福岡の演劇の歴史7 演劇鑑賞団体① 福岡演劇愛好会(1947~195?)

*演劇鑑賞団体(会員がお金を出し合い劇団を呼び鑑賞する組織のこと)として福岡市民劇場(福岡労演)について取り上げていくが、その前史として紹介したい活動2つがある。一つは1947年に始まった「福岡演劇愛好会」と1954年に発足した「福岡演劇協会(福演協)」である。前者は一人の人物が立役者となり始まった珍しい活動で、後者は福岡市近郊の街にも影響を与え、そして解散後も「福岡労演」に繋がった活動である。資料がなく、ほぼ20年前に筆者(柴山)が取材した時の話を基に書いているため曖昧なところがあるのをお断りしておきたい。

 福岡市住吉(当時)の柳町思案橋のそばに「三(み)帆(ほ)醤油本舗」という老舗の醤油屋があった。その醤油屋を営んでいた宮崎家は柳町一帯の土地を所有する素封家で、そこには宣(のぶ)久(ひさ)という息子がいた*1。「宮崎宣久」の名前で調べると出版人・編集者として紹介される*2が雑誌を刊行しただけでなく、帰郷する前は東京で朝日新聞の記者、帰郷してからは映画館の支配人*3、戦後初めての総合ホール「電気ホール」の支配人*4をやり、53歳で再び上京してからはエスエス製薬の重役もやり最後は新宿にスナックを開店するという多才で興味深い人物である。この宮崎が電気ホール支配人時代に新劇を中心とした興行を組んだ逸話はいくつかの文章から拾うことができるが、実はその前に「三(み)帆(ほ)書房」の名で新劇の劇団を招聘して演劇鑑賞団体を作っていたらしいことはほとんど知られていない。

昭和13年「福岡市縦横詳細地圖區劃表」銀洋社出版 
書き込みは柴山による
なお、地図のコピーは川原武弘さんに貸していただきました

 宮崎は1946年に旧制福岡高校時代の同級生だった大西巨人と共に――彼が醤油を買いに来たことがきっかけだというエピソードもある――雑誌『文化展望』を刊行することになった。そのために「三帆書房」を立ち上げたのだと推察するが、三帆醤油(製造は止まっていたらしい)の2階をその事務としていた。雑誌刊行の傍ら、彼は東京時代の人脈を生かして1947年から関東の劇団を招聘し始める。情報の精度が揃っていないが、「三帆書房」が招聘し上演された演目をわかっている範囲で列挙しよう。

1947年7月 文学座『女の一生』(演出:久保田万太郎)

  *『文学座五十年史』によると1947年6月3日~7月1日(4回)@福岡・福岡劇場

  *九州各地を回って、7月9日にも福岡劇場で2回公演

  *「福岡三帆書房より招聘さる。盛況。」と記載あり。

1948年2月 空気座『肉体の門』(演出:小崎正房) @新演技座

  *『突飛な娘』の二本立てだったという記述もある。*5

1948年6月 薔薇座『堕胎医』(演出:佐々木孝丸) @新演技座

1948年8月 文学座『南の風』(演出:辰野隆)/『雲の涯』(演出:岩田豊雄)

  *『文学座五十年史』によると1948年8月28日~29日(4回)@福岡・柳橋劇場

    8月30日(2回)@大牟田・国際劇場

9月7日(2回)@福岡・柳橋劇場

  *「福岡では西日本新聞社講堂に於いて、杉村春子「声」を脚本朗読す。」と記載あり。

1948年9月 東宝『宝島』(演出青沼三郎)

1948年11月 文学座『女の一生』(演出:久保田万太郎)

  *『文学座五十年史』によると1948年11月18日(2回)@大牟田・三池染料講堂

    11月22日(2回)@福岡・柳橋劇場

    11月23日(2回)@大牟田・三池染料講堂

 1948年11月 新協劇団『破壊』(演出:村山知義)@福岡劇場

 1949年2月 薔薇座『お前も又美しい』(演出:八木隆一郎) @柳橋劇場

 1949年3月 空気座『続・肉体の門』(演出:小崎正房) @柳橋劇場

 1949年4月 新協劇団『どん底』(演出:村山知義)

