椎木樹人さん(俳優/万能グローブガラパゴスダイナモス)
*ガラパはいつだってキラキラ輝いている特別な劇団だと思っていた。ファンに愛されて、全国のいろんな人とも対等に楽しそうにやっていて、小劇団では考えられないロングランや大劇場公演も成しとげて。…それは間違ってはいないけれど、決してたやすく走って来たわけではないこと、悔しさや苦しさも十分味わってきたことを知って、それでも軽やかに前を向いて走り続ける姿にガラパの違う輝きを見た気がしている。「揺るがない信念としなやかな集団の在り方」、それがガラパの輝きなんだろうな。そしてそれは椎木さんの「強さと柔らかさ」の表れだと、強く感じている。
――「福岡という都市の一部になりたい」、素敵な言葉です。ガラパなら、叶えられると思います。

インタビュー
柴山:劇団を旗揚げしたのはいつでしょう?
椎木:旗揚げは2005年ですね。結成は2004年で実は僕が高校を卒業した年なんです。その頃、福岡の高校の演劇部が集まって演劇を上演する合同公演という企画があって、それを3年間やった後、そのメンバーで劇団を立ち上げるというのが恒例になってました。毎年、高校の卒業生で新しい劇団ができていってたんですけど、僕の場合は、一個下の演劇部の後輩と劇団が作りたかったんです。なので、結成したものの、メンバーのほとんどがまだ高校三年生だったので、1年間は「万能グローブガラパゴスダイナモス」という名前だけ先行させて、僕は色々な劇団に客演させてもらいながら一年後の春に旗揚げ公演をやったんです。あの頃の福岡の高校演劇出身の劇団がすごく盛り上がってて。ひとつ上の代は「劇団ぎゃ。」ふたつ上の代は「非・売れ線系ビーナス」がありました。
僕も、そんな先輩たちにかわいがってもらってて、高校三年生の時「不健康ランド」っていうユニットを先輩たちと一緒に作って、即興劇をぽんプラザホールでやりました。チケットはカンパ制で。1つ上の代の東京で「エビビモ」いう劇団をやってた矢ヶ部哲さんとか、てっちゃん(田坂さん)、川口(大樹)さん、僕、あとは非・売れ線系ビーナスのメンバーとかで集まってやりました。これが好評で、たしかそのあと第2回公演もやりました。台本がない完全即興劇。今思えば、とても無茶な企画ですけど(笑)。怖いもんなしで、「俺らが一番面白いから!」みたいな、そういう生意気なとんがった感じがあって、そんな先輩たちと無茶なことをするのがとても楽しかったです。ガラパが始動するまでの一年間は客演で色んな先輩の劇団に出演させてもらってたのも、高校演劇のつながりがあったから、誘ってもらえたんですよね。 特に、「劇団どでぶ」っていうユニットを非・売れ線系ビーナスの田坂さんと木村さんと、ガラパの僕と川口さん、あと伊藤そうあという俳優の5人で作ったこと、E-1グランプリという全国規模の演劇の大会で優勝して東京公演したことが思い出深いです。高校出て、すぐに東京公演できたことが嬉しかったですね。次の年も優勝して、西鉄ホールの舞台にも立たせてもらいました。とにかく先輩と演劇するのが楽しくて「劇団どでぶ」という名前の通り、遊んでいました。
柴山:「遊んでいた」という言い方なのは、あくまでも一過性のもので続けるつもりはなかった?
椎木:僕は一番下だったんで先輩に誘われるのが楽しくて。二つ上の代のてっちゃん・川口さんっていう二人がやっぱり凄かったです。僕らの世代の中心人物みたいな感じで。 2人がコンビみたいな感じで色々面白いこと考えて、そこに同世代の木村佳南子さん(非・売れ線系ビーナス)がブレーンみたいな感じでいらっしゃって。それに僕がついていってるだけ。色んな景色を見せてもらいました。
柴山:では先輩たちにはついていく、ガラパは最初から自分が主宰のおつもりだったんですね。
椎木:劇団もね、当時は卒業したら結成するのが当たり前で、目標とかもなかったし、大学卒業したら辞めるやろうなぐらいの感じでした。仲間となにかをするのが楽しくて、「こいつらとおもしろいことしたい」が最初だったと思います。

柴山:今でこそ川口さんが座付き作家ですけど、松野尾さんに書いてもらうつもりだったんですか。
椎木:最初そうなんですよ。もともとは一個下の後輩の松野尾の脚本が好きで劇団を作ったんです。メンバーに誘った川口さんが二年先輩で、「非・売れ線系ビーナス」で役者として出演する前は、もともと制作とかやっていたんです。だから僕らよりも演劇に詳しくて。例えば「ヨーロッパ企画」がまだ『サマータイムマシーンブルース』が映画化とかされる前に、ワゴンに乗って全国ツアーをやってたんです。当時インターネットが今ほど盛んではなくて、情報が得にくい時代だったんですけど、川口さんはそういう情報をちゃんと見つけて、福岡公演見に行ってんですよね。たしか、ビブレホールという小さい会場でやったやつ。
柴山:『空前のクイズアワー』ですよね? あの時、飲み会を企画したのは私です。
椎木:柴山さんきっかけだったんだ! で、「万能グローブ ガラパゴスダイナモス」という劇団名決めるときにも「ヨーロッパ企画」の名前出てるんですよ。こんな劇団を目指そうぜって。川口さんは戦略とか考えるのも好きで、旗揚げする前に名前を付けて活動しよう、先行させて名前を売ろうとか、色んなアイディアを出してくれてました。その中で、松野尾がまだ高校卒業してなかった時期に、旗揚げする前にプレ公演として、第0回公演やろうということになりました。とりあえず公演してみようぜって感じだったので、川口さんが俺も書いてみようかなぐらいのノリで書いてきたのが『ザ・グラマーボーイズ』という脚本。それがもうどコメディのシチュエーションコメディで。これが面白くて、とにかく伏線引いて、最後回収しまくってドカンと笑いを取るみたいなやつを当時の僕は見たことなくて。しかもワンシチュエーションで照明も音響もほぼ無し、会話とすれ違いだけで90分走り切る。今考えたらとても粗削りですけど、お客さんの反応は好評でした。当時の福岡には、あんまりこのスタイルがなかったんですよね。
その後、旗揚げ公演は松野尾の作品でやるんですけど全く作風が違いました。コメディというよりは、テーマ性が強い作品で。第2回公演で川口と松野尾がそれぞれ脚本を書いて2作品上演するという企画もやりました。それぞれの作家の色がありましたが、川口さんの作品は好評でお客さんどんどん増える。その後も松野尾の作品もやってダブル脚本家制で活動していましたけど、途中から川口さんが書く作品を上演することが増えていって、松野尾は俳優になりました。


