2026年8月30日(日)13:00~ @久留米シティプラザ Cボックス
対象作品:『火曜日はスーパーへ』鴎座ひとり舞台 作:エマニュエル・ダルレ(訳:石井恵)、演出:佐藤信、出演:龍 昇
*2016年から福岡、小倉、久留米などにおいて不定期に「シアターカフェ」を開催してきた。シアターカフェとは、観劇した後に有志の観客(10名程度)でお茶を飲みながら、見たばかりの作品について語るというものだ。作品の役者・劇作家・演出家が参加してくれることも多く、毎回かなりの盛り上がりを見せる。
*今回は一般観客の有志による(いつも通りの)シアターカフェを初日に、そして二日目に初の試みとして演劇関係者によるシアターカフェを開催した。演劇関係者だけで開いた理由は、トランスジェンダーの役を演じるということ、その表象の在り方を、演劇を作る側だからこそ考える(語り合う)必要があるのではないかと考えたからだ。思った以上に、話は「演劇」という枠を超えて広がり、刺激的だった。カフェの中で「プロセスが大切」という話が出てきたが、こうやって語り合うことで、知見を広め認識を新たにし考えるきっかけをもらうことができる…やはり観劇後のこの時間も含めて「芝居を味わうプロセス」だなと感じる。本作をご覧になっていない方も、是非一読していただきたい。

●演劇関係者シアターカフェを開催する経緯
柴山:今回は久留米シティプラザさんから、本作が「トランスジェンダーの女性を扱った芝居」ということでセンシティブな問題でもあるので、宣伝の仕方も含めてどのように扱うかとご相談を受けていました。その時に懸念されていた一つが、「シスジェンダーの俳優がトランスジェンダーの役を演じることをどのように考えるべきなのか」ということだったので、通常とは別に演劇関係者のみのシアターカフェも実施することになったというわけです。誰が演じるのがいいか(べきなのか)、どうやって演じるのか、ステレオタイプの表象の問題もあって、演じる側ならではの視点で深まる話もあるだろうと思ったからです。
ただ久留米シティプラザさんが事前に実施した本作の映像を見る試映会とその後の座談会、そして昨日の通常のシアターカフェでも「トランスジェンダーの人をシスジェンダー男性が演じること」については議論に上がりませんでした。その意味では取り越し苦労だったのかもしれませんが、こうやって演劇関係者だけで話す機会を持てたことはとても嬉しく思います。
●自己紹介と感想

マッスィー:福岡市を拠点に「PUYEY」という演劇的パフォーマンスユニットで活動しています。主に俳優と音楽を作っています。再来週に自分も一人芝居を俳優としてやるので何か盗めるのではないかと思ってきました。
柴山:何か盗めました?
マッスィー:あ…それは言わない…(笑)
おかざき:久留米大学附設高校で演劇部の顧問をして実際に自分も台本を書いてます。試映会から実は参加させていただいて、ビデオ見て衝撃的な最後を見て「オオー!」となって、今日見てまた「オオー」となったところです。

