インタビュー:山崎銀之丞さん(俳優/元・劇団 空想天馬)

*山崎銀之丞さんといえば、テレビドラマでクセの強い役もこなす印象的な俳優だ。その彼が実は70年代後半から80年代後半あたりまで福岡で劇団活動をしていたことはご存知だろうか。80年代に青春真っ只中を過ごした人たちは地元のラジオ番組「HiHiHi」のパーソナリティとしての彼の方が記憶に残っているかもしれないが、なんと福岡市の老舗劇団「アトリエ座」(後の「夢工房」)に入り、そしてご自身でも「劇団 空想天馬」を作り活動していたのだ。当時を知る人たちからは、山崎さんがどれほどかっこよかったか、人気があったか、聞かされたものである。

 そこから数十年経っているが、先日拝見した舞台(つかこうへいの『寝盗られ宗介』だった!)の山崎さんには、きっと若いころからの情熱を変わらずに持ち続けているのだろうなと思わせる熱量と瑞々しさがあった。そしてインタビューでは「一生、舞台、一生、演劇」…そんな覚悟と愛情を持った人がここにもいると実感。「山崎銀之丞氏の福岡での劇団話」、貴重なお話です。

柴山:「夢工房」にいらっしゃったと聞いています。そのころからのお話を聞かせてください。

山崎:はい、もともとは「アトリエ座」という名前だったんですよ。僕はもともと子役をやっていまして、舞台には興味がなかったんです、そのころ。10歳で日映企画という事務所にオーディションで入りまして。途中、大岩企画に変わりまして、舞台には興味がなかったので映像に進みたいと思ってそこに入ったわけですが、当時、福岡に子役自体があまりいなかったので非常に重宝されまして、東京からくる映画・テレビとか、当時NHKが「九州劇場」というラジオドラマをやっていまして、それに僕はレギュラーで毎回出ていたりとか、あとラジオ番組を担当することになりましてそこで5年半、月~金のベルトでやっていました。23~28ですね。『山崎銀之丞のHi Hi Hi 』という番組です。

柴山:そこに至るまでの経緯を教えてください。

山崎:僕は幼少期は内向的な少年だったものですから、表に出ることにすごくあこがれていて。人前に出ることができるような子じゃなかったんですが、何か自信が持てるようなものを模索していてちょうどそこにオーディションの話が新聞に載っていたので出るしかないと。当時は子役がいなかったものですから、吉永小百合さんと仲代達也さんの『青春の門』といった映画とかドラマとかに結構重宝されました。ちょうどその大岩企画の大岩監督が社長だったんですけど、パジャマ党と言いまして、萩本欽一さんとかさんまさんとかの構成台本を書いている方のお父さんだったんですよ。で、僕が中学2年の時にその社長が亡くなりまして、僕をすごくかわいがってくださっていて、高校は堀越に行けと。君は俳優をやった方がいいって言われていました。でも結局中学2年の時に亡くなっちゃったんです。当時の僕のマネージャーをしていた女性が、ここでやめてしまうのはもったいないので、福岡に劇団があるからと紹介されていったのが「アトリエ座」(「夢工房」の前身)という劇団だったんです。1978年、16歳の時です。そこで舞台に傾倒していく。舞台装置や音響・照明に関しては自分たちで全部やっていましたのでそこから芝居に目覚めていきました。

柴山:入ってすぐの時、いかがでした? 持ち劇場(ごや)はもうありましたっけ…?

山崎:ありました。大名に自分の持ち小屋があってそこの座長が石川蛍氏、座長が毎月新作を書いていて、とにかくオリジナルにこだわった人だったので、僕は劇作をしていく作業を間近に見ていてかなり影響を受けたと思います。学校公演とかやってましたから、僕はほとんど学校に行ってない(笑)。

柴山:アトリエ座はオーディションをやって入った人もいるのですが、山崎さんの場合はオーディションなしで入られた?

山崎:はい、マネージャーが交渉してくれたんでしょう、そのまま入りました。入った当初は全く面白いとも思わなかったです。半年間かな、養成期間があって肉体訓練とか発声みたいなことは一応受けたんですけど、役に立つものとは一切思いませんでした。卒業公演が井上ひさしさんの『11匹のネコ』で、それが初めてお金を取る舞台作品でした。

柴山:その卒業公演で(演劇に)目覚めた?

