*話の筋や出演者を覚えてなくても、舞台美術だけ鮮明に思い出せる芝居というものがある。この芝居のテーマからよくこんな美術が作れるなぁと感心することもある。あるいは、あまりに当たり前に作品世界が存在していて何の違和感もなくスッと入り込める芝居もある。異化効果を狙う舞台美術、作品の主張をかみ砕いて伝える舞台美術、世界観の構築に一役買う舞台美術、…舞台美術という自由なエッセンスがあるから、演劇は、より豊かなものになっていると思う。
実は、福岡にはたくさんの素晴らしい舞台美術家がいる。福岡で芝居を見たことがあるなら必ず一度はこの方々の作品を目にしているはず…! そんな第一線で活躍する彼らの話を聞きたくて座談会を開催した。いやぁ、舞台美術って、とんでもなく知的で奥深くて面白い! (…書いて気がついたけれど、素敵な舞台美術って「知的」なんだと思う) この世界の奥深さを語りつくすには時間が足りなかったが、それでも刺激的で面白い座談会になっている(奥深さにたどりついていないのに、長すぎて2回に分けての掲載…というね)。舞台の裏の主役・舞台美術家たちの話、必読です。
私、いつか舞台美術の写真展をやりたい!という野望が芽生えております。
座談会 (市岡洋・糸山義則・ぎゃお・幸田真洋・権藤智海・次山篤・中島信和)敬称略・50音順

*参加者のご了承を得て「舞台美術家」という呼称に統一させていただきました。
●自己紹介●
柴山:皆さんのお名前とどういうことをやっているのかをお話しください。
糸山:糸山です。高校演劇出身、九州大谷短大の一期生。卒業して照明の会社に入社しましたが、翌年、退社して、東京の「黒テント」に入りました。その後、福岡に戻り、会社勤めをしていましたが舞台の仕事がしたくて独立。生涯学習センター「ミリカローデン那珂川」が立ち上がるということでそこの管理をきっかけに平成5年か6年に会社「ステージクルーネットワーク」を立ち上げました。具体的に福岡の劇団と付き合い始めたのは「非・売れ線系ビーナス」です。当時、西鉄ホールで「E-1グランプリ」をやってまして、そこでいろんな劇団との交流がうまれ、個で付き合うようになり「売れ線」とは約20年になります。その間、山田恵理香さんや他の作品にも付き合いながら。「指輪ホテル」東京のカンパニーとも交流しました。現代アート的な動きが「指輪」は多かったので、空間美術というものを作るようになったと言うところですね。あと最近は「ギンギラ太陽‘S」との付き合いが10年目に突入しています。現在の肩書きは「舞監」です。でも…「黒テント」では、照明だったり音響だったり…生計は大道具系でした。福岡で劇団と付き合うようになると限られた予算の中でハイエース1台にまとめてツアーに行くみたいなことが多く、テクニカルポジションも一番弱いところを補強するという意味で何でもやってます。

市岡:65歳になります、市岡洋です。僕は、装置家だとか美術家だとか決め込んでなくて、脚本も書くし演出もやるし、時々は俳優もやって、学校で演劇講師やワークショップもしているので、どれが本業かと言われたら、ご依頼された方が選んで下さっているので、自身でどれと決めたことはないです。
演劇のことは本当に何も知らず、19歳の時に劇団テアトルハカタが運営していた俳優養成所「東京新社」に入って、男子校卒で浪人中だったので、ただただモテたい一心で(笑)。そこで、演出家の野尻敏彦先生と舞台装置家の孫福剛久先生に出会ってしまって、俳優修業しながらも、孫福先生プランの装置を作るということをずっと続けていました。劇団員になると、役者だけでなくスタッフも同時にやらないとといけない。僕はどちらかというと絵が得意な方だったので、絵が描けるんだったら大道具やれ、背景描け、美術やれって言われて、そこから15年ぐらいは孫福先生の手厳しいご指導から離れられず‥‥いつか殺してやると思いながら(笑)。でもそれが、今の僕を作ってくれました。
そこからテアトルハカタを抜けて、仲谷一志と「劇団ショーマンシップ」を創って、当初は自分の作品のためだけに装置作っていたら、テアトルハカタや知り合いの劇団からウチのも作ってくれと頼まれ、口コミで次から次へと繋がっていって、それで作業場兼倉庫を借りて、平成2年に「舞台工房ジャンクランド」を立ち上げるに至りました。