けちゃ:私はマッスィーと一緒に「PUYEY」をやっていて私は劇作と演出と俳優をしています。一人芝居を盗みに(笑)…最小の表現がとても観客に与える影響…一人芝居なので情報が少ないのでどうしても伝えたくなってしまうんですけど、そこが龍さんの抑えた演技に圧倒されました。面白かったです。
こがきょ:福岡で俳優をしています。あと演劇のWSなどをしています。一人芝居を私も、長く…1個の作品を上演し続けるというという企画を数年前からやっていて、一人で語るお芝居というものにとても興味があってきました。とても素晴らしかったです。トランスジェンダーのことはそんなに気にせず見たんですけど、年を重ねてそれでも自分が娘のままでいること、そのなんとも苦しいような気持ちで見ました。明日私の母が誕生日で母を温泉に連れていこうと思っていて(笑)、そんなこととか色々考えてしまって。「演劇を見た」より忘れられない人に出会った感じがしていて面白かったです。
しんぺいちゃん:俳優やってます。昔は福岡の方で「シアターポケット」という芝居小屋で「クレイジーボーイズ」という劇団をやってて、その後はそこの芝居小屋が取り壊しになったので客演でやって、一人芝居もやってみたいなと思いながらもなかなかできなかったので講談を神田紅さんに習いながら一人の活動をやってまして。一人芝居について感じたのは、結局、人間の五感は限られているので、それを超えたところで音響とか色々な物を見せられてもあふれてどっぷり入れない。でも今日のお芝居を見て、五感にすごく刺激を受けるという気がしました。
むら:福岡市で「Fourteen Plus 14+」という劇団をしたりあとは僕も一人芝居をしているので興味があってふらりと来たんですが、入り口でまきさんにつかまって参加しました。一言で言うと「やりたいな」と思いました。俳優として見ると。
こがきょ:私、後ろから見てて「むら、やりそうだな」と思った。
ひとみ:京都芸術大学の舞台芸術学科の芸術コースの1回生で劇の勉強を始めたところです。一人芝居を見るのが初めてで、こういう風になるんだと思いながら見てました。面白かったです。
よしえ:福岡市内で役者として…以前は劇団に所属していたんですが、フリーでいろんな所に客演させて頂いたり、「月光亭落語会」という名前で落語のユニットを作って活動したりしています。感想としては自分も今ちょうど月に1~2回、それこそ福岡市内から北九州ですから…ちょっと電車に乗って日帰りできる距離で母のところに行って一緒に買い物に行ったりお裁縫やったりという時間を作るようにしていて。その自分と重なる部分を感じながら、ただその平和な部分と娘としての孤独な部分とか、全く違う衝撃的な最後…などが印象に残りました。
としこ:芝居を…病気をして6~7年休んでましたけど…私、龍さんとあまり年齢が変わらないんですけど、私は龍さんみたいにセリフがもう覚えられないなというのがありまして、語り芝居とかそういうものがやりたいなと思っていました。ただ今は、「ニコちゃんの会」という体の不自由な人たちの芝居をやる団体で、車いすの彼らの演技に「天の声」といって声だけを出すというのをやらせてもらいまして、人とかかわってやるのは面白いなというのを思い出しました。今日は一人芝居を見せていただいて、最初に感じたのはなんでこんなに脱力して…スーッと入って来られてスーッとやられるので…お父さんと娘の変わり目がスーッと…でもちゃんと伝わってくるのがすごいなと思いました。私も年齢とか身体のことをあまり気にしすぎないでできることをやっていきたいなと思いました。
●一人芝居ということ
柴山:どうやら皆さん、「一人芝居」ということに主に関心が向いたようですね。盗みに来た人も(笑)、励まされた人もいたようですし。
マッスィー:一人で担うという、シンプルにセリフが抜けても誰も回収してくれない、一人で立つというのは、全部自分で処理しなきゃいけないという恐怖があるなと思って。今日も出てきた時にけっこう平熱でする、こっちにガーンと来ない芝居だなと最初は思ったんです。これ、60分見れるのかなと。でも作品の内容的には淡々と進めることが後半に効いてくるんだなと思いました。ラストの殺されるところも現実ってそうだよなと、何の前触れもなく起こる、劇的じゃないことが現実に起こるということがそのまま出されているなと感じたのでそこがすごく面白いなと思いました。
柴山:起伏が…割と淡々とやられてましたよね。
むら:一人芝居だから当然なんですけどちょっと落語っぽいなと思ったんですよ。地の部分というかト書きじゃないですけど、セリフじゃないところというかキャラクターのまま喋ってる感じがあって。マリーがベースとして喋ってるのでマリーがマリーの感じで地のところをやるのは分かるんですけれども、お父さんはお父さんの声みたいに地のところである感じがしたので、自分だったらもっとパキパキ分けるなと思って見てたんですよ。それが最後にああいうエンディング、これは死んだマリーのモノローグだと思った時になるほどなと解釈をしたんです。そこはもっときっとドラマティックにしようと思えば演出としてできるんだろうけど、あえてそうしないし、ありのままにマリーが喋ってそれを受け手側にゆだねるという形なんだろうなと終わりまで見て思いました。見ている時は「自分だったらもっと演じ方をパキパキ分けちゃうな」と思いました。
ひとみ:割と淡々とされていたという話ですけど、私もそういう印象を受けたんです。(他の)トランスジェンダーやマイノリティの作品を見ている時に、本当に全然違う世界、劇的にエンタメに描いているのが多いなという印象だったので、すごい普通のテンションで…そういう風に描く作品が増えたらいいのになと思いました。
よしえ:むらが「落語っぽい」と言ったけど、自分は落語をやるんで逆に落語とは違うんだなと。落語は積極的にお客さんに話しかけようとするところがもう少しあるような気がして。(本作は)誰に向かって誰が喋ってるんだろうと思うぐらい淡々と進んでいて、最終的に独り言なのか、何かを誰かに伝えたかったのかどうか…が落語とは違うなぁと。落語は…自分がやる時はですけど、もうちょっと語ろうとしてしまう。それとは違うんだな、こういう一人芝居のやり方があるんだなと思いました。
柴山:昨日のシアターカフェの時に久留米で演劇をされている方が目線の話をしたんです。その方がおっしゃるには、この芝居は目線がかみ合っていないと。落語だったら噺家が話者が変わる時に上手や下手を向くことで互いが対面して喋っていることがわかる、でもこの芝居はお互いが同じ方向を向いて話しているからかみ合っていないことが分かって二人の関係が分かることに新しい発見があったとおっしゃってたんです。それで、なるほど落語と違うのかぁと思ったんです。
こがきょ:今聞きながら思ったのが、舞台の上で語られていることと客席にいる自分との関係性が、まさにカフェのお父さんとマリー…。同じテーブルに座ってるけどお互い見てない、言葉だけは受け取っていたんだろう、真正面じゃないけど聞いている人がいるという、あのテーブルにいたような感覚を私が客席で感じてたのかもなぁって。私は前の方だったからかもしれないけど、前半で(龍さんと)目が合ったような気がして。客席が無視されていない感じがしたから、一対一で話を聞いている感覚がずっとありました。いつもお芝居をやる時に「観客みんなが受け取っている」という感じも演劇っぽいなと思うんですけど、私とあなた、という親密な感じも受けて。正面からは語られないけれども聞いている私にきっとこの物語を語ってくれている…客席にいる自分の手応えみたいなものは大きくありました。だから「どうくるか」「そうするんだ」と役者的な目線が目が合った瞬間からポッと抜けて、お客さんとして集中してみていた気がします。