山崎:本番中にものすごく大きな台風が来たんです。100席ぐらいの劇場だったんですけどお客さんが4人だったんです。出演者は僕を入れて13人、スタッフが4人、その中で上演して。僕はそういう経緯で入ってきてましたからある意味ひいきされていたといいますか、いきなり主役をさせられて。シェイクスピアの作品を全部言うというセリフがあったんです、覚えるのが困難で。演出をしてくれたのが劇団の先輩で、「お前、カンペを持っておけ」と。で僕が書いたものをポケットに入れてたら出てこないんですよ。それで虚空を見上げて紙を読みながらセリフを言ったときに4人のお客さんが笑ってくれたんです、それではまりましたね。

柴山:覚えているくらい、その瞬間が劇的だったんですね。

山崎:もう、あれはたぶん一生忘れないと思う。たった4人のお客さんですからね、嵐の中来てくださった。僕はいまだにあのお客さんを裏切らないために続けてるんだと思います。

<アトリエ座をやめる前>

山崎:アトリエ座では、芝居を観に行く先輩によく誘っていただいたんです。そこで最初に見たのが「紅テント」だったんです。護国神社と能古島で見ました。それから唐十郎に傾倒しました。自分がやっていることは何なんだと、ああいう芝居がやりたかったんだと思った。その次に見たのが「つかこうへい事務所」。当時のメルパルクホールで『熱海殺人事件』でした。そこから、「アトリエ座」でお世話になっているけどここでやっていることが果たして正解なのか…と模索が始まりまして。いわゆるアンダーグラウンドへの憧れだと思うんですが、当時、紀伊国屋書店に行って戯曲を買いあさって。『新劇』という演劇雑誌があってそれを毎月購入していまして、そういった意味でものめりこんでいきましたね。

柴山:アングラ系のものと石川先生の作品はずいぶん違いますよね。石川さんの作品に飽き足らなさを感じたんですか?

山崎:そうですね…ただ石川さんに関してはアングラ的要素を若干におわせる、背景を持っていました。作品というかセリフ回しというのが、今の作家さんには書けない、長台詞が多かったです。テレビでは見れない。そういう意味では僕は運がよかったと思っています。

柴山:それらをご覧になったのは「アトリエ座」に入ってどのくらいしてからなんですか。

山崎:2年ぐらい経ってました。

柴山:それまでは外の世界を知らずに面白い、面白いとやられていた。

山崎:そうですね。

柴山:石川先生は山崎さんのことをすごくかわいがられていたと…

山崎:そうですね、とてもかわいがっていただいていたし…僕はあまり東京に魅力を感じてなかったんです。東京に出るつもりは一切なくて、福岡で劇団を立ち上げようとたくらんでました。ただ当時、福岡は「演劇不毛の地」と言われていたのでやっぱりなかなかですね、福岡で維持しようとするのは難しくて。

柴山80年代に入ってすぐですよね。その頃は「演劇不毛の地」と呼ばれていたんですか。

山崎:言われてました。いわゆる演劇的なものは根付かないという評価を受けていました。

柴山:その頃って、「テアトルハカタ」、「現代劇場」、「生活舞台」などはあったと思うんですけど、それ以外の新しいものが出てこないという意味ですか?

山崎:出てこなかったし、プロになろうとする人がまずいない。僕は福岡でプロの集団を作りたかったものですから。

柴山:それは役者がしたかったんですか、演出がしたいとか。

山崎:たぶん…物を作っていく過程を楽しみたかったというのと、それをできるメンバーを集めたかった。そしてそいつらが食えていくという環境を作ってあげたかったというのが大きかったと思います。

柴山:石川先生に「自分で劇団をやりたいんだ」という話は…

山崎:(石川先生は)たぶん自分の後を継がせようと思っていたと思います。本人から直接聞いたことはないですけど、行動や言動を見ていると、「お前しかいない」というのはピンポイントであったと思います。

柴山:山崎さんが在籍されていたのはいつまで?

山崎:高校3年までいました。

柴山:大学進学を機におやめになったんですよね。福岡で劇団を立ち上げることはしないで上京なさったんですね。

山崎:修行というか…福岡にいても修業はできないと思っていたものですから。

柴山:その時に一番影響を受けていたのは。

山崎:やっぱりつかこうへい。本当に紅テントに行くかつかこうへい事務所に行くかで悩んでいました。ただ僕がちょうど進学して上京した時はつかさんが芝居をやめちゃったんです。

柴山:大学では劇団は作られました?

