2026年8月29日(土)14:00~ @久留米シティプラザ Cボックス
対象作品:『火曜日はスーパーへ』鴎座ひとり舞台 作:エマニュエル・ダルレ(訳:石井恵)、演出:佐藤信、出演:龍 昇
*2016年から福岡、小倉、久留米などにおいて不定期に「シアターカフェ」を開催してきた。シアターカフェとは、観劇した後に有志の観客(10名程度)でお茶を飲みながら、見たばかりの作品について語るというものだ。作品の役者・劇作家・演出家が参加してくれることも多く、毎回かなりの盛り上がりを見せる。
*本作は、久留米シティプラザ開館10周年を記念しての上演である。久留米シティプラザは今までも尖った作品や社会問題を提起する作品などを提供してくれたが、今回の上演作品もまた、私たち観客の想像力と、社会認識(知識)と、他者への理解と、自分と現状を見つめる力…を問うものだったと思う。上演時間わずか60分でも、濃い時間を過ごした人が多いのではないだろうか。「一人芝居は見たことがなかった」という声も多く聞いたので、そういう初体験も含めていろんな思いが次々に出てきたようで…興味深いシアターカフェになりました。

●自己紹介と感想
柴山:自己紹介と今日の感想をお願いします。
たくろう:「福岡演劇工房」という劇団の代表をやっています。フランスの現代演劇も演出したことがあります。ロシアで勉強した経験があってスタニスラフスキーシステムに関するWSとかも行っています。今日の感想ですが、トランスジェンダーの女性による介護という日常的なテーマを扱っていて非常に共感しました。ただ6か所ぐらい音楽を使っていたと思うんですよ。最後の音楽は必要だったと思うんですけど…初めに「火曜日は私のことをみんな見る」と言うシーンがあるんですけどそれがちゃんと聞こえなくて初めの音楽とかは必要なかったかなと。それと物がない時に身振り手振りで物があるものとして行うことを無対象行動というんですけど、はじめの窓を開ける、ごみを捨てる、洗濯物を干すというシーンの無対象行動はいまいちだったな…。例えば窓が軽く見えるんですよ。フランスって100年ぐらい経ってる家が多いんで窓が重いんですよ。だから窓の軽さとかは気になりました。あともう一点は、この作品は主なのが、主人公マリー・ピエールのモノローグと、彼女とお父さんのアンドレとの対話のシーンだと思うんですが、その対話のシーンはすごく良かったんです。この作品はヨーロッパの作品なので、マリー・ピエールとお父さんのシーンは古代ギリシャ悲劇のコロスみたいな役割があるなと思ったんですよ。モノローグのシーンが古代ギリシャ悲劇だったら対話のシーン。あとマリー・ピエールが来て去るというのも、王女メディアと似た構造と思いました。
やまちゃん:やまちゃんです。フランスの作品ですけどトランスジェンダーの親子という点では日本もフランスも同じかなと思いました。お父さんがしきりに「ジャン・ピエール」と連呼することが多かったので、お父さんが子どもに対する思いが強く伝わってきました。
ゴイチ:久しぶりに演劇は見たんですけど、一人芝居で60分間、役者さんって素晴らしいなと圧巻で。どんどん没入していく感じであっという間でした。簡単なあらすじは知ってたんですけど、登場人物の構成とか相関図的なのも自然のうちに入ってきて声のトーンとかはそんなに変わらないんですけどそれなりに役柄が見えてきたり、関係性とか性格とか徐々に見えてくる感じ…クライマックスを迎える中で最後は色がついた衣装が出てきて、照明もブル転が出てきたり、ちょっとずつスピード感があがっていく感じであっという間の60分間を楽しませてもらったと思っています。
