●福岡市民劇場
さてここからは「福岡勤労者演劇協議会(福岡労演)→福岡市民劇場」の歴史を振り返ることになるが、実は福岡市民劇場の事務局は、その60年を超える歴史を周年ごとに立派な冊子で記録に残している*1。詳しくはそちらを読んでほしいが、ここに取り上げることで①戦後の演劇界における「労演」という鑑賞団体の意味、②全国の労演の中でも際立った存在の福岡市民劇場が成しとげたものを知ってほしいと思っている。
最初に明確にしておきたいのは、福岡労演(福岡市民劇場)とは単なる演劇の鑑賞組織ではなく一つの「運動」であるということだ。1983年に改めて「市民劇場の運動を民主的・大衆的演劇鑑賞運動」と規定しているが、それは、いくつもの壁にぶつかり「この活動を存続させるにはどうしたらよいのか」「劇団や鑑賞者にとってどうあるべきか」を模索・迷走してようやく到達したものだった。先取りして言えばそれは、組織としての民主的な在り方(幹事会と会員の関係/上演作品=例会の選び方など)と、演劇(ここでは新劇)のこれまでとこれからの在り方を捉え直す作業でもあった。つまり、上演する・鑑賞することを目的化するのではなく、実現するまでの過程に意味を見出し重視する存在ということだ。
おそらく発足時から10年ほどは本団体にも「勤労者のための運動」という意識が強くあったし、会員のほとんどが職場サークルであったことから会員たち自身にも共有されていたように思うが*2、時代が変わる中で「運動」という意識は薄れていったのだろう。また社会が変わると「運動」において求められている行動も変わってくる。そんな変化の中で、「演劇鑑賞組織の民主主義」と「演劇の民主主義」を活動の指針としたからこそ、現在も福岡市民劇場が続いているのだと言える。
<再出発までの準備期間>
1956年に福岡演劇協議会が解散し、福岡労演ができるのは1961年。その再建のきっかけもまた「福岡映画協会」だった。松竹映画の記者会見で宇野重吉に会った川述文男(後の福岡労演=福岡市民劇場の前・事務局長、当時はまだ福岡映画協会にいた)が、東京で好評の『島』を福岡でも上演したいと宇野に話したところ「じゃ労演を作れ」と言われたことが始まりだったという。『島』はその翌年、労演を組織するより前だったが、を朝日会館で上演した。
福岡労演の準備例会として1961年3月には前進座公演を大博劇場で行なった。義太夫、鳴り物が絡むために一日2回の公演が通例で、二日間で4ステージ。一つは福岡県庁互助会の家族慰安会、一つは美容組合に座席を任せ、二日目を一般客向けの公演として「ニビシ醤油」や「西部ガス」などを訪ねて協力してもらったという。そして満席の千穐楽では「労演結成準備例会」であることをアピールしたそうだ。
そうして1961年5月、俳優座『十二夜』で労演がスタートする。3年で潰えた「福岡演劇協議会の復活」という位置づけである。福岡と同時に熊本も再発足し、(前項で書いたように)北九州・長崎・鹿児島が映画サークルと協力しながら続けていたので、九州は5つの団体で再出発を図ったのだった。

1961年、労演スタート:1960年代
労演準備会の大成功をばねにして、その翌月の1961年4月14日、「福岡勤労者演劇協議会」の創立総会を旧県庁敷地内の貿易会館で開いた。事務局は、映画サークルと労音と同居の形で東中洲に構える。そして5月18日、待望の第1回例会『十二夜』を電気ホールで上演した。この初回例会は、71サークル、1045名という会員数で、「福岡演劇協議会」がつぶれた時に言われていた「福岡の新劇人口は700人が限度」をはるかに超える上々のスタートを切ったのだった。
福岡演劇協議会が続かなかったのに、そこから5年ほどのちに始まった労演が現在までも続いている理由は何か。それは問題に直面した時に原因と現状を分析し、時にはラディカルに見える変革を厭わなかったからである。
ここから先は立ちはだかる問題に対してどのような考え方でどう対処して乗り越えてきたのかという視点で述べていきたい。
<3年目にして会員数激減→「運動体」であるという確認>
最初の危機は好スタートを切ってからわずか2年で訪れた。1000人を超える会員数で始まり一時は1500名まで増えるが、1963年にはその半数の770名まで減り、挽回を期した前進座公演でもほぼ伸びなかったのだ。これでは打開策もないまま毎回の会員数に一喜一憂する5年前と同じである。