山崎:作りました。たまたまた僕が行った玉川大学というのは、専攻している生徒がミュージカルをやりたい人ばっかりだったんです。朝からミュージカルの稽古ばっかりやらされて嫌になりまして。ここにいるべきじゃないなと思って飛び出して、テントの劇団に入ってアンダーグラウンドをやってたんですけど、結局そこもつぶれて。テントの劇団にいるときに、芸名を付けろと言われて。初演は本名でやったんですけど。役名が銀之丞だったんです。だから何も考えずに19の時から本名の姓・山崎と合わせて「山崎銀之丞」で。

柴山:夏休みの間には福岡に帰ってきて芝居をやったと聞いています。

山崎:大学時代の仲間や先輩後輩を連れてやりました。石川さんに、「せっかく劇場作って、今機能してないからお前たち何かやってくれないか」と言われ、無理くりといいますか、集めて。機材とかも大学から借りて。担当講師が非常に融通を聞かせてくれて照明機材も50発ぐらい全部無料で貸してくれて。

柴山:新しい劇場の機材は十分じゃなかったということですか。

山崎:もちろん機材はありましたけど、僕はそれじゃ物足りなくて。やっぱりちゃんとした照明を作りたい、音響もそうですし。裏まわり…をちゃんとしたものをお客さんに観せたいという思いが強かったので。無料で借りて…インチキなことばっかり(笑)。レンタカーを借りてですね、トラック2トンと4トンとでやってきました。

柴山:それは大学何年生ですか?

山崎:1年の時ですね。ちょうど「アトリエ座」が引っ越したんですよ、大名から奈良屋町に。そこでいい劇場を作ったもんですから。120人ぐらい入ったかな。「シアターPALふくおか」という名称です。それで杮落し公演としてやってくれと言われたんです。

柴山:すごい。

山崎:僕が入った時はまだ劇場を叩いてましたから(笑)。

柴山:でも、石川さんは自分の劇団をお持ちですから本当だったらこけら落としは自分の劇団で…。

山崎:と思いますよね。ただあの時もう座員があまりいなかったんじゃないかな。それで初めて山崎銀之丞という名前で福岡の劇場に立った。野田秀樹さんの『少年狩り』。その頃はまだ僕は書けなかったので。

『少年狩り』チケット 劇団名は「東京鎌鼬紹介」となっている

柴山:何をやるとかについて、石川先生は全然口を出さず?

山崎:そんなのは全くなかったですね。とにかくこの劇場の開幕を華々しくやりたいという思いが石川先生の中にあったんだと思う。

柴山:『少年狩り』はいかがでしたか。

山崎:そうですね…当時はちょっと異例なというか。福岡で小さな劇場で、まさかの大学生が上演するということはなかったと思います。

柴山:お客さんは入ったんですか。

山崎:入りました。おかげさまで結構、連日満員で。「アトリエ座」で宣伝していただきましたし、チラシも街頭に出て配るとか。紙媒体で宣伝するようなことはしてないです。『シティ情報ふくおか』には載せましたけどそれ以外はしてません。劇場に置くこともしてないし、座員が昔のダイエーショッパーズのあたりで扮装して撒いてました。

柴山:その頃は街でチラシを配るなんてできたんですね。

山崎:それは「アトリエ座」で覚えたことなんですよ。それしかなかった、宣伝。1ステージ、音響で連れてきた後輩が、本番中に音響から火を出したんですよ(笑)。それでお客さんに一回全部帰っていただいてお詫びをして、その代わりに別の日にもう1回。そいつも平謝りに謝るんですけどやってしまったものは仕方がない。お客さんには申し訳なくて。

柴山:「シアターPALふくおか」の機材なんですか、学校から借りた機材なんですか。

山崎:たぶんシアターPAL (笑)。要するに電源のコードがショートしてそこから火が。

柴山:大事にならずによかったですね。

山崎:お客さんには非常に申し訳ない。

柴山:『少年狩り』をご覧になって、石川先生は何かおっしゃいましたか?

山崎:何も。ただ「お前、よく客を入れたな」とは言われました。

柴山:では『少年狩り』が成功して。これは夏休みですから東京に帰って。

山崎:帰って、自分たちで劇団を東京で立ち上げて。

柴山:福岡でやったのはその一回だけですか?

山崎:もう一回、石川さんに合同でやってくれないかと言われて。メンバー4人だけ連れて合同公演をやりました。「アトリエ座」と。

『沈黙の街』山崎銀之丞(左)と絵涙雫兵馬(右)

柴山:東京での若い劇団員たちと、「アトリエ座」の劇団員たちとの違いは…在籍していたころよりもいろいろと感じることもあったのではないかと思いますが。

山崎:言い方は悪いですけど、プロの厳しさとアマチュアの緩さ、そこに違和感がありました。

柴山:例えばどんなところにその違いを感じたんですか?

山崎:プロというのはですね、真剣に自分の生活が懸かっているので、飛躍の仕方が違います。方法論。アマチュアの方はあくまでも趣味なんですよ。僕たちはいっさい趣味でやったことはないので。

柴山:おっしゃっている「アマチュア」というのは石川さんの方?