あきら:私は中学の時に演劇をやってまして、見るのが好きです。私自身がトランスジェンダー男性の当事者で、普段から当事者のご家族からの相談も受けていまして、当事者と関わりを持つ人の視点から見た時にリアルな描写だと、当事者目線でも親の目線でも気持ちをわかると思いながら見ていました。ビデオで事前に見せてもらっていたんですが(注:1カ月半ほど前に久留米シティプラザが広報のために試写会を実施した。本作品初演時の映像を、久留米シティプラザが選んだ7~8名に見てもらった。メンバーは、トランスジェンダー当事者やその支援団体者、演劇関係者など)全然違っていてリアルの演劇はとても良かったです。一人芝居だからこそ、マリー・ピエールが全てを喋っているからこそ本人が普段何を感じて考えているのかを言葉で表現されている。だからこそ当事者目線ではありますが、非常にリアルに私たちが普段から気にしている目線…表現はすごく良かったと思います。スーパーで久しぶりに会った方が私をまるで知らないように見ている…とか、知ってるくせにとか。よくできているなと思いました。
クロキ:東京在住なのでこの公演は初演から何度も見させていただいているので初めて見た方とは違う見方になっちゃうかもしれませんが、芝居というのは本当に見る空間によってずいぶん違うんだなというのが一番の感想です。とてもいいホールだなと思って…開演前の舞台の感じも、照明が当たった感じ劇場の感じもワクワクしてみました。この作品も見るたびにシンプルになってるなと思っていて、マニアックな見方なんですが、父親と娘/息子、そして取り巻く人々の境界線があいまいというか…になっていく感じが興味深くて、特に父親と娘の場合は両方の孤独がどんどん浮き彫りになっていく。この先も再演も続けて変わっていくさまが見たいなと思いました。

ターリー:「劇団偽物科学」という団体を持っていて久留米市で演劇をやっている者です。Cボックスは自分の劇団でも一回だけやったことがあるんですがプロがやるとこんなにきれいに見えるんだなと。脚本のことで言えば、フランスの脚本ですが、「ジャン・ピエール」という名を何回も言う、そこは日本人がやる迂遠な…遠回しな部分を思わせていて。「感じてくれ」みたいな投げ方をそれは日本特有の物のように感じていたので、そういうことはないんだなと深く考えたりしました。
おの:ターリーさんの劇団に所属していて下っ端です(笑)。フランスの脚本で…自分に引っかかることがないかと思いながら見てました。親が息子の性に関して…受容というか葛藤というか…が演じられていて興味深く拝見しました。
みぃ:シアターカフェに参加したくて見に来たところがあったんですが、今日はちょっと体調が悪くてウトウトしながら見てしまって…。見ていて、「見る」「見ない」という言葉が印象的で。「父は私を見ない」というセリフのような。父と娘/息子は分かりあえない所が必ずあるけどそれが人生なんだなと思って見たり、あとは実家に父が1人暮らしをしていて一番近くに住んでいるのが私で、これからの父との関係を模索しながらですね…。チラシに「人との繋がりを細かく温かく」と書かれているんですけど、温かさをあんまり今日の芝居では感じられなくてですね、みなさんに「ここが温かく感じたよ」といったことを教えてもらえればと。
一同:(笑)。
みぃ:それともう一つ。最後、お芝居終った後、殺されて終わりましたけどあの後お父さんが実はどう思ったのかが知りたかったです。
とみやす:シティプラザで働いていますが、この公演には関わる課ではないので演劇については素人で、今日は皆さんのお話を聞かせてもらえればと思って参加しました。本当に演劇はほぼほぼ見たことない…ただトランスジェンダーやその問題については興味があってお話したいです。今回はベンチしかないというセットにまず「おお」と思ったんですけど、舞台がフランスというのは分かっているけれど自分事して見るためには、がちがちのフランスのセットだったらそれはできなかったと思うので、最初に「窓が軽く感じた」という話がありましたけど、歴史を重んじた100年の窓を開けている感じだと逆に私は自分事として見れなかったかもなと思います。物がないという舞台というのも自分事という見方ができるんだと面白いなと思いました。それと私も実家に父が…一人暮らしではないですけど、がおりまして、将来的には介護やお手伝いをしなきゃいけなくなるんだろうなという漠然とした不安もずっと持っているのでそういった点でもマリーの立場を自分に投映しながら見ることができたので面白かったです。中身で知りたかったのは、マリーがお父さんのことを大好きなのかすっごい憎んでいるのかを自分の中では消化できなかったのでみなさんにご意見を聞きたいです。