柴山:川口さんの戦略は他にどんなものがあったんですか?
椎木:第0回公演に酒瀬川真世さんに出てもらってるんですが、大活躍してた先輩の女優さんでした。そのあとの旗揚げ公演も先輩劇団の「風三等星」の小沢健二さんに出てもらった。旗揚げ前の一年間でいろんな人と出会ってたので、いきなり最初っから実績のある俳優さんに出てもらえた。これも川口さんの戦略の一つでしたよね。旗揚げ前から、川口さんに連れられて挨拶とかも行ってました。FPAPとか、福岡市芸術文化振興財団とか。
柴山:戦略は川口さん、でも椎木さんが主宰であることはぶれずに?
椎木:ぶれてるときもありました。僕は俳優しかやれないので。仲間を集めることが好きってだけで。今でも言ってますけど、僕、なんにもできないんですよ。脚本も書かないし、演出もしないし。企画書とかも制作と一緒に作ってもらって。僕はこういうことやりたいって言うだけ。なので、最初の3年ぐらいは「主宰を辞めたい、川口さんが主宰をやった方が良い」って思ったこと何度もあります。劇団は作品の方向性を決める作・演出が主宰というパターンの方が多いです。僕の場合はただただ、仲間を集めて、「みんなで夢見ようぜ!」、「こういうことやったらおもしろくない⁉」みたいなことを言って、あとはみんなに全部任せる。でもそれはそれで、今は主宰として向いてたのかなと。当時は自信なかったですけどね。
柴山:いつ頃から劇団を永続的にと思われたんでしょうか。
椎木:旗揚げ5周年の時ですかね。最初はただ楽しくて、公演やるたびにお客さんが増えていっていたし。3年目の時には動員が450人ぐらいまで行って。若くて凄い勢いあったから、もうどんどんお客さんが褒めてくれるんです。でもだんだん続けていくうちに、ここは面白い、こういう部分は面白くないみたいな評価が産まれてくるじゃないですか。川口さん自身もそれがわかってきて、脚本を書くのがどんどんプレッシャーにもなってきて。 そんな状態の中、勝負しよう!って甘棠館で(当時だとちょっと珍しい) 10日間ぐらいのプチロングランをやるんですよ。それが『惑星クレイジー』(2007年)。でも、とにかく脚本書けなかったんですよ、もうぼろぼろで。初日に脚本が最後まで完成してないから後半アドリブで演じて。劇団もギクシャクしちゃうし、お客さんもなかなか入んなくて。目標は500人以上動員することだったけど、前回公演と同じ450人ぐらいしか動員できなくて。初めて頭打ちを感じた。もう解散しようか、ちょっと演劇するの苦しいかも。みんなで話し合おうってなって「5周年で1000人動員できなかったら、もう解散しよう」って決めました。そこで5周年記念プロジェクトというの始めるんです。2年間に渡る大きなプロジェクト。5周年記念プロジェクトは3本の本公演を一括りにして、最終的に1000人動員を目指す企画。その最初が『ひとんちで騒ぐな』(2008年)。『惑星クレイジー』から10ヶ月空いてるんです。そこまで公演が空いたことは今までなかった。時間をかけて本気で作ったんですよね。川口さんも一生懸命脚本を書いて、チケットも手売り頑張って、全公演前売りで完売したんです。 この公演で650人動員しました。

で、次は『ボスがイエスマン』(2009年)この公演はFPAPの企画で、土田英生さん(MONO)にドラマドクターというのをやってもらって。初めてちゃんと脚本の書き方、演劇の作り方を教えてもらった。これも全7回公演で完売し750人動員しました。

