古賀今日子さん(俳優/ファシリテーター)
*元気でハツラツとした俳優さん! というのが多くの人が持つ「こがきょ」の印象だろう。お芝居をやってる時も、着物で八っつぁん(落語)をやっている時もいいけれど、私が気になっていたのはファシリテーターとしての彼女である。参加者とフラットな関係を築いていることや、「面白がり(楽しみ上手)」なところを垣間見ていたからだ。決定打となったのは、私がやっている子どもたちの文章表現教室の同窓会で、17の作品を抜粋して繋げて大きなリーディング(芝居)作品に仕立ててくれたのが彼女だったと知った時(出演は月光亭落語会)。これねぇ、一回公演、しかも観客が同窓会出席者60名ぐらいだけだった…のがもったいない出来だったのですよ。この構成力、そして「徹底的に楽しめる」ことを念頭に置いて作ったんだなということが伝わってきて、それでワークショップのファシリテーターとして、彼女に話を聞きたいと思ったのだ。「みんなで」楽しみたいという器の大きさや、自分をごまかさずさらけだせる強さと素直さ、それが彼女の強みなのだと痛感したインタビュ―でした。

インタビュー
柴山:お芝居をいつから始めたのか教えてください。
古賀:始めたのは中学生だったんですけど、その前に子ども劇場とか演劇を見せてもらえる環境がありました。父が岩田屋で販売促進の所にいたので、ちらしの子供服モデルを社員の子供たちがやってて。私も撮影に借りだされてたので、人前に出て何かやるという世界も身近ではあった。だけど自分が演劇やるとはあんまり思ってなかったです。中学校の時に初めて演劇部の部活紹介を見て、いつも客席で見ていたあれをやる人たちがいるんだーと思って。春吉中学校は全校生徒600人ぐらいで60人くらい演劇部在籍みたいな、かなりの人気部活だったんです。あの仲間に入りたい、男役やって生徒会もやる人気者の先輩としゃべってみたいなと思って、そこから30何年やめられてないっていう。最初は役者をやるかどうかも考えてなくて。でも最初にちょい役でその憧れの先輩の家族の役、セリフ3個ぐらいのやつをやらせてもらって。やっぱり面白いって思って。中学の時は本当に夢中でした。
中学校三年間でもうすっかり楽しみ尽くしたから高校になったら違うことをやろうって思っていたのに中学校の時の先輩が私の前に立ちはだかって「新入生歓迎公演にお前も出るんだ」って部室に連行された。で、新入生なのに新入生歓迎に(笑)。でも中学と違って高校の演劇部は横のつながりができるから他の高校の友達とも出会えて、こんなに演劇をやってる人がいっぱいいるんだっていうことも嬉しくて。
その頃夏季ゼミの講師だった「幻想舞台」の高橋(徹郎)さんとかが稽古場に遊びに来てくれたりして、大人になっても演劇をやめてない人たちがたくさんいるっていうことにも気づいた。すごく憧れてた「幻想舞台」の冨永成子さんが「今日子ちゃん、演劇を続けたかったらね、こういう方法があるよ」って教えてくれたのが大谷(短大)だったんです。それで大谷に行きました。
柴山:中高は基本的に役者をされてたってこと?
古賀:そうですね。中高とも役者でした。やっぱり出るのが楽しかったし、セリフ言うのが面白かったし、演じるのにはまってたというのが一番。
柴山:書く、演出する、ことには興味がなかったんですか。
古賀:そっちは全然興味なかった。大谷に入ってからも、役者をやりたかったです。
ああ、でも…実は私、演劇で卒業してないんですよ、大谷を。国文学科演劇放送コースっていう名前で、2年時に演劇ゼミか放送ゼミかどちらかを決めなきゃいけない。その時に私、演劇じゃないかもって思って。今になって考えると、演劇オンリーというか、舞台に立つだけで生きていくことを昔っから信じてなかった。それが今、社会教育を勉強してみようかなと思ったところにも繋がっている気がします。放送コースでは言葉のことや社会情勢を知る授業が受けられたんですね。演劇は学校じゃなくてもやれるからと、生意気にも思って。
柴山:では放送ゼミでの勉強は、今の古賀さんにプラスになっている?
古賀:なってる…気がします。WSとかをやる時に「表現することが社会と繋がっている」という気持ちでいられている。私、「ギンギラ太陽’S」もドキュメンタリー劇だと思ってましたし。エンタメという印象があるし、「あれは演劇じゃないでしょう」とう言われたこともあったんだけど、自分が演じている役の後ろには、本当にそこで働いている沢山の人々がいる、その人たちを演じてるんだと思ってやっていましたし、その人たちが客席で泣いたり笑ったりしてくれることが誇らしかった。この町で働くあなたの物語を演じさせてもらってると思ってました。何しろうちの父が岩田屋の人だから、ギンギラの流通戦争ものは私の家族の物語でもあったし。そこに楽しさを感じていたので、今、WSで街づくりとか地域とかに着目してプログラムを考えることにすごく興味があるんです。私たちが一生懸命生きてる日々が「物語になる」ということに。
私は「役者だ」とずっと思っていたけど、劇場で舞台に立つ以外の…もう少し違う角度の興味が、自覚していなかったけど大谷で放送ゼミを選んだ時からあったのかもしれない。ま、後から考えると。ですけど。
柴山:私がやっている「作家のじかん」(ちょっと変わった文章表現教室)の同窓会の時に、17の作品を古賀さんがリーディングの構成してくださったんですよね。構成もするんだと知って。
古賀:あ、だからさっきの質問で、「書かないんですか」と聞いたんですね?