柴山:なるほど、カウンターで隣に座って話を聞いている…面と向かって話を聞いている、ではなく…?
こがきょ:そう、だけど「いる」っていう、そんな距離感でいられる客席の体験だったなと。これ…でもひとり芝居ならではかもしれない。私に喋ってくれている。面と勝負していないというか、俳優が全体と勝負せずに誰かに語っているという。
むら:皆さんはそういう感じに受け止めたんですかね? 僕は照明が最初、気になっていて。かなり明るいんですよね、客席が。僕は一番前で見てたから、これ照り返しなのかな、それにしては明るいなと。だから演者から見られているという感覚はあったんですよ。かなり長いこと明るくて、スーパーに入るところで照明がやっと落ちてキュッとお芝居ぽくなって。その後も結構細かく照明は変わっていたんだと思うんですけど。それが見られているという感じはあったけど、対1人という感じではなく漠然として…終わってから見れば亡くなったマリーが誰とも伝えようとしているわけではなく…どんな感じだったんでしょう、みんな。
こがきょ:私が自意識過剰だったかも(笑)
マッスィー:俺はあんまり目が合う感覚はなかった。
むら:空間の共有感は
おかざき:まさに隣に座ってる感っていうか。
マッスィー:目線は…
よしえ:明るさは、落語と一緒ですよね。
こがきょ:ホール落語だったら…暗くはしない。
おかざき:質問ですけど、僕も一人芝居をやったことがありますけど60分持たなくて。モノローグとかメタでダイアローグとか色々混ぜてやっても60分持たなくて。見ている側が途中で飽きてくるというか。巻き込まれないから、いくら言っても途中で飽きちゃう。絵が変わらないから、一人しかいないから。巻き込まれるというのは…どこに魅力があるんですかね?
むら:照明と音響はあえてこまめに入れてるのかなと思いました。なくても成立するお芝居だっただから。頭から終わりまで。開場中も音なかったですよね。そのままずっと行けそうな雰囲気あるけれど、あえてそこを気にしている所もあるのかなと。あ、けっこうわかりやすく入れるんだなと。それはもしかしたら、持たせるというか、演出の意図があったのかなと思いました。
しんぺい:龍さんのプロフィールに「<丁寧な饒舌>を積み上げていく演技スタイルは、見かけほど優しくはなく、実はすこぶる過激」と書いている。まさにそうだと思うんですよね。「歌は語るように、セリフは歌うように」って言う…一本の糸でずっと緊張感があるから淡々としても見続けられる。だから一本の糸をずっと維持していくことはすごく難しいことなんじゃないかと。それを観客の方に引き寄せるというのは。まさに淡々としてだけど過激だと。
けちゃ:私は自分に言われているという感覚というよりは、同じ空間にいるという感覚の方が強くて、…で今考えていたのは、この作品について、これは「20年前にフランスで生まれた物語です」とチラシに書かれていて、この作品が書かれた時の性的マイノリティの社会的な立場と20年後の今の社会的な立場はおそらく違う。だからこの作品を上演するにあたって劇場の方が危惧されたことがあまり問題にならなかったというのは、たぶんその違いなのかなとグルグル考えていて。やっぱりその上で描かれていることは一人の人間の日常が書かれていた、だからこそ淡々に描かれていた。っていうのは当たり前のこと…今の私たちにとっては当たり前のことだけれどもしかしたら20年前のフランスでは当たり前じゃなかった。性的マイノリティの方がただの人間だということが、それを演劇にする社会的意義みたいなことがあって、だけど私たちはいろんなことがアップデートされて本当に一人の人間として見れたんだなと考えてました。だからこそ…皆さんが感じられたこと、演技、演出のこととか、日常を描くということがものすごくセンセーショナルなことだったのかなと。だけど今完全にクリアされたのかというとそうでもないから…こうやってみんなで見て話すことは大事だし…。