そこで行きついたのが、この演劇鑑賞運動は啓蒙主義的ではなかったかという反省だ。「良いものだから見せる」「見せることによって観客の意識を変える」といった意識が根底に流れていたのではないかという反省である。その意識は「券を売る側/券を買う側」=「動員する主体/動員させられる客体」という関係を生みだす。もともと労演とは「自分たちが見たいものを自分たちの力で見るための運動体」だった、その原点に立ち返ると、最初に公演があるのではなく、最初に「優れた芝居が見たい」という要求があってそのためにお金を持ち寄って劇団を招いて公演が成り立つもの…順番が逆だったことに気づいたのだ。
福岡市民劇場が60年経った今も、上演料を「支払う」ではなく「持ち寄る」という表現をする理由はここにある。公演の券を売って会員を動員するという発想(券売り動員)をやめ、会費を持ち寄って(=会費前納)公演を成立させていく――それは、券をばらまいて後から料金を回収する(そして全部回収できるわけではない!)というこれまでのやり方と決別し、会費を前納しないと芝居は見られないということだった。不安も大きかったが運動の根本に立ち返り徹底したことで、会員数の減少は止まり、むしろ例会を重ねるごとに増えたのであった。それだけでなく、それまでは幹事が券を売っていたのだが、会費を持ち寄るサークル代表者が表舞台に出るようになったことは予想外に大きな収穫だった。
<券売り動員の廃止と会費前納制→「サークル路線」>
ではなぜ券売り動員をやめて会費前納制に方針を変えると、サークル代表者が表舞台に出るようになったのか。筆者が思うにそれは会費を全サークル代表者が事務局に届けるようになったことで顔が見える関係になり、それによって各サークルに会員であることの自覚と責任が生まれたのではないか。顔が見えないたくさんの会員に向けてのそれまでの宣伝や発信は、極端なことを言えば暖簾に腕押しだったが、サークル単位を対象とすると代表者には直接伝えられるし、代表者もまたサークルメンバーに伝えられる。福岡労演は「サークルを作り、サークルを増やすこと」こそが労演を発展させる道だとした。「1職場1サークル、すべての職場にサークルを」というスローガンを掲げて、会員数よりもサークル数に関心が向いたというのは面白い。メンバー数が増えたサークルが2つに分かれることを「根分け」と呼ぶらしいが、そうやってサークルがサークルを作り会員が会員を増やす風潮になったという。福岡労演ではこれを「サークル路線」と呼ぶそうだ。結果的にこうして会員数は増えていったのだった。
「サークル路線」が成功した理由の一つは地域ごとのブロック活動がサークル交流の場として機能したことにある。はじめは東部、西部、南部、中央など大まかな区分だったのが、後には呉服町、中洲、天神南、天神北、とブロックが細分化していった。そのブロック内で、合評会や感想文集の発行をするなどサークル同士の交流が盛んになったのだという*3。もっとも川述は、サークル活動が活発だったのは、当時はほぼ100%が職場サークルだったからだとみている。あらゆる職場に労働組合・職員組合があり、比較的自由に小集会が開けた時代だった。
<地方・弱小組織には話題作が来ない→西日本労演の結成>
この時期にはもう一つ大きな出来事があった。同年1963年7月に鑑賞団体の全国組織「全国労演連絡会議」が誕生したのだ。50年代後半には多くの鑑賞団体が「西日本演鑑連」「中央演鑑連」「東北芸協連」といった組織に参加していたが、それまで全国規模の連携はなかった。結成総会では45団体8万6千名と記録されている。
この時期に福岡労演が抱えていた別の問題として、関西と西日本各地の会員数格差というものがあった。近畿以西の労演は「西日本演鑑連」に属していたのだが、同じ組織の中で大阪労演は2万名近く、対して中国(6労演)四国(4労演)、九州(5労演)合計4305名という圧倒的な数の差があった。そのことによって、話題作や豪華な作品は関西で止まり九州の弱小労演には劇団が来てくれなかったのである。会員が見たい作品が見られないというのは、根本的な部分で運動の主旨と矛盾する。
