中山喜朗さん(俳優)
*独特な味のある役者である。つかみどころがなくって、ホワホワした声と喋り方で(注:個人の感想です)、舞台に立っている彼にはペーソス――でも周りはその姿にクスッとしてしまうような――を感じるのである。こんな役者、なかなかいない。「ピロシキマン」で見た彼の姿が印象的で、一度お話を聞いてみたいと思っていた。
3回ほどゆっくりお話を聞けた。時に「俺こんなこと言っていいんかな」と一人でツッコミを入れ(でもかなり赤裸々に語る)、たまに「俺なんかは…」と卑下しつつ(でも嫌味にならない)、マイナスなことを言う時も断定はしない(だからホワホワした感じ)。舞台でのイメージに違わず、ユニークな人物らしい。必ず最後は(演劇をやっている)愛娘の話になるのもご愛敬。ともあれ、80年代の貴重な中山さんのお話をたくさんの資料と共に堪能してもらいたい。

インタビュー
中山:僕、福大なんですけど、大学のクラブって…どっかに入ればいいと思っていたら5月に入ってぱったりと勧誘がなくなって、自分から行く勇気もなくて。演劇はずっと興味はあったんですよ。ただ残念ながら高校は演劇部がなくて。大学に入っても演劇部に入りそこなって。一回、新聞広告にタレント募集とかあるじゃないですか、あれに応募したんですよ(笑)。周りはタレントめざすような目をキラキラさせた人たちがいて、ここじゃないって(笑)。20歳のころ。それで、大学デビューもしそこなったから、(本屋に行ってイエローページをめくっていたら)「演劇に興味がある方」って項目に10個ぐらい連絡先があってこれじゃないかなと。アトリエ座とか現代劇場とか青踏座とかテアトルハカタとかがあったと思います。もう40~50年前。一番上のアトリエ座の場所が平和台球場の傍でここだったら距離もいいから行けるかなという感覚で電話かけたら、ここでまた算段が違ったんですけど「もう募集は終りました」って言われて、えって思って。忘れた頃に、今度は14期生を募集しますとあって。それでとりあえず行ってみて、セリフとか歌え、とか言われて『おてもやん』を歌ったのを覚えているんですよ。平和台球場の前の3階にあって。そしたら「合格」って来て、後からわかったのはみんな合格って(笑)。「アトリエ座」は後の「夢工房」、その前は「どらん」。石川蛍さんが西南大から東京に行って東京で30ぐらいまでやって博多に帰ってきて博多で食える劇団を作ろうと。僕は全然知らなくて入った。
1期って半年ごとなんですよ。僕は7年目ぐらいかな、3カ月ぐらい肉練、発声を教えてもらって、3カ月で1つの芝居を作って卒業公演があって、卒業するとそこで劇団員になるかどうか決めるという形でした。『ブンナよ、木から下りてこい』をやったんですけど。カエルその1かなんかで、ああここでも僕はだめなのかって(笑)。
柴山:同期は何人ぐらいいたんですか。
中山:10数名…毎期それぐらいいましたよ。入ってその夏休みぐらいの時に、劇団員は少人数なんです、石川先生が「今度、劇場ができるから。西日本でこんな劇場を持っているところはないぞ」とか言われた。これが「夢工房」です。その前に卒業公演はテアトルハカタの「こもんど」(博多こもんど4.22)でやったんです。で、「今度〇日から来い」とか言われて行ったら倉庫に材木があって石川先生がハチマキ巻いて「作るぞ」って(笑)。僕なんかは分からず「劇場があるんだな」と思っていたから、「あ、造るんだ」と。というのがそれまで「こもんど」なんかはテアトルハカタが作ったけど、市民センターとかを借りてやるしかなかったから今思うと画期的なことだったとは思うんですよ。僕はそこにいまして。大学2年とか3年の時。