ただ、独立しても変わらず孫福先生の呪縛が取れないまま。建物の成り立ちとかを徹底的に仕込まれ、ここに柱がないとダメだとか、装置としてはこうあるべきだと言われ続けてきたので、それを基本に、ここはこうだろうということでしか作れない。先生は「転換の魔術師」とも呼ばれていました。僕も転換作品を作ることも多いので、何場面も作らないといけない時は、こんな風に装置を組んで、こう転換していこうと考えるのはとても好きです。場面が多ければ多いほど燃えてきます! あとは自身の持ち味を一つくらい入れられたらなと思いながらいつも創っています。多分僕は了見も狭いのだと思います(笑)。だから時折、中島君の創る舞台とか拝見すると、「いいデザインだなァ、やるなァ! いいセンスしてる!」と思ったりします。
芝居創りはいつも逃げ出したいぐらいハード。できれば仕事以外はあまり演劇のことを考えたくないし、僕はあんまり演劇好きじゃないのかなと思いながら(笑)、それでも何とか45年続けてこられたので、師匠や仲間たちにはすごく感謝しています。しかしながら糸山さんもおっしゃた通り、福岡の演劇事情で言えば、予算と時間との戦いに。これしかないけど、という話になっちゃうんで。そこでどこまでできるか? 劇場を長く借りられないので最短で仕込まないといけなとか。そんなことといつも向き合っている気もします。

権藤:権藤智海です。演劇はは中学高校から関わってきました。演劇サークルが面白い大学に行きたいと思っていて、当時所属していた劇団の方に色々連れていってもらった中に「舞鶴show会」がありまして、こすぎ(きょうへい)さんの劇団でしたけど、あの人は九州芸術工科大学だよと知らされて。ちょうどその大学が候補にあったので芸工大に行って、お芝居を続けました。大学在学中に高校の先輩だった日下部(信)さんと「劇団轍WaDaChi」を立ち上げたりもしました。
1996年に演劇ユニットの「U.G.Channel」を立ち上げて、小劇場夢工房で公演をしました。これが舞台美術家として認知されはじめた契機で、それから色んな劇団さんから声をかけられるようになりました。ちなみにこの名前は、今は屋号として使っています。とにかくいっぱい舞台美術をしたかったので、材料費だけで請けていたんですよ。つまりギャラは無くて。岩田屋の最上階にあった「NTT夢天神ホール」の小屋付きもしながら、さてどうしたもんかなと思っていたんですけど、舞台監督を兼任すればギャラがもらえることになって。舞台美術だけだと仕込み日だけの稼働で終わるんですけど舞台監督もやれば千穐楽までずっと劇場にいることになりますよね。当然美術のメンテナンスもできるし、舞台監督の必要性が高まっていた時勢もあってセットでギャラをもらえるようになりました。それから、舞台美術をやる以上は照明家とバトルというか意見交換をしなきゃいけないよということが妹尾河童さんの本に書いてあって、じゃぁ照明もやってみようと。美術を仕込んだ後に照明として劇場にずっといる、という形ですね。ところがなぜか舞台監督と照明の仕事だけが増えていきましたね。
2008年から大学院の研究員になって劇場・音楽堂の研究に携わり、を2012年から北九州芸術劇場に勤めました。劇場で演劇作品を作るってことを他の芸術劇場も含めてたくさんやってたんですけど、そんなことできるわけないじゃん!と思ってて、それを見たいというか学ぶつもりで行きました。実際に、中央から劇作家や演出家だけを呼んで北九州のキャストとスタッフが一緒になって作品づくりをしました。。2019年、令和になってからはあんまり何もしてないです。いったん、平成で演劇に区切りをつけたつもりなんですよ。それでもオファーを頂くことはあって、もちろんお請けしていますので、今は、舞台とは全く別のことを軸にしながら、フリーランス活動と九州産業大学での舞台美術の講師の2つで舞台に関わっています。