そこで、圧倒的な力関係の中で我慢して存在し続けること(それは例会企画などすべて面倒を見てもらうという依存でもあったが)ではなく、弱小組織なりに自分たちで考え、自ら劇団に交渉し、発展するという道を選択する。中国・四国・九州の団体が分離して「西日本労演連絡会議」同時に「九州労演連絡会議」を結成することにしたのだった。福岡労演は結成総会で西日本労演事務局に選出され、その後、自らの足で劇団を訪ね、協力をお願いし、関係を構築していく。その苦労と努力に、杉村春子・宇野重吉・山本安英・木下順二らは応え、長きに亘って西日本労演に協力してくれたという。そのエピソードは福岡市民劇場の『創立60周年記念誌』に詳しい。
社会の変化、労演の変化:1970年代
1970年代の社会の変化は、否応なく演劇にも変化をもたらした。例えば俳優がスター化してテレビに出演するようになる。それは大劇団が商業劇場に進出することにもつながった。60年代終わりの話になるが、文学座は、労演で全国を回って成功を収めた『欲望という名の電車』を数年後に九州を民放ルートで回りたいと福岡労演に打診してきたことがあったという。「労演だから見られる作品」ではなくなるということである。商業ベースに載せることは一時的には潤うだろう。しかし、鑑賞運動(労演)で公演を続けることは将来に亘っても続けられるということである。そう説得されて文学座の制作は商業公演をやめたらしいが、集客が望める公演なら商業演劇ベースに載せるという選択肢が劇団に生まれたとことを示した例である。また新劇に代わる小劇場やアングラが台頭していたのも60年代後半から70年代である。呼応するように、大都市の労演会員数は激減していった。福岡労演も例外ではなく、73年からは会員数が下降線をたどっていった。労演という閉鎖的な組織形態が社会に合っていないのではないかという、それまでとは違う不安が生まれたのだった。
<時代に合わない?→名称の変更、個人加盟OKへ>
労連と社会とのずれを感じ始めていた中で、1973年12月、福岡から「労演という名称を再検討しよう」という提案がなされる。「労連」という名称には「勤労者階級の鑑賞運動」というイメージがついて回り時代にそぐわない、もっと広がりのある市民的な物に改めようという意図で名称変更を提案したのだった。提案者である福岡は1974年1月の定期総会で「福岡市民劇場」への名称変更が提案、可決された。(以後、「福岡労演」を「福岡市民劇場」と表記する) 全国各地でも急速に名称変更が広がっていった。
名称変更と同じ時に福岡はもう一つ、「個人加入も許可する」という衝撃的な変更を提案している。入会の条件を「一人でも、一回きりでも」と緩めたのである。60年代の路線――サークルを活動単位と考え(従って会員は必ずサークルに所属する)、サークルを主体と考えていた――を捨てて、「入りやすい」組織へとかじを切ったのだ。後世になってこの時のことを「運動の大衆化を図って失敗した」と猛省しているが、確かに例会の演目によって会員数が乱高下するようになった。これでは労演が始まる前に潰えた「福岡演劇協会」あるいは始まってすぐの労演の頃のような状態である。会費も「見たい演目の時だけ」持ち寄る(払う)となると経済的にも全く安定せず、組織として成り立たなくなっていく。
「日本演劇の民主的発展」という基本理念:1980年代

<間口を広げた会員制度の失敗→新しい会員制度・会員手帳発行へ>
70年代末期に悲惨な状況に陥ったのは福岡市民劇場だけではなかった。九州各地、また大都市の市民劇場も同様であった。その一方、前橋(群馬)では「会員手帳」発行と新しい会員制度を始め、仙台(宮城)ではすべてのサークルが運営活動に参加する「運営サークル活動」というやり方を発見し、目覚ましい発展を遂げていた。
「会員手帳」の発行とそれに伴う新たな会員制度とは「3名以上でサークルを作り、1年以上見続ける」というものだった。このことによって会員数も安定していき、何よりも作品によって観客動員数が変わるといったことがなくなった。その前橋の会員制度に学んだ鹿児島市民劇場が盛り返し発展したことを見て、九演連総会で会員制度の抜本的見直しが提起された。そして1980年1月から一人一人に「会員手帳」を発行し、新しい会員制度に移行することに改めたのだった。