満を持して、プロジェクトの最後、勝負の一カ月ロングラン公演として、甘棠館で『馬鹿野郎、そこは掘るな!』(2009年)を上演しました。これで動員1000人を無事超えて、劇団を続けることが決まりました。だから5周年プロジェクトを始める時に、ちゃんと続けていくってどういうことか、お客さんを増やすとはどういうことかを初めて考えた。当時演劇を見にきてくれるのが20~30代の女性が多いと分析して、うちの姉ちゃんの同僚の女性を呼んでもらって話を聞いて、普段読んでる雑誌とか、フリーペーパーとか(当時はSNSがまだそこまで盛んじゃなかった)そこに片っ端から連絡して、拙いプレスリリース作って送って、そういうの始めたのがその時です。今で言うマーケティング。広報担当とか制作担当とか決めて、組織図も初めて作って。広報は松野尾が本をたくさん読んでめちゃくちゃ勉強して頑張ってくれました。あとはチラシのビジュアルを強化した。福岡のイラストレーターさんに突撃で連絡して「この絵を見たらガラパ」みたいなものを確立していきました。ブランディングじゃないけど、HPもちゃんと作って何をやってる劇団なのかちゃんと伝わるようにしました。あとはもうめちゃくちゃ手売り頑張りました。とにかく、知り合いや友達に観に来てもらおうって。ご飯食べてる先の店員さんとか、居合わせたお客さんとかにも声かけて。演劇好きじゃない人、初めて演劇観る人にも見てもらおうとすると、やっぱり作品って良くなるんですよね。『ひとんちで騒ぐな』で、そこからずっとお世話になる、舞台美術家の中島信和さん(兄弟船)に本格的な家のセットを組んでもらったのも、そのプレッシャーがあったからだと思うんですよね。劇場に入った瞬間に、「わー、なんかすごいちゃんとしてる」「プロっぽい」「期待できる」って言ってもらえるように。
柴山:確認ですが、川口さんが三年目で苦しかったっておっしゃってるのは、「これをすれば受けるのがわかってるけれども、書きたいのはそれじゃない」とか、そういう悩みですか?
椎木:たぶん、いきなり『ザ・グラマーボーイズ』書いたら、めちゃくちゃ受けたんですよね。でも、だんだん前と一緒だねとか似てるねとか言われだすじゃないですか。衝動だけで書いてたものが、何が面白いと思ってもらえてるんだろう、脚本の面白さってなんだろうってちゃんと考えるようになったんだと思います。ちゃんと劇作家になろうと考え出したのがその頃なんじゃないかなと思います。その分、技術や知識が足りなくて苦しくなったのかな。
柴山:その時に、椎木さんも覚悟を決めた?
椎木:「プロになろう!」ってはっきり決めたタイミングがあったわけじゃないと思うんですけど。当時、北九州芸術劇場ができて僕は20歳の時に初めて北九州のオーディション受けに行くんです。主宰としての力がないと思ってた時期で、俳優としてだけはみんなより前に走ろうと思って。受かると交通費程度の出演料ががもらえる。それが初めて出演料をもらった舞台でした。その後、(劇場が)プロデュース公演をやるんですけど、それが『青春の門』。以前、他の企画のオーディションで出演させてもらった舞台の演出をしていた鐘下辰男さんが『青春の門』の演出をすると発表されて。僕はめちゃくちゃオーディション受けたかったんですが、ちょうどガラパが3年目の苦しい時期で、劇団の予定も決まってて。だからオーディション受けなかったんですよ。そしたら鐘下さんから電話かかってきて、「お前、何で受けに来てないんだ」。事情を説明すると「お前それ何とかならないのか、一緒にやりたいんだ」って言っていただいて。めちゃくちゃ光栄で、嬉しくて。それでガラパのみんなに正直に相談したら行っておいでって言ってくれて。出演することを決めました。 北九州公演と(東京公演が)「あうるすぽっと」って新しい劇場でのツアー公演でした。なので、東京で事前に記者会見もあったんですよ。僕、主演ですけど実績なんて何にもないんですよ。無名。作家の五木寛之さんと鐘下辰男さんに囲まれて、記者さんとかテレビとか沢山会場に来てて、初めての経験でした。出演料もちゃんともいただけました。その頃、福岡のテレビ番組でレポーターとかも始めて、プロになりたいと思う前に「なんか行ける」って感じが僕の中ではあったのかもしれないですね。
柴山:5周年に向けて動き出す話に戻しますけど、建て直すと決めて10カ月かけてもうまく書けないことだってありますよね。でも川口さんは書けたってことですか。
椎木:目標もなく、ただ脚本を書くことが苦しくなってたんだと思います。
全体で本気になって走り始めた。その頃に週一で劇団会議もやり始めました。五周年で1000人集めるという目標も定めました。劇団というものの未来をちゃんと考えるようになった。 僕らはヨーロッパ企画が福岡公演をやるイムズホールでモギリとかバラシとかでお手伝いしていたんですね。そしたら、打ち上げに呼んでもらえるようになって。直に憧れの劇団の皆さんの話を聞きながら、僕もだんだん劇団というものを理解していきました。そして大きかったのは、ヨーロッパ企画の福岡公演のプロモーションを担当していた「株式会社ピクニック」とそこで出会うんです。僕らも「ヨーロッパ企画」がやってるイムズホールでやりたいって相談して、そしたら1000人集めたらイムズホール公演の実現を手伝うって言ってもらえました。それが1000人という数字の根拠になりましたし、ちゃんとした目標になった。未来に向けた目標がモチベーションになって、川口さんも必死で脚本を書き上げれたんじゃないかなと思います。
柴山:劇団費って集めているんですか?
椎木:最初は集めてました。5周年記念プロジェクトでやめたんだったと思います。公演ごとにみんなでお金出しあう参加費ってのが当時あって。それがすごく負担が大きくて。メンバーが劇団を続けていくために早くそれを無くしたかった。それも動員を伸ばすモチベーションになりましたね。
柴山:いろんな点で明らかに変わったのが、この5周年に向けての時だったんですね。チケットのバック(売った枚数×チケットの〇割をもらえるシステム)はしてないんですね。
椎木:してないですね。チケットバックが個人的に苦手で。僕はいい企画を作ることはお客さんをちゃんと入れるって事だと思ってるんですよ。いい企画がいい演劇作品を作るし、いい演劇作品だったら、お客さんが入っていい企画になると思ってるんです。だから、どちらも両立させなくてはいけない。役者だけがチケットを売るんじゃなくて、企画と作品がチケットを売るんだと思っています。なので、企画者の僕がチケットを売るべきだってすごく思っています。企画が面白ければチケットは売れる、ちゃんと。そう思って続けてきました。
柴山:5年目で思った以上にうまくいって、 その後の目標としてどうしようとしたんですか?
椎木:動員1000人を超えたので、約束通りピクニックと一緒にイムズホールで公演しようってなりました。イムズのビルに大きくかかる、懸垂幕が出るのがすごい憧れで、ガラパのも作ってくれてメチャクチャ嬉しかったです。天神の街にでかでかとガラパの名前が出ました。それが『すごくいいバカンス』(2010年)。

