福岡の演劇の歴史7 演劇鑑賞団体② 福岡演劇協会(1954~1957)

 三帆書房の「演劇愛好会」が劇団を招聘するようになったのは1947年、そこから遅れること7年の1954年11月に「福岡演劇協会」が発足した。福岡市を拠点とする演劇鑑賞団体である。ちょうど鹿児島県芸術祭に参加するために俳優座三期会が来演するという報が入り、続いて新協劇団、人形劇団プークも来演するという話が浮上したため、「バラバラに公演していたのでは、赤字に悩まされ二度と呼べなくなる」ということから会員組織の固定客層を作ろうと、福岡映画協会(映画の鑑賞団体)の提唱で福岡演劇協会の発足に至ったという。その後押しをした人物が、その後、「福岡労演=のちの市民劇場」の事務局長となった川述文男だったという。

 余談になるがここで福岡映画協会のことに少し触れねばならない。戦後まもない日本での大きな文化運動としてまず映画鑑賞運動(映画サークル)が筆頭に上がる。特に1950年代は新作映画も続々と作られ、映画館も建てられ、常に観客で満杯だった。福岡映画協会の会員数もピーク時には3万人を数え、福岡の文化センター的な役割を担っていたようだ。例えば、「福岡子どもを守る会」から子どもたち向けの芝居を行うための相談を受けて協力したり(それが後の「子ども劇場」になる。福岡発祥の活動で全国に広がっていった。これは今後、紹介をしたい)、文楽を上演したいという連絡が来て引き受けたりというように。

 上述の俳優座三期会の公演についても、実は「三期会」(現・東京演劇アンサンブル)を創設した広渡常敏が川述の旧友であり、福岡でも上演したいという連絡をよこしたことがきっかけだったという。

 さて、事務所を西中洲に構え、「福演協」という機関紙も発行した。準備会で決まった会長と顧問は以下のメンバーである。尚、肩書は当時の機関紙データのままである。

 会長:秋山六郎兵衛(九州大学教授)
 顧問:青山道夫(九州大学教授)、内丸恭一(県会議員・博多前進座後援会の代表)、小台三四郎(青踏座主宰・演出家)、河原重巳(RKBプロデューサー)、進藤誠一(九州大学教授)、滝沢克己(九州大学教授)、徳永瑞夫(演出家)、中垣安綱(高校演劇連盟)、原田種夫(作家)、平田潔(RKB支配人)、松井蛍(RKB放送部長、目加田誠(九州大学教授)、望月孝丸(舞台装置家)、森下公平(病院長)。

 当時福岡市の演劇界隈で活躍していた面々である。例えば、河原重巳や望月孝丸は放送劇団でも指導者として活躍し、進藤誠一は五大学演劇連盟において会長を務めており、徳永瑞夫は「劇団生活舞台」とかかわりを持っており、原田種夫は文学者であるけれど『九州演劇』という雑誌にも関わっていた。産婦人科医の森下公平は福岡演劇をいろんな形でパトロネージュした人物である。

 会則も定めている。主だった点を挙げてみよう。

(1総―2)この会には、演劇を愛する人は誰でも自由に加入できます(個人でも加入できます)。
(1総―3)この会は、主として、職場、学校その他において三名以上の集まりを単位サークルとして構成します。

 目的は4つ、①よい演劇を安く見る一切の活動を行うこと ②よい演劇を通じ、豊かな情操と文化的教養を高めること ③会員の自主的な運動をもって、演劇の鑑賞を図ること ④文化諸団体と提携し演劇を通じ、よき日本文化を創造すること

  具体的な活動事業としては、①よい演劇を推薦します ②よい演劇を安く見るために劇団、興行者との提携並びに鑑賞の斡旋を行います ③演劇公演、批評会、講座などをひらき健全な鑑賞活動をすすめます ④会員の希望する演劇の上演のために、調査宣伝、資金募集などの活動を行います ⑤よい脚本や演劇活動に必要な機材の斡旋を行います ⑥機関紙とニュースの発行および出版を行ないます、等である。