山崎:そうです。

柴山:でもまだ学生だったんですよね? ただこれでお金を稼いでのプロという意識があったんですね。

山崎:意識は高かったと思います、生意気にも。

柴山:では石川さんのメンバーがぬるく感じたということですか。

山崎:感じましたね…。僕が尊敬していた先輩もいましたけど、自分が大人になっていって、若干ですけれども東京を経験して、そこでいろんな人と巡り会ってそういう人たちの話を聞いて影響を受けると、その人たちとの温度差がものっすごくあり…これはやっぱり根付くというか、食べていく気がないなと思いました。

柴山:どういうことでしょう?

山崎:まず、稽古に来ない。仕事があるという理由になっちゃうわけじゃないですか。だからなんとかなるという風に思われたくないと。なんとかなると思っている方たちと一緒にいたものですから、違和感がありました。

柴山:でもそれは石川先生には言えないですよね?

山崎:言いました。でも石川さんもそういう風におっしゃっていた人だったんですよ、もともと。だからプロの劇団を作りたいというのが石川さんの中には根強くあったんですよ、だから共通したところが大きかった…

柴山:石川さんもそう思っていらしたけど、それはやっぱりなかなか難しい…根付かない土地でやっていて…もどかしさもお感じになっていたということなんでしょうね。

山崎:だと思いますよ、石川さんも東京で修行して挫折して帰ってきてるから。一番感じていたと思います。だから当時の劇団の中でも異質だったと思います。石川さん。

柴山:だとしたら、石川さんが山崎さんに求めていたというものは…個人としては東京にいた方がいいわけじゃないですか、でも帰ってきてこちらを盛り上げてほしいという思いが

山崎:あったと思いますね。

柴山:ですから非常に複雑な思いを抱えていらしたのではないかと想像しますが、そんなことはお話しされることは?

山崎:んー、僕は「山崎、お前、プロになるということを伝えてくれんか、座員たちに。若い人たちも。お前が」と。でも「いやぁ、それは僕には無理ですよ、先輩にそれは言えません」と。でも石川さんは僕にそれを求めていたと思います。だからほかの劇団と圧倒的に違っていたのはその点でした。

柴山:その当時も、「アトリエ座」はタレントの仕事斡旋業はされていたんですか。

山崎:してました。

柴山:それでも食べていくほどではなかったということなんですかね?

山崎:いや、基本的にはそれを思っていらっしゃったと思うんですよ。でも僕みたいに何もやってない人間はその仕事にすぐ行けるんですよ、でも仕事がある人は行けないんですよ。だからそこで収入がすごく違ったと思います。

柴山:優先するものが違うということですね。

山崎:はい。だからそこに憤りというか葛藤されていたんじゃないかと思います。

<ふたたび福岡へ>

柴山:では合同公演では、1回目よりも強くそんなことをお感じになったんですね。さて大学を卒業するまでは東京で?

山崎:いえ、僕は2年で辞めたもんですから。23になる直前ぐらいに福岡に戻ってきます。やはり僕もアンダーグラウンドやってましたけど、どうしても食えないという現実に直面して、アルバイトばかりやって生きていたので、これは僕の意図とは違う、僕には向いてないと思って、つかさんもやめていましたので、場所がなかったんです。それでサラリーマンをやろうと思って帰ってきました。演劇をやめようと思ってました。僕のような甘い考えと才能のなさでは、プロの役者として生きていくのは無理だという判断をしました。

柴山:そこで言う才能って何ですか?

山崎:やっぱりやり続けることの能力、戦闘能力、僕はそれが圧倒的に欠けていたと思います。

柴山:戦闘能力というのは、がむしゃらに仕事を取るとかアピールするとか、そういうことですか。

山崎:そうです。自分が食えないのに人を食わせられるかということを常に自問自答してました。

柴山:ではすっぱりあきらめてこちらに戻ってきて…石川先生のところでやろうとは思わなかったんですか。

山崎:思ってませんでした。

柴山:でも一度、お芝居を味わった人ってなかなかやめられないと思いますが…。

山崎:そうなんですね。僕が運が良かったのか悪かったのか、サラリーマンをやって営業先で福岡時代に知り合った別の劇団(シアター吐夢)の座長(松本政博)に会って、「お前何してんの?」「営業やってます」「お前、一本だけ芝居やってくれねぇか」と。それが偶然、つかさんの『寝盗られ宗介』を西市民ホールで。松本さんは、当時つかさんのコピーばかりやっていた稀有な劇団だったんです。

柴山:何の役を?