●誰がマイノリティの立場を演じるか
当事者じゃない人が演じることは私はOKだと思うんです。というか、当事者じゃないと演じちゃいけないとなると、あらゆるマイノリティの立場の人が話題に挙げれなくなるから逆に透明化されちゃうということがあると思うからやっていくべきだと思うけど、プロセスの方が大事かなと。現場を見たり聞いたりして自分たちのバイアスになっちゃうじゃないですか、取材しないと。だからそこにちゃんと耳を傾けてやることが必須条件になるのかなと。そのプロセスを見せた方がいいのかとか、こういうものをこういう風に話を聞きました…とかプロセスも大事かなと。
柴山:当事者じゃないと演じられないということはないと私も思っています。ではそちらの話に移りますけど、久留米シティプラザさんから最初に送られてきた参考資料記事があって、それは「トランスジェンダー俳優の役のパイがあまりにもない。シスジェンダー(性自認と肉体の性が同じである人)の役をトランスジェンダーの人が演じることは少ない。利賀村で観客に事前に言わずにトランスジェンダーの私(記事の著者)がシスジェンダー役を演じたら『本当の女性以上に女性らしくて驚きました』といった感想が出てきた…。またハリウッドでは、トランスジェンダーの役はシスジェンダーの俳優が演じるべきではないという降板騒ぎがあった…」そういったことが書かれていました。
今、ケチャさんが「取材をして」ということをおっしゃったので、そちらに話を移すとしてみなさんがトランスジェンダーを演じる場合…でも演じるというのは…
しんぺい:僕はね、あまりそこら辺はこだわってない。なぜなら人生を演じると思っているから。トランスジェンダーとかではなくたまたま取り上げたのがトランスジェンダーだったというだけの話で。芝居ってやっぱり人生を見せられる、題材としてたまたまトランスジェンダー、キャラクターとして。
むら:トランスジェンダーのことをテーマにするとすれば、私はその立場ですということを明確にしている方はいないじゃないですか(いるかもしれないけど)、当事者がいないところで話してもどうかと思うんですよ、いなかったら話さないといえばそれもどうかと思うし。それと別に「トランスジェンダーの方」と一括りにしてるじゃないですか、その中にもいろんな立場の人がいるだろうし…難しいですよね。

柴山:実は、試映会と昨日のシアターカフェに当事者の方が参加してくれていたんです。彼は作品のラストシーンの衝撃が私よりも大きかった。ビデオで見た後には「仲間には見せるのはちょっと…」とおっしゃっていて、やはり私とは違う。でもそれは見る人が違えば感想が違うので当然で、当事者だって感想は十人十色です。こういう悲劇的な結末を持ってくることを安易だと感じる人もいるでしょう。
むら:最後のシーンは、トランスジェンダーだから殺されたということなんでしょうか。
柴山:まさにその点で、当事者の彼はそう感じたわけです。
おかざき:ヘイトだと。
むら:見ていてそうだと思ったけど、でも明確にはそうだとなってないですよね。
おかざき:なってないし、彼は、パターン化された結末で違和感があったとおっしゃってました。
柴山:試映会の後の座談会ではヘイトで殺されたのではないと思っていた人が多かったんです。実は私も、最初に見た時はヘイトが理由だとは思わなかったんですね。昨日のシアターカフェではその話は出なかったんですが、参加者の一人が「マリー・ピエールは娼婦をやっていて」と言って、佐藤さんがその後で「女性と思って彼女を買った人が騙されたと思ったのかもしれない(だから殺したのかもしれない)、実際にそういう事件がある」とおっしゃったときに、初めて私もそうかと思ったんですね。
むら:当事者ということで言えば、これはトランスジェンダーだから殺されたのかなと思ったんです。でもそれって…これ、実はを基にした物なのかどうかなと思ったんですね、実はあるでしょうね、たぶん、でも実話があるからこの作品が生まれたんだというのであれば演劇作品として表現するのは分かる。でもこんな実話はないけどある意味ステレオタイプというか…こういうことで殺されてしまいます、こういう世の中です、というために題材を持ってきたんだとしたらよろしくないと思ったんです。だからこれは実話なのか完全な創作なのかと。今、テレビドラマとかでも手話を使うものが多いじゃないですか、それが単純に「消費」に、聞こえる人のおもちゃじゃないけど、そういうのがちょっと浮かんだというか…。
こがきょ:どんな役だとしても同じだと思ったのは、役者がそれがどんな役だろうと演じるために踏むプロセスは同じかもしれない。だけど作品として、一演劇人としてこういう作品を作ろうとする時に「消費」しないこととか、このことが何なのかを一緒に考えることは是非物で必要。それはトランスジェンダーだけではなくいろいろなことを、社会的な目で演劇なんだから語り合って作って、そこに注意深くしてやるのは大事なことで。なんとなく役者の脳みそで「いや、どの役だろうとして考えないわけじゃないないっすからね~」と思ったけど、演劇を作るってことはそれだけじゃないから。
柴山:例えば、芝居の起伏を作るために(こういう衝撃的なラストを持ってきた)という意識が少しでも働いてこの結末にしたのだとしたら問題だ、とむらさんは言っているわけですよね?
ムラ:ん…ま、まぁ、それもそうです。
柴山:でもそれが起こりうる現実を伝えたいというのもある…
ムラ:それはそれで、またいいじゃないですか。
柴山:うん、だから一方的に断罪もできない…では「消費する」とは何なのか。一生懸命に考えたうえでの選択だったらステレオタイプかもしれないけれど良しとするのか。答えは出ないと思うんだけど…。
ひとみ:当事者じゃない人が演じるということについてですけど、性的マイノリティってひとくくりにするのも問題だと思うんですけど、けっこう身近にいる割にはヘイトとか差別意識はあると思うんですね。20年前の実感とかフランスの状況とかは分からないんですけど、今でもめちゃくちゃあると思っていて。だからセンシティブなものとして注意する必要があるというイメージがあると思います。作る側が気をつけなきゃと思うのは…。身近な割に差別意識が強い。最後のシーンで刺されるというのはなかなかなくてもヘイトでいじめは私の身近なところでも結構あって、…だから刺される最後は…わかりやすい表現があるから…
柴山:あのラストシーンはステレオタイプではない、という意味かな。
ひとみ:そうですね。私はけっこう…ありうるなと思うので…。

