田坂哲郎さん(作家・演出家・俳優/非・売れ線系ビーナス)
*田坂哲郎には書く才能がある。言葉遊びのセンス、物事をちょっとひねってみる目、作品のバリエーションの豊かさ。昔からそう思ってきた。同じ作品のはずなのに再演のたびにどんどん違ったものになっていく『些細なうた』にはかなり驚いたし、ミュージカル『キリエ礼賛』には、ミュージカルの作りが分かっている人だなといたく感心したし、『木曽の最期』の脱力系会話劇(?)もとても面白かった。もちろん、私には刺さらない、面白いと思えない作品もないわけではなかったが、田坂さんはこうしたかったんだろうなという意図が見える気がして、そこに興味がわく。田坂さんは、演劇「で」遊んでいるなのかもしれないなぁ。…というのが20年ほど見続けての印象である。あ、役者としてのこの人も、おっもしろいんだよね!ってことも、付け加えておこう。

インタビュー
柴山:今に繋がっている高校演劇のころのお話から聞かせてください。
田坂:博多青松高校に演劇同好会があったので入りました。当時の部長……、同好会なので会長か。会長が長谷川美砂さんという方でした。今も事務所(パブリックチャンネル)の先輩である長谷川先輩が当時、福岡の小劇場で活躍していた俳優さんたちと交流があってそれでなんとなく…福岡の小劇場とつながりのある先輩がいるぞ、なんかすごいぞという気持ちで入会しました。長谷川先輩は3年生で僕は1年で。先輩のカリスマ性に人が集まってるみたいな雰囲気がありました。大人の演劇人と交流がある人だったっていうのもあると思うんですが、高校演劇の大会に出ないという主義の人だったんですよ。言葉を選ばず言えばちょっとナメてた(笑)。長谷川先輩が卒業する時にその前後で2年生の先輩たちがごっそりいなくなっちゃって、僕と同じ年の男子2人と長谷川先輩しか残っていなくて。この3人でなんかやろうということになって鴻上尚史の『トランス』を、先輩の卒業公演代わりにやったんですよ。
それと前後して下本地さんがハイビームというスタジオみたいな所で『oil』(2000)という作品を作・演出していて……あ、野田(秀樹)の『オイル』(2003)よりタイトルは先ですね。それに、山下昌さんや坪内守さん、中村卓二さんとか出てたんですが、先輩に連れられて見にいって。たぶんプロデュース公演だったんだと思いますけど、東京公演もやったらしいと聞いてます。内容はあんまり覚えてないけどゴリゴリの会話劇で、笑いもほとんどなく。ちょっと発達に特性があることで監禁されている兄と監禁している弟…という話だった気がします。めちゃくちゃ面白かったんですよ。それに衝撃を受けて、すごい人たちがいるんだなというのが記憶に残っています。
一人でお芝居を見に行く高校生だったので、それこそ「あなぴ」(あなピグモ捕獲団)とか「あひる実験室」「クロサイ」(最新旧型機クロックアップサイリックス)をよく観に行ってました。2年生になった時に、長谷川先輩は卒業しちゃったんで男3人になったんですよ。でも、4,5人一年生が入ってくれたんで同好会から部にして僕が部長になり、大会も出ようと。
柴山:田坂さんたちは高校演劇大会に出たいと思っていたんですね。
田坂:そうですね、でっかい場所でやれる機会があるならやろうよという気持ちがあったんだと思うんです。初めて出た地区大会で自分の書いた作品(『メビウス・ワルツ』原案:木村佳南子)が創作脚本賞をもらったんですよ。県には行けなかったんですけど。これも人から聞いた話なのでどこまでほんとか分からないんですけど、審査員の先生の一人が僕を激推ししてくれて、普通脚本賞って1本なんですけどその年だけ2本だったとか。その先生は当時宇美商業高校の演劇部の顧問をされていたと聞いてます。
高校3年生の時も大会に出て脚本(『にっぽんパズル』高柳圭、木元太郎と共作)は引っ掛からなかったんですけどでも舞台美術賞をもらって。今思えばその時舞台美術を作ってくれた同級生が2人いるんですけど、片方は武蔵美に行き、もう片方は多摩美に行ったので…そういうやつに作ってもらった。
柴山:では高校大会にはいい思い出があるんですね。
田坂:あ~でも県には行けてないんで…。何かしらの評価はしてもらったけど県には行けなかったという悔しさと、「何であいつらが行けて俺たちが行けないんだ」とずっと言ってました(笑)。
柴山:その後、卒業されて大学に進学されますよね。非売れはいつ作られたのでしょう?