中島:中島信和です。1992年に九州芸術工科大学に行きました。権藤君と学科は違いますが同期です。1年目は普通にバスケ部に入って別に演劇はやってなかったんですけど、学園祭企画でイントレを建ててパフォーマンスをするという企画があって面白そうなので参加したらそこにいた演劇部の連中にそのまま引き抜かれて演劇をやるというパターンで演劇を始めました。その時に初めて「幻想舞台」の芝居を『鉄男』を連れていかれて見た時に、こんな世界が身近にあるんだとすごくびっくりしてちょっとやってみたいなと。最初の内はパフォーマーとして役者をやりながら道具もやっていたんですけど卒業する時にそれで食べていくことは不可能だったんでやめて普通にサラリーマンになりました。2年ぐらい働いていてその間にいろんなことがあって、結局自分のやりたいことをやらないとウソになるなと思って演劇の世界に戻ってきてふらふらしていたら、「クロックアップ・サイリックス」の川原さんに拾われて出演するようになって。ついでに道具もたたきだして。そのうちにちょっと大きな公演をやりたいよという話になって、道具を作る時に人手が足りないね、じゃぁ福岡で働きながら演劇をやっている道具さんを集めてチームを作ろうということになって2005年に「兄弟船」ができました。やってるうちに他の劇団から、例えば「グレコローマンスタイル」から、「そんなん作れるんだったらうちでもやってよ」と言われて、「わかりました」と手弁当でやり始めたんですけど、やってるうちに、「なんでギャラとらないの?」と言われて「じゃぁこれぐらいで」と言うと「もっと払うよ」と言われてそれでもらいはじめたらそれが基準になって、やってるうちにそれが仕事になってきた。

ぎゃお:私??? 居心地悪っ…(笑)。「劇団PA! ZOO!!」で作・演出・役者をやってますぎゃおです。1992年に旗揚げをして、69年生まれです! 「パズー」を作る前の劇団での教えが強すぎて、外注するという発想がないまま劇団を作ってるというのが一つあるのと、それと前の劇団が演出の方がセットのプランを立てていたのでそういうものなんだと思ってやり始めてるので、私が書いたり演出したものに関してはほとんど自分でデザインをして劇団員で作ってという形でやってきてます。劇団の代表「ホールサービス」さんに旗揚げ前から7年ぐらい( アルバイトで) 、私は前の劇団の時に早良市民センターのス タッフの方々に大道具のことを、二人とも怒られながら教わって、今に至ってます。なので大道具と衣装とメイクと音に関しては劇団員で回せる状況を作りながら旗揚げしている感じになってます。照明に関しても旗揚げしてから5年ぐらいは代表が教わりながら担当する公演もありました(小さい劇場などは)。ぽんプラザぐらいから照明さんは固定の方にお願いしてきました。

柴山:西鉄ホールでやったけっこう大掛かりなセットもご自分たちで?
ぎゃお:作りました。ビールームの大道具室を借りて。「風三等星」さんたちと。
次山:あの頃のビールームはすごく人気で何団体も使ってましたからね。今はもうほとんど使ってないですけど。
権藤:Max3団体。
次山:3分割して。
権藤:隣で次山さんが叩いているみたいな光景が。
ぎゃお:私の隣で広瀬君がやってる…
次山:「風三等星」が何日に出すからこっちをちょっと開けといてとか、これ要らないから使いませんかとか。
ぎゃお:「風三等星」はこの間も大道具室に入ってましたよ。うちは、どうしても作る時間が…別に仕事があるんで、今はもうほぼ劇場の物を借りて手持ちのパンチを持ってきて。後は既成のものでできるだけアレンジして。装置とも言えない、舞台セットとしか私言ってないと思うんですけど、セッティングをしてる状態で今はやってる感じですかね。
幸田:「劇団HallBrothers」の幸田真洋です。脚本を書いて演出をして役者もやるんですけど、自分の中では脚本を書くのが一番なので、ではなぜ今ここにいるんだって話があるんですけど(笑)。僕が舞台装置を作り始めたのは2019年で、最初の頃は次山さんにお願いしていました。途中から大道具をやりたいという劇団員がやってたんですけど結婚してやめちゃったんで、自分がやるしかないかなと始めた感じです。だから自分の劇団でしか作ってないです。今は、台本を書く前に舞台装置も設計してしまって、「ここでこう出て…」と考えながらの方が台本が書きやすいなと思うので、自分で作る方がやりやすいなと思ってやってます。

柴山:2階建てもご自身で作られてましたよね?