 ここでいう機関紙とは「福演協」というタイトルの、B4サイズ二つ折り4ページのものである。全部で13号発行したようである。

 福岡演劇協会とは「会員制の鑑賞団体」である。「例会」と呼ばれる演劇公演の鑑賞会は二カ月に一度行われた。記念すべき第一回の例会は、1954年11月15日、俳優座三期会『みんな我が子』(原作:アーサー・ミラー、演出:熊井宏之)、場所は中央公民館だった。

 ここで例会を列挙しておこう。

例会演目と観客動員数

第1回1954.11.15俳優座三期会『みんな我が子』中央公民館433名
第2回1954.12.12新協劇団『石狩川』九大医学部530名
特別例会1954.12.23仲間・生活舞台『チェホフ・50年祭』中央公民館453名
第3回1955.01.12前進座『寺子屋』大博劇場634名
準例会1955.02.12新制作座『泥かぶら』中央公民館 
特別例会1955.03.01記録映画『芸術座の巨匠たち』中央公民館 
第4回1955.03.17はぐるま座『洋犬・はだし』中央公民館331名
第5回1955.04.24前進座『太功記』大博劇場460名
準例会1955.06.12文学座『欲望という名の電車』電気ホール 
第6回1955.07.17新制作座『馬五郎一座』電気ホール421名
第7回1955.10.13新演劇研究所『サークル物語』大博劇場570名
準例会1955.10.20プーク『人形劇』中央公民館 
第8回1955.11.26劇団民藝『西の国の人気者』大博劇場2056名
準例会1955.12.20劇団中芸『人形の家』電気ホール 
第9回1956.02.07演出劇場『土』タマヤホール572名
第10回1956.03.26前進座『忠臣蔵・鳴神』大博劇場 
第11回1956.06新協劇団『機械の中の青春』  
第12回1956舞踏座『十二夜』  
第13回不明不明不明  
第14回1956.11.25俳優座『三人姉妹』電気ホール 
第15回――民藝『アンネの日記』大博劇場 

 活動として特徴的なのは、劇団を招聘し鑑賞会を開くだけでなく、劇団と座談会を行なったり、鑑賞後に合評会を行なったりすることである。例えば第二回例会の1週間前に顧問の森下公平氏の自宅にて新協劇団との座談会を開催、第三回例会でも前進座俳優との座談会や「前夜祭」と称して歌舞伎教室(橘小三郎による前進座の歩みの紹介、嵐芳三郎による『寺子屋』の解説、河原崎長十郎による『民族文化と歌舞伎について』と題した講演、女になるまでの実演、コント)、そして公演後に合評会が行われている。その後もはぐるま座を囲んだ劇評会、下村正夫を囲んだ演劇教室・メーキャップ研究会など面白い企画を続けた。そして合評会の内容は抜粋して機関紙に掲載している(なかなか厳しい指摘も多い)。福岡演劇研究会も行われ、会員は20名ほど、金曜日は「なよたけ勉強会」、土曜日は「基礎的勉強会」、日曜日は「舞台技術研究所」が裏方の仕事について勉強会を開いていたそうだ。盛りだくさんの内容である。各例会の合間に特別例会も開催している。例えば第二回と第三回の間に「チェホフ50年祭」と称して地元の劇団がチェホフを上演し、第三回・準例会の後には『芸術座の巨匠たち』という記録映画を上映している。

アンネの会 福演協の委員
石田光昭(委員)「先乗りってあるでしょ」
後藤幸雄(委員)「例えば新協劇団やったら、先乗りで職場を回るわけです。職場で懇談会なんかをやりながら芝居の宣伝をして、そして会員の家に泊まったりしますから。彼らも貧乏ですから。ですからそんなして仲良くなっていくんですね。それで、地方公演の日程をこっちが訊くんですよ。それに合わせてすることが多かった。(略)先乗りで来る若い連中をね、福演協でしたのは、全部旅館に(泊めた)。『すぎのや』さんに。博多駅の万行寺の横の。あそこがいつも赤字を出しながら。演劇好きの大将が(いたから)。
(略)(民藝の)宇野さん(宇野重吉)さん一行と大宰府でピクニックした。劇団とそういう関係だった。」
『西の国の人気者』の折の大宰府ピクニック (写真提供:福岡市民劇場)