田坂:まず高校3年生の時に卒業公演みたいなものを他の学校と合同でやったんですよ。それは当時の伝統みたいなものがあって。その時、川口(大樹・万能グローブガラパゴスダイナモス)も大濠高校で……。あ、2年の時も3月に合同公演をやっていて、その時に川口と知りあっている。創作脚本賞をもらった時に、博多青松高校がポンと初出場で、当時は大濠高校がとても人気があって大濠の公演が始まるぞとなると客席が埋まるという感じで。そんな中、だれも知らん僕たちが出て来て結構ウケたんですね。それで声をかけられたんです。それで先輩たちの卒業公演に合わせて俺たちも合同公演をやるんだけど出ないかと言われて、2年生の時に…成井豊さんの『スケッチブック・ボイジャー』という作品をやったと思います。その時川口は舞台監督だったのかな。
柴山:田坂さんはその時は?
田坂:俳優で出てました。
柴山:それで、3年の卒業公演は?
田坂:あんま記憶がないんですけど、既成の戯曲をインターネットから引っ張ってきたと思うんですけど、それも出演でした。
柴山:では自分の高校では脚本を書いていたけれどみんなでやる時は俳優として出ていた。
田坂:そうですね。そのメンバーがほぼ持ち上がりで、先輩たちに倣って俺たちも劇団を作ろうと「バキューンカンパニー」を作りました。直属の先輩として「劇団坂口(仮)」があるんだと思います。2個上かな。ぎたろー(コンドルズ)さんとか加賀田浩二(有門正太郎プレゼンツ/岡山芸術創造劇場ハレノワ 事業グループ制作・学芸チーフ)さん。「バキューンカンパニー」の旗揚げをぽんプラザでやって、その時僕が初めて作・演出をやりました。
柴山:めちゃくちゃお客さんが多かったじゃないですか。
田坂:入場料が600円ぐらいだったから。当時、大濠高校の島内ってやつがめちゃめちゃ人を呼んだんじゃなかったかな。当日でいらっしゃったお客さんを帰したんじゃなかったかな。
柴山:若いのですっごい勢いがあったイメージで、お客さんが多かったことも衝撃的だったし。今まで聞いたこともない劇団でこの人数(集客)はどういうこと?と思って。その時は自分で書きたいと手を上げたんですか?
田坂:確かプレゼンする機会があったんです、他にも既成戯曲とか候補があった中で、あらすじなのか…書きかけだったのか…会議にかけて「じゃぁ書かせようか」と。手を上げて即決まったわけではなかったと思います。当時はやっぱり自分たちが作ったものを金銭的に価値があると思ってなかった…そうじゃないと600円とかでやれない。
柴山:見てください!と。
田坂:そうそう。だからごっこあそびだったかなという気がしますね。予算も立ててたんでしょうけど僕はあんまり見ててなかった。一応、お金を払ってもらってチケットを売る、という遊び。
柴山:ということは赤字も出た?
田坂:大赤だったと思いますね。当時は参加費というものを徴収していたはずです。1万円ぐらいを。人数が多いので。
柴山:バキューンカンパニーで一緒だった方で、今でも演劇関係にいる方にはどんな方が?
田坂:川口…あとはうちの劇団員じゃないけどうちの劇団の傍にいてチラシや制作的なことをやってくれてるミナミエリも当時のメンバー。あと、うちの演出の木村(佳南子)さん。「バキューンカンパニー」は3回やってますね。遡りますけど、なんであんなにお客さんが来たかというと卒業公演とかを、サカセ(酒瀬川真世)さんとか権藤(智海)さんとかが見に来てくれて、卒業公演の時点で先輩たちに見にきてもらえていた。もしかしたら先輩たちにとっては「後輩が出てきたな」というのがあったのかもしれない。
柴山:大濠高校は、卒業したら劇団にするという伝統があったそうですね。
田坂:そうですね。流れとしてなんとなくそうなんだと。
柴山:では大学に入られて、「バキューンカンパニー」のメンバーとして活動された。
田坂:そうですね、1年は。確か6,7月に旗揚げ公演をしたと思うんですが、明けて1月に甘棠館で小さくコント公演を。その時は僕と川口がそれぞれコントを書いたんです。その後に僕と川口と木村が抜けたんです。僕と木村は非売れを作るって。川口はその後に椎木に誘われてガラパになっていくんですけど。
柴山:劇団を作ろうと思って抜けたんですか?
田坂:そうですね。(高校の)演劇部の後輩たちがちょうど1年経って卒業するので。その子たちと一緒に非売れを作った。2003年です。
柴山:旗揚げは何人で?