次山:3階建ても作ってましたね。
幸田:2階建ては、当時いた大道具のメンバーが信和さんに教えを乞うてそれを引き継いで。それで建て方が分かったので、3階も(笑)。
次山:次山篤と申します。信和さんと権藤さんとは同じ年です。僕は九州大学の演劇部から演劇を始めまして「特急企画」という屋号を1995年に立ち上げました。専門は7割が照明です。ほかは舞台監督とか大道具の建て込みとか。九州大学の演劇部はイントレを使ってテントを自力で建ててやる公演が多かったので、そこで舞台の建て方を覚えた感じです。卒業後は「劇団藍色りすと」に所属していてそこもスタッフがいなかったので何でもやらされて、舞台美術とか舞監とか音響をやってました。そのつながりで外部の仕事はスタートアップの劇団のフォローというのをやり始めて、大きなことをやれない、スタッフさんを全然抱えられないけど旗揚げしますという若い子たちのフォローをする。一人でも小屋付きさんと話ができる人がいると全然やり方が変わってくるので、そういう立ち位置でやることが多かったですね。美術の担当がいなければ演出さんの話を聞きながら「こういうことやったらいいんじゃない、こういうギミック作ったらいいんじゃない」みたいに図面を書いて小屋付きさんと相談して実際立て込むみたいなことをやりますし、ちゃんと美術さんがいたら照明の担当をやってましたね。そうしてお客さんが入るようになると僕のところから離れて大きな小屋に移っていくという感じになります。僕は会社員なので、どうしても限られた時間でしかみなさんのフォローができないので、例えばロングランをやるとなるとちょっと難しいし、西鉄ホールで立て込んでくれと言われても(西鉄は何回か経験はあるんですけど)キャパシティ的に難しい。もっと大きなところの方にお願いしてくださいと言って、みんな僕のところを卒業していく…(笑)。最近は年も上がってしまったので、そういうスタートアップの劇団さんとあまり知りあうことがなくなってきて。今は旗揚げから関わっている「ピロシキマン」で劇団付きスタッフをやりながら、「南無サンダー」で年に2回テントを建てて夏になるとお化け屋敷の美術品をやたら作る…そんなところで舞台美術のうっ憤を晴らしているというかそんな感じでやってます。

柴山:スタートアップの劇団のフォローと言うのは…お仕事とおっしゃいましたけどボランティア?
次山:ギャラは一応いただくんです、三役ぐらいやるんですけど一役分ぐらいのギャラはもらってはいます。
柴山:ありがとうございました。皆さんのお話を伺っていて思ったのは、予想以上に色んな事を兼任されているんですね。結局一つのところには収まらないということでしょうね。
●ロールモデルや師匠●
中島:自分の将来のモデルとなるような先人がいたかどうか確認したいですね。
市岡:間違いなく孫福先生の影響が一番大きいですね。伊藤熹朔賞もとられた先生です。
柴山:みなさんが動き出した頃に師となるような方が九州、福岡にいらっしゃったんですか。
市岡:鶴岡高先生がいらっしゃいます。不確かですが九州のスタッフ協会みたいなのがあって、照明とか音響とか、そういうのを含めた協会の会長をされてました。照明家が集まって僕が立てた美術プランにどう照明を作るかみたいなのを九州中のスタッフさんが集まってやる勉強会がありました。演出もされていました。テアトルハカタの時は鶴岡先生か孫福先生が美術をされて。
糸山:ありました、ありました。
市岡:市民会館とかで。作品名があってそのセットを簡単に組んでくれないかと(言われて)、山台をいくつか組んで、役者もついでにやってと言われてワンシーンをみんなで作ろうと。一日勉強会みたいなのを。
柴山:話を戻すと、モデルとなる方は? 先人はいらっしゃったんですか? モデルとなる方がいらっしゃらなかったから見様見真似で始めたという感じでしょうか。
中島:という感じですね。
権藤:僕は、さっきも言いましたけどこすぎさん。「舞鶴show会」で舞台美術ってものを認識したって気がします。高校生の時分に観たんですけど、高校演劇は素舞台も多いので、セットがあるというだけで刺激的でしたね。
柴山:シアターポケットですよね。天井の梁から(役者が)ぶら下がったのを覚えています(笑)。こすぎさん以外にそんなにセットを組んでやった芝居はなかったのでしょうか。
次山:「仮面工房」とか。結構立て込んでました。「健康相談」とかね。
権藤:あとは「道化」さんとか。
柴山:こすぎさんも芸工大出身でしたよね。「健康相談」は津田(三朗)さんですね。
権藤:「空想天馬」もですね。第2回公演の『マイ・ボーイ』とか。キャビンホールでめちゃくちゃ仕込んでました。
柴山:「空想天馬」の旗揚げ公演『あの夏を忘れない』が日航機墜落事故を題材にしていて、最初は普通の飛行機が後からぐしゃぐしゃになっていました。写真を見ただけですがかなりインパクトのある舞台美術でした。
権藤:舞台美術を「かっこいいな」とか「これやりたい」と思ったのが、「維新派」です。1992年に西新の地下のライブハウスに維新派がツアーで来たんですよ。めちゃくちゃ狭いところで。僕らの年代の演劇やろうぜって人はみんな「すごいね」って。
柴山:その影響も大きかったんですね。
●「立て込む」●
柴山:テアトルハカタさんなんかはかなり立て込んだ芝居でしたよね。
市岡:そうですね。これでもかというぐらい。
中島:写真見たらすごい立て込んであって、その文化が今残ってないですよね。
市岡:そうですね。ですから、自分の作品はかなり立て込みます。
権藤:一幕ものが多かったんですか?