柴山:そうそう。書くというより…演出的な能力かなと。WSも構成能力が必要だと思っていて。今そういう活動をされているから、元々関心がおありだったのかと思って質問したんです。
古賀:構成をやり始めたのは、完全にファシリテーターの勉強を始めてからです。WSを作る中でそのことを…やらなきゃならない局面に立たされたって感じで。でも割とセンス良かったんじゃないかな、最初から(笑)。(福岡市文化芸術振興)財団がファシリテーター養成講座を始めた時に、私は一期生のメンバーには入ってなかったんです。地元の演劇人で演劇教育とかWSを作れる人を育てるっていうのが財団の方針だったので、演出家や劇作家が、演劇を使ってWSを展開していくイメージだったんじゃないかなと思います。だから役者は優先度が低かったんだと思います。その時、私は26歳だったんですけど、人生に迷ってて。30になった時に何もできない人間でいることが不安だった。そもそも演劇だけで生きていけるなんて信じられてないもんで(笑)。母がお花の仕事をしていたので…つぶしがきくようにと思ってフラワー装飾技能士という資格を取りました。でもしばらくは演劇を続けるから、実務経験がないと花に戻った時にきっとバカにされちゃうと思ってドイツに行ったんですよ。お金がなかったから、当時ギンギラが仲良くさせてもらってた「あんみつ姫」の博多レビューで一ヶ月客演して、そのギャラで。ひと夏だったんですけど。一度演劇とは違うアートの理論を学んだ経験は本当に良かったし、森の中でいろんなもの作って…自分に合ってました。
帰国した時にちょうどファシリテーター養成講座1期生の成果発表みたいなのがあってて。「GIGA」の山田(恵理香)さんとか「village80%」の(高山)力造くんとかがいたかな。発表がものすごく面白くて。終わったあと一緒に飲みに行ったんですけど「私も入れてくれ!」って「庄屋」で泣きながら「私だって演劇が好きなのに!」と。あまりにもうるせえから、その後財団の人がねじ込んで…1.5期生として追加で仲間にいれてくれました(笑)。粘り勝ちですね…あの時の講座は本当に感謝しています。最高の教育を受けさせてらいました。
柴山:まず確認したいんですが、短大を卒業した後は?
古賀:試しに就職活動はしてみたんですよ。でも就職先が演劇をやめることを条件にしてたのもあって、親に内緒で勝手に辞退の手紙を書いちゃった。さすがに怒られましたけど。でもやっぱり演劇をもう少しやりたかったから「4大行ったと思ってあと2年!」って。
卒業して初めて出たのは「劇団轍WaDaChi」。その稽古でPAPIOのロビーにいたら、「P.T.STAGEDOOR 」の蛯原さんがきて「ギンギラ出ない?」って。高校生の頃から「幻想舞台」の皆さんには可愛がってもらってたので「いいんですかー!」と。ちょうど若手の元気が良い女の子キャラを探してたそうで。当時照明やってた荒巻さんが、「こがきょがいいんじゃない」って言ったのがきっかけだったと後日聞いた。その場で決まってあれよあれよと言う間にドームのスポーツバーでデビューして、そのまま14年かぶりました。
柴山:その頃もうすでに有名だったんですか。
古賀:有名だった…みんなと知り合いではあった。短大の時、演劇は学外でやってたんです。高校演劇の同期の幸田君(劇団HallBrothers主宰)とかと「L.H.Theater」を作ったし、そこに「西日本俳優協会」の人たちが見にきてくれたり、「幻想舞台」の人たちも高校の時から相談にのってもらったり、よくしていただいていたし…福岡演劇界の仲間に入ってるつもりにはなってました。
柴山:ではご両親に2年間の猶予期間を頂いて、その間に「ギンギラ太陽’S」に出るようになった。
古賀:そうです。ギンギラで逃げ切ったって感じです。うちのお父さんもギンギラは好きだったから。スポーツ屋台は岩田屋の敷地内でやってたから一緒に見てたし。父は本当にギンギラの活動はめちゃくちゃ応援してくれていて。毎回来てくれて、ついには岩田屋の周年にギンギラを呼んでくれて。ギンギラに出会えたことは幸せだったなと、あれがなかったらこんなに長く続けてなかったと思います。
柴山:ギンギラに出ている間は他の劇団にはお出になってましたか?
古賀:出てましたね。「ギンギラは芝居じゃない」って言われたことにすごく負けん気が発動してて。何に出たら、演劇をやってると思ってもらえるのかなと思ってた。だからGIGAとかに出してもらってね。山田さんの作品は、しっかり戦わせてくれる場所と思えるし、向き合ってもらえる喜びがあった。同時期にGIGAとギンギラ両方出てるって振り幅が大きいけど。そこも楽しんでました。好きでした、どっちも。GIGAでは最初は大谷のやつで…宮本研先生の…
柴山:『花いちもんめ』かな?