で次は「ツアーとかやりたいね、東京公演とかやりたいね」と言っていたら、電話がかかってきて。それが福岡で高校演劇をやってた知り合いの東京のアゴラ劇場の制作さんで。当時アゴラ劇場で開催していた「サミット」という企画に、「1つ枠が空いてんだけどガラパ来ない? 最近すごい噂を聞くんだよ」って言ってもらいました。それが初めての東京公演。2010年12月『ひとんちで騒ぐな』です。手が届かなかったものが目標をひとつクリアしたらポンポンやって来ました。
柴山:東京公演に『ひとんちで騒ぐな』を持ってた理由は、なにかあるんですか。
椎木:やっぱり当時一番自信があったしガラパの色が出てると思ったからです。僕は北九州劇場で劇作家とか劇団の主宰とかいっぱい知り合っていたので、色々な先輩方に相談しました。そこで「初めて東京公演するんだったら、クオリティが担保されてる再演の方が絶対いいと思う。今持ってる中で一番代表作だと思う作品を持って行きなさい」って言われて選びました。
そして2011年5月にもう1回イムズホールに帰ってくるんですよ。『グンナイ』という作品をやるんですけど、ここで川口さんがお休みしてしまいます。

柴山:え。なぜでしょう…?
椎木: 5周年走り切って新しいステージに行くわけじゃないですか。今までと比にならないぐらい見る人の質が変わるんですね。つまり僕らのことをまったく知らない人たちの前でやることになる。その人たちと楽しませなくちゃいけなくなる。もちろん評価されたところもあるけど、やっぱもう信じられないプレッシャーだったと…。あとは集団を続けていくとどうしても起こりえるんですが、人間関係もぐちゃぐちゃになっていきました。まだみんな若かった。川口さんがもう限界だって、休みたいって言ってたんですけど。僕が絶対休ませないって言ってしまって。「やっとここまで来たのになんで今休むんだよ」って。その頃は、僕との関係も上手くいってなくて。衝突の末、川口さんが消えるように休んでしまうんです。 でも僕、意地でも今のこの流れ止めたら駄目だと思って。川口さん抜きで劇団を続けるんです。そこでやったのが「ガラ博」っていう、俳優がそれぞれ脚本を書いて、10作品ほどを小さな劇場で日替わりでやる企画。

柴山:2012年ですね。
椎木:そうなんですよ。ハイバイの岩井さんに影響を受けて、岩井さんが「俳優が脚本書いたら絶対芝居がうまくなる」と言っていたのでやってみようと。この企画はお客さんも入ったし好評で、劇団員も成長できました。でも裏では川口さんがいなくなって、苦しかったです。
一年後の2012年、川口さんが復帰するんですけど、ここで初めて劇団員オーディションを開催しました。今のメンバーだけでは川口はもう書けなくなっているなら、新しい俳優を入れようと思って。そこで入団してくれた新メンバーと一緒に『この中に裏切り者がいますよ』って作品を10月にやります。初めて大阪公演と宮崎公演も。もう1回勢いをつけようと思って。三都市ツアー公演を初めてやるんですよね。