 さらに特筆すべきなのは「職場演劇祭」を開催したことだろう。ここでなぜ「職場」なのかを簡単に説明すると、当時の地方の演劇活動の中心は職場でのサークル活動だったからである。福岡演劇協会に加盟した団体も基本的に職場サークルだった。例えば以下のような職場である。県庁・保険局・電話局・地裁・家裁・高裁・法務局・食糧事務所・九大連合・岩田屋・聖福病院・福岡銀行・住友銀行・日本銀行・安田火災・福岡青果・福博酒販・九大解剖学・日本自動車・穀物検定協会・博多大丸などの職場サークルが46団体も加盟していた。福岡演劇協会の会員も大半が職場演劇サークルのメンバーおよびその知り合いだった。

 そこで福岡演劇協会の呼びかけで職場演劇サークルの懇談会を開き、各職場演劇サークルの公演を一堂に集めた演劇祭を開くことになったのだ。第一回の職場演劇祭は1955年9月7日から9日の3日間、中央公民館において開催された(後援・福岡演劇協会、福岡県市教育委員会・総評・地協・西日本新聞社)。参加団体14、作品は11本。「福岡での初めての試みで予想以上に盛大なものとなった」と「機関紙・福演協」に記している。劇団生活舞台の高尾豊も「(それまでは)鑑賞のみに止まり、地元劇団の実践活動を呼び起すまでにはいたらなかったようです。それを打ち破ったものが、職場演劇祭だと云えましょう」*1と述べている。この成功を以てサークル協議会(後の自立劇団協議会)が発足されるに至った。第二回職場演劇祭は1956年7月27日~29日、同じく中央公民館において。13本の作品が上演されている。

石田「職場演劇祭は、福演協が音頭を取ってやった。」
後藤「職場演劇祭実行委員会という別組織を作った。(略)職場が独自に職場演劇サークルをやりよったんです。それを集めて一緒にやろうじゃないかということでやったんでできた。初めから職場にサークル作ってやったらできません。」
原野薫(福演協の事務局長)「できませんね。やっぱり、福岡演劇協会という組織があったからできたわけですよ。」
後藤「福演協の役員をしよる連中がだいたい職場のサークルに全部関わってやりおったので、うちのところも出せるよとかあそこに言って出てもらうかと言って。」

 ここで全国の演劇鑑賞団体の動きを見ていこう。実は同時期に日本各地で演劇鑑賞団体が誕生し始めている。1946年に「名古屋演劇クラブ」が先陣を切って演劇鑑賞会組織「名古屋演劇クラブ・ドラマリーグ」を結成し、その後東京では都教育局が「演劇教室都民劇場」を作って無料の演劇鑑賞を始めた*2。1948年7月、東京で新劇人会議が中心になって勤労者演劇協同組合(労演)が誕生する。これが後の「労演」あるいは「演劇鑑賞団体」の草分けである。「優秀演劇の共同鑑賞会」として料金の割引や座席券の優先的獲得を行ない、講師を派遣するなど自立劇団への援助を行なったらしいが、『九演連四十年史』によれば「労働組合文化部の域を出なかったので一時的なものに終わった」そうである*3。そのため、1949年2月に発足した「大阪勤労者演劇協会」が日本における演劇鑑賞運動の事実上の出発点と位置付けられている。大阪労演のHPには発足当時の月会費は70円、月に一度の例会、サークル数は100、会員数は1000名でスタートしたと記載されている。1956年の段階では会費が200円と値上がりしているが、会員15000名と飛躍的にのびている。

 その後1954年7月には「神戸勤労者演劇協議会」が発足、1956年時点では毎月例会を行ない、会員1500名、会費は200円。1954年「名古屋演劇同好会」発足、割引システムの組織で、1956年頃のデータでは会員1000名。1955年「青森芸術鑑賞協会」発足、会費は月100円で、翌年には会員は2500名になっている。1955年「京都演劇くらぶ」発足、会員は600名、割引システムの組織で会費は毎月50円。1955年「岡山演劇観客団体協議会」は会員1300名。東京も1956年になって「東京勤労者演劇協議会」を発足。・・・このように続々と鑑賞団体が産声を上げていた時代であった。

 さて福岡演劇協議会では、会員には会員章と整理券を渡し、第二回から会費を納めた会員にのみ整理券を渡すという形をとったようだ。二ヶ月分の会費を一回の例会にあてるために、事務局は例会前の納入を毎回呼びかけていた。