古賀:はい。私は演劇コースで卒業してないからという引け目があって大谷から逃げ回ってたから…。でもGIGAの女優で大谷の先輩でもあった宮原清美が「大谷の卒業生だけで作ることになったから出ろ」と強引に引っ張ってくれて、おかげでたくさんの出会いがありました。最終的にフィリピンで公演することになったんですけど、最初にやろうとしていた劇場から変更があって、実際に上演したのがファシリテーター養成講座で講師として招聘されてたPETA(フィリピン教育演劇協会)の劇場! これは、ご縁を感じました。
柴山:『花いちもんめ』は2009年だから…養成講座のすぐ後ですね。
古賀:WSに関しては、ずっと修行の身。自分の弱点に向き合う時間でした。自分の言葉で喋れない。言語化をする能力が低い。…テンションだけ高いけど(笑)色んな事を勉強させてもらったし、叩き直されたし。世田谷パブリックシアターの学芸の人たちががっつり何年も粘り強くものすごい時間かけてくれた。青春だったなと思います。2003年からスタートして。
柴山:2~3年かけて。役者としての古賀さんにとってどんなフィードバックがあったんでしょうか。
古賀:言語化すること。「わたしの演劇は何か」を自分の言葉で話せるようになること。それを諦めずに考え続ける粘り強さを教わったと思っています。言われたことをそのままやるのが役者と思ってたけど、演劇の面白さって本番で舞台に立っている時間だけじゃないですよね。創作の途中の…いろいろ試したり、言葉の意味を話し合ったり。その、途中の部分の面白さは、もっといろんな人が体験できるものなんじゃないかと思って。そこをわかちあえるようになったら、「演劇」の幅は広がる。もっと身近なものになったらいいのにって。ファシリテーター養成講座で、たくさんの現場を実際に体験させてもらう中で、これは誰かのためになるという確信を得たんです。それで私やめないかれもしれないなと思えた。演劇というものの捉え方が大きくなったし。演劇を続けていくというのが、演劇人同士、演劇の外側に居る人達とも繋がりながらやっていくものだと思えるようになったし、そう言えるようになった。そういう風に考えられるようになったことで出会えた人たちもたくさんいて。
柴山:PETAの人たちはファシリテーター養成講座で知り合ったんですね。
古賀:財団の人たちが私たちに与えてくれた大きな二本柱が一つは世田谷パブリックシアターがアウトリーチに行っている、その手法を演劇百貨店の柏木陽さんがすごいエネルギーで全力で教えてくれるって感じで。もう一つはPETA。フィリピンの教育演劇というのがあるというのは元々聞いていて、その時に財団に最初にいらっしゃった佐野さんがPETAに留学されててPETAを福岡に呼びたいという思いもがあってファシリテーター養成講座を始めたと聞きました。フィリピンのメンバーが福岡にやってきて、理論的なレクチャーも受けたし、アシスタントとして現場に同行させてくれて。小学校とか。障がいがある子たちを対象としたWSとか。その中で彼らが演劇を使って人を繋いでいく様子を目の当たりにした衝撃は今でも残ってます。あと作品も作ったかな。PETAのメンバーと養成講座のみんなで作って上演しました。その時、メインの講師として来てあったのがPETAのファシリテーターのアーニークロマさん。私たちはティトアーニーと呼んでたけど。もう…神様みたいで。すっごく素敵な方でした。その人のWSを見た時に「私はもうこの仕事を辞めないかもしれない」と思ったくらい影響を受けました。
柴山:そこで出会って、後に『花いちもんめ』をやった時に再会したのがその方だったんですね。
古賀:そう! 劇場がPETAだよって聞いた時は嬉しかったー。フィリピンに着いて事務所に真っ先に挨拶に行ったら、私が来るって知らなかったから「何でいるの?」「今日子がいる! マイフレンドだよ!」ってみんなに紹介してくれた。こんな形でまた会えるとは。作品も見てもらえたし、幸せでした。
柴山:ファシリテーターという仕事がご自身にとって大きな柱になっていったんですね。さて20代後半から、役者としては…ケカ(che carino! che carina!)など…
古賀:『フローズンビーチ』からだから…。1999年ですね。それこそ「L.H.Theatre」で酒瀬川真世と一緒にやっていて。年は私がひとつ上です、ずっと仲は良かった。草野千裕も高校の一個下の後輩で。彼女と三人で…「胡同(ふーとん)」ってラーメン屋で遊んでた仲間?って感じで。「ふーとん」っていうのはあの頃の我々カルチャーの中心にあったラーメン屋。ほんとにラーメン屋から稽古に行ってラーメン屋に帰ってたんです。演劇の人と音楽の人とのたまり場みたいになっていて。春吉に今でもありますよ。今は夜はちゃんと閉めるようになってるけど、あの頃は夜中2時ぐらいに電話があって「こがきょ、今日来ないの?」って。シャッターが5センチくらい開いていたら「入っていいよ」って合図で。変な時間でしたね。音楽の人たちがキッチンライブって言ってお客さんがいなくなった厨房の中でライブやってたり、詩の朗読会をやるからおいでよと言われて夜中に行ったり。ここで、ほんとにいろんな人と出会いました。20代後半ですね。だから「L.H.Theater」をやめてからも酒瀬川たちとは付かず離れずずっと一緒にいたんです。面白い本があると言って『フローズンビーチ』を見つけてきて。で、上演することに。
イムズの『すべての犬は天国へ行く』が最後かな。あ、ふーとんに集まってた人たちって、カフェウィークとかやってた仲間たちで。今もカフェソネスで「テアトルソネス」とか落語とかやってるクロキカオリが仕掛け人で。秀巧社でオムニバスコントライブ「ハルノワルダクミ」もやりました。ケカと、グレコローマンスタイルと、東京からエッヘ。秀巧社のあのカッコイイ扉を開けて、ロビーのところが劇場になっていて、ソネスがドリンクを出して。あの頃いろんな所のカフェで小さい遊びをたくさんやってた…ギンギラはでかくてやれないんだけどケカは遊び上手で。今でも関係が続いているのは有難いことですねー。