山崎:宗介を。有休をとって出演しました。

『寝盗られ宗介』

柴山:戻ってこられた間は石川先生にはお会いしたんですか。

山崎:会ってないです。

柴山:ここで大好きなつかこうへいをすることになり、沸々と思い出すわけですよね。

山崎:思い出すんですけど、だからと言って芝居に戻ろうとは一切思ってなくて。たまたまこの芝居を見に来ていた方が、福岡のピクニックという会社の山田(修三)さんです。ちょうど見に来てくれていて、「実は福岡にすごい変な奴がいる」と。山田さんを通じてRKBラジオに紹介されました。当時RKBには『スマッシュ‼ 11』という井上サトルさんが17年やっていた番組があるんですけどそれが聴取率が落ちてきたから、新しく夜のワイド番組を作るんでそのパーソナリティを探していたようでした。当時は僕まだサラリーマンだったんですよ。

柴山:いろいろとすごい偶然ですね。松本さんに会って、山田さんに会って、山田さんが紹介してくれてラジオ番組を担当することになって…。それが『Hi Hi HI』なんですね? オーディションもなく「君やって」ってことだったんですか?

山崎:オーディションはありました。一応、呼ばれて。でも僕は学生時代ラジオを聞かなかったのでラジオってどうやったらいいかわからなくて。でも僕まだ当時はサラリーマンでしたし、「やって」と言われても、これが職業として成り立つのかとまず考えますよね? ただやってくれと言われてやらないわけにはもういかない。結局、それで番組をやらせてもらうことになって、1年目は局アナの方と5日間のなかで3日間僕が担当して残りの2日間を局アナの方がやって。でも2年目からは全ての曜日やってくれと言われて。毎日3時間生放送だったんで、サラリーマンを辞めました。当時は月に10本ぐらいラジオCMとかテレビのレポーターとか仕事があったものですから、土日はラジオのイベント、だから休みがなかったです。

<空想天馬>

柴山:そんな忙しい中、「空想天馬」を作った?

山崎:はい。番組を始めて1年経って。実は「空想天馬」の前にですね、「艶姿 山崎銀之丞一座」というのを作ったんですね、それは(シアター吐夢の)松本さんと一緒にですけど。その時に、松村邦洋とかがオーディションに来て。

柴山:『ゴジラ』ですね? 

山崎:はい。東京に「劇団 離風霊船」に大橋(泰彦)さんという方がいらっしゃって、三原山が噴火してそこにゴジラが出てくるというアホみたいな作品なんですけど、高橋克実君とかそこの出身です。その作品を。

柴山:「艶姿 山崎銀之丞一座」という名前からするとなんだか大衆演劇っぽいですね。

山崎:そうですね、僕と松本さんの合致するところというのはそこが大きかったと思います。お互いつかこうへいが好きですから。その辺の意見はすごくあったと思います。

柴山:そこでつか戯曲はやろうと思わなかったんですね。なぜですか?

山崎:やっぱりつかこうへいに勝てるとは思ってませんでしたし、いつかはやりたいと思ってましたけど、自分で劇団を作ったからにはなるべくオリジナルをやりたいと思っていたので。

柴山:観客にはラジオ番組のファンもいらっしゃった?

山崎:いらっしゃいました。おかげさまで、お客さんは結構入ったんですよ。ラジオで宣伝ができるようになったのと、ラジオ番組が2ステージぐらい買い取ってくれたというのがあって。だから2ステージは全員リスナー用にやるという。

柴山:リスナー会は、番組内でチケットをプレゼントされたリスナーが来るということ?

山崎:そうです。局が買い取ってくださっていたので。

柴山:これもプロを目指していたんですか、「艶姿!」の時から。

山崎:いえ、この時はまだ。「空想天馬」からはプロになろうと。「艶姿!」はほんとにお祭り的に。

柴山:この時は松本さんと山崎さんと。「空想天馬」は山崎さん一人で。この時も役者さんはオーディションで集めたんですか。

山崎: RKBのスタジオ借りて、やりました。題材も過激なものをやってましたし、照明・音響も持ち込んでやっていたので、おかげさまで満席で。あんまり派手にやりすぎてですね、当時の演劇批評家からはものすごく批判的なことをよく書かれました。

柴山:「空想馬」という名前の由来は?

山崎:東京で大学時代に旗揚げしたのが「東京空想天馬団」という名前だったんですよ。2本ぐらいやったかな。それでこちらに帰ってきてピクニックに入った時に山田さんから「劇団を立ち上げても構わないけれど名前はどうするの?」と聞かれてそのままつけようとしたら「うーん、じゃぁ、『空想天馬』にしたら」と言われて。

柴山:「空想天馬」の時にはどうやって人を集めたんですか。

山崎:最初旗揚げするときは「アトリエ座」にいて行き詰った連中が僕のところに来たのでその人たちと、あとはオーディションをしました。

柴山:石川先生には報告は?