で、初舞台とかやっている内に、回り出したというか、「ふくおか演劇祭」というのが始まったんですよ。津田(三朗)さん、下松(勝人)さんとか。1980年代の。その時に第一回が秀巧社ホールであったんですよ。僕はそこは知らない。劇場を借りたいけど自分たちでやりたい、当時の若者。津田さんとか下松さんとか大学1,2年の(後の)松尾スズキとか。5日間、6劇団が毎日やったんですよ、「祭」と銘打って。芸工大の松田清というのが主催で。それがぶっ飛んだやつで、突っ走ってガーって巻き込んで。それに津田さん、下松さんも乗っかった。九産大も学外でやりたいねということで松尾スズキもやってきて。僕は後で聞いたんですけど、みんな素人だから、平台は動くは大変だったって。とりあえず若者のパワー、エネルギーだけでやった。その時に『魚伝説』って山崎哲の作品を津田さんがメインで、下松さんが演出したんですけど、津田さんはテントが好きだし下松さんは舞踏一族とかアングラやってたんで、水使ったりして秀巧社から怒られた。それで演劇祭の第二回は、夢工房でやった。自分たちで照明も作れて調光もできて手ごろでちょうどよかった。

第二回は、津田さんは下松さんと袂を分かって「劇団 健康相談」でやった。津田さんは僕と1,2個しか違わないのにエネルギッシュで。自分で脚本を書いた『海峡伝説』というのをガンガン石川さんに話すわけですよ。僕は「すごいなぁ」と。

石川さんというのは僕より20~30上の人だから、なんかまとまってるけど古いなぁと思ってた。で、九産大の松尾スズキグループは5,6人で来て暗ーい感じなんだけど、リハとかやったら、もう、僕にとってはぶっ飛んだ感じなんですよ、『黄金抜刀』って作品なんですけど面白くて。言葉が、ずっと最初は言葉尻をとってガンガン行って、一個も暗転なくて、最後は感動的で。石川先生と全然違う。年下の人が書く脚本で「エー」と思って。

松尾君も、後でわかるんですけど、どちらかというとGOGOタイプじゃなくて、いじめられタイプというか、頭で悶々としてそれで漫画を描いていたと。大学に入って漫画のクラブに入ろうと思ったら漫研が当時アニメに走っていたから僕はここじゃないと思って隣の暗―い演劇部に入った。福大は大学の予算があったから演劇祭に全然参加しなかった。九産貧乏演劇部は先輩が書いていて、松尾君は「面白くないなぁ」って思ったから自分で書いて。本人が言うには「それまで漫画で書いていたものを脚本にしちゃったら(できた)」。400字詰めの原稿用紙に、グワーッて書いていくんです。本当にどんどんどんどん。演劇祭を見て、僕は津田さんには憧れたけど、松尾君は「あ、中山さん」って感じで仲良くなった。僕が笑うもんだから「嬉しい」って。本当に面白かった。僕、福大じゃなくて九産大に行ってましたもん。
柴山:第二回の時、津田さんと下松さんが袂を分かったとおっしゃいましたが、下松さんはそのまま秀巧社ホールでなさったんですね。
中山:そう。ケンカ別れ…というんじゃなくて、方向性が違う、いろんな劇団も予算もちょっと増えて、自分たちの作品をやりたいと。それで津田さんも『海峡伝説』を書いて。
柴山:確認ですが、一回目は合同で一つの作品を作った?
中山:合同じゃなくて1つの劇団。それが「健康相談」ですよ。
柴山:学校が違うのに集まって?