田坂:5人ですね。僕と木村さんと後輩三人と。
柴山:名前はどうしてこれに?
田坂:名前は僕が1人で決めたんですけど、「非~系」という薬の名前、「非アスピリン系」みたいなのがかっこいいなと(笑)思っていたのが一個と、この当時集まってくれた4人はみんな女性なんですけど…当時はこういう言語化はしてなかったんですけど「商業的な売れ線じゃないな、我々は」みたいな。我々は浜崎あゆみにはなれない、でもビーナスだ、と。あと高校生ぐらいからインターネットが出て来て検索で他と被らない名前をかなり意識した。これはおそらくですけど僕らのころからじゃないかなと思います。「万能グローブガラパゴスダイナモス」なんて絶対検索を意識してると思うんすよ。あと当時のチケットセゾンかな、東京の小劇場のことが読める雑誌が家にあって。チケット屋さんの情報誌。「演劇弁当猫ニャー」とか「ハイレグジーザス」とか、そういう名前が並んでいたから、劇団名って変なのをつけるんだ!と思っていたので。地元の先輩たちを見ても「あなピグモ捕獲団」とか「クロックアップサイリックス」とか……。
柴山:商業的な売れ筋ではないよねとして「非・売れ線系ビーナス」にしたわけですが、当初からプロとなるとか東京に行くとかそういうことは考えてなかったんですか。
田坂:あんまり考えてなかった気がしますね。僕昔からそうなんですけど、目標を立てることが苦手で。未来のこととか考えられない。それこそ名前を付けた当時は大学2年生だったし。ただ就職する気はたぶんなかったんで。演劇周りのことで食べていこうとは思っていたと思うんですよね。
柴山:では大学の約3年間は「非売れ」でやって。就職する気もないのはご両親もOKで?
田坂:そうですね、うちの親は好きにすればって感じだったので。ありがたいことに。特に何にも言われず。
柴山:昔お話を伺った時に、お母さまが演劇に連れてってくれた…と
田坂:そそ、そうなんですよ、だから母親は半分自分のせいだと思ってるんじゃないかな(笑)。
柴山:大学でやっていた時は何事もなく、順調に?
田坂:順調だったのかな? 何も考えず。「集客を伸ばすぞ!」みたいなこととか目標みたいなものを立てず、次の予定を、次の公演を、と予定だけ立ててました。年に3回ぐらいやっていたので。ありがたいことに旗揚げしてすぐ位に「ギンギラ太陽’s」さんに出してもらったりとか「クロサイ」に出してもらったりとか。そんなのもあったので。何にも考えず楽しく演劇をやっていたという感じですね。
柴山:田坂さん以外のメンバーも同じように客演で呼ばれていたんですか?
田坂:いやー、そんなに外に出るタイプじゃなかったし…。
柴山:「非売れ」の旗揚げ公演は?
田坂:『ピーピングトムの失踪』を甘棠館で。

柴山:ああ! やりましたね!
田坂:覚えてらっしゃるんですね。僕と当時劇団員の大石、緒方、木村、それに客演で川口と伊藤そうあに出てもらって、5人芝居だったかな。当時、旗揚げを『漂流画報』に描いてもらったんですよ、それがめっちゃ嬉しかった。川口は5回公演ぐらいまでは出ていた。3作目ぐらいからは「ガラパ」名義だった気がします。
柴山:田坂さんはご自分の「型」というのはこの頃にできていたんですか?
田坂:いや。全然できてないですね。劇団のブランディングというものは完全に失敗していたと思います(笑)。そういうものを考えてなかったです。ガラパが偉いのは最初から「シチュエーションコメディの劇団です」というのを打ち出していて、うちは見るたびに作風が違っていて…。
柴山:田坂さんは野田秀樹の影響が大きいなと思ってました。
田坂:そうですね。第3回公演で『赤鬼』をやってます。それと僕はすごく分かりやすく松尾スズキの影響も受けてますね。僕は高校生の時に初演の『キレイ~神様と待ち合わせした女~』を見ています。シアターコクーンで。それは自慢ですね。高校の授業が終わってそのまま博多駅のロッカーに教科書とか入れて夜行のバスで。それは本当に偶然で、当時の友人に奥菜恵のファンクラブに入っているやつがいて、奥菜恵が主演のミュージカルがあるんだけどお前演劇部だろと。2枚取れたから来ないか、と。その直前ぐらいにNHKの舞台中継で野田版の『パンドラの鐘』を見てるんですよ。で松尾スズキの存在を知っていて、あ、あの『パンドラの鐘』に出ていた松尾スズキが作・演出の舞台なんだ、面白いかも、と。当時高校生で、めちゃめちゃすごいこんなに面白いものがこの世にあるんだと思って。今よりもとがっている頃の松尾さんで。あの頃見てなかったらあんなにハマらなかったかも。松尾スズキの影響を個人的には受けているなと感じます。だから高校3年生の時の地区大会ではミュージカルをやってます。『キレイ』を見てそのまま帰って書いて。ピアノはちょっとやってて和音とかは分かっていたのでフリーの音楽作成ソフトをダウンロードして曲も作って。そういう意味では今に繋がっているというか。自分で曲作って劇中歌を歌う。
柴山:そういえば、思い出した。ミュージカルやりましたね、ぽんプラザでやった。
田坂:『キリエ礼讃』ですね。

柴山:あれ大変面白く見たんですよね。…まずは順を追って話を聞きましょうね。では就職せずに演劇を続けて行こうと思われていた?