これでちょっと息を吹き返して。 2013年に再びイムズホールにチャレンジします。これが『星降る夜になったら』。初めて沢山の客演を呼ぶんですよ。劇団メンバーだけでやるというこだわりを、ちょっと緩ませたのがこの公演でした。その後、2013年の冬にもう一回東京に行くんですよね。『ナイス・コントロール』。福岡が11月、東京が12月、宮崎が1月。メンバーもみんな育ってきて。福岡公演はロングランシアターって企画で2週間公演、ほぼほぼ完売してたんで、3都市で多分動員2000人超えてたと思うんですよね。福岡公演は1500人とか入り始めた頃です。
柴山:川口さんが戻ってきたら、また劇団としては関係はうまく回りだしたということなんですか。
椎木:回り出したとは思うんですけど、ちょうどこの辺で10年が近づいて、同じペースでやり続けるのも限界なメンバーもいました。みんな20代後半に向かっていく年齢で、動員が伸びても、それだけで食えるわけでもないし、周りの目も厳しくなってくるじゃないですか、それぞれがなりたい未来も現実的に考えなくちゃいけなくなってくる。なのに「また勝負しよう!」ってことで10周年に向けて2014年に年間4作品を上演する「ガラパコレクション」っていう企画をやりました。年間2公演だったペースをいきなり4公演に増やして、しかも全部違う劇場で。 2015年の6月にイムズホールで10周年記念公演やるんですけど、ここが第一のピークというか、めちゃくちゃ無理して頑張って。公演が終わって、ゴソッと人が抜けていくんですよね。初期のメンバーがほぼほぼ退団するんですよ。この辺でちょっと頭打ちっていうか。若手じゃなくなってくるっていうか。
柴山:みんな自分の人生を考えなきゃいけない時期に来ていた…
椎木:そうですね。あと、作品も中身がないとか言われる頃ですね。テーマのない劇だとか、社会性がないとか。見てくれる人が増えていって一人前の劇団として見られていく中で、演劇作品としてどうなのかという壁にぶつかった。今はコメディを貫くことの凄さはわかるんですけど、その時期は迷いが産まれていたと思います。次の年が『西のメリーゴーランド』という作品を作りました。劇団としてはめちゃくちゃ頑張ってました。この作品で小劇場演劇のメッカ、下北沢駅前劇場に初進出するので。ただ内側の僕らとしては苦しかった…人がどんどんいなくなっていく。どんどん育った俳優が抜けていった。初期メンバーがやめていったら解散になる劇団が多いと思うんですけど、意地ですよね。絶対に勢いが落ちてるように見せないというか。
柴山:目標があって絶対ここまで行くために壊さないということなんですか? それともここまでやったんだから、こんな理由では壊したくないとかそういうこと?
椎木:うーん。悔しかったんですねきっと。川口という作家の才能を信じていて、こんなとこで終わらせていいのかってめっちゃ思ってたんだと思います。もっと売れると思ってた。とんとん拍子で階段のぼっていって、初の東京公演もぽんぽんと決まって、なんかもっとすごいことになると思ってた。それが実現できてないことが悔しかったんです。あとは福岡で10年やっていると、人口も多くて街も発展していて、人もやってくるこんなに素敵な土地で、なんで演劇は、文化芸術はこんなに流行ってないんだろう。なんでこんなに認めてもらえないんだろう…みたいな。絶対あったほうがいい。絶対面白いし。絶対人の助けになると僕は思ってるんですけど、あんまり見向きされない。特にガラパは、誰も目かけてくれないなってずっと思ってた。
柴山:え、福岡の人間から?
椎木:だんだん孤独な存在になって行ってる感じがしていて。「ガラパは違う、ガラパは頑張ってるよね」とか、なのに「劇に中身がない」とか「宣伝が上手なだけ」とか言われる言葉が(今は気にならないですけど)すっごい気になるっていうか。なんでこんなに認めてもらえないんだろう。福岡で認められたいってのが凄くあったんだと思ってます。
柴山:え…!? お客さんの認識と違うんじゃないですか。
椎木:お客さんは沢山応援してくれたと思ってます。でも、ガラパは福岡という都市の一部になりたいんです。「女の子可愛い、お店いっぱいある。食べ物美味しい、コンパクトシティ福岡っていいよね」、ここに「ガラパがある」ってなりたいんですよ。でもこれにはまだまだ程遠いですよね。これが多分目標なんですよ。抽象的だけど都市を形成する一部になりたくて、その可能性があるって思ってるけど、それが実現できないことが、今もエンジンを燃やし続ける理由になってる気がします。でもこの頃はその現実が苦しかったのかな。
そんな中、2017年5月にキャナルシティ劇場に進出します。その頃から、スリーオクロックっていう会社と組んで公演をやり始めるんですけど、キャナルシティ公演を一緒にやろうっていうのが最初でしたね。やっぱり走り続けてるし、登り続けているように見せてるんですけど、中はもうすごい葛藤、苦悩をこの頃ずっとしてますね。楽しいより苦しい方が僕は印象に残ってますね。

柴山:キャナルでやることになった経緯は?
椎木:これはキャナルから話が来た。苦しい時期だったのもあるし、やっぱりリスクがあった。予算も今までやってきたような数字じゃなくて…失敗したらそのリスクを背負わなきゃいけない。僕はやらないほうがいいなと思ってた時に、川口さんが「キャナルシティ劇場でやれるっていうチャンスはないと思う、本当に勝負しなきゃいけないんだけど、やるかやらないかっていう判断ができるところまできてるんだったら絶対やった方が良い」って言って、それでみんな奮い立たされて「じゃあやりますか!」ってなって。僕が後ろ向きになってるときは川口さんが前を向いてくれるってのが結局ガラパのバランスなんですね(笑)。それで挑戦することになった。記者会見をキャナルシティ劇場で大々的にやって、スリーオクロックも頑張ってくれた。念願の「ヨーロッパ企画」の永野さんにも出てもらって。福岡中の僕の知ってるいい俳優をみんな集めて、初めてプロデュースっぽい形でやってます。あの時の客席は本当に忘れられないです。カーテンコールでスタンディングオベーションしてくれて。あれは作品が面白かったっていうことだけじゃなくて、大劇場までたどり着いたガラパへの、お客さんの熱い想いだったんだなと思っています。同じ時代を走ってきた松居大悟(ゴジゲン)も、東京からわざわざ見に来てくれて。その光景を見て、客席で号泣したって言ってくれました。福岡でやり続けて、ここまでこれるんだって。…でも同時に苦しかったですね。この辺で本当に劇団の中心メンバーみたいな人が抜けるんですよね。しかも結構なトラブルを起こして抜ける。さらに人がやめて、初期メンバーが僕と川口さんしかいなくなるんですよね。もう旗揚げメンバーは僕らしかいなかった。次に『ハダシの足音』(2017年11月)をやるんですけどどんどん作風が暗くなって行くんですよ。これも3都市公演する。僕はいつもお客さんに楽しんでもらうんだって言い続けてきて、だからお客さんにネガティブな風に見せないように頑張ってたんだと思います。その後、『溺れるクジラ』(2019年)。この作品が暗い。暗ポップって言ってましたけど。もともとガラパって分かりやすいのが売りだったのに、よく分からなくても良い、新しくて深いものをやろうとしてたんだと思います。でも、今見返すと、この作品はこの作品でめちゃくちゃ好きなんですけどね。当時は賛否分かれる作品でした。