山崎:確かに石川さんにちょっと会いにくいということもありましたね。非常に悲惨なことになっていたというのもありますし、座員も先輩たちも独立して素人劇団をしていたのを見てましたし。「空想天馬」を始める時は報告してないです。

柴山:でもそれだけ福岡で活躍されていたらご存じではいたでしょうね。

山崎:喜んでくださっていたとは思うんですよ。

柴山:オーディションするときに何を基準に選ばれたんですか。

山崎:基本的には基礎のないやつ。それと素直な奴。それとビジュアルですね。

柴山:でもビジュアルって…だんだん洗練されていったりするじゃないですか。身長とか?

山崎:それもありますけど、全体のバランス。二枚目ばっかりいてもしょうがないですから。面白いやつ、松村みたいなやつはちょっと独特な…特別扱いしてました。

柴山:お稽古はどちらで?

山崎:黒木書店という本屋が持っていた2階建てのビルが七隈にあったんです。1階が音楽スタジオになっていて2階が20平米ぐらいのスペースがあって、そこを借りてました。24時間ずっと借りてました。若手を育てるための団費も月に2000円ぐらいとってました。

柴山:プロを目指していたわけですから、団員には仕事はしないでくれと言っていたんですか?

山崎:基本的にはしてほしくなかったんですけど、僕が全部生活を面倒見れるかというとできなかったんで、それはアルバイトするなり職業を持っていずれはやめるという約束でやっていたんですけど。

柴山:この時は脚本を書かれていますね。

山崎:書くしかなかったです。それまで僕は書いたことがなかった。「空想天馬」で書いたのが初めてでした。やっぱり時間かかりましたよ。僕、ゲネプロまで自分のセリフが書けなかったので。とにかく座員がかわいそうだったので、僕、ラジオをやっていたじゃないですか、12時までなんですよ、夜の。局を出るのが1時か2時なんですよ。そっから稽古場に駆けつけて、劇団員がみんな待ってるんですよ。朝4時とか5時までそこから稽古してたんで。

柴山:山崎さんも大変じゃないですか、いくら若いとはいえ。

山崎:そうですね、僕、翌朝、また朝の情報番組のレポーターでも出てたんで。だから面白かったんでしょうね。よく働きました。

柴山:それでもお芝居をやりたかったということですね。『寝盗られ宗介』の後はとても面白かったけれどまた芝居をやろうとは思わなかったとおっしゃいました。そのあとなぜ「もう一回芝居を」と思われたんでしょうか。

山崎:一番大きなのはですね、たぶん、(ラジオ番組で)中央からくるゲストを僕はホストとして受けなきゃいけないわけです。そのことにすごく違和感がありました。なぜ僕が中央からくる俳優だったりミュージシャンだったりをインタビューして受け入れなければいけないのかと。それがすごく嫌でした。

柴山:では「艶姿!」や「空想天馬」を作られた後には、そういう意味では中央からのゲストさんと対等に話せたということでしょうか。

山崎:話すというか、僕はあんまり自分の話はしなかったので…ただその…話がよくわかるようになりました。正しいとか間違ってるとか。この人は正しく演劇をやっているとか正しく音楽を作ってるとか。

柴山:姿勢ですか?

山崎:姿勢と、感性と、理論をちゃんと持っていらっしゃる方。一回目の作品ってある意味誰にでもできるっちゃできるんですよ。それを継続することにどういう神経を注いでいるかということがよく見えるようになりました。

柴山:なるほど、ではそういう意味でゲストのお話を聞く山崎さんの心持も変わったということなんですね。

山崎:変わりましたね。

柴山:「空想天馬」の作品の系統は?

山崎:若手に関しては、本公演とは別にやらせていてそれは既成の台本を。本公演に関しては僕が書いてました。

柴山:それは理由があるんですか。

山崎:まずやっぱり僕の方は信頼できる役者にしかやらせられないというのと、僕が責任を持てる範囲しかできないので。内容としては、基本的に笑って帰っていただきたい、どうしてもハッピーエンドで終わりたいということがありましたし、椅子から立ち上がれないくらい感動して帰っていただきたいという…それをベースにいつも作っていました。新劇に関しては真っ向から批判的な部分があったもんですから、あくまでもアンダーグラウンドにこだわっていましたので。いかに音楽をそこにかませるか、その作業がとても好きでした。

柴山:では音を重視していた。

山崎:重視してましたね、つかさんの影響は大きいと思います。石川さんは割と音楽を使ってたんですよ。音曲劇画芝居というのをよく書いてました。自分でつけたんだと思いますけど。

「音曲劇画芝居」という文字が見える

山崎:「空想天馬」の時はですね、飛行機の機体を登場させるんですけど…

柴山:え? 機体を、立体で?