柴山:柴山です。今回は久留米シティプラザさんから事前にビデオを送っていただいていたので本作を何度か見ています。見るたびに実は印象が変わっていて、最初に見た時は「これはトランスジェンダーの話だけれど家族の物語だ」と思いました。その次に見た時に「最後にマリー・ピエールが亡くなるシーンが出てくるけれど、実は最初からいないんじゃないか」と思ったんですね。それはスーパーにお父さんと一緒に行ったマリー・ピエールが「私はお父さんと一緒に来たいのよ」と言ったから。そこにいるのに「来たい」というのはそこにいないってこと?と思って…私はフランス語が分からないのでフランス語の戯曲がどう書かれているか分からないんですけど、亡くなった彼女が思いを残して「もう来れないのよ」という思いを込めてこう言ったのかなと思いました。そして今日、初めて生の本作を拝見したんですが、みぃさんと同じで「見る/見られる」という関係を強く感じました。これはやっぱり演劇ならではです。例えば単にマリー・ピエールが人からジロジロ見られるというだけじゃなくて、スーパーで袋詰めがもたもたして後ろの人たちが「みんなが私を見る」というシーンがありましたよね、それはマリーが奇異に映るから見るというのではなく、日常でよくある「もたもたして何やってんの!」と非難の矛先となって「見られている」。それとか、レジでは「私がいないように思われる」というセリフがあったけど、「見ちゃいけないから見ない」という選択ですよね。だから変だと思うから見ることもあれば逆もある。そしてマリー・ピエールが鏡を見るシーンがありますよね。「自分がどう見られているかと見る」、また「みんなが私の服の中はどうなってるんだと想像する」というセリフもあったけれど、これもまた直接的じゃないけど「視る」ですよね。透視じゃないけど。それを思った時に、今日は特に演劇、生だから、一人で演じている彼(龍さん)を通して、「見る/見られる」、私たちはそれを見ている…映像との違いを感じました。
●マリー・ピエールの死後
柴山:ではみぃさんの、「亡くなった後、父がどう思ったのか」という話から始めましょうか。
やまちゃん:普通の感情として「もっとわかってあげたらよかったな、マリーって呼んであげたらよかったな」と思っててほしい…です。
みぃ:火曜日に来てくれて本当に助かってたということに気づく…来なくなって困るとか寂しさを感じる。娘というか息子に対する愛情を持っていたと気づくかもしれない。
柴山:部屋の話の掃除がありましたが、マリー・ピエールが亡くなった後、ジャン・ピエールの部屋にお父さんは入れるんだろうか…。
たくろう:それは入れると思いますよ。家族だから鍵は持ってる。
柴山:いやいやそういう物理的な話じゃなくてさ!
一同:大笑い
柴山:マリーが亡くなった後でお父さんがどう思ったか…
ターリー:一貫してジャンって呼んでたじゃないですか。その人が亡くなった時に、悲しいんだけれど息子として送っちゃうんじゃないかな…と。それが悪いことと思わずに、ジャンという人として自分は愛していると思ってらっしゃったと思うんですよ。娘じゃなくて。この人はマリーでいたかったけど自分の子どもはジャン・ピエールだと。

柴山:じゃぁ、終盤にお父さんのお友達の女性が登場しますよね、マリーに「(あなたのことは)聞いているわ」とあいさつして。お父さんは彼女に(息子について)愚痴を話していたってこと?