 その会費は、一人月額100円、入会金50円を徴収していた(発足当時は入会金100円、ただし発足してすぐの代表者会議で50円に値下げが決まった)。一ヶ月以上滞納した場合は退会、企画によっては代表者会議の決定により特別会費を徴収する場合もあると定めた。

後藤「第一回はまぁまぁの滑り出しと思ったけどね、後はあんまり順調なことはなかった。宇野重吉の『西の国の人気者』(民藝)はよかったけど、『機械の中の青春』は人が入った割には興行的にはうまくいかなかった。だからそんなゆとりのある、今度はうまくいったけん一杯飲もうかということはなかったですねぇ(笑)。」
吉村「前進座の公演を何回かしたら、その時は、入りましたけど、前進座は(別の)後援会システムでやってましたからね」
石田「例えば第一回が433名、前進座の『寺子屋』が634名、『西の国の人気者』が2056名。」
吉村「『アンネの日記』が最後ですね。」
後藤「民藝。三井美奈と吉行和子のダブルキャストで。三井美奈は新人募集をしたんですよ(注:新人募集で選抜された)。私たちは三井美奈で見たかったんですよ。そしたら実際に来たのは吉行和子の方」
原野「まだ若い頃の」
(略)
原野「大博劇場のね」
吉村「3ステージを契約して、1ステージも成り立たなかった。だから大赤字だった」
原野「あれは回数が多かったからね」
(略)
原野「うどん屋でね、みんなで泣きっ面かいて。終ってからね。電車もないし、みんなで腕組んで、寒かったもんね、あの頃。みんなで『雪が降る街を』を唄いながら」
――赤字は累積していたんですか?
吉村「そうですね、赤字でなかったのは『西の国の人気者』と前進座」
原野「歌舞伎がね、来ていなかったからね。前進座だけだったからね、珍しい」

 会員を固定できず、経営的には苦しい状態が続いていたという。発足後1年数ヶ月の1956年念頭の福演協機関紙では顧問の森下公平が次のように書いている。「会員の団結という意味で敢えて知って戴きたい。例会ごとに赤字を出し、黒字だったのは前進座と民藝の公演だけである」。会議などでも会員増加に向けて検討し、福岡映画協会のように会費20円ほどにできないかという提案もあったようだが、演劇公演の場合は会費を下げるのは現実的ではなく、結果的に観客動員増加ができなかった。

 この会員数の問題について、前述の森下はこう述べる。「会員数の頭打ちの問題だ。創立当初500名の会員を擁し気をよくしたものの、その後初め予定したとおりの入会者なく、入会者と同時に同数の退会者があってどうしても1000名にも達しないという実情に些か狼狽し出した。常に言われる“福岡における新劇人口の限界”という問題と関連するが、しかしこれは他都市の会員数と睨み合わせるとき、限界だと言って、拱手傍観するわけにはいかない。大阪労演の場合と異なり、先乗りが来た劇団の中から何ら批判する暇もなく例会に取り上げなければならない現状にあっては、会員全部の希望に沿うこともできず穴埋め的例会でお茶を濁すなどの不自由さ。会員各々の個性による選択度。(A劇団は好き、B劇団は嫌いであるなど)等を全部含めて一律に会費を徴収せねばならぬ不合理さが数の伸び悩みとなって表れていると思う」。森下が指摘するように、(先に挙げた)日本各地の鑑賞団体の会員数と比較すると、福演協の会員数は少ない。森下は同機関紙の別の号で「福岡の新劇人口は700と言われている」と書いているが、福演協の解散後、数年のブランクを置いて1961年に始まった福岡労演は、一回目の例会で1000名を超えた(俳優座『十二夜』)。ちなみにその福岡労演も3年目で会員数が激減して振り出しに戻るが、その対策に試行錯誤し独自のスタイルを編み出していく。それは次項「演劇鑑賞団体③」で述べたい。