その頃、僕はまたテレビに出始めるんです。『ももち浜ストア』2017年から月曜から金曜までレギュラーでずっと毎朝テレビに出てで、その後稽古行って本番やるみたいな。今思うと幸せだったけど、死ぬほど体はきつかったです。そこで福岡のメディアに出ていたタレントの人たちと出会っていくんです。ちょっと1回、力合わせてやりたいと思って。『ナイス・コントロール』を初めて「プロデュース公演」って冠を付けてやるんですよ。これが2019年の7月。『溺れるクジラ』の後、いきなりめちゃくちゃポップなことやってお客さんはすごい喜んでくれて。昔の作品だったのもあったし。それでやっとここでモヤモヤしたものが抜けた気がします。僕らってこういうのがやりたかったんだ、いいやん、別に浅いとかわかりやすいと言われてもって。で、ここらへんでまたメンバー増やすんですよね。福岡の若手有望株を僕がスカウトしました。で今まではずっと年齢不詳か、同世代って設定の劇しか作れなかった。メンバーの実年齢が同世代だったから。ちょっと年が離れて、若い子たちが増えてきたから、この関係を活かして作ろうと思ったのが『甘い手』(2020年2月)なんですよ。学校を舞台にして、先生と生徒みたいな年齢が違う設定にして、ベテランぽくなってきた僕たちを先生の方にする。若い子たちは生徒役。これがめちゃくちゃ面白かった。ただただ王道の学園コメディを、しかもワンシチュエーションでもなく場面をどんどん変える。こうした方がいいんじゃない?みたいに言われてきたこと全部気にしないで、自分たちが面白いと思うことやろうって作ったんです。
この作品で初めて札幌公演を企画して。劇団作り始めた頃にめちゃくちゃお世話になった札幌のyhsって劇団があって、「お互いこれから背負っていくコメディ劇団だね、いつか(札幌で)」と言っていたので、初心に戻る気持ちで企画しました。でも、それがコロナで中止になるんですよ。『甘い手』でやっと自分たちのスタイルが開き直れたってところで、コロナ禍になった。でもこの作品でガラパはまたポップな劇団になったなって思ってます。
柴山:それまでと違う年齢差を生かした作品にしようというのも川口さんと話すんですか?
椎木:話しますね。この頃にはもう僕が企画するようになっていたので。企画から脚本が始まることも増えてきた時期ですね。自分で全部やらなくていいんだ、人を集めて仲間を集めるのが(自分の)仕事なんだってわかってきた。プロデュース公演『ナイス・コントロール』が大きかったかもしれないです。これはもう完全に僕の企画、初めてプロデューサーとしていう表記をしたので。川口さんの演出でやってください、キャストは僕が集めます、所属事務所とも僕が交渉しました。
柴山:コロナの時はどんなふうにしてたんですか?
椎木:『甘い手』の札幌(公演)が中止になって大損害で。公演はできないけど、絶対こういう逆境のときこそ続けるべきだと決心して、『甘い手』のDVDを作って売ろうと思いました。当時いち早くzoom演劇を12話作りました。それを3か月間、週一で出して。で、最終回の日に生配信をしてDVDを発売しました。あとは、トキヲイキルっていうアイドルグループの原直子さんに『ナイス・コントロール』に出てもらった縁もあって、トキヲイキルのプロデューサーから、コロナ禍に「一緒にやりましょうよ」って言ってもらって、週一で、4週連続で甘棠館でイベントもやりました。コントとアイドルのライブのコラボ。最前列のお客さんはフェイスシールドつけて、みんなマスクしてもらって、客席消毒して。有料配信も初めてやりました。トキヲイキルとはその後、演劇公演もやりました『ラバーソウル』っていう。2020年4月にやろうってするんですけどこれが緊急事態宣言で中止になります。でもこれも11月に振り替え公演しました。もうなんとしても続けるっていう意地でしたね。それで15周年が来ちゃうんですよ。そもそも『甘い手』が15周年に向けた第一弾だったんですね。もう年末に1カ月ロングランするって決まってました。12月6日から12月27日までやりました。コロナと闘いながら、対策をめちゃくちゃして。大変でした。
柴山:お稽古はどうしてたんですか?
椎木:ここ(事務所)でやってましたね。まず公共の練習施設は全部閉鎖されて一切使えないんですよ。床の防音シート買ってきて、片付けて、稽古しました。マスクして何度も換気して。勝手な使命感もあったんだと思うんです。僕らが、ガラパが演劇の灯を消したらいけないみたいな。あと、僕はやっぱり劇団をやり続けたいんですよね。劇団は止めたら終わるんだと思ってるんです。休んでもいいけど、絶対やり続けないと無くなっちゃうと思ってるから。メンバーを増やすのもそれです。劇団はずっと生き続けるものだから、呼吸をして新陳代謝をし続けなきゃいけない。じゃないと死んでしまうと思ってるんです。
そんな気持ちだったから、コロナ禍で中止になった『甘い手』をどうしてもリベンジしたかった。僕らは北九州のスタッフと作品を作り続けてきました。だったら設備の整ってる北九州芸術劇場でやれたらさらにクオリティの高いリベンジができると思って。それで優勝したら副賞で北九州芸術劇場小ホールで公演ができる「劇トツ」に出場しました。それで見事優勝して、北九州芸術劇場で『甘い手』をやるんです。2021年の劇トツで優勝して『甘い手』の再演が2022年です。
柴山:中止になって悔しいのもあるけれど、なんとしてでもやり続けるぞと…。
椎木:はい。でも『甘い手』の再演は大変でしたー。どんどん俳優がコロナに罹っていくのでなかなか稽古が進まない。最後は川口さんがコロナに…。でもこれで「corich舞台芸術まつり!2022春」で「ベスト口コミ賞」と「準グランプリ」と「演技賞」をもらいます。何回か出場したことがあるけど毎回上位10位にも入らない。それが初めて審査員もめっちゃ評価してくれて。口コミも日本一多かったんですよ。あの時にお客さんの力ってのを感じたっていうか。