ターリー:そう。一貫性を見るんだったらそんな感じじゃないかな。「息子がこんなことになってたんだよ」と。でも受け取る側はわかってくれてるけど、お父さんはそれがおかしいとずっと思っちゃってるんじゃないかな…受け止めていたにしては父親の普段の態度からは感じられないから…わからせてあげられなかったぐらいで葬式やったんじゃないかなと。
柴山:なるほど。他の方はどう思いました? お葬式、マリー・ピエールとして送ったかジャン・ピエールとして送ったか。
クロキ:希望としてはやっぱりマリー・ピエールとして、女の子として送ってあげてほしいと私は思うし、途中の女性が出てきた所の話も、お父さんは本人には言ってないけどやっぱり認めてたんだと捉えたんですよね。自分で消化できずにマリーの前では「ジャン」と言ってしまうけど、実は受け止める方に傾いていたんじゃないかなと。
あきら:私も実際、父は私のことをずっと改名した後も昔の女の子の名前で呼んでたので。でも年月と共に、私の男性としての生活が長くなっていった時に、気づくと私の今の名前で呼んでくれている…という過程があったので最終的には本当は受け止めたいけど素直になれない、というのがあったんじゃないかなと思う…んですが、でもお葬式の時にはおそらくジャンで送ったのではないかと私は思っていて。なぜなら、男性が多いんですけど、自分の良かれや「こうあるべき」を貫いてしまったがゆえに、息子を愛して来たし、奥様を亡くされているので「あいつと一緒ではないか、俺を一人にするのか」という表現があったのでどこかで孤独感を持っていたのではないか。亡くなった話を聞いた時にすごい孤独と絶望が…こんなに愛した息子…娘を、葛藤していたにもかかわらずまた自分が1人になる…そっちの孤独感の方が強く感じたんじゃないかと思いました。

クロキ:私は具体的に考えると…舞台の最後にブラジャーとスカート(が床に置かれて)あれを龍さんが見に来るシーン。あれはいろんな風に見えると思うんですけど、マリー・ピエール自身が俯瞰して眺めている、それからお父さんが来てそれを眺めている。お父さんはもしかして亡くなった時に、さっきの「見る/見られる」の話で言えば、初めてとても複雑な気持ち、それを悲しみと共に「見た」んだと思うんですね。お父さんは昔の価値観を強く持っている。父親は女性に比べて社会的なものに縛られているし…だからお葬式はジャンで出すのかなと思いました。ただ気持ち的には…きっと…どっちって人間の気持ちは分けられる物じゃないし、お互い葛藤があってお互い孤独があった親子だったんだろうなって思います。
●父とマリー・ピエールの関係
たくろう:父はジャン・ピエールと呼び続けて彼女はマリーと言い続ける。かみ合わない、2人の会話は名前に関して。カフェのシーンでもお互い見つめ合ってない、そっぽを向いて、買い物シーンでもずっと離れて歩いてるんですよ。自分の子どもがトランスジェンダーになったと見られたくないからずっと離れてる。だけど私が感じたのはこの親子はすごい絆を持っている。絶対離れられない。だから最後までマリー・ピエールは…アンドレ(父)が「ジャン・ピエール」とずっと呼んでますけどそれはすごい屈辱的。トランスジェンダーの女性にとって「ミスジェンダリング(Misgendering)」というと思うんですけど男性として扱われるのはかなり差別なんで。だから親じゃなかったらかなり怒ると思うんですけどにもかかわらず絶対離れない絆みたいなのがありますよね、この作品からはそう感じます。お互いが強い絆を持っている。
柴山:どこにその強い絆を感じるんですか?
たくろう:全体的なところですね。この作品から感じたことは親子としてのすごい絆。かみ合ってなくて一見嫌ってるようだけど強いきずなを持っている。普通の親子はみんなそうだと思うんですよ。普段はなかなか仲良くできないけど、絶対子ども…夫婦だったら別れたらもう他人、会わないことができるけど、親子はそう簡単に縁切れないですよね。この作品と演技から強い絆だと受けました。この作品の素晴らしいところだと思う。なかなか親子の絆を作品で表現するのはすごい難しい、それをこの作品はできていた。
みぃ:具体的にどこらへんでそう感じたのか知りたい…。
たくろう:うーん、どこら辺といわれても非常に困るんだけど…マリー・ピエールって火曜日にやってきてみんなに差別されながら買い物に行って掃除して洗濯して食事を作って、色々愚痴を言ってるんだけどでも居続けるんですよね、そして世話し続けるじゃないですか。それってやっぱり大変なこと。そこに強い絆を感じましたね。