柴山:その後、ファシリテーターの講座を受けたんですよね。講座終了後はどうしたんですか。
古賀:しばらく柏木(陽)さんのアシスタントで小学校に連れていってもらっていました。モデル校として手を挙げてくれた学校にけっこう長い期間行かせてもらって。勉強させてもらいましたねー。で、だんだん自分たちがメインで進行をとるようになっていって。講座履修生がその後増えたのでチームも増えました。「学校に演劇が入ってくとはどういうことだろう」という目線も持ちながら、先生たちも含めて場を作っていく感じだったかな。あと、夏休みに「Acting!」という公募型のWSを外でやってました、そこでは財団で学んだ演劇人が、それぞれのアーティスト性、演劇観みたいなものをベースにオリジナルのWSプログラムを作成して挑む。ちょっと腕試しみたいな場になっていて。進行を担当する演劇人がチームとなって、WSを作る為に演劇観を戦わせる。刺激的な夏の一大イベントでした。地獄のようにしんどく、最高に楽しかった。で、私はすごく恵まれていたんですけど後半になって「こがきょと一緒に考えようシリーズ」を財団が企画で考えてくれて。これは「こがきょが今気になっていることを演劇のWSにしてみんなと一緒に考えてみよう」というもの。その後何年かやらせてもらって。
柴山:その対象は?
古賀:大人対象だったと思います。最初の年は「暗闇WS」。友達が暗闇でご飯を食べるイベントに行って。暗い中でご飯食べたらすごく面白くて、知らない人と喋りながら食べて、最後、電気をつけた時に初めて顔を見て…その後二次会行っちゃったって言ってるのを聞いて。暗い中でご飯食べるだけでそんなに仲良くなれるなら、暗い中で演劇やったらもっと仲良くなれるだろうなーと。それとか婚活とか。適齢期だったので「演劇で婚活を考えよう。結婚ってした方がいいんですか」っていうWS(笑)。みんなでウソなんだけど婚姻届け書いてみる、どこで書くか考えるとか、プロポーズのドラマを作るとか。その時に自分が「みんなと考えてみたいこと…これかな」と見つけたテーマで1本プログラム作ってやってみる。結局私はそれが一番好きだった。向いてたんだなと思って。小学校でのWSは少ししんどかったかな…。学校の枠組みの中でやることってちょっと難しいなと思うことも多くて、小学生にも先生にもわかってもらう言葉を見つけるってものすごい訓練になったなと思いますけど。まあ、今に繋がっているのは「こがきょと一緒に考えよう」の流れでしょうね。社会と繋がっていきたい、演劇はもう持ってるから、私が外に出かけていくことで出会いの場所を広げていくやり方が一番好きだったんだろうなと。財団の体制が変わって、だんだん財団から独り立ちして自分なりに現場を開拓していくうちに、自分が好きな現場でいっぱいって感じに…なってきました。
柴山:それは自分が企画して?
古賀:というよりは、選んで、かなあ。いろいろしんどくてちょっとWS無理と思った時期があって、これからも続けるんだったら一回本当にやりたいスタイルを見つけて、それをちゃんとやろう、じゃないとエネルギーをとられすぎて自分が疲弊していくかもって。そのタイミングで運よく、めっちゃフリーダムな仕事が宮崎からボンと来たんです。
「10才のひとり旅」という合宿型のWS。宮崎の山の中の施設に10才から12才の子どもたちが1人旅しながら集まって、そこで美術家と太鼓の奏者と演劇の人がめいっぱい考えたアートのWSで遊び倒す。

柴山:面白そう。それは宮崎の行政が企画を?
古賀:宮崎の「木城えほんの郷」という施設の人気企画です。タイミング的に、ギンギラも辞めて、小学校のWSも減らし始めて、その年父が亡くなって。いろんなことがなくなっていく中でどう続けていくか考えてた時でしたね。ギンギラやってたら空くはずのないイベント三昧の夏が、ぽっかり空いたんです。その時に美術家の宮田君平がそのWSに誘ってくれて。行ったら10日ぐらい帰って来られないんですよ。その場所が本当にすごくて。解き放たれる。こんなに自由で楽しくて子どもたちが幸せそうで。演劇にこんなことができるんだと思ったら、涙が出るほど幸せで。これだ!こっちだ!と思って。理想郷でした。そこから「10才のひとり旅」を毎年夏にやって、10年やって卒業したんですけど、その後もあの場所で授かった魂みたいなものはずっと続いていて。自由で、怖くなくて、平等で…という表現の場所。学校の外で、学校のルールからはみ出したやつらと遊ぼうと。そんなふうに思っていたら、だんだん「ちょっと変なWSは、こがきょに相談したらいいんじゃない?」という感じで、好みの仕事が引き寄せられてくるようになりました。古墳で演劇作りませんかとか(笑)。ちょっとヘンテコだけどあの人なら面白がるやろう、みたいな。
柴山:「10才のひとり旅」を10年で卒業されたのはどうしてなんですか。
古賀:私たちは一生続けてもいいなと思っていたんですけど、村長が、黒木郁朝さんという版画家の方で。私の「髭のおじいちゃん」ジャンルの中で世界で一番好き、つまりはサンタクロースより好きなんですけど、その村長が、10年で終わりだと決めていたようです。夏のWSには「10才になったら一人でおいで」というコンセプトがあって、子どもたちが10才になったタイミングで一人で新しい世界に出会う。大人のはじまりの旅。だから「(ファシリテーターの)お前たちも10年やってきたんだから、次の旅に!」と送り出された…。いやー、ショックでしたけど、でも実際やめて数年経った今、郁朝さんも引退されて新しい時代が始まっていて、必然だったかなと受け入れてます。
宮崎の本当に豊かな自然の中のWSは、私にとっては聖地です。だから、「こんな場所福岡では絶対作れない!」って言ってたら「じゃあ、福岡の子どもたちはどうするんだ、お前が森みたいな場所を街の中に作らないといかんのやないか」と言われて。今年で終わりと告げられた時に「作れってことかー、自分で」って。お前は自分の現場をそろそろ作れと言ってもらったんだと思う、ことにしよう(笑)。

柴山:それで始めたのが?