中山:そうです、下松さんが演出で、津田さんが役者として出て、山崎哲の既成の脚本ですね。で、2度目に下松さんは「R-複合体」を夢工房で。津田さんは、「健康相談」を引き継いで自分で脚本を書いて「伝説シリーズ」、その後は『盲人伝説』を書いてます。
柴山:勝手に山崎哲の後の伝説シリーズなんですね。
中山:そうそう。もう僕もよく分からん、スゲーと思ったけど、周りの人に言わせると「ああ、状況劇場のパクリ」「唐十郎のパクリ」と。でも面白い。夢工房で水とか。もう石川先生も笑いながら。津田君っておもしろいなって感じですよ。秀巧社みたいなじゃなくて倉庫みたいなだから。でもちゃんと桟敷で客席を作りましたよ。津田さんの『海峡伝説』は上手に囲い作って子どものビニールプールを置いてこっちに便所があったから水道と繋いで上からシャワーで。最後のシーン。津田さんは顔が広いから、劇場のキャパが80ぐらいでぎゅうぎゅうなんですよ。2回公演で人があふれちゃってたから夜公演もやりましたもん。石川先生も「いいよいいよ」って。劇場の前に人がズラーっと並んで。感動してすごいなと思いましたもん。ぼくもこっちの世界に行きたいと。石川先生は「俺はすごい」とか言うけど人が来るわけじゃないし、(こっちは)うわーって人が来て、みんなが「津田がどうのこうの」って批評なんか言いながらやってるんですよ。
その当時のメンバーが、松尾の脚本面白いとか話題になる。大笑いしましたもん。『黄金抜刀』。山笠の時だったんですよね、嵐のように去っていって、僕はボーっとなるわけですよ。あれは何だったんだろうって。ちょうどその頃に石川先生も負けじと、テアトルハカタも隣にあるから「芝居横丁演劇祭」をやろうとなって。その頃、一人芝居が流行っていたんですよ、僕も松尾君のを見て感銘受けたんですよ、ああ松尾君、一人で脚本書いてと。だから30分くらいですけど自分のことを書いてこの芝居横丁演劇祭に出たんですよ。第一回。『肩書のない部屋』。

柴山:夢工房に入っていて、ふくおか演劇祭に出会う前から、石川さんの芝居は古いなと思われていた?
中山:そうですね。自分は何者でもないくせに、古臭い、いやだなと。
柴山:他の劇団、テアトルハカタとか…
中山:テアトルも古いなと思ってましたよ。野尻先生が古典みたいなのをやってるし。テアトルの役者たちも僕と同世代なのに目をキラキラさせて。よくこんなんで一生懸命やるなと、冷めた感じで(見てました)。そこに津田さん、松尾さんが出て来て、僕にとって、なんかもう、がーん。脚本って書いていいんだって。与えられて役をやることと思っていたところに、あ、書いていいんだって。同時に、松尾君を見て、書いてはいけないと。脚本を書くのは天賦の才能、逆に(凡人は)書いちゃいけないと思った。書けないと思った。石川さんと比べて全然いいと思って。石川さんの時は書けるかなと、少しですよ、思ったけど。
あふれる、すごい勢いで(松尾は)書いていた。『黄金抜刀』の初演は九産大内向けで3人ぐらいの芝居だったんです。でも松尾君の後輩が、『黄金抜刀』を読んで「なんか面白くないね」って言ったから松尾君がばっと書き換えてきた。あっという間に全然違うのを。あふれ出る才能。衝撃的でした。
柴山:石川さんと松尾さんはタイプが全然違いますからね。
中山:そう、タイプが違う。当時は、松尾は野田秀樹みたいと(言われていた)。すると松尾君が「そんなんじゃなーい」って言って、その年末に西南大と合同でやったのが『エデンの東』。今度はつかこうへいみたいなんですよ。九産大と西南大の合同公演なのに、僕もゲストで出てるんです。父と息子の話で、素敵でした。泣けました。


柴山:芸工大にいらした松田清さんという方はその後は演劇は?