柴山:一つ言えば、今さっきおっしゃったミスジェンダリング、お父さんがあれだけ「ジャン」と連呼する。そして「離れろ」と言い…だけどこれは父親の甘えでもある。それが許されるかどうかは別だけど…「関係が壊れない」という自信ゆえの甘えだとしたら、確かに絆と言えるのかもしれない。でもつらいけどなぁ…。
たくろう:あと、最後ね、月曜日に夜中に彼女は娼婦として働いてるじゃないですか5時ぐらいまで。その後移動するんですよ。「こうやって立ってきた」と言ってるけどたぶん他の街から来てるから座ってるんですよ。2時間ぐらいかけて来てる、そしてこれだけ世話しているから相当愛されてるんですね。普通の介護だったらきついから今日はもう休みます、だと思うけど愛情があるから来てるんだと思います。
ゴイチ:小劇場で見るのは大好きなんですけど、見てて前提として物語を見ながら人が演じていることに共感できる部分に繋がっていく。物語を見ながら自分のことに置き換える。僕はトランスジェンダーのことは分からないけれども、親と自分の関係を振り返りながら見ていたから今回はあっという間に過ぎた気がして、これがトランスジェンダー問題の芝居だとは言わないですけど、親との関係について考えさせられた。共依存…愛情なのか、離れられないという。だから自分としては女性としてやってもらいたいけど親は男性として葬儀をするんだろうなとモヤモヤ感が残る…みたいなそういう関係性を考えさせられるような終わり方。改めて自分との関係性も考えさせるんだけどすごくシンプルな作品だったんじゃないか、もちろんトランスジェンダーって難しい社会問題なんだけど、と思いました。

おの:この作品はトランスジェンダーがテーマでありますが、親と子の普遍的なテーマであると思っています。自分の家族のこととかを照らし合わせながら考えたりするんですけど、今回は死という形で離別しますが不在になったことで相手に対して寛容になるというかですね…例えば一人暮らしで実家と離れると親のことが分かるとか、それは私の実感なんですが、今回の場合はショッキングな亡くなり方をされているのですぐに受け入れることができないと思うんですけど時間が経つとですね、今回はトランスジェンダーなので性的な忌避感があるかもしれないですけれど、生理的に受け入れることができないかもしれませんけど、時間が経って子どものことをお父さんが受け入れるようになれば素敵な話なのかなと思いました。
みぃ:私は、亡くなってしまったら息子とか娘とか、もうどっちでもよかった、生きてさえいればどちらでもよかったのにと思って…お葬式も「マリー・ピエール(ジャン・ピエール)」だったらいいなと。
柴山:身も蓋もない言い方ですが、わかり合えることって…少なくて、親子であろうと、いや親だからこそわかってほしい、でも分かってくれないよなという諦めもあったり…こんなことをあきらさんの前で言うと、もっとシビアな状況でしょうから「そんなもんじゃない」と言われてしまうかもしれないけれど、いろんな場面で無理解とか誤解はあって、でも関係を手放すことができないのが親子なのかな…と。その意味ではたくろうさんがおっしゃるようにお互いすれ違いながらもお互いを求めているという点で絆が強いと言えるのかもしれませんね。
●境界線/白のライン
柴山:境界線があいまいになるという意味をもう少し聞きたいです、クロキさん。
クロキ:物語というより、演技的な。今回の作品を見ていると初演からどんどんシンプルになってきていることもあるんですけど、今回はベンチだけ役者は一人だけ。何人かを演じ分けるということが演技で必要だと思うんですけど、確実にそれを演じ分けるというよりも流れの中でちょっと…聞いていればわかるわけで。どっちがお父さんどっちが娘…わからないこともあるかもしれないけどそれでもかまわないのかなと。それより両方の分かり合えないことの孤独、「わかってほしい/わからない」孤独…を含めて曖昧になっていく。さっき無対象行動の話も出ましたけど、きちんとパントマイムみたいにちゃんとやる演じ方もあると思うんです。でもなんか劇の原点というか面白さというのは、「これがテーブルです」と言ったらテーブルになる、「ここはスーパーです」と言ったらスーパーになる。そこが自由になっていく方向があっていいのかなと思いました。
ターリー:一つ発見だなと思ったのが、演じ分けの話ですが、お父さんが左向いて話す時に相手役は反対側を向いて話す…とすることで対話しているイメージがあるんですけど、今日の作品はお父さんが左向いて話しマリー・ピエールも同じように左を向いて話していて、「ああこの人たちは仲が悪いから目が合わないから、同じ向きで喋ってるんだ」というのに気付いた時に、浅かったな俺!と思って。そんなやり方もあるんだと発見がありました。(ここで時間切れで退出)