そしてその年の10月に、西鉄ホールに初進出するんですね。『この中に裏切り者がいますよ』の再演なんですけど、寺田剛志さん(飛ぶ劇場)とか原岡梨絵子さんとかに出演してもらいました。次の年、2023年に『運動会をやりたくない』、これがもう大事件でした。やっとコロナがちょっと落ち着いてきたので、東京公演を復活させるんですよ。ツアーを再開したその東京公演の初日に、出演俳優の不祥事が起きるんです。本当に今まで味わったことない。しかも東京で、僕らしかいないんですよ。僕が判断しないといけないことに直面して。その時に相談したのがとコンドルズの勝山康晴さん。勝山さんは僕が一番尊敬してるプロデューサーです。藁をもすがる気持ちで電話したら、「中止だけはしちゃいけない、無理やりでもやるんだよ。できるなら明日からやれ」って言ってくれて。それで川口さんは夜通し徹夜で宿舎でセリフ覚えて、次の日、通し稽古を3回やってその日の夜公演から開幕しました。
柴山:勝山さんがやった方がいいと言った理由はなんなのですか。
椎木:公演をこういう理由で飛ばしたら二度と立ち上がれなくなるからって。公演をちゃんと形にできたら、後々ちゃんと受け止めれるようになるって。僕も今思うとやってよかった。あそこで公演やめてたら、もう次いけなかったかもしれない。精神的にはめちゃくちゃショックだし、裏切られた気持ちもあるし、こんだけ頑張って作ってきたのにって気持ちが心を折ってたかもしれない。公演出来て本当に良かったと思ってます。
柴山:東京公演は、一日はちょっと中止にして、翌日から。
椎木:川口さんは十何年ぶりに俳優として出演しました。東京公演がツアーのスタートだったから、福岡公演で帰ってくるじゃないですか。川口さんと僕のシーンがあるんですよ、それを昔から見てる人とか、めっちゃ喜んでくれました。優しかったです。初日を公演中止にした事知ってるから。超アットホームな空気で。チケットも完売してて。やっぱホームってありがたいなあって思いましたね。

そして、2024年に『三途の川のクチコミ』という新作を作ります。ここでまた新メンバーが入ってるんです。今、ガラパのSNSなどを動かしてるのはこの子たちなんです。この子たちに教えてもらってます。もちろん同世代、僕よりも上のファンの方もたくさんいらっしゃいますけど、若い子たちが見向きもしない演劇、コメディはきついなと思ってます。常に、なんかちょっとおしゃれでカッコイイものでありたい。そしたらやっぱりこの若い世代の感覚を僕らが真似してもだめだと思ってて。だから今一番下のメンバーは23歳、彼らに教えてもらって、彼らの感覚で動かしてもらって。映像も作ってくれてるし、生配信なども。彼らはもうSNSネイティブなので。だから僕らは先輩だけど後輩に教えてもらってるっていつも思ってますね。
柴山:配信も、コロナの時に週一で始めましたよね、それからって感じですか?
椎木:確かに…その時の若いメンバーが動画撮ったりとか稽古場レポートとかをインターネットに公開い始めて。彼らがやってるのを教えてもらったみたいな感じかもしれないですね。YouTube24時間生配信とかやってくれて、それきっかけに公演を見にきてくれた人もいる。「ヨーロッパ企画」に憧れたのは、みんなそれぞれ全員、顔と名前が一致して、みんなそれぞれ発信してたのがかっこよかった。昔からヨーロッパスタジオっていうウェブの企画ページがあって映像やブログをフル活用してた。あれが理想ですよね。メンバーが全員やりたいことやってるっていうのが劇団の一番強みだと思ってて。みんなクリエイター。
だからガラパも劇団でやるってことにこだわってます。チラシとかホームページとかもそうだし、グッズも全部作るし、映像も全部やるし、配信も全部やるし、制作も全部やる、スタッフとのやりとりも全部やる、予算立ても決算も。メンバーの得意なことですべてが回ることって価値があると思うんです。だから基本メンバーがやりたいと思うことをやってほしいです。相談とか報告はしてほいけど、やるなって言わない。常に面白いと思うこと、お客さんを巻き込めることをやってほしいと思ってます。
今、「月刊ガラパ」という名前で毎月イベントやってるんですよ。メンバーが誰でも、やりたいと思ったことをやるんです。平日の夜にライブハウスで。これにも固定のファンがついてくれるようになって、めちゃくちゃ面白いです。