田坂:そうですね、でもこれはたぶん性格だと思うんですけど、なんとかなるだろうと思ってた。その先に何か食っていける道があるんじゃないかとぼんやり思っていた。かなり早い段階で、アクロスの円形工房…あれって柴山さんに声をかけてもらった? 『蝶々!』という作品を作演出させてもらって。あの時にけっこうしっかりとギャラをもらったんです。卒業して割とすぐの23ぐらいのころです。
柴山:そんなころ…? ということはまだ大学生のころの田坂さんの作品を結構見ていたということなんですね、私。私がプロデューサー的な立場を頼まれて、面白いから田坂さんを脚本に指名したんですよね。
田坂:あと西鉄ホールの5周年記念の『すぎのとを』(2004)の日替わりゲストに呼んでいただいたんです。
柴山:そうか! ということはこの時期には既にもう名前が知られていた。…失礼な言い方ですけど、そのちょっと前ってたくさん劇団があったんですけど、この時期、「非売れ」「ガラパ」「ぎゃ。」ぐらいしか…同じ世代はあんまりいなかった…というのも大きかったかもしれない。
田坂:そうですね。
柴山:ではアクロス円形工房がギャラをもらった最初の公演?
田坂:いや、実は一番最初はぎたろーさんなんですよ。福大演劇部の部長をやってらして。卒業公演を書いてくれないかと頼まれて、書いたら原稿料として1万円くらいかな、もらった記憶があります。
柴山:2つ上ってことですから、大学2年生の時ってことですよね?
田坂:そうですね。寺田寅彦の話を書いた…ほぼほぼ創作なんですけど(『寺田さんちのコーヒールンバ』)。
柴山:その時、田坂さんが思っていたのは書く方でお金をもらうと。
田坂:…そうですね、ぼんやりそんなことを考えていたと思います。
柴山:エポックメーキング的な、節目というか、そういうのは…?
田坂:たぶんいくつかあって。例えばE-1グランプリ。あれ、柴山さんが関わっていた? いまでも池田(美樹、劇団きらら)さんと話すんですけど、1回目の試演に2時間ぐらいで作った作品を持って行って、柴山さんに「もうちょっとちゃんとした作品を見たかった」と言われたのをすーっごい覚えてます。
柴山:失礼しました(笑)。
田坂:いや、そらそーなんです(笑)。だって自分たちの作品の稽古が終った後に2時間ぐらいで作ったやつを、それも前日に。ほとんどエチュードみたいなのを持って行って。それでだめだったら落ちるとかじゃなくて上演順が決まるみたいなふわっとした感じのルールで、だからあんまりモチベが上がってなかった。今考えると人に見せるんだからちゃんとしろよと思うんだけど(笑)、だけど逆にエチュードで作ったようなのが池田さんに受けたんですよ。それで池田さんが声をかけてくれたのが今でも交流に繋がってます。E-1で1回目に出たやつかなんかで優勝したんですよね、それで東京大会に行ったんです。初めて東京に行くぞ!と。
柴山:ここで初めて東京公演して。どうでした?
田坂:九州ってそんなに田舎じゃないかもと思いました。九州…というより、俺ら。
柴山:自信はつきますね。他にはありますか?
田坂:そうですね…
柴山:いつからか、田坂さんが脚本で、木村さんが演出、と分業になりましたよね?
田坂:あ、そうですね、もしかしたらそれが分岐点かも。明確には『踊りに行かないで』(2010)という公演で東京に行ったんですよ。これが何かを変えたわけじゃないんですけど、ここで明確に作と演出を分けました。
柴山:分けた理由は?