たくろう:私も帰るので最後に一言だけ。カットされていたと思うんですけど脚本には「ガンベッタの町に住んでいた」というセリフがあるんですよ。ガンベッタというのはパリに駅があるんですけど、この作品の舞台はどこかなと思って。初演がテアトル・ド・モンペリエで、モンペリエってリヨンから300キロぐらい行った街なんですけど、そこを舞台にしてるのかなと。そしたらマリー・ピエールがどこに住んでいるのかが想像つく。200キロぐらいのところだったら、リヨンかトゥールーズかと。
柴山:それはどんな風に関係あるか教えてもらえますか。
たくろう:具体的に街を決めておかないと上演する時に。街の風景とかもすごい大事なので。どういう交通手段を使ってここに来たのかもあるじゃないですか。演劇やってない人には関心無いかもしれないですけど最終的にやるとなるとすごく重要になる。たぶんパリの中での移動なのか、モンペリエなのかと思いますけど。パリも結構広いので移動はできる。エマニュエル・ダルレがパリ出身なのでもしかしたらパリかもしれない。パリに住んでいてパリの郊外に介護に行ったのかなと。
柴山:今聞いていて、マリー・ピエールがどこに住んでいるのか、彼女の住環境は重要だなと思いました。彼女が働いている場所も含めて。お父さんがどこに住んでいるか…より。
あきら:私が気になったのが、ステージ(床)に白いテープで境界線が引かれていたじゃないですか。あれの意味を…考えていて。最初は家の内と外かなと。スーパーのシーンでも中と外かなと。心の中の…境界線なのかなと。
とみやす:ラインの中は人の目がある環境なのかなと。お父さんの目だったりスーパーの目だったり通りすがりのお父さんのお友達の目だったりその時はラインの中だった気がしていて。外を歩いている時はとりつくろわなくていい場所なのかなと思いました。
場所の設定の話はありましたけど、当然定めておくべきだと思うんですけど、それがあの劇の中には出なかったから良かったかなと。細かい話ですが衣装が真っ黒で靴まで真っ黒でしたけど、それが見る側の人に任せるというのが良かったなと。ハイヒールを履くというのもありましたけど、見る人に想像させる点がいいかなと思いました。
柴山:設定はあるべきだけど出さないのは、それによって先入観とかイメージが固定されてしまうから、ということですね。黒の衣装、そしてブラックボックスの舞台。だからこそ最後に華やかな色のブラジャーと花柄のスカートが出てきた時に際立ちましたね。
ラストシーンで言えば、殺された後、龍さんが去って、その後戻ってきますよね。あれ、映像の時には全然印象に残ってなかったんです。でも今日、生で見てぶわっと涙が出てきて。亡くなったから涙が出てきたわけじゃないんです。マリー・ピエールが去って、戻ってきたのはお父さんの目なのか…あるいは世間の目なのか…。
みぃ:私は一番前の席だったのでラインが見えなかったんですけど内側と外側、違う場所ということかなと思いました。

あきら:これはトランスジェンダーの話だけではなくどちらかというと家族の話だなと思っていて、アンドレ(父)さんも本当に応援もしたいけど息子との思い出とか…私、印象的だったのは、なぜ息子の部屋に入らないんだって、ジャン・ピエールが帰って来た時にきれいだと嬉しいだろうって言うシーン。どこかで帰ってきてほしいという気持ちを素直に言ってたんじゃないかなと。マリー・ピエールもすっごいわかってほしいけれど、期待に応えられずにごめんねと…それでもお父さんのことが大好きで。さっきまきさんが「来たいのよ」という表現でマリー・ピエールが亡くなった後だったかもしれないとおっしゃってましたけど、私はもっと本当はお父さんに会いたい、だけどどうしても週一しか来られないというお互いの愛情がかみ合わないように感じてました。
柴山:部屋の話で言えば、亡くなった子の部屋をそのままにしている知人がいて。だから、お父さんがジャン・ピエールの部屋をそのままにしているのは…お父さんにとって「ジャン・ピエールはいない」「いないけれどここにいる」ということかなと。マリー・ピエールにとっては「ここはジャン・ピエールの部屋であって私の部屋じゃない」ということでしょうけれど。だから部屋というのは象徴的だと思いました。
おのさんが「受容」という表現をなさいましたが、キリスト教的…?