市岡:いや、転換も。一幕ものの時は本当に細かく…なにしろ孫福先生は天井まで付けたりするんですよ。照明の先生が来て、「これ、どこに吊る?」みたいな話になって、せっかく作ったのに、屋根…お客さんから見えないように照明が入るように切ったりだとか、小道具も「鹿鳴館」ってアンティークの店から2000万円ぐらいの物を借りてきて、保険賭けて。だからもう役者は怖くて(笑)。狭い劇場でしたけど、一杯飾りの方が少なかった気がします。

保険をかけたアンティーク家具を借りた作品とは本作のこと
●装置(と舞台美術家)の役割●
柴山:ぎゃおさんと幸田さんは作品を書くときにはすでに頭の中で装置ができてるんでしょうけれど、その他の皆さんは脚本をもらって初めて舞台装置を作っていくのか、あるいは演出に相談される所から作るのか。
市岡:演出家とキャッチボールして作りますね。
中島:脚本がない時、まだ途中、プロットしかない時もありますね。
市岡:ある。プロットしかない時は、さすがにもうそれは‥‥。それで図面を描いてくれと言われて描いたらイメージが違うと言われて、その時はさすがに断りました。東京の劇団でしたけど。
中島:初めては無理ですよね。
市岡:長くやってる人だったら、「こうしたいんだけど」「じゃぁこうしたら」ってなりますけど。
柴山:好みが見えてくるってことですか?
中島:クセ。こういうセットだったらこう使うというのが見えてくるので。やっぱり最初に確認したいのは出はけ。出はけをどこにするかを決めてもらえればとりあえずプランを出します、それをたたき台にしてやっていきましょうとできるんですけど、出はけが決まらないプランを持ってこられたら、ちょっと無理ですとなります。
市岡:ラフ図をもらったりします。それをできるだけ具現化できるようにしますし、例えば東京の劇団が乗り込む際は、東京公演時の写真と図面を頂いて、福岡の劇場サイズに修正しつつ、自分のアイデアを入れる。最近は、こんなことを言ったら失礼かもしれないけれど道具を使い切れない、分かってない演出家もいます。図面見せても、サイズ感も分からない。僕らは寸尺でやってる世界だから「これは三尺で」「三尺って?」と言われると、「そこから話さないといけないか‥‥」と。
柴山:そういう人たちは「全部お任せ!」とならないんですか?
市岡:なります。でも全部お任せは困るでしょう、後から違うと言われると。だからもうエレベーションはいいか、ラフスケッチでもいい?と。平面図とサイズと。図面を描くという意味では、あんまり細かく描かなくて分かってもらえる。
柴山:図面はやっぱり皆さん絶対描くんですか?
一同:描きます。
中島:たたきをを始める前に図面を作ります。ホールの大きさに合わない図面だと使えないので。


権藤;僕は図面ってプロトコルだと思ってるんですよ。図面で会話していると思ってるんです、関係各所と。だから絶対描きますし、言葉じゃなくて図面を見て理解して「じゃぁこういう風に投げ返そうか」ということがよくあると思います。
柴山:…! ちょっと感動しました。将棋で、プロ棋士たちが指し手で会話するって言うじゃないですか、あれと同じ…?