田坂:色々あるんですけど、僕がもっと俳優としてちゃんと舞台に立ちたいと思ったのが一個理由として在ります。脚本書いて自分で演出して、出るというのは、「自分にできる役」を宛がっちゃうのが嫌だなぁと思って。俳優がやりたいなと思った。あとだんだん演出に自信がなくなって来たというのがあって。もともとずっと木村さんと一緒に演出をやっていくという時代があって、その中で完全に渡したいと思った…どんな話を木村さんとしたか覚えてないんですけど、その時点でもう木村さんが演出の部分を担っていたというのがあるんじゃないかと思います。

柴山:ではなるべくしてなったんですね。俳優として立ちたい、という点ですが…私は俳優としての田坂さんもいいなと思いますが、自分の劇団でも立たなきゃだめだったんですか? よその舞台に立つだけでなく。
田坂:自分の劇団でも立たなきゃだめだなと思いましたね。たぶんその時期から客演の声を頂くことが減っていたのだと思います。目立ちたがり屋なんで。
柴山:自分で書く、そして役者もするなら、この役をやりたいと思いながら書くわけですか?
田坂:あーそうですね、基本的には本を書く時点で大体決めているので。当て書きみたいなものかな。でも自分はこの役かと思って書いていたけどこっちかもと思って変わることもあります。
柴山:『踊りに行かないで』は劇団の2回目の東京公演。

田坂:E-1の時は「非売れ」名義ではなかったので。劇団としては一回目ですね。
柴山:これはどういうきっかけで。
田坂:東京公演もやろうよとなって助成金に応募したら通ったんじゃなかったかな。
柴山:行こうと思ったのは周りが行き出したから? ガラパがツアーで回り始めたとか…。
田坂:かもしんないすね。…元々、どっかツアーするみたいなのはやりたいねみたいな話はずっとしていて。フットワークの軽い団体でありたいみたいな話はこの頃してました。
柴山:今思い出した…『そう遠くない』でどこか別の場所でやりましたよね?
田坂:そうですね、九州4都市でやりました。
柴山:『そう遠くない』は沖縄の話でしたっけ。
田坂:はい。米軍基地の話。これは3回ぐらい公演してるんですよ。初演は2013で、2014年に九州沖縄ツアーをやっている。
柴山:では他所でやったのは東京が初なんですね。
田坂:中野の「HOPE」だったと思います。これはなんか、東京でフラッとよそから来た団体を受け入れてくれる劇場って限りがあって。AMCFがかなり協力をしてくれたと思います。しかも木村さんが初演出ということで羊屋白玉(指輪ホテル)さんに演出のアドバイザーに入っていただいた。
柴山:実際の東京公演は満足いくモノだったんですか?

田坂:『踊りに行かないで』というタイトルのおかげか、『踊りに行くぜ』関係の人がけっこう見にきてくれた気がします。ダンス界隈にはアンチ「踊りに行くぜ」の人たちもいて、その人たちがすごい喜んでくれた(笑)記憶が。「よく言った!」みたいな。僕、イムズで「踊りに行くぜ」を見て、全然わからないと思って書いた作品ではあったので。そういう意図は十分にありました。
柴山:(笑)。じゃあ集客はしっかりあった?
田坂:すっからかんという感じじゃなかったですね。その時に、…当日券とかも多少出たんですよね。東京ってフラッと見に来る街なんだなと思いました。
柴山:福岡は当日券は出ないんですか?
田坂:ん~あんまし出ないかな…作品とか場所にもよりますけど。しかも知らない劇団なわけで、東京の人にしてみたら。もちろん白玉さんのネームバリューもあったと思いますけどダンスの人たちが見にきてくれたという印象があって。あと、劇中でぽち演じるアートかぶれの女の子が、雨の日でも晴れの日でも公演で傘をさすというオリジナルをインスタレーションをやっているというシーンがあるんですよ。当時、「インスタレーション」という言葉って福岡ではあまり受けなかったんですよ、そのくだり。東京では受けたんですよ、確か。それで、あ、東京の人ってこういうのをちゃんとキャッチしてるんだなと思ったんですよ。
柴山:「インスタレーション」ってアート業界ではその頃でも割と普通に聞く言葉だったと思うので、福岡なんかは割と「演劇/アート」みたいに客層が別れてる…とか?
田坂:あ~そうかも。だから東京では受けた。僕は東京で一回やって満足したんですよね、ちゃんと受けるんだって。それでこれ以降行ってないんですけど。
柴山:そこで言う「受けた」とはインスタレーションという言葉の所ではなく作品としてってことですね?