――『アンネの日記』でこれ以上続けられないほどの赤字が出た。
吉村「そう。大きかったですな、あの時のショックは。32年です」
石田「32年の5月に解散総会を開いとる」
(略)
後藤「とにかく赤字がこのぐらいできてって訴えたような」
石田「一番最後の15回例会で29万6千円の赤字を出したって書いてる。(略)宗像の高校が来るって言ってこなくて、3ステージを2ステージにして、ごたごたして。これはギャラも69万って高かったもんね」
吉村「滝沢(修)さんが頭を下げて、なんとかしてくださいってね。『すぎのや』でね。泣きつかれたですね、滝沢修さんに」

 参考までに当時の1万円は現在にするとおおよそ20万円と同等らしい。結局、1956年の民藝『アンネの日記』の不入りが決定打となり、福岡演劇協会はわずか3年、15回の例会と6回の準例会で幕を下ろすことになった。上述の森下公平が毎回の赤字を負担していたことも忘れずに付け加えておかねばならない。

 (1)劇場不足

 後に掲載している座談会でも話題になったが、適した劇場がないのも悩みの種だったようだ。福演協の機関紙を見ると毎回のごとく会場が悪くて劇団に申し訳ないと言った記述が見られる。例えば第4号では、当時の委員長・小泉辰彌がこう述べている。「・・・私たちの場合は、中央劇団との連絡は時間をかけて一応成立しても、会場の問題でいつも悩まされます。この大都会福岡で満足に音楽の聴けるホールができたのはつい最近で、それまでは、大学の講堂を借りねばならなかったくらいで、演劇のできるステージを備えた大衆のための施設がいまだにないのは全く文化都市の名にふさわしくありません・・・」。機関紙第9号でも顧問の森下公平が「会場の問題がある。大博、タマヤが快く開放していただくようになって大分その悩みは少なくなったが電気ホールは伝統その門戸を勤労者の集会と見做して閉ざしている。私共の目から見れば納得いかないのであるが、ジャズや浪曲大会に開放されている今日、私たちが真面目に新劇を追求していけば必ず借りられる日も近いと思う。」と書いている。

 石田「その頃、演劇を公演できる会場が福岡にはなかったわけですね。電気ホールができたんだけれども、我々には貸してくれなかった。方や<演劇愛好会>というのが主催するのが宮崎さんという人で(注:①参照のこと。宮崎は電気ホールの支配人も務めた)、例えば文学座の『女の一生』は電気ホールで公演できた。ところが福演協と対立するつものだから、電気ホールは貸してくれなかったわけですよ。それで我々は芝居小屋としては難点のある劇場(こや)でしか公演できなかった。当時福岡には他にはなかったわけですよ。あるいは大博劇場、ここはあくまでも歌舞伎の劇場でしたからね。」
後藤「私たちの第一回の公演は中央公民館、タロー劇場でね、第二回が九大の医学部講堂。教育会館は前進座後援会がね。そういうのをやってようやく大博劇場でやれるようになって、それもすったもんだあって、ようやくやれるようになった。それからは、演劇協会としての例会もあそこでやれるようになった」

 この座談会に登場した九州大学医学部講堂では1つ強烈なエピソードがある。第2回例会にて新協劇団『石狩川』を上演したのだが、空襲の被害で北川の窓ガラスがほとんど割れており上演中も冷たい吹雪が舞い込んでいた。暖房もない中、観客は寒さを避けるために窓とは反対側に一塊になって鑑賞していたそうだ。まだまだ芝居を観るインフラが整っていなかったことがわかるエピソードである。

 そして、劇場の利用には団体の認知度や信用が重要だったらしい。

(2)マナー

 会員からの苦言として機関誌に投稿されたもののほとんどが、マナーの不徹底である。開演後に入場する、座席を占領するといったものだ。特に後者は、指定A席・B席・C席と分けて販売されているにも関わらずチケット通りの座席に座れない、早い者勝ちの座席争い、など落ち着いて鑑賞する状況にはなかったようだ。

(3)劇団

 前述の森下公平の言の中にあったが、この頃は公演・劇団を選ぶ状況にはなかった。それは九州に単独で劇団を呼ぶだけの金銭的余裕はなかったからだ。その対処として、1955年に「中央劇団を九州に呼べないことが組織の伸びない原因でもあり、会員の要求に応えるためにはどうしてもサークル相互の連絡を密にして九州の演劇組織体制を作る必要がある」として九州演劇協議会を結成したという。