古賀:「海によりみち×演劇にあつまる」というWSです。森の中みたいな日常と違う空間の中で演劇がやれる場所が欲しいなと思っていたので、今宿の海のすぐそばに建っているいい感じの松原公民館で毎年やるようになって。


柴山:それはいつから?
古賀:社会教育士をとった年。民間の社会教育士のチームを作って「noraの会」という名前で、何かやる時に一緒にやろうと。その人たちと立ち上げたのがこのWSです。ギンギラやめてぽっかり空いた夏を「10才のひとり旅」で埋めて、それが終わった夏がぽっかり空いたから勉強しようと思って社会教育士の講習を受けて。1カ月勉強してその時出会った仲間と「10才のひとり旅」に代わる私の聖域を作った。今3年目。今年も助成金が取れたのでやれるようになって。
柴山:どんなことをしているんですか?
古賀:入口はコミュニケーションのWSです。海に集まって自己紹介から始まって遊んで少しずつ身体表現のWSを重ねていって。絶対海に行くんですよ。詩を作るWSとかも昨年はやった。去年から3つの時間に分けて実施してます。1つは朝活WS、朝、海に行って、深呼吸して作品をちょっとだけ作って午後からまた一日頑張れる。2つ目は夕暮れの海のWS。それと2days、これは2日かけてたっぷり演劇作りも楽しむ一番ゆったりできるWS。公民館、目の前にある神社、海、その3か所から好きなロケ地を選んで、その場所で生まれた物語を演劇にして。出来た作品をみんなで散歩しながらお互いに鑑賞する。窓を全部開け放ってやってるから地域の人たちも「何やってるの?」って覗いてくれて。すっごく雰囲気がいいんです。えほんの郷の郁朝さんにいつも言われてたのが「予感と余韻に包まれたひとかたまりの大きな時間を過ごすことだよ」って。「都会の人間は何時から何時って切り刻んで生きてるから。できるだけ長く。一緒に過ごす時間だけじゃなくて、その前の時間、その後の時間を含めて、大きな時間を一緒に」。私も普段は切り刻まれっぱなしなのでこの時間の過ごし方自体が非日常だった。だから、海のWSも、ぼんやり考える時間を出来る限り長めにとりたい。昼休みも1時間じゃちょっと足りない、ごはん食べた人から勝手に海に行ったり昼寝したり好きに過ごしていい時間があって欲しいなあと。

1年目は不登校の子達がメインで学校に居場所がない子たちがのんびりできるところを作ろうというのがスタートでした。財団のステップアップの助成金を取って。2年目は取れなかったんですよ。でもこういうのは継続しないと意味ないから手弁当でやろうということになって。その代わり幅を広げて少しでも人を多く呼んでたくさんの人に知ってもらおうと「10才から100才までどうぞ」というWSにしたら結局4才から80代くらいのみんなで演劇を作った。今年は「こども未来基金」の助成金になったから子どもが対象。でも、昨年は近所のマダムたちが「女優になるのが夢だったの」とか言ってけっこう来てくれたから、今年はだめって言いにくいし、大人も来れる企画どっかでやるかなあ…とか。だんだんあそこがたまり場になってきてて。1年目からずっと来ている参加者がもう大学生になって福岡を離れてるけどそれでも来たいと言ってくれてるからサポートスタッフとして帰って来れる仕組みを作れたし、去年幅を広げたおかげで演劇人がけっこう関わってくれたので、その人たちをガサッと仲間に。繋がりを大事に細々と続けていきたいと思ってますね。
柴山:古賀さんがやっている「yum yumu cheese!」の作品『いきたひと』の内容と、今伺ったWS活動の親和性が高いなと思いました。『いきたひと』は人の一生を描いていて、人が生きているということ自体が自然の一部であるということ…

古賀:そうなの…だから宮崎というのが私には大きかったんだろうな。WSという面では「木城えほんの郷」と出会ったことは私にとっては大きなこと。宮崎といえば、もう一つあるのが、永山さん。メディキットでやったプロデュース公演の企画「かぼちゃといもがら物語」に呼んでもらったことも大きなことでした。『神舞の庭』という作品で。1カ月ぐらい宮崎に滞在して創作するんですけど。その時に宮崎の演劇の作り方にちょっとショックを受けて。博多の「祭じゃ」みたいなワーッと作ってワーッと飲んでワーッと忘れる、山笠みたいな演劇、それも好きなんですけど、宮崎で…「なんてちゃんと作るんだ」「なんて私の根っこはぐらぐらなんだ」ってカルチャーショックで。稽古場で宮崎の俳優さんたちと過ごして、ホテルに帰って自分の顔を鏡で見た時に「なんて博多っ子の顔をしてるんだ、私は。わーダメだー」と。宮崎の人の役をいただいてたから尚更ね。なんか、全然違うんだなと思っちゃって。時間をかけること、長く生きていくこと、繋いでいくということ、そうやって暮らしている、生き方が演劇の差として出るんだ。と。しかも神楽の話だったのでこの脈々と…