よしえ:私はどちらかというと、トランスジェンダーだからというよりも親子の話として…「受け入れてもらえない子どもの側の孤独」「どうしても分かってあげられない親の孤独」、その部分で見ていたんですね、だからこそ最後が衝撃的だったんですけど。私のことと重ね合わせてみてたんです。これが母と娘だからうまくやれてるけどこれが父と私だったらこんなだったかなとか、どうしても近いからこそ分かり合えなかったりする…トランスジェンダーではなくそっちの方の印象をずっと持ち合わせながら見てたので、私は逆に刺された瞬間にヘイトで殺されたと解釈したんですよ。ものすごい現実に引き戻された感じの衝撃でした。単に刺されたことの衝撃というよりも自分のことと重ね合わせて「親と子ってあるよね~」みたいなことから、もっとこの人は危険があったり差別があったりの中で生きていて、だからこそ日常の中でもう少しお父さんに認めてもらいたかったとかそういう日常があったんだなと。ちょっと平和な自分の日常と重ね合わせた所からトランスジェンダーの人たちの現実に引き戻されたようなラストに。
柴山:最後の最後までは普遍的な人間の生活だったのが、バンとこちら(トランスジェンダーの人びと)の現実を突きつけられたという。
よしえ:そう。
●ラストシーン

こがきょ:スカートが出てきた時に割とショック…ショックというよりも、この人は火曜日以外にどんな生活をしてるんだろう、どんな仕事をしてたんだろうと思って見てたら、あのブラジャーとスカートが出てきた時に「あぁ…」と。あの火曜日の意味が変わっちゃったというか。この日常を生きていて、火曜日一生懸命来てたんや…ってうわぁ…って。そして最後に死んじゃって、うわわぁ…!
よしえ:そしてしかも最後にお父さんのことを考える…
こがきょ:そう、たまらない!
よしえ: 最後にスカートとブラジャーが残されて、あれを見下ろしている時間があったじゃないですか。あれを見下ろしているのは誰って。本人が天に召されていく前に見ているのか、お父さんなのか。
こがきょ:お父さんだと思った。
よしえ:ましてやそこにあるのはブラジャーとスカートで、マリー・ピエールの職業とかトランスジェンダーとしてどう生きてきたかという象徴的なものがそこにある…この見ている時間は何、これは誰と。これがまた刺された時と同じくらい衝撃的な物でした。
柴山:あれが龍さんの目線がもう少しきつかったら、戻ってきた時の視線が「外(社会)の目」という解釈もできるなと思った。
としこ:最後のシーンで、スカートとブラジャーを並べた時に男の人が立ったという時になぜだか分からないけれど私はグッときました。そしてさっき言ったように、亡くなった身体から立っていって自分を見下ろしているのか、時間が経っていたのかもしれないけどお父さんが来たのだとしたら、私はすごい来るものがあって…結局お父さんといる時は日常の生活しか見えてないけど、この子は実際はこういう風に頑張って働いていたんだ、生きていたんだというのが、わかったお父さんは衝撃を受けたんじゃないかと思って。子どもに対する思いというか…息子に対する思いというのがグワッと違うものになったんじゃないかなと思って。