権藤:はい、それです。一方で「吐きそうな」図面が来ることがあって。何にも整理されてなくてやりたいことも見えない。
柴山:それは芝居もつまらなさそう。
権藤:いや…それはそうですね。
一同:(笑)
柴山:それは美術家からアドバイスをすることはあるんですか。
権藤:お互いのポジションによるんですけど、図面を見てやりたいことを汲み取るじゃないですか、こっちはもっといい手を知ってるから「こういうことをやりたいんでしょ」と言葉じゃなくて図面で返すと仲良くなれる。
次山:僕は図面も描きますけど、スタートアップの方たちで、空間を作り切れてない人たちが来るから、「こっちの下手側は何の部屋ですか」って聞いた時に答えられなかったりする。脚本を書く方はもちろん下手側の部屋はこういう台所で…みたいな設定があると思うんですけど、そういう設定がない人たちもいて。見えてないところの方が役者として空間を生きる上で大事だと思っていて、そこの問いかけはしますね。「これはどういう設定」「どういうお家なのこれは」「1階なの、2階なの、アパートなの」そういったことはよく訊きます。
中島:凹凸…ですよね。ノぺーッとした空間、パネル立ててるだけだったらあんまり表現にならないんですよね。でも凹凸があったらエリアがわかるし場所によって見え方が変わるとか、そういうものができてやっと舞台空間なので。
権藤:どういう書割を描きますという話になるじゃないですか。
中島:どういう扉の絵を描くかじゃなくて、扉がどの位置にあって、どういう関係性、距離感があるか。そういう部分が空間を説明するのにとても生きてくる。それをどうするかというやりとりをしますね。
柴山:逆に言えばそれがクリアになっていない演出だと芝居が立ちあげられない気もします。
権藤:人による話ですけど…キーワード1個だけしか言ってこない演出家とか。後はお前やってみろ、みたいな。
柴山:それは…挑戦ですか(笑)。
権藤:挑戦ですね。「万歳(南河内万歳一座)」の内藤(裕敬)さんなんですけど。キーワード1個言って「今回はこれで行ってくれ」みたいな。「背景に洗濯物をバーッと吊ってくれ」だけ、がありましたね。「後はお前が好きに考えていいから」と。
一同:えー。
権藤:僕がデザインして来たものに対しては「これでいこう」と。「袖だけこう作って」と。「今回は駅舎の待合室で行こう。後はやってくれ」もありました。内藤さんに関しては受け止めていただける演出家。こっちがやりたいことをやっても。

柴山:それは楽しい…腕が鳴るかも。
●福岡っぽい舞台とは/「組んだ」作品とは●
柴山:みなさんが、「これは!」と唸った舞台作品があれば教えてください。
中島:パッと思い浮かぶのは、甘棠館(show劇場)だったかな、アクリル板を並べて中に砂を敷き詰めたのがありましたよね。天井が低いところ。リバレインかもしれない。あれは、自分はやらないけどすごくデザインされた舞台装置だなと今でも思い出します。2009年12月 劇団爆走蝸牛 第5回公演『砂の楽園』(作:宮沢章夫[遊園地再生事業団]、演出:中嶋さと)だったと思います。アントンクルーの岩井先生が出てたんじゃないかな。

糸山:なんかあったね…
中島:なんか、福岡っぽくない装置だったので。
柴山:お、それ面白い。「福岡っぽい装置」って何ですか。
一同:(笑)
権藤:圧倒的に素舞台だと思います。
中島:日常っぽい…装置かな。日常を切り取った。
幸田:どうでしょう、僕が見てる演劇ってことかもしれないけど、あまり組まない演劇が福岡っぽいかな。組んでる方が珍しい。僕の印象だと。
権藤:そんなに世代は違わないのに印象が違うんだね。
中島:「セコンドユニット」とか「あなピ(あなピグモ捕獲団)」とか、組んでないわけじゃないけど…
権藤:「セコンド」は組んでるから。
中島:組んでるけど、空間を埋める型じゃない。
権藤:僕が美術と照明兼任で参加した作品2つは組みまくってたよ。回によるんじゃないかな。
柴山:「組んでる」という言葉の意味も違ってそうですね。
権藤:そうですよね。
幸田:僕は家みたいなのはすごいと思います。お客さんが来た時に「お」と思うから。