<タテ型組織構造に基づいた地域ブロック→運営サークル活動を中心に>
仙台が発見した、全サークルが運営活動に参加する「運営サークル活動」を、さらに発展させたのは福岡である(および九州で徐々に浸透していった)。それは、例会(公演)の準備業務を(幹部ではなく)サークルが担うことを指す。例えば事務所にて全サークル分の座席シールを分ける作業や、劇団の道具を搬入搬出する手伝い、当日の受付や会員手帳のもぎりなどを、当番のサークルの人たちが担当するということである。

これまでの市民劇場(労演)の活動は、常に幹事会が主体となって運営され、サークル(の会員)は「会費を納めて芝居を見るだけ」の受動的な存在だった。両者をつなぐ役割を果たしたのが、60年代に生まれた「地域ブロック」という地域ごとにサークルを取りまとめるようなかたまりだった。このブロックのおかげでサークル同士の結びつきが強まったし、幹事会とサークルを結ぶ役割も果たした。だが、逆に言えばそれは「幹事会 ― 地域ブロック ― サークル」というタテ型組織構造だったことを意味する。そこで、地域ブロックを解体し、サークルそのものが運営に携わり直接関わっていくことによって「市民劇場は自分たちのもの」という(本来あるべき)意識を皆が持つ活動になろうとしたのだ。
とはいえこれまで地域ブロックが果たしていた役割は大きく、ブロック解体については賛否両論だったという。長く運営を行ってきた幹事会に代わって、サークルが主体となった運営ができるのか、ブロックをこれまで通り残してサークル運営をすればいいではないかという反論だ。しかし、議論の末に「運営サークルを本流にしよう」と決定した。
面白いことに、この頃から運営サークルが劇団に手作りの料理を提供する「お通し」が始まったという。これは福岡から全国に広がっていったようだが、劇団をお迎えする運営サークルの心遣いが発端だった。また舞台の仕込みに汗する裏方スタッフにも毎回カレーライスを提供するサークルがあるそうで、こういった動きも「運営サークル」になった副産物だろう。(補足:残念だが、コロナ禍以降にその伝統も途絶えてしまっている)
スタートした当初は運営サークルの参加数に一喜一憂して幹事会も苦労していたようだが、運営サークルを動かすのは運営サークル自身である、幹事会はただ見守るだけだという覚悟で、1983年に「運営サークルを運動の本流に!」という命題を掲げることとなった。これは全国共通の運動指針になっていく。
そしてここにきて、「みんなで会費を持ち寄り、みんなで運営する市民劇場」という確たる理念が定着する。

<過去の失敗を繰り返さないために→市民劇場の理念を規定>
上述した「会員制度の確立(3名以上で1サークルを作り、1年以上見続ける)」と「運営サークル活動(サークルが主体となって市民劇場を運営していく)」は全国の共通課題となり、おかげで会員数も上昇していくこととなった。そこに加えて、福岡市民劇場は過去の失敗を二度と繰り返さないために、言い換えると「日本演劇の民主的発展」のために九演連と共にこれまでの軌跡を振り返り検証してく。
その時に浮かび上がってきたのは、「民主的鑑賞運動を標榜しながら、話題作志向の運動体質に陥った」時代のことだ。知名度の高い俳優が出演している華やかな舞台ばかりが人気で人を集める…70年代のそれは市民劇場会員の「興味本位の願望」と事務局側の「会員増加の希望」が安易に結びついた結果のことだった。
これらの反省を基に、福岡市民劇場(および九演連)は1983年に市民劇場の運動を「民主的・大衆的な演劇鑑賞運動」と規定した。それは、市民劇場という組織の民主主義の問題(会員が望む作品を例会に迎えること、同時に地味でも珠玉作品を発見していくこと)、もう一つは日本演劇の民主主義的発展に貢献することでもある。「日本演劇の」とは大きく出たように思うかもしれないが、新劇は利潤追求第一の商業演劇に対するアンチテーゼとして出発し、圧迫や困難と闘いながら一貫して反戦・平和の思想性をつらぬいてきた。労演に始まる市民劇場もその運動に並走し互助的な関係でやって来たことを思えば、やはり「日本演劇の民主主義的発展」に寄与したと言えるし、これからの市民劇場もそうでありたいという決意の表れなのだとも言える。