中山:この人は、「万有引力」(演劇実験室◎万有引力)に行ったんですよ。ジュリアスシーザー(J・A・シーザー)の。西南大の出口容子が副委員長で、二人で演劇祭をやってるんですよ。その子は神秘的な、「神が見える」と言うような子で、だからそういうことができたのかなぁって。僕とか松尾君はそういう意味では凡人と言うか石橋を叩いて渡らないタイプと言うか。僕は、松田清なんかは演劇の才能ないと思ってたんですよ、でもなんかぶっとんで突き進んでいくんですよ。出口容子も「万有引力」に行った。彼女は「松尾スズキは才能ある」からと「松尾君書いてよ」とプッシュして『エデンの東』を書かせて、西南大と九産大の合同公演をやってるんですよ。それから松尾君も学生時代で演劇は終わりですよって就職しました。デザイナーだったかな。でも出口容子が松尾君の所に行って「あなた勿体無いわよ、才能あるんだからやんなさいよ」と言って会社を辞めさせて「大人計画」を作ったんです。だから出口容子がいなかったら「大人計画」はないんですよ。
柴山:松尾さんは、本人が動かなくても周りが放っておかない才能だったんですね…
中山:才能があるとやっぱり周りは放っておきませんよね。あと一人、僕の中で印象深い役者がいます。同級生で松尾君の『黄金抜刀』の主役をやっていた高瀬君と言うんですけど、すごい役者だったんですよ。でもその人は高校時代に別役(実)とかやっていて、松尾作品が本当に自分がやりたい物とは違ったかもしれないけど、松尾君が高瀬君を引っぱった。周りも勝手に盛り上がって、本人はそんな人じゃないんだけど松尾作品に出て。松尾君は、お父さんのことをいつも書いていたんですよ。高瀬君がお父さん役でずっと描かれていて、彼も「演劇やるぞ」と僕みたいな性格だったら東京行って成功したと思うんですよ、でも「大人計画」に入るでもなく東京に就職して、松尾君のところに遊びに行ったりもしていたんですけど、一つの脚本を書いて自殺しちゃったんですよ。だから僕が思うのは松尾に出会ったことで、やっぱり松尾の才能に敵わないという…心の中で影響されて…僕も、(東京で)やりたいけど行けない自分がいる…だと思うんですよ。そのことエッセイに松尾君も書いてましたよ。
柴山:ふくおか演劇祭は4回もあったんですか? (注:第4回のパンフにFINALと銘打たれていたが、翌年「第5回」が開かれていることが資料で分かった)
中山:ありましたよ。九産大の若いやつがやったけど…なんかだんだん萎んでいきましたよ。そのころ関わってなかった…記憶にないですね。
柴山:松尾さん、津田さんも後は関わってないんですね?
中山:関わってないですね。ちなみに「芝居横丁演劇祭」で僕が初めて書いた『肩書のない部屋』という一人芝居を松尾君が見に来てくれて「すごい面白い」と言ってくれた。それで「今度、劇団作るんですよ、入ってくれませんか」と言ってくれて。それが「劇団エクボ」。九産大のメンバーと、「大学でやると色々規制があるからできないんですよだから外で…自分でやりたいから中山さん入ってよ」と言われてすぐ入った。
柴山:その時は、まだ夢工房に所属していたんですよね?
中山:はい、ただ勝手に「エクボ」をやるって言っちゃったんですよ。さっき話した、西南大+九産大の『エデンの東』にも勝手に出たんですよ。そしたら石川先生から手紙で「クビです、除籍です」ときた(笑)。何にも言わずに勝手にそんなことやってるから仕方ないですね。
柴山:他に出るのを許さなかったんですね。
中山:許さない。当時は劇団でと言ったら、客演で云々でしょ。学生演劇はお金にもならない。夢工房はプロを目指してるから。僕はまだ学生、留年してたから。楽しけりゃいい、そういう感覚はなくて芝居は楽しいし、松尾君に誘われてやりたいやりたいで。あ、そうか、演劇祭の3回目は「劇団エクボ」として出たんだ(笑)。僕も役者として出た。夢工房をやめたから。その時はビブレホールでやりました。その後、松尾君も上京してバラバラになって。演劇祭は4回もあったかな…?
柴山:エクボは1回だけしか公演はしなかったんですか?