田坂:そうです、そうです。通用するんだみたいなことが感触としてあって、この辺から僕は「地方を目指す」と言い出してるんですよ。もっと東京じゃない、地方へ行くぞ。地方から地方へ、と言いだして。
柴山:それもあって『そう遠くない』だったんですか。


田坂:そうですね。それで沖縄とか行って。熊本、宮崎、長崎、沖縄ですね。宮崎は「えんげき新鮮市」(えんげき・とれたて新鮮市)みたいなイベントにひっかけてもらった記憶があります。他は自主公演で手打ちで行ってますね。長崎がめちゃくちゃ苦戦したんです。タイミングの問題だと思いますけど、長崎は常に非売れは苦戦してます(笑)。沖縄は母方の実家が沖縄で。それと地元の新聞社2社ともに取り上げてもらったのでけっこう入ったかな。
柴山:これも助成金をとって?
田坂:そうですね。
柴山:今ふと思ったんですが、「非売れ」って珍しく再演をする劇団ですよね。
田坂:そうですね、『彼女の消息』とかも再演してる。
柴山:珍しいですよね。ガラパも再演してますけど…基本的に小劇場系って…
田坂:新作至上主義ですもんね。
柴山:再演を積極的にしようと思ったということですか?
田坂:『そう遠くない』は、初演とツアーとその後、佐世保・福岡の2都市でやってるので全部で3回やってるんですけど、全部脚本を書き直してるんですよ。なので再演と言いつつ…。情勢に合わせて書き直している。
柴山:他にもツアーをしている作品はあるんですか?
田坂:最近だと『木曽の最期』とか。福岡と長崎。これもね~、長崎は苦戦しました。長崎はタイミングを間違えると本当にお客さんが来ないって感じみたいで。これは「ペンタの日」に応募したんです。それが通ってやった。それと『関門オペラ』も那珂川と下関でやってます。これは平家伝説とゆかりのあるところでやるぞという企画で。歌うエキストラを広く募集しました。
柴山:田坂さんがアルバイトをせずに生活できるようになったのはいつ頃ですか。
田坂:これは明確に覚えていて、大野城まどかぴあでの子どもミュージカルで『銀河鉄道の夜』(2010)で演出助手を募集していて、入ったんですよ。東京から来た大杉良さんという演出家の助手。その時点ではまだバイトをしてたんです、まどかぴあ近くのほっともっとで。そのほっともっとが最後のバイトなんです。その公演が終わってもしばらく続けていて…これは平田オリザさんが何かのインタビューで答えていたんですけど、「演劇って急に食える、もう一生大丈夫、にはならないと。最初は半年大丈夫がある、その後、1年大丈夫だな、3年大丈夫だな、になっていくんです」と。どっかの段階で、あ、半年大丈夫だなと思ったのでやめようと思ってやめました。28とか29才ですね。
翌年に同じ大野城まどかぴあさんで子どもミュージカルを作・演出でやらせてもらって。『真夏の夜の夢』をミュージカルで。曲も全部作って。それが2011年か。これをやりながら甘棠館show劇場の10周年事業をやってるんですよ。『アームストロング・コンプレックス』というのを。あ、違うこれは2010年だ、『銀河鉄道の夜』の時です。
柴山: これもギャラをもらってということですね。ではもうこの頃には本当に作・演出でギャラをもらえるようになっていた。
田坂:そうですね、演劇でお金をもらうということが。この辺りで「半年は大丈夫」という感じになってきた。
柴山:田坂さんはどこかの専門学校で教えることはなさっていないんですか?
田坂:専門学校ではないんですけど、ワタナベエンターテイメントアカデミー、いわゆるナベプロの九州事業部の学生向けのレッスン講師をやっています。とはいえ週1ぐらいなんですけど。コロナの前からやってるんで…7、8年? あとは九産大の非常勤講師。これは2つ授業を持っていて、1つは「シナリオ研究」という名前でいわゆる戯曲講座。もう1つは演技レッスン「演技基礎実習」。…いわゆる俳優になりたい人向けではなくて、映画監督とかカメラマンとか映像監督を目指している人たちに向けて演技のレッスンをするという授業です。要するに自主製作とかでお互いの作品に俳優として出たりする時に全然お芝居ができないよりはできた方が作品のクオリティに関わってくるし、単純に声がけ、演技の演出をするときのことも踏まえてお芝居のことも多少分かっておいた方がいいだろう、というようなことを最初の説明で聞きましたね。
柴山:九産大は演劇関係の学部はないですよね?
田坂:ないです。なので芸術学部の写真・映像学科。これは最初にAMCFの糸山さんの所に話が来て、何人かピックアップしたところで私が選ばれたと聞きました。多分、一番若かったとか、後はちゃんとメールを返すとか(笑)。
柴山:ラジオの仕事もありましたよね?