<具体的な方法論の確立>
これらの運動理念を1984年の九演連総会で福岡市民劇場が提起した。そして議論を重ねた結果、1986年に以下の3つの方法論を確立した。
| ①会員の増えそうな話題性の追求ばかりではなく、たとえ地味な作品といえども本当に良いものは良いとして、それらの作品にまともに向き合える運動体質を身につけ、その体質として会員を増やし大きくなろう。 ②そのためには九州各地の市民劇場がおたがいに協力し、「全九州統一レパートリー」を確立すること。 ③そのためには財政問題を研究し、会員数の実態に応じた「上演料算定方法」を確立すること。 |
ところが、九演連で練り上げたこの方法論は全国の鑑賞団体から猛反対をされたという。まず「統一レパートリー」――つまり、九州内にあるどの市民劇場も同じ劇団の例会をやるということだが――については、「飯塚と長崎で同じ芝居を見るのは気持ちが悪い」だとか「九州は芝居を知らないから簡単に統一できるのだ」とか言われた。特に会員数が多い組織からは「自分のところだけなら大型作品や話題作ができるのに、全組織で演目を統一するということは少組織に合わせた作品が来る(しか来ない)ことになる」という理由で強い反対にあったようだ。その底にあるのは、小組織は上演料が安い作品しかやれないのはやむを得ないという意識である。その意識を常識としてきた歴史に対抗したのが③の「上演料算定方法」であった。
<上演料と事務局運営費の対立→上演料算定方法>
実は劇団の上演料については長く議論の対象であった。古くは戦後間もない旅公演の時代には上演料はトラブルの元になっていたし*4、労演時代から例会の後に「上演料の交渉をする」というのが定番だったという記述をいくつも目にした。振り返って川述文男元事務局長は、1949年の大阪労演が始まって以来「良い演劇をより安く」といった意識で鑑賞運動を進めてきたのが誤りだったと述べているが(後述する)、80年代初めまで1ステージいくらという売り買いの上演料だった。つまり会費総額−上演料=運営費だったわけである。
それに対して70年代初期の全国事務局長会議にて宇野重吉(劇団民藝)は新たな上演料方法を提案した。それは「会費総額から先に運営費を引き、残りを上演料にすればいい」というものだった。会費総額−運営費=上演料である。「鑑賞団体が赤字のせいで一つでもつぶれることがあってはいけない」という考えに基づいてのことで、いつも赤字に苦しんでいる小組織は賛成するが逆に大所帯の組織は当然反対した。そして福岡市民劇場事務局長の川述文男もまた反対した。そこから10年に亘る「宇野・川述論争」として上演料をめぐるやりとりが続いたそうだ。
宇野の提案は鑑賞団体(労演)全体の存続を考えた良いもののように思えるのに、川述はなぜ反対したのか。それは、経費(運営費)を削減した残りが上演料であれば、上演料を多くするためには運営費を低く抑えねばならないわけで、そのために外部(劇団)が運営費の詳細を監査することに繋がるかもしれないと考えたからだ。当時は三大劇団(文学座・俳優座・民藝)を中心として圧倒的に劇団優位の時代だったからだという。
宇野の提案はもう一つ、それまでの労演の考え方の問題点を示唆していた。「良い演劇をより安く」という考え方である。利潤追求の商業主義と戦ってきた日本の新劇運動およびその劇団に対して「安さ」を突き付けるのは、労演(市民劇場)が掲げる「日本演劇の民主的発展」とは明らかに矛盾する*6のだが、その事に気づくのは70年代の失敗を経て過去の総括をする1983年だった。そうして到達したのが、先述した3つの実践課題の一つ「上演料算定方式」である。