中山:2回やってるんですよね、『どこか、とおくへ』は演劇祭で、『B級三文オペラ』は単独公演でやりましたね。



後日談ですけど『どこか、とおくへ』は35ぐらいの時に僕の演出でやってるんですよ。松尾君に言わずに稽古を進めてから本人に承諾をとったら「あ~どうせやるなら今の新しいのをやってくださいよ、学生時代のはちょっと…」って言われてしまった。でもやっちゃいました(笑)。

もっと後日談で一昨年の話ですよ、勝手に『B級…』を人を集めてぽん(プラザホール)を借りて、そしたら松尾君にやめてくれと言われて(笑)。「(作品を自分に)くれるっていったじゃん」「大昔の口約束だから、やめて。学生時代の作品は全部、大人計画に預けてるからやめて」と。…松尾君を怒らせてそこまでしてやるのもねぇ、松尾君「だめ、だめです」とラインのやり取り。この前直接会って、謝りました(笑)。
柴山:普通、やりたいけどいいですかって事前に確認しませんか?
中山:しますよね(笑)。松尾君なら大丈夫かと。いいかげんですよね(笑)。僕としては松尾君が面白いことを言いたいと。ずっと言っていたんですけどだんだん向こうが有名になるとなんかそれの友達と言うのが気恥ずかしくなって。それまでは「すっごい面白い、才能ある」って。でももう大御所ですし。
柴山:松尾さんが上京された後、中山さんはどうなさったんですか?
中山:僕は途方に暮れるじゃないけど。お芝居で東京で食べていくほどの気持ちも才能もないし…博多で就職してのんびり趣味としてお芝居をやっていくのが合ってるかなと思いました。野心もないし。
そういえば思い出しました、2回目のふくおか演劇祭の後、『ダリダリディンドン』というのを下松さんが演出、夢野久作の原作を久松ホキトさんが脚本にしてキャバレーの跡地でやった。それを松尾君と二人で見に行きました。確かにそれはすごかった。『ドグラマグラ』をテーマにしてるんですよ。当時の芸工大の若手の精鋭たちが役者で集まって。津田さんもメインで出てるし。カリガリ博士ってすんごい役で。渡辺さんって女性ですっごい快優が水族館劇場で今でも東京でやってますけど、彼女が出て、当時の集大成。下松勝人に津田が出て、って。すっごいショッキングな芝居でした。清川にあるキャバレーの「蘇州」という。もうないですけど。ステージが張り出して、イントレ組んで、段差2つにして、その時の津田さんも良かった。怪演。ゆで卵で作った片目を津田さん演じるカリガリ博士が食べちゃうんです。びっくりしました、今でも覚えてる。この人すげえって。みんなが言うには「津田は役者に専念しろ」「津田は役者がすげえ」と。『ダリダリ』の伝説です。
あ、この作品でみんな仲たがいしたんだ。けっこう練習とか大変だったんじゃないかな、みんなバラバラになった。看板役者だった津田三朗もやめたから、下松さんに会った時に僕に白羽の矢が立った。そういう算段だったんだと思うんですよ。裏演劇の話です。
柴山:ではその作品は「仮面工房」の話ですね? 津田さんもメンバー?
中山:そうです、津田さんも仮面工房だったんです。それで『魚伝』やって、『ダリダリディンドン』やって。
松尾君も上京した後、福大の舞台を見に行った時に下松勝人がいて、「おお、中山くーん」と声を掛けられた。そこで下松さんに「仮面工房」に入らんかと言われた。『ダリダリディンドン』が良かったからまぁいっかと。でも行ったら結構真面目な人というか勉強会とかするんですよ。僕は楽しく芝居やりたいのに、うわぁいやだなって。今度はこのテーマねって、『山月記』を読んでいこうとか、難しい即興音楽を奏でたり。ここは自分の居場所じゃないと後悔したりして…。ほどなくして『熱海殺人事件』をやろうという話になったんですが、下松さんは太田省吾が好きなんですよ。太田省吾みたいな感じで『熱海』をやる? あの人が伝兵衛やって僕が熊田刑事。下松さんは全然セリフ覚えんし。
柴山:熱量のいる芝居ですしね。
中山:僕の中では、なんじゃこれは、『熱海』やったと言えないと。でもやったんですよ。日仏会館で。下松さんの知り合いがいてあそこでやったんですよ。セリフが入ってなくて。その後、勉強会とか合宿とか、もう嫌だと思ってやめないと僕はだめになると思って。辞めるにしてもどうやってやめればいいのかと。退団届をぶわーッと書いて出して。それからが大変で。今でこそ下松さん丸くなったんですけど若い時怖かったんですよ。消化不良でしたが、短い期間で「仮面工房」は後にすることにしました。
柴山:では1年ぐらい所属していたんですか。
中山:半年ぐらいかなあ。
柴山:その時はまだ学生さんだったんですか?
