではあるが一つの運動団体である。演劇をやりたくて集まった集団ではなく、「憲法の意義を伝えるために」演劇を使って活動している集団だ。(冒頭に挙げた)戦後すぐの「憲法普及劇」も憲法を広めようと演劇を使った活動だったが、「啓蒙」していた点でひまわり一座と大きく違う。啓蒙とは、無知な者に知識を与え、理解を深めさせ目を開かせるということ。そこには上下関係が見える。だがひまわり一座には弁護士以外の一般の人も多く在籍していて、専門知識の差こそあれ、共に学んで共に作っているという意識が強いように思う。

 ひまわり一座のメンバーは、弁護士、市民活動の参加者(「九条の会」など)、法律事務所事務員、労組組合員、別の劇団の人、ひまわり一座の芝居を見てやりたいと思った人、などで構成されている。毎年5月の本番に向けて2月ごろから始動するが、まずは学者や専門の弁護士を講師にしたミニ講座から始めるらしい。その際に、例えば性的問題をテーマにした場合、被害に遭った経験のあるメンバーが語り「人権問題」としてみなで話すといったこともあったそうだ。また脚本は長らく座員の堀良一弁護士が担当していたが近年は弁護士らによる脚本チームが担当し、憲法メッセージとして何を伝えるべきかをメンバーで議論し、意見交換を行うのだという。

 だから時節に合わせたトピックが芝居の内容に反映されることも多い。湾岸戦争をきっかけに「国際貢献」「国連協力」としてPKO法(国連平和維持活動協力法)が成立した時には、動物たちを登場人物としたファンタジー反戦物語。諫早湾干拓事業や和白干潟の問題を下敷にしたおとぎ話風のミュージカル。2000年代に入ると作品の幅も広がり、近未来SF風に子供の自殺問題を取り上げ「個人の尊重」を描いたり、ネットカフェを舞台に貧困や格差社会、労働環境問題などを明るみにしたり。2011年の東日本大震災の翌年には、原発をテーマにした作品を作っている。身の回りの多岐にわたる事象がすべて憲法によって保障されていると気づいてもらうためにも、バリエーションを豊かにすることは意味がある。

1990年『憲法があるけん 平和たい パートⅡ-未来の子どもが見たものはー』@大手門会館大ホール

 また、「運動」であるためには、演出家も誰でもいいわけではない。ひまわり一座は旗揚げ以来ずっと高尾豊(劇団 生活舞台)に演出を任せてきたが、それはひまわり一座の主張と彼自身の劇団の信条とが重なるからであった(彼は外部の劇団を持っているが、ひまわり一座のメンバーでもあるという位置づけだった)。高尾の他界後に正式に依頼したのは福岡市内で「劇団14 ⁺ Fourteen Plus」を主宰する中嶋さと。その理由は、中嶋の作る作品が「常に社会問題を含んでいて、社会を見る目がひまわり一座と共通しているのではないかと考えた」からだと言う。

 しかし、真面目なだけではこれほど長く続かない。メンバーは自由に緩やかに入れ替わりながらも1989年から続いてきた理由は、まずは強い理念を持っている弁護士たちが中心であるということが大きい。それと同時に、これをしっかりと「楽しみ」にしているのが大きいようだ。演劇を作る楽しさと、稽古や本番後の飲み会、(現在は行われていないが)泊りがけの温泉合宿などを通しての交流が「来年も…!」という気持ちに繋がっているのだろう。

 弁護士以外の市井の人も一緒に憲法を考える芝居を作る――これが一番の特徴ではあるが、それ以外にも定番がある。それは芝居の最後をしめる言葉と歌だ。「憲法があるけん 平和たい」というフレーズを出演者全員で唱和し、オリジナルソング『日本国憲法 第九条』(作曲・中村定良=全司法組合員)を客とともに唄って幕が下りるというのがひまわり一座の約束事となっている。

 実はこのフレーズは、第一回目の公演タイトルに由来する。1989年の作品『憲法があるけん 平和たい』は青法協福岡支部が書き上げ、高尾豊(生活舞台)の演出で大手門会館大ホールにて上演された。このタイトルは、そのころ地元菓子メーカーのテレビCМで流れていたフレーズ「山笠のあるけん 博多たい」をもじったもの。当時の福岡に住む者なら一度は耳にした事があっただろうから、それをもじったタイトルも耳になじみがよかった。また活動の主旨も明確に伝わり、ひまわり一座を端的に表したフレーズと言っていいだろう。

 オリジナルソング『日本国憲法 第九条 戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」(作曲・中村定良=全司法組合員)も旗揚げ後3年目、初のミュージカル作品『ネズミの星の大戦争』のために作られたものだ。条文にメロディをつけただけの歌だが、これも大事に毎年歌い続けてきたという。毎年歌って覚えた子どもが、学校の憲法のテストで点が取れたというほほえましいエピソードもあるそうで、ひまわり一座にとってこの歌も欠かすことの出来ないものとなっている。

 ひまわり一座の活動歴は、いつしか40年に手が届こうとしている。福岡市内でも有数の老舗劇団の一つと言えるかもしれない。「運動」としてより広く知ってもらうために受け入れられやすい演劇を「用いて」いる――だから福岡演劇界との結びつきは少ないし、観客層も異なっている。だが、「共に創りあげる」という演劇の特長のおかげで、メンバーの一体感が生まれ、これほど長く運動が続いてきたとも言える。