おの:どうなんでしょう。私が福祉系の仕事をしているので…。病気とか事故とかで障害を負ったりすると、その障害を受け入れることに時間がかかるんですけど、前の状態と違うからですね、そういう中で「受容」という言葉が使われます。
柴山:これはお父さんの「受容」?
おの:本人に対して家族がどう受け入れるか。
みぃ:受け入れられないお父さんをマリー・ピエールが「受容」するというのもあるかもしれないですね。
柴山:なるほど、頑なな父を受け入れるマリー・ピエール。
とみやす:ジャン・ピエールの部屋に入りたくないというのも、本人としては生まれた時から私はマリー・ピエールだったかもしれないけれど、お父さんからしたらジャン・ピエールがいたわけで。それを受け入れられてないよなとマリーは。過去の自分をなかったことにしているようだから、そこはマリーも頑なだよねと。
柴山:今回のお芝居は「関係性が立ち上がって来る」という点が大きかったんでしょうね。たくろうさんが「実はこの二人は絆が強い」と断言されたのも一人芝居なのにそう見えたという点ですごいことですし。
とみやす:私はお芝居をあまり見たことないんです。だけどいろんな意見があって見方があってとても面白いなと思いました。

柴山:私は最初に話しましたけど、普段から「見る/見られる」ということを概念的に考えるんですね、でも今回ほどそのことを具体的に考えながら芝居を見ることはなかったんです。皆さんにこの点について意見があったら聞いて見たいです。
やまちゃん:今回トランスジェンダーの話でしたけど、「見る/見られる」ということは誰でもある共通のことで、人はいつでも変われるし、どんな機会でも変わる…普遍的な物なのかなと。話題はトランスジェンダーの話だけど家族の話だし、「変わる」ということでもあるし。
柴山:トランスジェンダーの方々は「見られる」ということに意識的じゃないかと思うんですね。ステレオタイプに「ジェンダー的なるもの」をあえて身に着けることもあるだろうし、私がマリー・ピエールの履くハイヒールは赤じゃないかと想像しちゃった(見えちゃった)それもステレオタイプです。…ありのままを見てほしい/違う私を見てほしい/ただただ見てほしい(注目してほしい)/(私が)見たい/勝手に(押し付けて)見る/社会が見ているものを見ている/…見ると見られるを意識するといろんなことが言えますね…。トランスジェンダーじゃなくてもその点は同じですよね。
みぃ:私は「見る/見ない」が印象に残っていて、「父は私を見ない」「周りは私をじろじろ見る」…嫌悪感で見ない、違和感があるから見る。もしかしたら私が今日ウトウトしてしまったのは、父と自分の関係を(重ねてしまって)見たくないからシャットダウンしたのかもしれないと(笑)。
クロキ:私は、カフェ2人が話すシーンが好きなんですよ、かみ合わないながら。お父さんがあそこで昔の思い出話をするじゃないですか。お父さんが見ている世界、息子、お父さんはそこで自分の視点の距離感がつかめない、どこに焦点を合わせて来いか分からないから見ない、見られない…とか。スーパーに行ってたまに寄って来ると「髭が見えてる」とかね(笑)。昔の思い出の中の自分の見え方…人ってどんなに親しくても見るもの考えているのは違う、その辺の悲しさというか、を感じました。
柴山:あの「髭が見えてる」はすごく親子らしさを感じましたね(笑)言わんでいいやろ!ってことを言う(笑)。

ではこの辺りで、佐藤さんと龍さんに一言ずついただけたらと思います。
●佐藤信さん(演出)と龍昇さん(出演)から一言ずつ

龍:今日はありがとうございました。演じるのは曖昧に演じてて…これは(ラインの)外を出たらいいのか?とか思いながら、信さんが境界を作っちゃったんでこの境界の「あわい」の問題をどうやるかというのが面白いなと。「境界のあわい」をどうたどっていくかというのがお芝居を見る時にスリリングで面白いので、そういう芝居を信さんと一緒に作りたいなと思ってて。少しずつ出来てきたんじゃないかと思っています。ありがとうございました。