山崎:はい、日航機墜落事故の話でしたから。

柴山:え、ハッピーエンドではないのでは…?

山崎:ええ、ただまぁ、それはいかに旅客…することの恐怖とどこまで良しとするか、僕が『寝盗られ宗介』をやっていた時に日航機が落ちたんですよ。坂本九さんとか亡くなって、4人の女性の方が生き残って。それが映像で衝撃でしたから。それをテーマに1本やりたくて、『あの夏を忘れない』という作品を潤色したんです。

柴山:舞台美術も作って?

山崎:はい、自分たちで作ってましたね。

『あの夏を忘れない』舞台 これが…
『あの夏を忘れない』舞台 こうなる…

柴山:お客さんからの反応は?

山崎:おかげさまですごく喜んでいただいて。

柴山:失礼な言い方をすれば、リスナーの方というのは山崎さんのファンで演劇を見慣れていない方も多いかもしれない。ラジオ番組回の時と、そうでないお客さんの回(ステージ)では、反応、感想も違うのかと、どうでしょう?

山崎:ラジオに関しては基本的に若い子だったものですから、すごく柔軟に評価するというか。見たこともない世界をそこで突然アホみたいに見せられて、たぶん却っておかしくなるかなというのはありましたね。いけないところに来てしまったと、たぶん彼ら/彼女らは思ったんじゃないかな、でもそれを僕はいいと思っていて、僕たち見世物小屋をやる側としてはお客さんたちにそう思ってほしいんですね。1週間後に「そうか、あれもう一度見たいな」と思われるようなものを作りたい。

柴山:「空想天馬」は何回やられたんですか。

山崎:本公演は5回ぐらいですかね。若手は3,4回です。

第2回公演『六畳間脱出物語』
第3回公演『マイ・ボーイ』

柴山:プロになれる感じはあったんですか?

山崎:すごく難しかったですね。本当にこれでプロとしてやっていけるんだろうか、果たして彼らに仕事をやめさせていいものかどうか。そこが僕がやっぱり達成できてなかったと思います。

柴山:稽古場は(団費を取るにしても)山崎さんが手出しをしていた。また会場(テアトルハカタ、キャビンホール)も小さいのでお客さんの数も、満席にしたところで到底…いろんなものを出せるような額にはなりませんね。

山崎:音響さん、照明さんからいろんなものの経費は莫大な金額になりますから。

柴山:それを個人負担されていた?

山崎:はい。でもそれをやるためにラジオをやっているところがどこかにありました。

柴山:ではその時になって初めて石川先生のこととかがわかる…というのもあったのでは。

山崎:ありましたね。だからこの人はここで苦労してたんだというのがすごく見えましたね。

<つかこうへいとの出会い>

柴山:憧れのつかこうへいさんとの出会いを教えてください。

山崎:ラジオの番組でいろんなゲストを呼ぶじゃないですか、僕の番組だけは演劇関係者、特にアンダーグラウンド系のゲストが来ると、僕も手を挙げて。いわゆるアンダーグラウンドの方がラジオの中でとくとくと語っても中高生は興味を持たないと思われていたんですよ、ところが食いつきましてね。ちょうどつかさんが復帰したときに、つかさんがゲストで来たんですよ。120分のロングインタビューを収録させてもらいました。ブースの中で二人だけでしゃべっていて、曲の間に「お前、俺のことが好きなんだろう」って言われて「はい」って。「じゃ、お前、ちょっと福岡でオーディションやりたいから手伝ってくれないか」と言われて。「わかりました」って言って、当時、『引退屋リリー』という偽美空ひばり物語を作ろうとしていたんですよ、結局それは作ってないんですけど、「女優をオーディションしたい、女子高生をとりたい。お前、ちょっと稽古に付き合ってほしい」と。1か月ぐらいですかね、番組がないときに稽古を手伝っていたんですよ。劇団の稽古場を使ってオーディションをやったりですね、若手をつかさんが直々に指導をしたりしていて、僕たちもそれを隣で見ていて、僕らもそこに登場したりしていたわけです。じゃぁ、誰をオーディションで決めたかというと、熊本と小郡の2人の17歳の女の子たち。そしてなぜか僕が受かってしまいまして。ただ僕は番組があった。ちょうど僕の番組がKBCさんと競っていてちょうどひっくり返ったぐらいでしたから僕も言い出しにくくてですね、プロデューサーに自ら実はこういう理由で僕はつかさんのもとに行きたいので番組をやめさせてもらえないでしょうかと言うと当時のプロデューサーの方が非常に良い方で僕の意見を尊重してくださって「半年待ってくれ」と。半年だけその番組を続けて派手に送り出してくれて、それでつかさんのもとに28の時に行きました。