2025年『たべほうだいのしあわせの国』@中央市民センター
注(クリックすると注が出ます)

*1 「新憲法の公布を機とし、その精神の普及徹底を期するとともに、教育、文化、経済等に関し政府の抱懐する当面の施策の基本を宣明し、これが実現に付国民諸君の協力を要請する。」そこには、(1)新憲法の普及徹底、(2)教育制度の刷新、(3)行政機構・公務員制度並びにその運営の改革、(4)地方自治の確立、(5)産業経済の再建、(6)労働問題の解決及び民生の安定の6項目が挙げられている。『日本国憲法公布せられたるに当り政府声明案』より 

*2 「事業概要報告(憲法普及会)」(憲00137100)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/file/606387(参照 2026-05-21

*3 新憲法の精神を「広く国民一般に普及するために、急速に一代運動を起こそうという議が両議員及び政府の間で決定された」と*2「事業概要報告」はしがきにある。

*4 ここから先は『占領下の憲法普及劇 ―検閲台本から見るその性格―』小川史(横浜創英大学)に依拠している。またその論文で、早稲田大学演劇博物館に所蔵されているダイザー・コレクションの存在も知った。

*5 ダイザー・コレクションとは、占領期に第三地区民間検閲局に保管されていたものが、後にダイザー少尉によってミシガン大学に送られ、1980年代になって早稲田大学演劇博物館に寄贈された資料のことである。「占領期九州地区検閲台本郡―ダイザー・コレクション ーの再整理と公開」『情報の科学と技術』57巻12号、2007年

*6 井上清三によれば「俄、仁輪加、仁和歌、二和嘉、爾和加、二和加、爾波加」などがあるとのこと。「博多に強くなろうシリーズ17 笑いと諷刺のエッセンスを伝えて生きる 博多にわか」福岡相互銀行 1981年

*7 同掲

*8 『博多にわか 庶民のわらいと風刺の芸能』井上清三、福岡市観光協会、積文館書店、1973年、

*9 「博多仁輪加は博多の名物であるとゝもに博多の姿である。博多仁輪加は或る、社会的事象を捉(とら)へて来て巧みに劇化し奇想天外的な滑稽(こっけい)な筋の運びのうちに放胆(ほうたん)ないかも寸鉄殺人的な批評を加へ、社会事象に対する鋭い風刺と爆発的哄笑(こうしょう)のうちに或る激烈な力で観る人の胸に何物かを喰ひ込ませねばやまない郷土劇であるしかし博多仁輪加は単なる『喜劇』ではない、博多民衆の胸中に燃えあがる押へ切れない何物かゞ仁輪加のかたちをとつて現はれたもので『博多民衆の(こえ)』であり『新聞』であり『評論』でありまた民衆の力の『安全弁』であつたのだ。」 平田汲月『趣味の博多』郷土を語る會(編)、1932年

*10 ダイザー・コレクションの「博多仁和加 新しい憲法 八景」の備考欄より

*11 『占領下の憲法普及劇 ―検閲台本から見るその性格―』小川史(横浜創英大学)のなかで、小川はこの台本の中身を検証し、「汲月は、新憲法をにわかに仕立てる際に苦心したことを台本の冒頭に記しているが、汲月のような職業作家でも、憲法を舞台化することには苦労したようである」と述べている。また同じダイザー・コレクションの佐賀にわか「憲法普及劇」の検証も行っており、その違いを論文に書いている。

*12 1977年5月28日、福岡市、「憲法30周年記念福岡県民集会」。実行委員会方式(福民協、青年法律家協会、自由法曹団、総評弁護団、マスコミ共闘、国交共闘『ひとり暮らし裁判』を支援する会、全日自労、全司法福岡支部、市職労、新日本婦人の会など17団体)で開催された。

*13 『裁かれる自衛隊』(監督:片桐直樹)『こどものころ戦争があった』(監督:斎藤貞郎)『にんげんをかえせ』(監督:橘祐典)など。

*14 記録には残っていないが、故・八尋八郎弁護士の弟で同じくひまわり一座に長く関わってきた八尋光秀弁護士は「劇団道化にも手伝ってもらったんじゃないかな」と述懐している。

*15 本作は、どうやら憲法劇として名古屋で上演するために書き下ろしたもののようである。(参考:「気分は、年に一度のお祭気分」濱田重行、『がんばれッ!日本国憲法』上演実行委員会、1989年) その後、青年法律家協会が中心となって、1985年に東京で『<劇版・日本国憲法>今日、私はリンゴの木を植える。』を上演。脚本を書いたふじたあさや自身が演出も担当している。(参考:「楽しくて、面白くて、そしてエネルギーあふれる憲法劇」岩橋宣隆、『がんばれッ!日本国憲法』上演実行委員会、1989年)

*16 1986年11月1日、日本国憲法公布四十周年記念集会「がんばれッ! 日本国憲法――憲法四十年と私たち」、実行委員会は、青法協神奈川支部が呼びかけ、「この子たちの夏からの会」「生麦読書会」「寒川町新聞を読む会」「湘南YMCA」「神奈川市民の会」であった。

<協力>八尋光秀さん、小宮和彦さん、迫田登紀子さん、迫田学さん、山崎あづささん、中山篤志さん、星野圭さん(順不同) ありがとうございました。

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