それは「会員数の実態に応じた上演料算定方法」であった。それぞれの劇団と事前に上演料を交渉し、全九州の上演料合計金額を、全九州の会員人数で割るという方法である。そうすると会員数が多いところも少ないところも平等に上演してもらえるし、劇団にとっても事前に取り決めた一定額をしっかりと受け取ることができる。これまでの方法にせよ宇野重吉提案の方法にせよ、「上演料/運営費」は対立関係だった。しかし本来、劇団と鑑賞団体事務局は協力関係にあるはずで、互いのお金を取り合う関係にあるのはおかしい。どのような作品も良いものは受け入れる、そのためには会員数の多少にかかわらず等しく同じ例会をもつ、そのために会員数の実態に合わせた上演料を支払う――こうして3つの実践課題が生まれ、九演連は独自路線を進み始めたのだった。もっとも、その後に大反対をしていた全国の組織も徐々にやり方を同じくするようになり、今では全国演鑑連の「方針」になっている。(だがそれは会員数の減少という危機に直面したことで福岡および九州のやり方を導入するようになっただけで、福岡が掲げた3つの方法論の考え方をふまえた上での導入ではない団体もあるというのが現状だ)少なくとも上演料にまつわる「宇野・川述論争」はようやく終止符を打ったのだった。
<80年代後半の変化>
九演連は独自路線を進み始め、特に福岡市民劇場は1986年に「前例会クリア(前例会より会員が増える)」が10例会続く「年間クリア」を初めて達成する。また1988年には平日マチネ(昼公演)が始まり、それまでの職場サークルから主婦サークルへと組織の中心が移行し始めた。
一方で全国の市民劇場は福岡(そして九演連)の路線を拒否し――「豪華作品/地味作品」という前提に基づき、話題性の追求や宣伝がエスカレートしていくことで演目格差が生じていったり、弱小組織と大組織では同じ例会ができないのが「常識」のままだったり――根本的には従来のまま活動をつづけていく。他方の福岡市民劇場は「小さいもの、弱いもの」との連帯を運動の理念にした独自路線で90年代へと突き進んだのだった。
結実の時代・前例会クリア:1990年代
<前例会クリア>
80年代に到達した福岡市民劇場の確固たる信念および覚悟が目に見える形で実を結び始めたのは90年代である。規模や話題性の大小を問わず平等に動員が増えていくこと、そして公演(例会)や劇団と市民劇場が安定して発展するために、1991年に「前例会よりも会員を1名増やそう(=前例会クリア)」ということを掲げた。興味深いことに、「たった1名のクリア」を消極的だと(理想が低いと)批判する声も出る一方で、実際に86年から87年にかけて福岡市民劇場が10例会連続クリア(会員増)したその事実は「歴史的快挙」にもなる。つまり、作品によって会員数が大きく増減するのは当たり前とする意識が染みついていたのだろう(おそらくそこには地味な作品への無意識の侮りがある)。また、話題作のために大きな動員目標を掲げたよその市民劇場と、普段と同じように1名クリアを目標に掲げた福岡市民劇場では、結果的に成果が同じだったということもあり*6新しい運動概念として「クリア」という言葉と方法は瞬く間に全国の市民劇場に広がっていった。

<1ベル解除>
「1ベル後の座席指定解除」を生みだしたのも福岡市民劇場だった。これは、開幕前の1ベル(開演5分前のベルのこと。開演を知らせる直前のベルは2ベルと呼ばれる)以降は、すべての座席指定が解除され空席には座っていいというシステムである。自分の席をとられたくないならば5分前には着席する必要があり(=遅刻が減る)、客席前方の良い席が空席になることが減り、劇場空間が格段に良くなったという。虎視眈々と通路に立ち1ベルが鳴るのを待つ人々、1ベルが響くと雪崩を打つように着席する人々の様子は商業演劇では絶対に見られない風景だが、演者にとっても観客にとっても良い空間を作ることを第一に考えたシステムで、これもまた数年後には全国に広まっていったという。福岡市民劇場が発明した、現在も続く理にかなったシステムである。
輝かしい記録に終止符、環境の変化:2000年以降
<前例会クリア16年の栄光が潰える>
2005年9月、それまで1989年から16年続いていた福岡市民劇場の「前例会クリア」がストップした。その事については福岡市民劇場の50年史に詳しいが、会員数とサークルの数のバランスが崩れたことが原因だったようだ。問題が起きるとその度に現状(活動方針と現実の状況のずれや、そもそもやり方が時代・社会に合っているのかなど)について話し合い分析し対処していく姿に感心する。その姿勢がこんなにも長く続いてきている理由だろう。
<失われる劇場をとりもどす>