柴山:マリー・ピエールが最後に、「私のこの姿を知ることになる」というようなセリフがありますよね、お父さんに知られてしまう…だから(龍さんが)戻ってきてスカートを見ているシーンを見て私、昨日はぶわっと涙が出てきたんです。
よしえ:私もお父さんかなと思ったんですけど、私は逆に「最後までわかってあげられなくてごめん」だったのかなと思いました。やっぱりどこか分かり合えないものが最後まで残ったのかなぁと。
柴山:それは、「分かってあげられなくてごめん」なのか、もっと冷めたものなのか…?
よしえ:ただそれだけを受け止めた、みたいな感じですかね。お互い受け入れられなかったことを受け入れた。まさに視線のすれ違いを最後まで持っていたのかなと。
●どのように告知・宣伝していくか
柴山:さてみなさんは出演される側だと思いますが、これをチラシとかでどう宣伝していくのか。例えば「トランスジェンダー女性の苦悩と家族の物語」なんですけど、トランスジェンダーの部分だけを強調するのはどうかと思う…けどそれでお客さんが興味を持ってくれるという一面もあって。今回の芝居を私が友達に勧める時に、チラシは添付するので見ればわかるんですけど、最初はトランスジェンダーという要素については何も言わなかったんです。あまり先入観を持ってほしくなかったので。でもみんなは「トランスジェンダーの芝居を日本であまり見ることがないもんね」という反応でそれで関心を持ってくれた。
けちゃ:言った方がいいことはいいですよね。こういった問題を扱っていると。でも本当に複合的なものですよね、言葉とビジュアルとあらすじと。ただパッとこのチラシ、前面に出てない。女性の話なのかなと思ってよく詠んだら…。だから情報との出会い方、順序なのかな。消費しているかどうかの話に繋がりますよね。お客さんが出会っていく順序で。
こがきょ:そして全部見終わった後でこう(チラシを)見ると、なんとも大切な…生きてきた時間みたいなのが…(芝居を)見る前に見ていたチラシの印象と違って。順番で行くと…この花柄とかたまらない。
柴山:私、最初にこのチラシのコピー「お前は目立ちすぎる男だ、違う私は目立ちすぎる女」だったかな、これは劇中のセリフにあるんだけどそれを知らない時にこのチラシを見てうまいなぁと思って。
よしえ:チラシって後から見た方が面白いことが多いですよね。あらすじとかって後から読んだ方が実は面白い。
こがきょ:見に来てもらうためのチラシと思った時に何が要るかということですよね。
柴山:おかざきさんは、高校生たちに芝居を作る時に、こういったトランスジェンダーや社会問題を扱う時に…生徒たちの反応、生徒は受け入れるんじゃないかと思うんですけど、どんな感じですか。
おかざき:たぶん、生徒たちは僕らよりも受け入れは早いんで。ただ劇場に芝居を見にくるとかを考えると逆に生徒だとこういうふわっとしたものだと来にくい。もっと前面に出した方が来やすい。演劇やっている人間はこれ(今回のチラシ)で来るけど、そうじゃない時に、「分かりやすい」という言い方はよくないですけど、前面に出した方が人は寄るのかなという気はしますけど、果たしてそれが正しいかどうかは分からない。
柴山:高校生の感覚って…私、高校生の演劇の講評をした時に、けっこうな割合で芝居の中に笑いとして女装を入れてそれを揶揄するようなシーンの芝居があって。その時にはっきりとこの扱いはよくないよと言ったんですけど、男子高校生が女装して「○○なの♥」とはしゃいでそれで笑いを取る、というのが…しかも一校じゃないということに、「この時代にこの感覚?」とびっくりしたんです。
おかざき:そういう感覚はない。けどだからこそジェンダーの問題とか差別の問題とか思想は知らないけど、知らないから前に出ていた方が興味は持つと思います。
柴山:お客として呼び込む時にはということですね。
おかざき:はい。
柴山:ひとみなんかは、大学に行ったら、高校生より視野が広がるからもう少しその辺りの差別意識に敏感になってると感じることがあるかな。
ひとみ:そうですね…大学に来てからはそもそも演技のコースに来るという人はどっちかと言えばいろんな方面でマイノリティ…理解があるというのは違うんですけど…。高校の時の方がからかったり揶揄したり当事者がいるかもという意識は薄くて他人事。悪意があるというよりコンテンツとして楽しんでいるというのがあると思います。大学の方は演劇とか社会問題に関心がある人が多いので、というのはあります。
しんぺい:僕は教育者でも何でもないんだけど、演劇って何でもありだと思うんですよ。変な言い方すると大人から叩かれながら成長していく。それが演劇の面白さだと思うんですよ。だから「そんなことやっちゃだめだよ」と言われながら「やりま~す」みたいにやっていくのが演劇で、そうやって演劇が進化していく、…そうじゃないと面白くないって思いますよ。大人は言うんですよ、今やってる芝居はつまらないとか言うんですけども(笑)、若い子たちはそれがやりたい、だからその情熱をストップさせるのはどうなのかなと僕は思うから。だってやるでしょ。