中山:僕は留年して、6~7年いました。その後、芸工大の演劇部で北九州でも芝居をやっていた中江君と、その彼女のミヤちゃん(今は奥さんですが)がある日僕の下宿にやってきて、今度『寿歌』やるからやってくれんかって言ってきました。中江君は、当時から学生のあいだで有名なうまい役者と評判だった。その二人に誘われた。
柴山:それでミヤちゃんと中江さんと3人で『寿歌』を。

中山:はい、「冒険王」という劇団で。第1回で。第2回は芸工の篠原保とか出た。大福悟が書いた『ゴジラ』だったかな。僕が名前だけの座長でした。高橋徹郎も出てますよ。

柴山:篠原保さんって高橋さんより上ですよね。
中山:そうそう先輩。中江君が芸工で留年とかしてたから、その辺のメンバー集めて。「冒険王」は2回で終わり。そういうのが流行り出したんです。それまではどこかの劇団に入ってないと芝居ってできないけど、劇場さえあればできるから。芸工なんて自分たちでできるから。場所さえあればできるって。雨後の筍の様に簡単に、博多での小劇団が活動し始めた走りだと思います。僕がそれまでは夢工房にいて裏方やってちょい役やって「やっぱり役者やりたいなぁ」って「次いつ出れるの」というのがあったから。そんなの嫌だったら、知りあったらやろう、ってガンガンやり始める。卒業したら東京に行ってやるかもうやめるかだった、僕はぐるぐると就職しても博多でできるなと思って、僕が言ってたのは、ゴルフとかやる感覚で週末に僕は芝居。
柴山:趣味は芝居、ですね。この話はいつごろですか。
中山:80年代の初めですね。もっと言っちゃうと最後の1992年に「健康相談」の最後の公演があるんですよ。『約束の迷宮』、津田さんが作・演出で、箱崎浜にテント貼って。僕が主役をしたんですよ。薄羽影朗という芸名で。お汐井とりの所。300人ぐらい入るテント張ってイントレ組んで。水族館劇場の主宰の彼もずっと手伝ってくれて。これで津田さん、『魚伝説』『海峡伝説』『盲人伝説』『吸血鬼』をやって。最初は毎年やったけど、4年ぐらい経ってこれが最後です。オリンピック劇団だねって言いながら。僕としては実はやりたいのよ。みんな死んじゃうから今のうちにやったら逆に面白いでしょ、70近いやつらが。


柴山: 80年代の福岡市って劇団が100ぐらいあると聞いたことがあって、そんなにあったのかと思っていたんですけど今の話を伺ってて、単発でやっていたのかと…。
中山:そうそう、やろうと思えばできるから、劇団と言っちゃえば劇団だから。
柴山:名前を付けてパッとやって
中山:そうそうそういうのが100個ぐらいあったのかもしれないですね。それまではみんな劇団なんて恐れ多くてできないってかね、それができるんだと思ったら、この作・演出が嫌だと思ったらみんな自分でやればいいと思う。その流れがどんどん来て。
柴山:なるほど。中山さんは「仮面工房」をやめた後は「冒険王」それ以外は所属されてはいないんですか。
中山:誘われたらできるようになったから役者やれればいいかと。で、35,6の時に「劇団さくら組」って言うのをやったんですよ。その時に、松尾君の『どこかとおくへ』を勝手にやって。やる前に言うと「やるなら今の作品やってよ~」と言われて、でも今の作品はやれない難しいしちょっとエロいし。
柴山:では「さくら組」は主宰なんですね? それまではフリーランスでやっていたのにどうして主宰になろうと思われたんですか。
中山:水の流れに流れるように誘われるままにやってたんですけど、それまでに「夢工房」にいた西城さんて人が「銀色のくじら」を立ち上げて2回目のころぐらいか出てよと誘われて出たんですよ。その時も出ていて、客演で出ていたばあくぅの坪内君っていたんですよ。東京行っちゃったけど。どうしても色々あるじゃないですか、もう自分たちでやった方が良いねということで、じゃあ僕が主宰でと言って。
柴山:さくら組のメンバーは?