福岡市民劇場を取り巻く社会環境も変化した。2001年、長く例会をやって来た「ももちパレス」の廃止が県の行政改革審議会によって発表された。福岡市民劇場にとってこの廃止案は大きな痛手だった。というのも、まず福岡市内に1週間から10日ほどのロングランができる(その期間を貸してもらえる)劇場が他にはなかった。また長年にわたって使用してきたことで、ももちパレスとの間にはしっかりとした関係も構築されていた。そこで廃止反対署名を集めて県知事に交渉することになったのだが、会員や九州各地の市民劇場だけでなく、長く市民劇場と並走して来た劇団の俳優や制作者がそれに協力してくれたのだった。そして仲代達矢・山本圭・栗原小巻といった俳優と一緒に市民劇場代表が署名(15070名分)を持参して県知事に「劇場存続」を直談判した。そのことがニュースでも取り上げられたおかげで「ももちパレス存続の問題」が広く周知されることになり、福岡市へ移管、新たな財団設立など検討されたという。その後、奈良岡朋子・仲代達矢・川述事務局長(当時)の3名で知事に会いに行き再度のお願いをし、存続が決定したのだという。このエピソードは特に劇団と市民劇場が共に手を携えながらここまで走りぬいてきたことの証左だろう。ももちパレス――現在は「SAWARAPIA」と改称しているが――の中には「栗原小巻・名誉館長」の名札を机に置いた部屋がある。1981年以来(福岡市営地下鉄の開通とともに利便性が高いももちパレスが使われるようになっていた)長く親しんできた劇場というだけでなく、俳優たちにとってもまたこの劇場は特別な思いを持ってくれているのかもしれない。

(写真提供:福岡市民劇場)
余談だが2014年9月から約半年の間ももちパレスは耐震工事が行われ使用できなかったが、その間は少年科学文化会館、博多座(市との共催が条件)、キャナルシティ劇場を使用して開催したそうだ。
<ニッセイ・バックステージ賞>
2010年、福岡市民劇場事務局長であり九州演劇鑑賞団体連絡会議事務局長を務めている川述文男が、第16回ニッセイ・バックステージ賞を受賞した。この賞は、舞台芸術を裏から支え、優れた業績を挙げている舞台技術者、いわゆる「裏方さん」たちを顕彰する賞である。何よりの特徴は、他者の推薦によって候補者が決まる点だ(その後は審査)。川述を推薦したのはこれまで共に走り続けてきた劇団の人たちで、川述の功績を認め、感謝していたことがわかる。これまでの苦労と努力が報われた受賞であり、川述本人だけでなく、市民劇場と新劇を支えてきた関係者すべてにとっても嬉しいことだっただろう。

<会員の減少とコロナ>
さて2017年頃から市民劇場はまた新たな局面を迎えた。一つは、会員増減の動きが今までとは異なるようになったこと。二つ目は2020年からのコロナ蔓延によって演劇をめぐる環境が様変わりしてしまったこと。三つ目は、それまで長く福岡市民劇場および九演連の事務局長を務め、全国の市民劇場すらもけん引してきたと言える川述文男が引退したこと、である。
先ず一つ目の、会員増減の動きに変化が生じてきた点。福岡市民劇場はこれまで見てきたように、会員の減少に直面した時にはその度に細かくシビアに現状を分析し対処法を編み出してきた。例えばどうしても「会員手帳の更新時」に退会する者が増えていたのだが、その時期を「リフレッシュの時期」として「会員拡大の時期」と捉え直す。実際にその時期は退会者も増えるが、その数に対して+10名程度が新たに入会していた。分析を踏まえたうえで現状を新たに捉え直すことで見えてくる活路があったのだ。ところが2017年から、そのパターンが崩れ始めたのだ。おそらくその原因は、会員の高齢化、演劇を取り巻く社会の状況が厳しいこと、なかでも(台頭してきた2.5次元舞台や、ミュージカルの人気や、華やかな商業演劇と比較して)新劇が「古臭く」感じられるとい風潮があること、スマートフォンという画期的な存在によって文化との付き合い方が変わってしまったこと、といった複合的なものではないかと考える。特にスマホが進化すればするほど「ライブ(演劇であれ、映画館で鑑賞することであれ、コンサートであれ)」にかけるそれぞれのお金が減ったと10年以上前にとある劇場のプロデューサーが実感として話してくれたことがある。社会と文化そのものが違うフェイズに移行しているのかもしれない。