 1949年5月 薔薇座『長崎の鐘』(演出:門馬隆)

 1950年9月 新協劇団『土』(演出:八田元夫)

 当時のフクニチ新聞社の記事に「本社との共催」と紹介されているので三帆書房が単独でプロモーターになったのではないようだが、1950年の新協劇団『土』パンフレットの裏に「これまで11回の公演で累積赤字が約90万円になった」と書かれているので三帆書房がほぼ主催という形だったのではないだろうか。なお、一次資料は残っていないのだが、1953年に前進座公演をやったとか1957年頃まで興行を続けたのではないかという話がある*6。

 この三帆書房による一連の公演が、実は「福岡演劇愛好会」という鑑賞団体の演目だったと言われている。一次資料がないが、筆者が2008年に取材した「福岡演劇協会」(後述)の運営メンバーの座談会においては、「福岡演劇愛好会、あるいは市民劇場委員会と言っていたようです」、「会員制ではない。<福岡演劇愛好会>というのはあくまでも名前で、三帆書房の代表である宮崎さんがプロモーターとして動いているってことで」という発言もある一方で、その座談会メンバーが持っていた1957年の「福岡演劇愛好会」のチラシには「第4回例会」の公演予告と「市民劇場会員募集」の文字があった。さらに1953年の前進座の公演の時には会員制だったという発言もあり、はっきりしたことはわからない。ただ戦後間もないこの時期に新劇の劇団を矢継ぎ早に呼んで上演していく中で、「福岡演劇愛好会・市民劇場」という名称が使われたことだけは確かなようであるし、それが興行的に成功させ続けるために会員制度を取るようになったとしてもなんら不思議ではない。宮崎(三帆書房)は、最初は単に劇団を呼び公演を実施していたのを途中から会員制にしたのではないかと想像している。

 1955年以降に三帆醤油の持つ広い敷地*7は借金で差し押さえになったらしい。その理由の一つは当時のとんでもない入場税(1947年4月には100%、同年12月には150%に再び引き上げられている)を背負ったからだという*8。建物も資料も跡形もないが、「演劇鑑賞団体」の前史としてこの「福岡演劇愛好会」の名を記しておきたい。

注(クリックしたら注が出ます)

*1:正確には母親の実家と養子縁組をして鬼木姓から宮崎姓になった。2004年『余は発見せり―伊達得夫と旧制福高の文学山脈―』福岡市文学館、2002年より

*2:1946年に評論家・小説家の大西巨人と共に商業文芸誌『文化展望』を編集し発行したことで名が知られる。2年ほど通巻13冊で雑誌は終わるが、文学・哲学・音楽・美術・演劇・社会批評など多岐にわたる内容で、太宰治や坂口安吾、井伏鱒二など当代一流の執筆陣による作品を掲載していた。また『映画展望』という雑誌も刊行している。2004年『余は発見せり―伊達得夫と旧制福高の文学山脈―』福岡市文学館、2002年

*3:「三帆醤油本舗」の敷地内に「福岡映画劇場」があり――これは彼が作ったのか醤油屋の副業として元からあったのかは定かではない――宮崎は戦後、東京から帰郷してそこの支配人をしていたという記述もある。『昭和史幻燈』より「焼土史“宮崎宣久”の場合」鈴木召平、古小烏舎

*4:同掲

*5:「博多の劇場史その十六」『博多のうわさ』昭和55年10月、井上精三

*6:演劇批評誌NTR Vol.28「特集:福岡演劇協会」 座談会「アンネの会」の皆さんに聞く より

*7:敷地内にダンスホール「ブルーエット」があり「福岡映画劇場」があったと鈴木召平が書いている。ブルーエットは三帆醤油の1階を使用したようだが、「福岡映画劇場」に関しては手を尽くして調べたが確かなことは全く分からない。鈴木がその劇場で上述の演劇公演を行われていたと書いているので、上演記録から「福岡劇場」が「福岡映画劇場」に該当するかと思われるが、三帆醤油の敷地内にその劇場があったのかどうか現時点で不明である

*8:『昭和史幻燈』より「焼土史“宮崎宣久”の場合」鈴木召平、古小烏舎

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