若い子にとってはガラパを踏み台にして欲しいし、何かやりたい時にガラパを使えばできることが増えると思ってもらいたい。今は劇団に長く在籍してくれるメンバーが多くなりました。昔は、劇団のペースについていけなくなった時に私いたらダメだって思って辞めちゃうメンバーが多かった。でも最近そういうことがなくなりました。僕、どんな関わり方でもいいと思えるようになったんですよね。公演出なくてもいい、会議に来れなくてもいい、公演の手伝いだけ来るでもいい。見に来るだけでもいい、何かを表現したいときに劇団を使ったらいい。それが劇団の意味と強みだなと思ってるんですよ。つまりコミュニティとしての価値。劇団はもちろん演劇作品をクリエーションし続ける先鋭的な力も持ってなきゃいけないけど、それだけの場所ではないなって今は思ってます。社会生活の中で孤立していかないために、家族と仕事以外、もう一つコミュニティを作ったら良いという話があって。僕、劇団ってその最たるものだなと思うんですよね。仕事でもないしサークルよりはもっと強い繋がりだけど、家族でもない。みんなが面白いと思うものを作るために、表現するために集まる。これって強固なコミュニティだなって僕は思ってるんです。だから劇団っていうのは、役者を育てるとか、作品を育てるって意味もありますけど。単純にすごく面白い共同体なんじゃないかなって僕は思ってます。だって、40歳のおじさんと、違う時代を生きてきた子たちが同じ土俵でコミュニケーションをとるんです。なんかそれってすごいことなんじゃないかなって最近思ってます。
これも、コロナ禍での「不要不急」って言葉がきつくて。何のために劇団は存在するのかを考えなきゃいけなかった。みんな言語化をあそこで頑張ったじゃないですか。なぜ演劇が必要なのか、僕も僕なりに考えるようになった。前はただ、演劇作りたいとか、俳優としてこうなりたいみたいのが強かった気がするけど。劇団が存在する意味を言語化できないと要らないと言われてしまう。それを考えるようになって、劇団っていいなって改めて思えるようになりました。
柴山:非常に賛同できます。最後に一つ『見上げんな!』について。あれはどこから話が来たんですか?
椎木:福岡市民ホールができるって話はずっと前からあったじゃないですか。いよいよ建つって情報が出たときに、僕は勝手に、絶対こけら落としは福岡の表現者がやるべきだって思ってたんです。新しい文化芸術の拠点のスタートにふさわしい企画は何だろうって考えて。ずっとやりたかった、高校の演劇部の先輩の小山田壮平(ミュージシャン)の音楽と劇を作るってこと。20代の時に同世代で「ヨーロッパ企画」を介して知り合った松居大悟。松居は福岡出身で福岡のことが好きだから。でも福岡で作品を作ったことはない。それぞれの分野で活躍してきたこの2人とオール福岡でやる企画にしたら面白いんじゃないかと思いました。電話をしてこれをこけら落としでやりたい。企画書を書くけど、名前出していい?って、2人もめちゃくちゃ乗り気で名前を入れさせてもらった。ここまでの話の段階では、なにも正式に決まってないです(笑)。福岡市民ホール側にアポもとる前です(笑)。
それで満を持して企画を持っていくんですけど、最初は通らなかったんです。実現しないのかと思っていたら、オープンの1年半前ぐらいに今度は市の方から企画を出しませんかってスリーオクロックに連絡があった。そこでもう1回ブラッシュアップして同じ企画を出しました。それで、市の職員さんとか福岡市民ホールのスタッフさんとかも協力してくれて企画が通りました。
福岡公演が決まってから、ゴジゲン(松居大悟の劇団)のプロデューサーが「東京公演もしませんか?」って言ってくれて、『三途の川のクチコミ』の東京公演を観に来てくれていた、ニッポン放送のプロデューサーにも話してくれて。それでニッポン放送も一緒にやってくれることになって。そしたら大阪公演でずっとお世話になってたチケットぴあ大阪のプロデューサーも「大阪でもやろう」って言ってくれて。もともと福岡で3公演やって終わりだった企画を、今までつながってきた人たちが、こんだけ椎木が気合入った企画をやるなら乗りたいって言ってくれたんです。奇跡みたいに企画が膨らんでいった。
すごくプレッシャーもあったけど、福岡でやりたかったことはこれだ!って、もう全力でやれること全部やろうと思いました。劇団のメンバーも本当にもう、制作スタッフたちがめちゃくちゃ頑張ってくれて。福岡の千穐楽はもう満席で。福岡の公共ホールの初回の幕を僕らが開けることができた。福岡を盛り上げる一部にしてもらえたって思いました。千秋楽の客席の景色を見て感動しました。
「ヨーロッパ企画」の酒井(善史)さんもお忙しい中、スケジュールを調整して出演してくれました。僕らと松居の縁はヨーロッパ企画の福岡公演を手伝っていたことで生まれてるから。酒井さんが出てくれたのは本当にうれしかった。全部のピースがはまった感じがしました。
柴山:先ほど皆さんに支えられたとおっしゃったけど、椎木さんの人柄のおかげですね。
椎木:人柄というか、熱量だと思います(笑)。自分で言うのもあれですけど。…でもやっぱりここまでやってきたことの集大成だったのかなと。福岡だったから出会えた、福岡で繋いだ縁によって実現しました、『見上げんな!』は。だから、福岡の劇団としても、僕個人としても大事な公演でした。

柴山:「コミュニティ…第三の場としての劇団」、あるいは「都市、街の中に溶け込んだ劇団、一部となる劇団でありたい」とか、そういう発想を伺ってなるほどと思いました。今後のガラパが具体的に目指すものはありますか。
椎木:一番は、動員をめちゃくちゃ伸ばしたい。本当は3000人、5000人、1万人になりたい。もう苦しいですよ、これ。コロナ禍からもう本当にお客さん減った。でもそれは諦めたくない。なぜかというと、演劇ファン、僕はその外にも行きたいんです。演劇を見てもらいたい。一生見ない人とか一生関わらない人もいっぱいいると思うんです。一人でもそんな人たちに見てもらいたいです。演劇ってめっちゃ面白くて、めっちゃすごくて。きっと少しだけ誰かを救うことができるものだと僕は思っているので。
あと、福岡からどれだけの人材が流出したんだと思ってて。沢山の才能ある人たちが東京に行った。そのためにも福岡の文化芸能を盛り上げたい。福岡でもできるはずなんですよ。福岡だったら規模的にも。福岡に住みたいとか、福岡に泊まりたいって思うのは、僕はアイデンティティの強さだと思ってるんです。アイデンティティを作るのが文化だと思うんです。今、日本全国で食べようと思えば同じもの食べれるし、同じ服着れるし、同じ動画は見れるじゃないですか。けど、文化はそこに根差すものなんですよ。だから僕はこの福岡にそういう魅力も作りたい。若者たちが福岡に芸能の夢を見れずに上京してしまう。福岡に留まる理由を作りたいです。それは演劇だけじゃなくて、いろんな分野のクリエイター。福岡の表現というものがもっとみんなで力を合わせることができるはずだと思っています。その仕掛けを作っていきたいです。
あと、才能ある若者たちが自分たちのために先頭に立って、この福岡を盛り上げたいって思えるきっかけを作りたいです。僕が田坂さんや川口さんやいろんな先輩に、俺たちが一番面白いって思わせてくれたあの時みたいに。とにかく、この福岡が演劇っていうものが盛んになる、その仕掛けをしたいし、そこを勝手に背負っていきたいなと思っています。
柴山:素敵ですね。これからも応援しています。今日はありがとうございました。