柴山:時間が違う。
古賀:そう、時間の流れが全然違うということにショックを受けましたね。郁朝さんの「予感と余韻だよ」という言葉が繋がった。自分の中に無かったもののような気がして、魅力的に映った。忘れられない創作の思い出です。
コロナでいろんなことができなくなった時に、「yum yum cheese!」という劇団を作ったんですね。演劇ができなくなったことにめちゃくちゃ怒ってて、私。他にやることないから(笑)で、熊本で松岡優子が「オリンピックはやるんかーい!」ってやっぱりブチぎれてて。「つらいよ、演劇やれなくてさ」「こんなに会えないんだったら近くにいなくたって関係ないじゃん、福岡と熊本で作品を作ろう」ってzoom飲みしながら話して。そこに大阪で世を憂いていたののあざみも一緒にやろうということになって。同じ思いの仲間が別の街にいるというだけで勇気が出てきた。そのタイミングで永山さんがひょっこり電話をくれたんですよ。で、私が「劇団作りましたよ」と話したらその場で「じゃあ俺が書くよ」と言ってくれたんです。事件ですよ! これは! それで3人で話して「別の街にいる私たちが一緒に稽古できなくても創作出来るように。それぞれの街で一個ずつの一人芝居を作りたい。一緒に上演できたら一人の物語に見えるけど、別々でも上演できるようにしてほしい。作品を大事に育てていって、誰に何を言われても私にはこの作品があるから役者ですと言えるようにしたいから。次に今回のコロナの時みたいに、全部の劇場が閉まっちゃっても出来るように、椅子が3つあったらできる作品にしてほしい。そして私たちが80才になるまでやれる作品にしてほしい、一生演劇やるから。この3つの条件で書いてください」って。そしたら「え、おれ3本書くの!?」って、永山さんを困らせましたね(笑)。でも、書いてくれた。素晴らしい本。


宮崎の長く続いている時間の深さにあの時すごく憧れたんだと思うんです。何か起こった時「不要不急」なんていわれてささっと切られちゃう、それがあまりに悲しかったから。わたしも続けられるものが欲しいと思った、かなー。で、昔から…いつか演出を受けたいと願っていた和田喜夫さんにえいや!とお願いしたんです。作、演出、2人へのオファーは一世一代の贅沢だったと思います。
柴山:それが『いきたひと』ですね。代表作になりましたね。もちろんギンギラやその他の公演も大事な作品ですが、古賀さんの芯になる部分としてこの作品がある気がします。
古賀:それが、もしかしたらコロナになってよかったことかもしれない。
柴山:やっぱりファシリテーター養成講座で学んで、学校に入ってやることで自分とは相いれないものに「違う」と感じて、「10才のひとりたび」で余白や時間というものに意識が向いて…そういうのが全部積み重なって…『いきたひと』に繋がったのだろうなと思いました。
古賀:そうだったんだ、そうなんだ…!(笑)
柴山:古賀さんが役者さんというのは誰もが知っていることですが、最初に私が取材をお願いした時に書いたように、ファシリテーターとしての話を聞きたくて。耳が聞こえない方へのWSも…
古賀:あれ最高なんですよ、めっちゃ面白い。あれも降ってわいたもので、私から始めた物語ではなくてですね、ぽんプラザがそういう企画を立てたけれど誰とやったらいいかわからない、こがきょなら面白がるんじゃないかって。「本当に何も決まってなくて…」と話が来た。できるかなと怖かったけど。面白いですね。
柴山:あれは耳が聞こえない人と目が見えない人と…
古賀:「いろんなきこえかた いろんなつたえかた」という聴覚のWSと、「いろんなみえかたに出会う いろんな表現に出会う」という視覚のWS。その2本柱。でも去年、合同でやったんですよ、一日。今年から来年まで合同で小さい作品を作る計画なんですけど、本格始動の前に、「出会う」というのを試しにやった。とにかく会ったら分かることもあるだろうと。それぞれのWSはとてもうまくいってたので…信頼関係は構築されていたし。でもその日、出会った瞬間、円になって見えない人・聞こえない人・手話できる人・出来ない人…とバラバラで座ってて、さすがに、これどうしようかって。で、「ついにこの日がやってきましたね!」って言うと全員が「うぇーい!」(笑)。すごい盛り上がり。その勢いで一日で小さい演劇作ったんですよ。ごちゃまぜのメンバーで。こんな場面に出くわしちゃうからWSやめられないって思った。いやさすがに…私の頭の中だけでは想像もつかないことがたくさん起きて。興奮しましたね、あの日は。