権藤:物量がすごい。
幸田:そう、僕がそうだからかもしれないけど基本みんなお金がないし技術もないので簡単なことしかできない(笑)。台本も一幕物よりどんどん場所が変わっていく方が書きやすい。だから物量が少なくなりやすい。
権藤:僕が「組んでる」というのは物量もありますけど、プロセ形式(プロセニアム形式)だとしてぜんぶ画角の中が設計されている。なんでも使っていいよという空間がポンとあったりはない。意味がある風に空間を区切ったり大道具小道具背景も含めてね、そこまで含めて設計されているものが立て込んでる、って感じです。素舞台でもものすっごい立て込んでるなっていうものがあるんです。見切れのこととかも、あえて何もないとか。黒も漏れがないみたいな、あえて「素」を作ってるのを見るとちゃんと設計されてるなと思います。
柴山:要するにきちんとしたプランを描いていることが「立て込む」という意味ですか。
権藤:そうですね。

次山:僕は自分がやる時はすごく物量で押してしまうので。幸田さんの考えに近いかもしれないです。圧倒的に見た時に「わ!」と思わせるような視界を全部埋めたい感じですね。どこの劇場でも。
権藤:糸山さんにお伺いしたいことがあって。ぽんプラザで、山田恵理香さんの演出作品なんですけど。冒頭で役者3名が背を合わせて始まるお芝居があったんですよね。その後周りを機関車? レールが敷いてあってグルグル回る…あれの美術のアプローチとしては、山田さんから来たのか糸山さんから来たのか。(※権藤注:記憶が曖昧だったので調べました。福岡市文化芸術振興財団FFACプロデュース公演『何もしない冬』美術は関西の西田氏が演出家の山田恵理香と打合せをして、イメージ絵コンテを貰い、舞台美術を作成しています。資料は保管されておらず、写真の入手はできませんでした。)
糸山:山田からキーワードが出てきて、そのキーワードを具現化するのにトロッコ列車を作った。
権藤:トロッコ列車のオーダーが来たわけじゃなくて糸山さんが咀嚼してこれでと提案した?
糸山:そう。枕木がいっぱい…焦がしたのと色塗ったのがいっぱい。全部やると大変だから目に見えるところは焦がして、見えないところはペンキでごまかして、レールはきちんと鉄工屋で作って。
権藤:客席も3か所か4か所ぐらい、アリーナみたいな状態のはさみこみの客席でしたね。
糸山:トロッコと合わせて真ん中に回るお立ち台もあって。クルッと回る。ぽんプラザです。あれは財団プロデュースである程度、予算が出たんでいっぱい作り物したけど普通じゃできないです。(山田さんの)出身が「空間再生GIGA」だから劇場に拘らない。劇場に拘らない演出家だから。劇場スタッフとのキャッチボールが難しい。すべてイメージです。。僕が黒テントにいたというのがあって、劇場じゃない空間でやっていたから、「たぶんこうなんじゃないかな」と僕なりに訳した。キャッチボールができるとすごく進む。
市岡:そうですね、いつまでも。僕も(山田さんと)3回ぐらいお付き合いしたことがある。普通ここまでギリギリまで創るかなぁと。「骨の山の上に家が建っていたい。それも壊れた家」と。アメリカ演劇で、台本読んでも正直理解に苦しむ‥‥。骨をどうするか?連日朝から晩まで、スチロールで骨を作ってたんですけど、こんなんじゃ終わらんぜと、そこら辺の木を切ってきてそれを白に塗って。それもなくなったからボイド管買ってきて。
一同:(笑)
市岡:もういろんな「骨」を。
権藤:いろんな骨で良かったんですね。人骨じゃなくても。
市岡:そう、最初は人骨が良かろうと思って一本一本。でも、「まだ欲しい、まだ欲しい」と言われて。これじゃ間に合わん! あとはもうパンチ敷いてボコボコにして汚せばいいと思ったけど「歩くたびに骨の音が」と言いだして…結局、劇団員も手伝ってくれて、ずーっとひたすら皆で骨を作ってました。
柴山:演出の言うことってどこまで聞かないといけないんですか。
市岡:ああ、でも、ここからゲネやらないと時間的に無理よと言うところまではやりますよ。でもそこまでやっていいのか僕も分からないし。ちゃんと場当たりさせてあげないと。それでも、こだわりがあるでしょうから、できるだけやってあげたいし‥‥。