二つ目のコロナもまた社会の様相をがらりと変えてしまったことはご存じのとおりである。実際に市民劇場でもコロナが蔓延し始めた2020年4月と6月の例会は延期するという措置をとった。エイコーンの『愛の讃歌―ピアフ』と劇団民藝の『グレイクリスマス』の2本である。前者は南九州では無事に例会を終え北部に回って来る矢先のパンデミックで、「福岡が中止にしたら他も雪崩を打つ」と中止(延期)に反対する声も噴出したが仕方のない措置であった。結局はそのすぐ後に劇場そのものが使用不可となり、この時期はどこも公演が中止(延期)となっている。後者の『グレイクリスマス』では、九演連は劇団に上演料の半額を先払いしている。舞台公演で生計を立てている者にとって上演中止は死活問題である。会員システムの組織だから、九演連というまとまりがあったから、そしてこれまでの劇団との関係があったから、半額であれ「上演料先払い」の決断ができたのだろう。両作品とも、2年後に無事に上演を果たすことができているが、コロナ禍は「これまで築き上げたもの」が一瞬にして崩れる可能性を突き付けた。コロナ禍によって動画配信という手段が浸透し生(ライブ)をも凌駕しつつある。「生(ライブ)であることの魅力」から伝えていかねばならない時代に入ったのだろう。
三つ目は、これまで福岡だけでなく九州を率いて、全国にも大きな影響を及ぼした川述文男の引退である。川述は2021年に福岡市民劇場事務局長および九州演劇鑑賞団体連絡会議の事務局長をやめた。カリスマ的な川述の後を継ぐのは負担が大きいが、それよりも、文化の在り方が大きく変わりつつあるこの時代とどう向き合うのかが難しいかもしれない。
60余年の歴史を持つ福岡市民劇場。時代の要求で生まれ、「運動」として活動をつづけ、演劇(新劇)と観客を育てることに大きな貢献をしてきた存在である。今の時代の変化がこの組織をどう変えるのかわからないが、今の時代ほど新劇の理念や生が与える感激が必要な時代はないとも言える。これからどう生き延びていくのか、福岡市民劇場の持つたくましさを見続けていきたいと思う。
注(クリックしたら注が出ます)
*1:本稿はそれらすべてを参考にして書いていることを断っておく。
*2:「労演」発足の1年前であるが、1960年に劇団民藝が『ジュノーと孔雀』を上演した時には、終演後に劇団員と一緒にデモに参加している。上演日が国会における安保条約の強行採決の日と重なり、労働組合は市役所前広場の安保反対集会に動員されたため観客数は少なかったが、主演後に劇団員と一緒にスクラムを組み、電気ホールから市役所前広場の深夜デモに合流したという。
*3:ただこの時期のことを指しているのか不明だが、奈良岡朋子、仲代達矢は九演連40年を記念した対談の中で、合評会での観客の厳しい意見や労演の機関紙に掲載された批判的な心無い表現に苦言を呈している。「労演と云う組織は批評家乃至マスコミ派の団体なんだと思ったことがあります」仲代、「個人の感想はいろいろ、好みもあるし、でも会報に載せるときはちょっとした心遣いがほしいですね」奈良岡。「会員も創り手 今を続けて 一歩でも先へ」『九演連四十年史』2003年。
*4:奈良岡朋子は第二次民藝ができて初めて地方を廻った時の『西の国の人気者』公演で興行主に上演料を持ち逃げされたと話し、俳優座の頃の仲代達矢もまた1956年の『タルチェフ』の別府公演で同じ目に遭い旅館代が払えずに一週間ほぼ軟禁状態だったと話している。『九演連四十年史』2003年
*5:労演ができた当初は、同じ勤労者協会でも映画や音楽のサークルの方が盛んでそれらのやり方に倣って「安さ」を求めたのかもしれないが、そもそも映画サークルは想像側が営利目的の映画興行会社であり、労音もほとんど相手は音楽事務所であった。新劇を相手にしている労演とは全く立場が異なっていると川述は指摘している
*6:1990年『女の一生』の時に多くの市民劇場が200や300名の会員増加を目標としたが、前年度から変わらず「一名クリア」の課題を追求した福岡市民劇場も同じ成果を上げることができたという
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