柴山:すごいなぁ…。仕事をたたんで上京したわけですね。

山崎:でも劇団は残していったんです。だから僕はつかさんの芝居がないときは帰ってきて芝居を作ったり若手と一緒に作業をしたり、若手をつかさんの芝居に出したりすることもあったんです。

柴山:そういう意味では劇団ではまだまだ道を探っていこうとなさっていたし、役者さんたちもうまく機会があればチャンスを作ってあげたいと思っていらした。

山崎:それはありましたし、当然つかさんのところに僕が行ったとしてもこの先、果たして俳優として生きて行けるかというのがありましたからベースは残しておきたいというのがありました。

柴山:東京には福岡での仕事や成功を一切捨てて行かれたわけですよね。失礼ながら、東京では生活ができるぐらい…の?

山崎:僕はつかさんの運転手をしてましたから。部屋も用意してもらいましたし。食事に関しては、しょっちゅうつかさんと一緒にいましたからご飯を食べたり酒を飲んだり。当時、つかさんの芝居は全国興業とかロングランでやっていて、当時の小劇場のクラスでは1ステージのギャラが高かったものですから。ピクニックにも所属はしてたんで、そこからもいくばくかの給料はもらっていたので生活するにはゆとりはありました。

柴山:個人としては何の問題もなく生きていけた。その上で劇団をと思ったときに、やっぱり「空想天馬」を残しておいてとりあえずその夢はお持ちだったということだったんですね。

山崎:稽古場だけは何としても死守しておかなきゃならないと思ってました。

柴山:「空想天馬」は解散していない?

山崎:最終的にはしました。3年後かな。31か32歳ですね。

柴山:東京に行くということになった時に「空想天馬」のメンバーはどんな様子で?

山崎:ある程度、演劇熱が冷めていた連中が多かったんで。食べて生かすことができなかったんで。みんな「ああ、福岡じゃ食べていけない」というのが。

柴山:熱が冷めた…でも客席は満員だったんですよね?

山崎:僕がいるときは、ですよ。僕がいなくなってしまうと…作品を次に作るやつがいなくなってしまって。

柴山:では解散しようかと決めたのは山崎さんですよね? 劇団員の皆さんは、「仕方ないね」という形で。

山崎:はい。みんなは一般の社会で…。

柴山:80年代終わりの「空想天馬」は当時の福岡でどんな存在だったと思われます?

山崎:決して良くは思われなかったんじゃないですかね。ちょっと派手にやりすぎていたからですね。それは僕の好みもあって。横のつながりは一切僕は持たなかったので。

柴山:ああ、福岡の演劇界隈の中では浮いていた?

山崎:はい、孤立してました。いわゆるブッチさんとかアンダーグラウンドでやっていた人たちとは若干交流はあったんですけど、仕事を当時は一緒にやってたので。今でもブッチさんとは福岡に帰ってきたら会いますけどね。

 孤立してた…話が合う方がいらっしゃらないというのはあったと思います。僕はあんまり芝居の話を、酒飲んだりしていてもする方じゃないので、板の上でどう勝つかとしか思わなかったもんですから。

柴山:では飲みながら演劇論を熱く語るというようなことはなかったんですね。

山崎:苦手でした。大学時代からよくゴールデン街とか新宿西口とかに演劇人ばっかりいるところがあって、先輩によく連れて行ってもらってたんですけど、すぐけんかになったり殴り合いになったりするんですけど僕はそういうのに辟易していて。

柴山:ではご自身の演劇論というのは、つかさん、アングラ系もそうですし、本や自分で見たものの中で培っていった。

山崎;そうです、でも石川さんの影響は大きいと思います。

柴山:それは山崎さんがご自身がやられるようになってからわかった、石川さんが成し遂げることはできなかったけれども抱いていた理念、そういうことですか。

山崎:うん、それとオリジナルにこだわったこと。生涯こだわっていたというか。月に1本新作を書く人なんて今いませんよ。よく学校公演とかの営業も取られていてどうやっていたのか僕わかないので。けっこう学校回って幼稚園まで行きましたから。石川さんは自分もタレントしてましたから。だから相当、いろんなことに恨みを持ちながら頑張ってきた人だと、そういう意味では僕はすごく尊敬しています。ほとんど芝居の話はしなかったです。くだらないことばっかり言って飲んで。

柴山:それでも託したいと思われていたということは何か通じるものを山崎さんに感じていたのかもしれませんね。

山崎:かわいがっていただいたのは間違いないと思います。

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