先にスタートを切ったのは「きこえかた」のWS。それなりに苦労したんですけど、小さく小さく積み重ねて面白くなってきたところで、新規に「みえかた」のWSが始まった。修行ですよね…違うじゃないですか、条件が。見えないけど聞こえる場と、聞こえないけど見える場では。どちらものプログラムを同時期に作成しなきゃならないんだけど、さすがに頭が切り替わらなくて、苦労しました。自分なりに一生懸命考えて挑んだんですけど、進行していく内にどうしても「お互いに作ったものを見てみましょう」と言いたくなる。で、ハッと「視覚のWSだった」って。自分でブレーキをかけて。…みんなWS自体は楽しくやってくれてそれはよかったんですけど、私が言葉をうまく出せなくなっちゃって。「見る」という言葉を勝手に封じ込めて、言い換えたり…本当に言いたいことを遠回りしながら…。随分切れ味が悪い進行になちゃって。反省しました。悔しくて。

次のWSは1週間後。何かヒントが欲しくてその間見えない方の書かれた本とか、映画を調べて突破口になる言葉を探して、でもうまくいかなくて。結局、私がビビってるだけなんだなと思った。正直に聞いてみるしかないなって。「前回のWSのあと、私はみんなのことが知りたくていっぱい本を読んだり映画を見たりした。なんでかというとこないだ『見る』という言葉を使いたくなくて、迷っちゃったってことがあったので。でも、先週のプログラムに『真っ暗演劇』があったでしょう?真っ暗の中でチーム分けして、真っ暗の中で演劇作って、真っ暗のままで上演するという…。すごく盛り上がったけど、その時『家族で蛍を見に行く』という作品を作ったチームがあったよね。あの蛍の場面がすっごくきれいだったなぁって。でもよくよく考えたら私それを目で見てないんよ。声だけで上演されたその場面を、頭で想像してただけだった。それで、目で見ることだけを『見る』だと思い込んでいたのかもなって。見るって、もっと広い意味でも使うのかも。だから、みんなに訊きたいんだけどみんなは『見る』って言葉を使う? それってどういう時に使う? 私がみんなに『見よう』って言うことっていや? 私はもう目で見ることだけが『見る』ではないと分かったから見るという言葉を使いたいなと思ってるけどどう?」って言ったら、けっこうみんなあっけらかんと「私『テレビ見る』って言うよ。見えないんだけどね」「お風呂の湯加減みるって言うよ?」って。「じゃぁ『見る』って言っていい? 私?」「いいよ」って。そのWSの最後に「みんなで海を見に行く」って言う演劇を作ったんですよ。
見えない人たちが聞こえない人たちと圧倒的に違うのがみんなで歌を歌えるということ。聖子ちゃんファンの人がいたのもあって、最後にみんなで『赤いスイートピー』を歌いました。歌の最後、ラストシーンで、スイートピーの花ビラをパーッとまく演出を入れることにして。目で見えない人もいるけど、ふわふわと花びらが触れるのは分かるでしょう、これは赤いスイートピーだから赤とピンクのひらひらが入っていて、これを投げるときには後ろの幕を水色のきれいな海の色に変えていて、歌い終わった時にみんなで一斉にこれを上に撒いたら海にスイートピーの花がバァッて広がったように見える。そんなラストシーンを作るからね。みんなで海を感じましょうねと。盛り上がりましたよ、「いいねー‼」って。そしたら本番で、誰かが間違えて関係ないところでバァッと花びら撒いて二毛作みたいになった(笑)。
柴山:(笑)。でも素敵なWS。
古賀:見えないんだけど、誰かが「あれ、思ってるのと違うタイミングで花びらまいた人がいるぞ」と気づくわけ。で、WSなんて、何度も稽古してるわけじゃないから不安になって「え、今?」って自分も花びらまいちゃう人もいて。近くの人が「今じゃない!」ってその人の手を押さえて止めたりしてて(笑)。
その…静かな場面で起こったみんなの大慌てがおっかしくって。みんなで笑いそうになるのを必死で堪えて。終演後、あの時何が起きていたかというのをそれぞれの視点からしゃべるのがまた面白くて。その時のこと、私たちの中では「スイートピーの狂い咲き事件」と呼ばれてる(笑)。いや、サイコーでした。こういうWSを作る時、やっぱり…当事者じゃないからわからないこと、傷つけてしまわないかと足がすくむことは、あるから。それをちゃんと、腹わって言おうと。その方が絶対うまくいくから。このときのみえかたのWSは、「見る」という言葉の意味を捉えなおす事が出来て、すごく大事な体験になりましたね。

それと「きこえかた」WSで何年かやった人たちから、「今年から一年かけてこがきょと一緒に作品を作りたい。助成金取れたら来てくれる?」って言われて。
柴山:どこからですか?