 しかしなによりも決定的な問題として衝撃を与えたのが、公演の直前キャンセルであった。機関紙には「会員の皆様へ」としてこう書かれている。「福岡演劇協会では第七回例会として来る十月三日、大博劇場に於て、新協劇団によるゴーリキィ作『敵』の上演準備を進めておりましたところ、去る九月十二日劇団より九州公演中止の急報を受け、直ちに電報、電話の連絡を取り、その真相をただした結果、北海道公演による財政的な行き詰まりと病人の続出という理由で、一方的に契約が破棄され、全く予想だにできない状態となりました。福演協委員会では緊急に会議を開き、公演準備に費やした経費約七万円の補填と会員の方々に非常な迷惑をおかけしたことに対する劇団側の善処を要求すると同時に、例会対策に就て協議いたしました結果、折柄九州公演を準備中の新演『サークル物語』が懸案され、職場演劇祭の盛り上がりの中で、サークルの悩みと希望を描いたこの演し物は最も時宜を得た意義ある内容として取り上げることに決まりました」。

(4)入場税

 未成熟な鑑賞状況に加えて、当時は入場税が十五割。その負担が弱小の鑑賞団体に重くのしかかった。

後藤氏「一つは税金の問題があったでしょ。チケット作るでしょ、それは銭にならんただの紙。税務署の検印があって初めて500円とか1000円とかの券になる。向こうは何枚検印したかというのを記録しておく。そして何人入ったかで見る」
原野「もぎりの券で分かる」
後藤「私たちはもともと工業団体・営利団体じゃないから税金を納める必要はないという立場だったんです。それでずーっとすったもんだ。それはもう全国的なものです」
――最終的には
後藤「これ、解散しましたからそのままになっておる」
石田「私の勤務場所にも何回か来た。督促状も来て」
後藤「訴訟になったんですよね、確か大阪労音か東京労音かどこかで。*4」
吉村「いわゆる興行税とは違うんだと」
石田「あくまでもこちらは会員から会費を預かってそれで公演する、だから利潤を上げることを目的とする組織じゃないと」
入場税撤廃を訴える人々 入場税は昭和13年に戦時立法として作られた。
が、戦後も温存され、長く文化運動を圧迫し続けた。(写真提供:福岡市民劇場)

 3年で終わった福演協ではあるが、活動の間に様々な余波が生まれた。

 第二回例会を契機として熊本・大牟田・久留米・飯塚・八幡などに観客組織の会が生まれた。また1955年4月17日に九州演劇協議会が結成された。また同年3月には福岡に文化センターを作ろうという文化活動促進連絡協議会がセンター作りを呼びかけたりしていた。また映画・演劇・音楽の合同組織部会を作り、交流発展を目指す動きとして、福岡映画協会・労音・福岡演劇協会の合同企画部会を開いたりしたという。1956年9月には「西日本演劇観客団体連絡会」が生まれ西日本各地の演劇観客組織が集まってスケジュール調整その他の便宜を図るための連絡会を結成した。

 また福演協は一旦解散するが、数年後に「福岡労演」として復活する。現在では福岡市民劇場と名前を変え、60余年にも亘って活動を続けている。福演協はその礎だったといえよう。ちなみに、福演協解散と時を同じくして熊本も解散し、北九州・長崎・鹿児島は映画サークルと合併することで露命をつないだという。地方で演劇鑑賞団体が活動を続けていくのはとても困難な時代だったのだと言える。

注:クリックしたら注が出ます

*1:1954年劇団の最初の公演パンフレット『イワン・イワノヴィッチとイワン・ニキフォロヴィチが喧嘩した話』の高尾豊の文章より

*2:「戦後名古屋演劇の研究(その1)」安藤隆之

*3:『九演連40年史』2003年、九演連

*4:全国労音は、これまで入場税第三条の規定「興行場などの経営者又は主催者は興行場への入場料金について、入場税を納める義務がある』という条文に則って、自分たちの組織は「会員が主宰者であり享受者であるからこれに該当しない」として、「入場税納税義務不存在を確認させる」訴訟を起こしながら、一応、入場税を「預託」する方針を取っていた。それが申告制度になったため、自ら認めていない税金を自ら申告して払うのは論理的に矛盾するとして、多くの労音が「不払い」に踏み切り、多くの労演がそれに同調した。

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