中山:坪内(守)君と山下晶。劇団と言うか、この作品をやるためだったから。その流れで、プロデュースしてくれたんですよ、下本地(崇)君。あれ、その前に僕一人芝居やってる。中村修司って知ってます? 博多でコピーライターとかやってる。彼に脚本を頼んで、ショートショートを10本くらい作ってもらって、僕イッセー尾形が好きだったからそれっぽいのを一人芝居でやったんですよ。これもタイトルは『肩書のない部屋』です。その時に下本地君が写真とか撮ってくれたんですよ。面白い面白いと言って今度プロデュースしてよってその流れ。下本地君がプロデュースしてくれて、それで下本地君、坪内君たちとすごい仲良くなって、パブリックチャンネルを起こしたんですよ。最初は下本地が作って。どんどん大きくなって。下本地がある意味、本人が今の若いメンバーをもっと応援したいという目論見でやった。どんどん面白い人、劇団を中心に。タレント養成所と違って博多でやってるそういうメンバーを集めて。若い人をどんどん集めて、NHKとかから仕事ができて、当時、僕は40くらいになってたんですよ、上の仕事も来るけん中山さんも入っててよと言われて。そこから映画とかテレビとかちょこちょこ出て。
柴山:お仕事は別に?
中山:僕はもうサラリーマンで地道に。メインではもう才能がない、無理と思っているんで。
柴山:一人芝居の話に戻ります。中村さんに書いてもらって。それはどこでやられたんですか?
中山:劇場は夢工房でやりました。
柴山:その時石川さんは何も言わないんですか?
中山:あーそうか。でもあれから10年以上経っていたから。1回目に自分が書いた一人芝居の時(芝居横丁演劇祭にて)は「君は才能ある」と先生に言われたんですよ。…というより僕は石川先生とほとんど話したことがないんですよ。対で話すというより「この役で」なので。ただ僕は石川先生が亡くなった後も奥さんとは仲良くしてて。それで先生の追悼公演を、ブッチさんとバン(カヨコ)ちゃんと玄海椿と僕とアイドルの子を呼んでやりました。
柴山:『五番街のマリ―』を。
中山:そうそう。九大に「メインストリートの洗濯屋」っていう劇団みたいな。東(ひがし)さんという男の人と三輪哲三さんもいたのかな。その東さんとかが九大卒業して石川先生、西城さんと立ち上げたのが劇団「どらん」で。それで食っていこう、博多なんてまだまだ需要があるぞって始めたのが「どらん」なんですよ。それから「アトリエ座」になって。だから西城さんがいろんな所からイベントとってきた。僕はタダ働きで、学生だったから。声の仕事もいっぱいしたけどお金をもらうわけでもなく。で、入った時に銀之丞がいたんです。ちょうど玉川大学を出た時だったんですよ。銀之丞と松尾スズキと池田成志がタメなんですよ。繋がりないけど学年で言うと同級生。銀之丞君は「劇団鎌鼬商会」というのを作って「夢工房」で公演してるんですよ。野田秀樹の『少年狩り』をやってるんですよ。それも僕、衝撃的でした。その時、野田秀樹なんかすごいすごいと言われてたけど、銀之丞君は「いやぁ、野田は演出はだめだ」と。彼はつかこうへい派だから。確かに後で野田秀樹を見るとふわぁとなれるけどやっぱり違う演劇観があるんだなと。ただ、『少年狩り』はショッキングで、夢工房にいた若いのはみんな「ふわぁ」って「山崎く~ん」ってなって。博多でやってもう一度東京に行くぞって。福岡に戻ってきて(夢工房は)「シアターPALふくおか」に名前変えて、その時に銀之丞と仲良かった男の人を看板にしようと連れて来て、2階に住んでましたもん。で、「夢工房」になっていくんですよ。