おかざき:やります。
しんぺい:それが僕は演劇の面白さだったり音楽の面白さだったり芸術の面白さ…だと思いますけどね。それなりに段階踏んでいくんですよ、だからね、小学生ぐらいのザリガニの絵はキャンパスからはみ出してるんですよ、でも6年生になるときちんと配置されてうまいんだけど面白味を感じない。
けちゃ:線引きは必要かなと思います。言っていいことと悪いことと。例えば外国の人のことを「あそこの国は良くない」とか演劇で、表現の自由だからOKだよとするとそれで何が起こるのかとか、その子にとってなんなのかとか、そういう線引きは必要なんじゃないかなと思う。
しんぺい:…そうですよね。
一同:(笑)
よしえ:だからこういう風に話すことが大事なんですね。「それはいけないよ」「じゃあ、何でいけないんだろう」「僕らは何でそれが面白いと思ったんだろう」っていうことが喋れるかどうか。面白いと思っちゃうことはあると思うんですね。でもその時に、例えばこの場もそうなんですけど、ダメだよと言われちゃったよ、なぜ言われたのか何がそんなに面白かったのかという、話す、それが演劇の豊かさというか。喋りながら作れるのが演劇の面白さじゃないかなと。
柴山:うん、そうですね。それが笑いだと思う人は、君は想像力が足らないんだよ、と私は思うんだなぁ。その先に起こることもそうだけど、その前に他者をからかうことが笑いであると思うのは貧困な想像力…だと私は思います。

ひとみ:ちゃかせるぐらい身近になってきているという気もしています。人によると思うんですけど…あまりにもセンシティブで気にかけて扱わなきゃいけないものだよという意識がありすぎるのも逆にどうかなと思う。
よしえ:気を遣って触れないみたいなのも違うみたいな。
ひとみ:逆に居心地が悪いんだよね、という友人もいるから。人によるしコミュニティにもよると思うんですけど。
マッスィー:表面的に扱っていいものとそうじゃないものがあると思うし、歴史の背景もあるしそれが社会でどう扱われているかを掘り下げる。俳優は何でも演じていいんだけど、モノによっては歴史と社会学、それにまつわることを知らないとすごく叩かれるとかそういう可能性を孕んでいることを知った上でやる覚悟がいると思う。
こがきょ:この作品のために具体的に手を打ったこと、どういう風な経緯で…さっき事前にビデオを見て語り合ったことを聞きましたけど、それ以外にも何か特別に配慮というかあったんですか?
スタッフ(間宮):劇場としては初めてトリガーアラートを設置してHPなどで周知をさせていただいたのが大きいと思います。センシティブな内容で試写会の時にもラストシーンにショックを受けられたという感想としていただいたのでそれを含めてお知らせさせていただいて、気になることがあれば事前に劇場に問い合わせをいただきました。
柴山:試写会は初めての試みですよね? それは広報のため、ですか。この作品だから…ということもありますよね?
スタッフ(間宮):そうですね、センシティブな内容について、取り扱いを模索していた部分もあるので、そのため事前の情報を頂くという思惑も…。
柴山:私は、危惧していたようなことはなかったという印象を受けていますが、違っています?
スタッフ(間宮):そうですね、構えすぎていた感があったなぁと。やっぱり観劇されてそれぞれ捉え方が本当に色々なので…一線を超えると過激にとられてもしかしてトラウマとして残ることもあるので、そこは危惧をしなきゃいけないというところであるなと思います。
柴山:今回はプレレクチャーなどはしてないですよね?
スタッフ(間宮):やってないです。
柴山:久留米シティプラザでは社会問題を取り扱ったりなかなか刺激的な作品をやったりしてますが、その上演理由も含めて考えてもらうために、毎回、テーマに関するプレレクチャーとか若者向けのプログラムなどを実施しています。理解を深めて、観劇しようという…先ほどプロセスの話が出ましたが、そのプロセスを踏んでいます。私はそれを素晴らしいなと思っています。
オブザーバー(クロキ):すみません、その試写会というのは何人ぐらい集まって、どういう広報をされて…?
スタッフ(間宮):最終的には12名。今回は初めての試みということもあって、一般に募集をかけていなくてこれまでの事業に関わりのある方にお声がけした次第です。事業で講師となった方や市の他の事業で関わりのあった方などに声を掛けました。
柴山:実施するにあたってご相談いただいた時に、劇場側が「どう受け取られるか」を気にされていたので、当事者の方の意見も聞いた方がいいのではないかと。人選には私は関わっていないのですが、その他、演劇関係者と、福祉関係者なども参加されていました。