田坂:そうですね、でも1本書かせてもらったぐらいなんですけど。NHK佐賀さん。当時、NHK福岡の清水さんという演劇が好きな貴重なテレビディレクターがいらっしゃって。今は東京でバリバリ大河とかやってる人なんですけど、その人が僕のことを気に入ってくれていて、それが縁でまだ僕が全然事務所に所属とかしていなかった時にラジオドラマの俳優として呼んでくれたりしたんですよ。パブリックチャンネルの前です。さらに同い年のディレクターがいるからと紹介されたのが安藤君で、安藤君も今東京行って出世しちゃったんですけど。この安藤君が、NHKって持ち回りで作品作るんですけど、佐賀の担当になった時に「書かない?」ってことで二人で一緒に作ったのが『些細なうた』。2011年の11月3日が放送でした。これがNHK内のラジオドラマ選奨の佳作をとったんですね。その後それを舞台化して…あ、そうだ『些細なうた』でもツアーしてます。福岡演劇フェスティバルでやって。西鉄ホールとぽんプラザとその後、札幌のシアターZOOと茨城のつくば市にあるカピオ(つくばカピオ)の3か所回ってます。

柴山:東京公演があり、甘棠館の周年事業で書き、まどかぴあでの仕事をやり、NHKでの話が来て…2010年2011年が大きく変わり目でしたね。
田坂:本当、今こうして話してみるとその辺が1つの転換点だったのかもしれないですね。30手前ですね。それでなんとかなるなという感じになってきて、それで30で結婚しているんですよ。バイトしなくて良くなった、いわゆる演劇と全然関係ない仕事をしなくてよくなった、
柴山:なぞ解きの仕事もされていますよね。これはいつから?
田坂:「劇団うりんこ」さんが、これも劇団の周年イベントで…うりんこさんはうりんこ劇場という自社の劇場を持っているんですけど、そこのバックステージツアーをしながら謎を解くということをやりたいと制作の人がツイッターか何かで言ってて。それに対して僕が「作りましょうか」と声をかけて、作った。その前に知り合いのアイドルの生誕イベントで謎を作りたいということでちょこちょこやっていて。
柴山:あ~、だから初めてじゃなくて感覚が分かっていた。
田坂:そうそう。もっと言うと、僕基本的に好きな物があると作り手側に周りたくなる性分なので、なぞ解きの参加者としてハマると「作りたい」となるんですね。で最初は作ったものを友達に遊んでもらって、その延長で知り合いのイベントとかで謎作ってたら、なんとなく「田坂はなぞ解きが作れるぞ」と周りで広がり、それと連動して全国でもなぞ解きがブームになっていき、福岡の演劇関係でなぞ解きを作るとしたら田坂に言えばいいんじゃないのみたいになり、まどかぴあさんのイベントとしてバックステージツアーも兼ねてなぞ解きを作りたいと。僕がなぞ解きの全体の構成、もちろん一つ一つの謎も含めて作って。導入と解決編の脚本は川口が書いて、出演とかチェックポイントのキャストはガラパのメンバーで、という形で作ったんですよ。小学生に参加してもらって。大きく文化施設と仕事したのはそれが初めてだったんですよ。2016年だ。お芝居×なぞ解き×バックステージツアー。うりんこはその前だったと思います。
柴山:今もなぞ解きの話は飛び込んでくるんですか。
田坂:時々…ですね。コンスタントに話が来るわけではない。それこそまどかぴあさんが1回。春日のふれあい文化センターは25周年の1回映像でやらせてもらったことがあったので、30周年の今年もまたやりたいですと言われてやってます。うりんこさんは、周年の後から何作か作らせてもらっていて。うりんこさんが持っている子供向けレパートリー作品の中に、『名探偵山田コタロウ」というのがあるんですよ。小学校でかけるような70分くらいの、名探偵にかぶれた男の子が友達と一緒に冒険するというような。で、それが、はじめは猫を探している内に別の事件に巻き込まれてその事件は解決するんだけど結局猫は見つかっていないというオチなんですよ。それを子どもが見た後で、見つかってない猫を探そうというなぞ解きをやるというのを僕が担当したんですよ。たぶんそれが良かったんだと思うんです。それで山田コタロウシリーズで2つくらいやりました。資料もらって映像も見て。観劇となぞ解きの抱き合わせ。そこから新見南吉原作の作品(『はなのき村』)の後には、新見南吉の作品モチーフがいっぱい出てくるなぞ解きを作りました。あとは給食室が宇宙船になるという作品(『小学校は宇宙ステーション』脚本演出:佃典彦)があって、それで宇宙船で…そうしているうちになぞ解きだけをやりたいという声がうりんこさんに届いて、なぞ解き公演をやることになってそれで3,4本作りました。初期にもらえるギャラは少ないんですけど、1回公演を打つごとに1000円くれるという契約になっていて、年末に「今年これだけやりました」といって2万円ぐらい入ってくる。俺の唯一の不労所得(笑)。