ぎゃお:私は、『薮原検校』という作品で、帯…布…を組みひもみたいにしてそれだけで下げたり走らせたりして、女郎屋の時には格子状に区切ったり、蛇のようにできたり。あれは市民劇場で高校生の時に見て。ストーリーよりその絵面がすごくて。舞台の大道具って…と。私も高校演劇出身なんで大道具だと思って「大道具すごい」って思って。あれはいまだに思い出します。検校の頭が落ちてきて。びくっとして。それと一緒になまめかしい色の肌襦袢の組みひもがザッと降りてきて、何とも言えない妖艶な、妖しい感じのでもの悲しいシーンであのお顔が出てくるというのはドキッとして。でも全く関係ない芝居をしてますけど。朝倉摂さんの舞台本を買ってただただ眺めてました。
権藤:僕も買いましたよ、高校生の頃。朝倉摂か高田一郎か、それか妹尾河童か、でした。
ぎゃお:ただ見てるだけなんですけど。あとは「現代劇場」さんのシェイクスピアもののいくつかを見る機会があって。私、KBCで美術をしていて、入社当初、局員が絵画を描かれている方だったんですけど「現代劇場」の美術をしていて。
柴山:田副(正武)さんですね。
ぎゃお:はい、「作りに行くから来い」と言われて。私、壁の汚しはそこで教わったんです。こういう風にして作るんだよって。それで何回か仕事終わりに通って、いろんなこと教わって。それをお手伝いして(現代劇場の)『十二夜』を見に行ってすげえって思って見てました。ももちパレスかな。宮殿みたいな。盆でもなんでもないのに照明と何かの角度が変わるだけで場所が変わるとか、柱が出てくるだけで場所が変わるとか、それがとても素敵で。まぁできないんですけど。だから感銘を受けるのはコメディじゃないんですよ。
幸田:僕はいくつかありますけど、福岡以外で言うと「ポツドール」。「ポツドール」は全部衝撃を受けたんですけど、あんなリアルな装置は作りたいなと。福岡で言うとガラパの初演の『ひとんちで騒ぐな』、あれは信和さん。こんな建てるんだ、福岡で、と。だから僕も作ろうと。あとは今みたいに一幕物のお芝居をする前は次山さんにお願いしていて、今見てもかっこいいと思うんですけど、タイルみたいなパネルが背景、天井にも敷き詰められていて、映像を写したり、照明を当てたりする。場面で表情を変えるから。
次山:『スパイラル・モンキーズ』ですね。

幸田:「映像を使いたい」「近未来」「かっこいい感じ」みたいなことを伝えてそれを全部形にしてもらって。全然僕にはないアイデアなのですごいなあと思って。今でも僕はこういう抽象的なのは苦手なので、そういうのができる人はすごいなぁと。
次山:僕はパッとは思いつかないですね。見ていて鳥肌が立つことはあるんですけど…
糸山:僕は…日生劇場の劇団四季『かもめ』とか万有引力の『奴婢訓』とか、そういうのはインパクトがありますよね。あと青年座とか俳優座とか若干付き合いがあって河童さんの大道具も見ていたことはあります。
市岡:最近見た中では『千と千尋の神隠し』は素晴らしいと思いましたね。セットもなんですけど、出ている役者さんたちがみんなで転換したじゃないですか、僕らの若いころも自分たちで転換してたので、転換する作法みたいなのがやっぱりあって、時間がある時はいちいち黒子に着替えて出て行ってました。役者が転換する時はこういう作法でみたいなことまで言われて。これ(『千と千尋の神隠し』)は海外の演出家なのにすごいなぁと思って。歌舞伎の手法も取り入れられていたでしょう、例えばあの龍に乗るところ、普通はフライングはワイヤー使うよねってところも人力だったし。よく本当にできたセットと、それに合った演出。すばらしかったですね。『レ・ミゼラブル』なんかもどんどん演出が変わってくるし映像が入って来る。博多座のスタッフと話すと「俺は前の方がイイ」とか、例えばジャベールが橋から落ちるシーン、役者がもがきながら落ちる時に橋が上がっていく。あの呼吸とかは網元さんが頑張ってやってらっしゃるんだろうなと思うけど、今は映像。見た目は今の方がすごいんだけど、スタッフが頑張ってるのは前の方がすごいよなと。