ではそろそろ時間も来ましたので、終わりにしましょう。せっかくなので、龍さんと佐藤さんから一言ずついただきたいと思います。
●演出の佐藤信さん、出演の龍 昇さん から一言ずつ

佐藤:トランスジェンダーの問題なんですけど、この作品、やっぱりどうしてもトランスジェンダーが殺される原因ではなく人の価値をどう見るかっていう…。僕は芝居も書いてるんですけど若い頃に書いた『私のビートルズ』って言う芝居があって、それは在日の方がテーマなんですけど、それはちょうど僕が16才の時に李 珍宇の事件というのがあって小松川高校で朝鮮人学校の僕と同い年の少年が普通の女の子を殺してしまったという衝撃的な事件があるんですけど、新聞にその事件が報道された時に犯人が貧しい朝鮮の人だということで世間が納得したんです。だからこの事件も新聞に載るとね、マリーが殺されたというと大半の人が納得するんだと思う。だからそこがこの作品が持っている、ダルレっていう作家のするどいところだと思う。それと今日お話を伺っていて、僕も誰が演じてもいいと思うんですけど、どういう表象でやるかというのはすごく問題で、今ジェンダーの問題もそうですけど身体に重度の機能障害を持っている方を普通の俳優が演じる時どう演じるかという問題ってあると思うんです。僕は一切その身体表現をしないという派なんですよ。そういえばわかるから。「いやぁ、僕は全然手が動かないんですよ」と話せばいいじゃないか。それをこんなふうに(真似をして)やること自体が、僕は捉え方が浅すぎると思う。
それなんで、問われるのは常にそれをどう表象するか。選択肢がものすごくがあって、ちなみにこの作品はフランスではちゃんと女装して完全なモノローグドラマとして演じられることが多いんです。お父さんのセリフの後に「と言った」というのが全部ついている。それを全部外して、二人の人物が見えることによって、逆にトランスジェンダーの役の演じ方がちょっと広くなると思ったんです。これが書かれた時代もあると思うし作家の考え方ですけど、僕は表現する時にその事だけは違う風にしたいなぁと。それと親子の問題もすごく重要な問題じゃないかと思っています。今日はすごく楽しい意見を聞かせていただきありがとうございました。
龍:今日は本当にありがとうございました。いろんなお話を聞けて…僕全然考えてなかったこともたくさん…。信さんからこの本どうだといわれて、僕、トランスジェンダーじゃないし、どっちかというとおやじだし…。気にせずおやじでやりたいなと。

これ4演目になるんですけども、初演の頃はけっこう「おやじ!」とステレオタイプの親父さんをやってたんですけど、だんだんそんなに力入れても仕方ないなと…タラタラしているような感じでその方が膨らむかなと思ってやっています。
最後にスカートを見ているところですけど、マリーで見ているのか、父親が見ているのかというところですけど、最初はマリーがスカートから抜け出して見て、途中まで帰って父親が戻ってきて見ている…。父親も淡々と見て…帰る…。
しんぺい:質問いいですか。初演と変わってきてるんですか。おやじと…
龍:最初はおやじも…固いおやじだろうし…マリーの方もセリフが飛んじゃって…3分くらいは。

しんぺい:初演をやられたぐらいの年齢…よりちょっと上ぐらいが今の僕の年齢なんです。呼吸とかも変わってきましたか。
龍:何回もやるから、セリフもこなれてくるというか…なんというか…。
しんぺい:僕は息遣いとかがね、すっごく気になってね。呼吸がねぇ、いやぁ。すごいなぁと。
龍:途中でね、動くと苦しくなる(笑)。
しんぺい:そうでしょ、あんまり動きすぎるとね、動悸息切れがね(笑)。そうですよね。でも苦しく見えないからですね! いやぁ、ありがとうございました!

*お二人のコメントを頂いて、本日のシアターカフェ(演劇関係者Ver.)は終了。最後に記念撮影をして解散となりました。「佐藤さんと龍さんがいる前で好き勝手に喋ってた…(笑)すみません」と後から思い出したように数名が口にしていましたが、気にすることなく話せたのは良かったと思っています。佐藤信さん、龍 昇さんからも終了後にご丁寧にお礼を言って頂きました。長丁場のお付き合い、ありがとうございました。