佐藤:ありがとうございました。今日はとても参考になりました。「見る/見ない」で言うと、お父さんの態度がうちの中と外では違うんですよ。実はお父さんも外では見られてるんですよ。それなんで近寄りたくない。うちでは後をくっついてくるぐらい密着している。
フランスで上演する場合はマリーが扮装してやるのがほとんどなんです。結局マリーの1人語り。セリフも「と父が言った」というのがくっついてる。この上演で演出を変えたのは、それを取って、親子関係の問題をもう少し浮かび上がらせるためにお父さんの存在をもっと前に出した。前は割とお父さんはわき役だったんだよね。(龍さん、「うん」)マリーから見たお父さんしかやんなかった。今度はちょっとお父さんを目立たせようかと。ただし…僕の悪い癖なんだけど、僕は無対象行動が大嫌いで。なぜなら、『浦島太郎』をやった時に、芝居って面白いもので「あ、亀だ」と言えばみんな亀が出てきたと思う。これを克明にやったら、やってる方はすごく克明に見えるんですよ、でもそうするとお客さんが想像するものがなくなっちゃう。お客さんが任せるようになっちゃう。そうすると「役者の巧さ」が見えてくる。「うまいなぁ」ってなっちゃったらその人が消えちゃう、委ねちゃう。僕がコロナ以降、一人芝居を反復して作ってるんですけど、一つ気づいたのは音楽とか舞踊だとソロ作品ってすごく特別だと思いません?、バイオリニストがソロを弾くとか。演劇でソロって…一人芝居って、どっちかというと格下感があるんで(笑)。でも僕はやっぱり一人芝居という新しいジャンルはちゃんとあるんじゃないかと思っていて、それで割と物を使わないでどこでもできて俳優さんがずっと演じられる芝居の在り方を考えたいなと思っていて。

それからもう一つ話を聞いて思ったのは、今すごい時代と言われているけど、僕はどちらかというとすごい希望を抱いているんですよ。いろんな意味で。世の中は変わり始めていると。ジェンダーの問題もそうなんだけども。これはすごい古い作品ですけど、いま日本でみんな「ジェンダー」って言い始めて、まだ解決されてないけどそれが問題だと気がついた。でも僕はまだ先があると思ってる。今は「多様性」ということで区別しているでしょ。でも本当はグラデーションなんですよ。だから違いがないんです。自分がどこに位置するか。そうすると「多様性」という言葉が消えてきた時に初めて、昔はそんなことなくても共存していたんですよ、それがカテゴリーをどんどん作りだした。
もう一つは、演劇というのは常に希望を語っているので、これもものすごく悲しいお芝居なんだけど、たぶん最後に「それでも彼女は身を挺して自由を選んだ」というアピールがあると思うんですね、人間の。僕はたぶんお父さんは亡くなった時にそれを感じるんじゃないかと思うんです。演劇っていうのは、例えばそれを「自由なんです」と言っちゃったら狭まっちゃうんです。でもあそこでモワッとした何か、悲しかった、かわいそうだった思うこと自体が自分の中に残ると…演劇って結局、言葉に語れないものを伝えたい…だからこれも僕は一つの希望を持っている作品としてやりたいなと。悲劇性を強調するような終わり方、作り方にはしたくなかったな。その方がドラマティックになるとは思うんですよ、葛藤があるとか、そういう見せ方もあるし。今回は葛藤はしているけれど割と優しい口調だったり、それを龍さんにゆだねながらやりました。
白いラインは今回が初めてで。あの空間の中で、どういう形で演じるかと。僕は割と白いテープが好きで。これが一番安上がりだから(笑)。龍さんがおっしゃってたけど「結界」ですね、さっき言った『浦島太郎』も道端でやったら変なおじいさんだけど一本線を引いて舞台というところだとすごいですよね、出て来て「浦島太郎です」って言ったらお客さんがみんな信じちゃう(笑)。
どうもありがとうございました。すごい良い会だと思いました。ぜひそれぞれのイメージの中でこの作品が生きればと思います。ありがとうございました。

*集合写真を撮り忘れましたね…すみません…参加者の皆さん…。