柴山:中山さんの話に戻れば、一人芝居をやって、35.6で「さくら組」を作って、40代に入ってパブリックチャンネルに入った。
中山:他にも客演はたくさん。僕は一つの劇団にこだわりたくなくて、ずっとそうです。プロデュースで集まって。「さくら組」っていうのは、パッと集まってパッと散るようにやろうと。「アントンクルー」にも出たことありますけど、「さくら組」という肩書きは出さなくていいですよって。やる時はいつもその劇団員のつもりですって。終ったらやめるって感覚で。クラシックパレエの久保田先生のところで朗読したり、パブチャンの仕事でタレントみたいなことやったり。ある意味夢だったことを下本地君のおかげで映画とか、エキストラじゃなくてちょこっとセリフをもらったりして、よかった~と。
50ぐらいの時に「ピロシキマン」かな、大きかったのは。みかんひろしから連絡があって、こういうのをやるんですけど出てくれませんかと。親父たちがいっぱい集まってワイワイって。いいねぇ、って言ってやって。楽しくて。みかん君も唐組にいて松尾スズキ大好きという人で、年下だけど話も合うし、僕が松尾君とやっていたというと「わぁ!」って喜んで。それで「ピロシキマン」の第3回公演『現場にて』に出たんですよ。僕もずっとやってるから顔も広くて100枚ぐらいチケット売ったんですね、けっこうなセリフもあったし。「ピロシキマン」は1回目2回目をぽん(プラザ)でやってガラガラだったんですけど、それまではみかんくんに演劇仲間がいなかったのでミクシィとかで集めた素人ばっかりが出ていた。3回目はお芝居をやってるようなメンバーが集まって、客も増えて。みかんくんもそれまでは手取り足取りで「こいつ明日、稽古来るかいな」みたいな奴ばっかりだったけど、自分が何にも抱え込まなくて良くなったって言ってくれて。4回5回ってどーんどーんと観客も(増えて)。残っているメンバーはみんなもみかん君の脚本が好きで。客も喜んだからぼんぼん増えて。六本松のサイエンスホールも満杯にして。これからもっともっと客を増やすぞと稽古している時にコロナ。

柴山:コロナのせいで止まっちゃったんですね。
中山:そう。そしてみかん君に子どもが生まれて、もういいかなって。作品も決まってたんですよ。『海鳥ブギー』。・
柴山:あらら…。コロナ以降というのは、ご病気もされて…
中山:もう67でできないから。(今まで)出てるのはいっぱい出てますよ。話したのはおおまかなところです。
大きい流れで言うと、文学座なりスタニスラフスキーを取り入れて、そのあと学生が演劇をやりだして唐十郎とか寺山修司とかそういうところじゃないところでやって、肉体論とか、世の中がそういう時代だと思うんですよ。そこに集まるのが変な奴、パワーのあるやつ…。福岡はそれが遅れてやってきたのがあの時代。その頃は情報もないから。福岡の猿渡さんとかは立派な作品を作ろうとして、下松さんとかが出てきて、新しい演劇の流れができたのが80年代だったんじゃないかと思うんですよ。
柴山さんと話してあの頃のキラキラしたころを思い出しました、楽しかったです、ありがとうございました。