古賀:「ろう劇団博多」です。WSにずっと参加してくれてたんです。でもそれはぽんプラザの企画に参加している形だったから、自分たちの活動にこがきょを呼びたいと言ってくれたのでびっくりしました。「私、演出家でもないし作品も書かんし、WSはやるけど作品は作らんのよ」と言ったら「だけどあのWSのやり方で作りたいんだ」って。劇団には聞こえる人も聞こえない人も子どもも大人もいて、「こがきょのWSのやり方だったらその場にいる人全員が、絶対参加出来るように作れるからそれがいいなと思ってる、一緒にやってほしい」と。なんと助成金取れちゃって。今一緒にやってる。年明け公演やるんですよ。
手話でセリフをやりとりすると、手が空いてないと語れない。そしてやっぱり見えてないと伝わらない…いや、当たり前なんだけど。「後ろから声をかける」とか「両手に荷物を持ったまま喋る」とかあるじゃないですか。でもそれは使えない。でも、劇団のみんなは「後ろから声かけるのは気付かないから、セリフが終わったら前から合図を出そうか?」とか、アイディアを出してくれるんですよ。その場ではそんなプランで一旦先に進んで。でもやっぱそれじゃあなあ…と。演劇って、嘘だから…だからこそ、役者のあなたの身体が嘘だとダメだと思って…
柴山:なるほど、きっかけ芝居じゃなくて…
古賀:そう。『ろう劇団博多』の俳優たちが、自分たちで作品を作っていることが素敵なのに、聞こえているフリをさせていいんかな…その嘘は嫌だな…と家に帰ってすっごく思って。で、翌日、「この前の芝居、変えていい?」って。「後ろで喋って気づかないって分かってるんだから前まで出て喋ろう、だってそれが普通だよ、聞かせたいんだもん。だったらできるじゃんね。」って相談して。「私がまた変なこと言ったら教えて。そっちの表現の方がカッコいいから、嘘でも聞こえてるフリの演技して欲しいとか一ミリも思ってないの、みんながコミュニケーション取れるやり方で作りたいから。」って。ある時、劇団のきこえない俳優さんに、「あなたが演じてる役の人は、聞こえる人なのかな、聞こえない人なのかな、あの世界の登場人物たちって聞こえてるのかな? ろう劇団で作品作る時って、そのへん、どういうルールでやってるの?」って聞いたら「考えたことないかも…聞こえてないかもしれないですね」って。ろう劇団としても、劇団の作品に聞こえる演出をつけたことが初めてで。やっぱりなんかお互いに刺激にはなってるだろうなとは思います。
柴山:そうか…嘘でありたくないってことですね、対面していることに。
古賀:あなたが嘘をついてほしくないって思ったんです、無性に。今、障がいと共に生きる方たちとWSでいっぱいで合わせてもらって、毎回うーんと悩んで「見るって言っていいのかな、この人たちに見るふりをさせるのが嫌だ」「この嘘は傲慢な気がする」とか、いちいち引っかかりながら、それを一つずつ語り合って、解消していく内に気づくんですよ、「あ、私演劇で嘘をつきたくない人なんだな」って。発見させてもらってるというか。そうなると『いきたひと』なんかは圧倒的にほんとしかない。改めてありがたい作品に会わせてもらえたなと。
柴山:それができる人というのはなかなかいないと思います。わかったふりしちゃうし、作品にすると思った瞬間にきれいに作りたい欲求に…
古賀:そうなんです…ダサいですよね…それをやりたくない、できるだけ。
柴山:気づかず先に行ってしまってふり返って戻って、また行ってふり返って戻って…を繰り返すことができる…自分に疑問を持つことができる素直さをお持ちだから、だから信用してもらえるんですね。
古賀:偏屈なところがあるんですよ(笑)そのまま進めばいいのに。でもそこが持ち味。野田さんの舞台(野田MAP『華氏−320°』)で色々な立場から色んな意見がばーっと語られてるのが目に入って。自分も傷つけてしまわないだろうか、と不安になって相談してたら、「ろう劇団博多」のレオ君が「それでもこがきょは分かんないと思ったらちゃんと立ち止まってくれるから、話してくれるでしょ、だから大丈夫だよ。一人であなたが決めてるわけじゃない、僕たち一緒にやってるから大丈夫です」と言ってくれた。すごくいい劇団の環境。感謝してます。沢山の事に気付かせてもらってるし、ますます演劇を好きになってるし。
柴山:でもそれは古賀さんがさらけ出せるから、ですね。
古賀:それしか、ないもんね、もう。分からない事も、不安なことも、先にさらけ出す作戦。見て見ぬふりしない覚悟っすねえー。劇団のみんなも、ちゃんと言ってくれるし。出来ないことも、こうやったら出来るかも、ってアイディアも、どんどん。
大事なことだったんだな、「ちょっと待てよ」ということ、誠実に、なるべく、ですね。あ、だから…今年劇団に参加すると決まった瞬間に、今年の手話奉仕員養成講座を受けることにしたんです。今年はずっとその講座に通っていて。少しでも自分の力で彼らの言葉を理解して、例えば…「その芝居いいね」という時、通訳さんの力を借りずに自分の言葉で伝えられた方が絶対良いなって。間違える時もあるけど。間違えたらみんなが教えてくれるし。果敢にやってます。カッコ悪い、できない、を人に見せるのが怖くなくなったのは年を取ったからかな…でも若いころからWSの修業中に、それをさせられていたのかも、「自分の言葉で話せ」「お前の演劇とは何なんだ!」とか問われ続けたことが、カッコつけてる余裕なんかゼロだったから。WSが育ててくれたということかなと思います。素敵なものに出会えたなと思ってます。
柴山:ありがとうございます。お芝居の話よりもWSの話ばかり伺いましたが…
古賀:大丈夫。劇が上手なのは知ってるだろうから(笑)

