未来の目撃者になる。

『METAVERSE vs DANCE』(んまつーポス)2022年11月12,13日

 宮崎を拠点に活動する「んまつーポス」というコンテンポラリーダンスカンパニーがある。逆から読めば「スポーツマン」。その名の通り、踊るスポーツマンの団体だ。(彼らの活動については非常に興味深いのでまた改めて紹介したい。)

 2022年10月、みのわそうへい(んまつーポス)氏から公演案内が届いた。ゲームクリエイターやエンジニアとコラボレーションした実験公演「メタバース vs ダンス」をやるという。チラシには「46時間のバトルを目撃してみませんか!」と書かれている。メタバースって仮想空間のことよね? 何と何がバトルするの? ゲームのキャラvs人間のダンスバトルを仮想空間でやるってこと? チラシを隅々まで見てもまったく訳が分からない。想像するに、「仮想空間(虚)/生身の身体(実)のせめぎあい」ってところだろうか。考えてもらちが明かないので宮崎まで見に行くことにした。

◆ 一体どんなもの? ◆

 11月12日、のどかな風景の中にある白くて不思議な形の建物に到着した。国際こども・せいねん劇場みやざき(CandY シアター)、んまつーポスの拠点である。靴を脱いで中に入ると、小さなエントランスの右手には天井高のある平土間。白い布が壁を覆っている。中央には3.5メートル四方の正方形が床にかたどられ、そこが舞台なのだろう。すぐ真横には操作卓のような機械が。通常の舞台では機械のこんな接近はない。

 すでに3日前から「ハッカソン」が始まっているらしく、思い思いに床に座っている14、5人ほどの人々からはなんとなくの一体感が感じられる。ハッカソンとはプログラマーや設計者などソフトウェア開発者たちがチームとなって短期的に集中して開発する作業(イベント)のことを指す。ボードに貼りだされた山ほどの紙は、そのハッカソンで出されたアイデアや言葉を拾ったものらしい。参加者は、ダンサー、eスポーツプロデューサー、Microsoftが認定するMicrosoft Regional Director(日本に4人しかいないらしい!)、音楽家、大学教員など。ようやく、生身のダンス公演にメタバースというテクノロジーを組み込むことで何か見たこともない新しいものを生み出せないか模索しているのだと、理解が追い付いた。しかし何を、どうやるつもりなのだ?

◆ 変化する公演 ◆

 まもなく公演がスタートした。まずダンサーが踊る。ステージの三角には3台のカメラが設置され、ダンスは録画(ここでは「録場」と言う)されている。そして録場されたそのダンス映像が後から仮想空間(=メタステージ)に映し出される(メタダンサーによるメタダンス)。なるほど、本公演の登場人物は、3人のリアルダンサー/メタダンサーというわけか。さらにこのメタダンスに合わせてリアルなダンサーが一緒になって踊る。入れ子構造のようなダンス、大きく言えばこれが本公演の内容だ。二日間にわたる3回の公演では、この組み合わせを複雑にしたり見せ方を変えたり「実験」をしていった。例えば、「リアル+メタダンス」の録場をメタステージに映してさらにリアルダンサーと共に踊ってみようとか、2人のメタダンサーと1人のリアルダンサーなど人数を変えて踊らせてみようとか、ダンサーが(壁に映っている)メタステージだけを見て(客席には背を向け)踊ってみたらどうなるだろう、とか。変化し続ける実験公演だ。

 メタステージといっても実際には壁に映し出された平面のメタバース映像である。観客全員がヘッドマウントディスプレイ(HMD)を装着するわけにはいかないから仕方がない。さすがに観客の自分がメタバース空間にいるという錯覚こそ起こさないが、虚実の二つの空間を接続しようとしている様子を傍から見るのは興味深い。

◆ 本公演の面白さ ◆

 企画の発端には、「若さを保存したい」ということがあるらしい。ダンサーは肉体が資本だから、物理的な若さが失われると必然的にダンスの質も変わっていく。だがこの瞬間のダンスの3D映像を残しておけば、未来のダンサーと今のんまつーポスが「共に踊れる」と考えたらしい。またダンサーが怪我をしても録場しておけばメタダンサーとして踊ることができる。基本的にパフォーマーは「自分が」演じたいのだろうと思っていた私にとってこの発想は目から鱗が落ちる様な驚きだった。つまりここでいう「自分」とは肉体を持つ今の自分である必要はないということなのだ。いや、パフォーマーならではの発想なのかもしれない――自分のベストパフォーマンスを保存して、それが未来の誰かと共演できるのだから。過去と未来の共演というわけだ。

 観客として面白かったのは、やはりメタダンサーとリアルダンサーとの違いである。息遣い、動きによっておこる風、圧はメタダンサーには全く感じられない。これがゲームの場合は仮想空間の中にプレイヤーが没入すればするほどメタダンサーに(本来ならありえない)疲れや好・不調の差を見るのかもしれないが、さすがにリアルダンサーとの違いが目の前にある限りそうはならない。「画面を見ているだけだと飽きるけど、生身の人間が入ってくると面白いと思う」という観客の感想も同じことを示している。

 ところが、当のダンサーは逆のことを感じながら踊っていたという。脳が補完して相手(メタダンサー)の存在――そこにいること、動くこと――を感じながら踊っているのだという。そこにはあるはずのないメタダンサーの身体を、あたかもそこにあるかのように意識しながら踊っていることは、リアルダンサーの目線や動きからも分かった。今回はあくまでも壁に映しているメタステージでしかなく、しかも(都合でカメラが3台だったために)メタダンサーの画は完全ではなかったのだが、それでも彼らはメタダンサーを「共演している相手」として認識したわけだ。

 思い出すのは、平田オリザと石黒浩(大阪大学)によるアンドロイド演劇だ。いくらリアルに人を模倣したアンドロイドでも人間と見紛うことは絶対にない(暗がりでは驚かされそうだけどね)。しかし人間の役者があたかも生きているかのように会話を続けることで、観客はそのアンドロイドが個を持った女性に見えてくる。動きや言葉によって「心」があるように見え、相手に心を見出すから相手の存在が立ち上がる(だから芝居が成り立つ)というわけだ。これは外見が機械のままのロボットでも同様で、こういった試みを待たなくても私たちは物に人格を見てしまうような経験について理解を示すだろう。観客の私も、アンドロイドであれロボットであれ「何かを感じ、考える、生きた存在」と見えてきて(予想通りではあったが)それは面白かった。ただ演劇としてはそれ以上に印象深いものはない。

 翻って本作は、肉体を酷使するダンスという点で静かな会話劇とは大きく違う。アンドロイド演劇が進むにつれて「本当の人間」らしく見えるのに対し、本公演は時間が経てばたつほど肉体を持つダンサー(実)とメタダンサー(虚)の違いが大きくなるのだ。それはリアルなダンサーの変化が浮き彫りになるからだ。例えば、重力も相手の肉体をも無視できるメタダンサーの自由度によって、リアルダンサーに動きが影響を受け少しずつ変わり続ける。例えば、両者の動きに観客の目が慣れると、リアルなダンサーの動きの意外性や即興的な瞬発力に対してメタダンスが「のっぺりと」見えてくる。リアルなダンスからは様々な感情がどんどん沸き起こる。それによってシーン全体の見え方にも変化が生まれる。アンドロイドが人に見えてくる芝居と違い、メタダンサーの存在が、ダンサーやリアルなダンスそのものをより魅力的に見せる――そんなことをぼんやりと考えた。

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