柴山:そういう仕事が忙しくなると、自分の劇団の公演を打てなくなる所も多いと思いますけれど、非売れはやり続けていますよね。そういえば、ちょっと前に西新のカフェでやった『些細なうた』や大名の松楠居でやった『轡田市猿田校区年度末区民会議』なんかはまた今までとちょっと違うタイプの公演でしたね。
田坂:あんまりすごい違うことをやってるつもりはないんですけど、出力は確かに違うかもとは思います。一個はやっぱり…ガラパとかいまだにあんなに建て込んで作ってすごいなと素直に思いますけど、ああいう体力がなくなって来たというのがあるかもしれない。あるものを使ってとか、アイデアで何とか勝負するとか、たくさんのお客さんを集めて公演を打つよりかは多少高額でも非売れなら行くよというお客さんを満足させる方がいいんじゃないかということを思ったり。個人的には二本柱で行きたいです。観劇と参加と。どっちも演劇だと思ってますけどいろいろやってみたいものの1個だと。
柴山:ミュージカルもあれば人数がとても少ない作品もあれば、観客参加型の作品やら…ずいぶんタイプの違う作品がありますけど、その時にやりたいと思って書いている…ということですか。劇団というより田坂さんの赴くままに。
田坂:そうですね、相変わらず劇団のブランディングとか考えてないってことではあるんですけど。
柴山:では先ほどの質問に戻れば、劇団以外の仕事がたくさん来るようになって劇団の公演が打てなくなるという所が多い中で、そうではなく非売れは非売れとして一つ軸足置いてやりたいことはやるよ、と思っている?
田坂:そうですね。確かに…でも僕個人が忙しくなったりはするけど劇団として何とか年に2回は公演をと思っています。やっぱり書き方が変わるんですよね、外に書くのと非売れに書くのとでは。
柴山:では90年代から始めて、福岡の状況も変わって来たと思いますが、その変遷をどう見ていらっしゃるのか。
田坂:そうですね、僕20才のころ、自分のことを「イムズ芝居を知らない子どもたち」って呼んでいたんですけど(笑)。
柴山:うまいなぁ(笑)。
田坂:当時、何か盛り上がっていたらしいということへのやっかみがあったんですけど、それこそ今の若い人に言わせたら「青年センターがあったじゃないですか」と。そらそうですね、すみませんと。だから状況はどんどん大変になってるなと。
柴山:え、青年センターで公演や稽古やりました?
田坂:やってないですけど、なんだかんだで青年センターは使ってるんですよ。座K2T3さんの作品に出させてもらった時に会場が青年センターだったし。劇団ぎゃ。とかはあそこで稽古してたし。青年センターがあればもっと若い人たちがパッといろんなこと試せたり。こんな大変な中で若い人たちえらいなぁと。
柴山:非売れの横のつながりは、ガラパとかぎゃ。ですか? ギンギラにもお出になっていますが。
田坂:一回、非売れはクロサイと合同公演してるんですよ。『漂白詩人』という。クロサイ主宰の川原さんから話が来たんじゃないかな。クロサイが若手とやるという企画で。
柴山:今はだんだん状況が悪くなっている?
田坂:ねぇ、場所も減っていってる…紺屋もなくなってるしFucaもないし。発表する場所がどんどんなくなっている気がして。そんな中で「そめごころ」なんかは早良区にアトリエを作って偉いなぁって。大したもんだなと思ったりします。一方で「ヒカリノオト」なんかはもうやらなくなっちゃったみたいで。
柴山:コロナの間は?
田坂:僕はコロナで意外と仕事があったんですよ。大学の授業は止まらないので。劇団としては『先生の暗いロッカー』が2020年とか。でも一公演回中止になったりはしてるし。でもいわゆるweb企画に参加したりして「乗り越えた」というほど大げさではないんですよ、うまいこと逃げおおせたという感じです。僕個人としてはそんなにくらってないです。

柴山:わかりました、では環境としてはあまり芳しくない方向に行っていると。
田坂:とはいえ、若い人たちも出て来てますから。それこそずっと「ぎゃ。」「ガラパ」「非売れ」の下がいないなぁ…ということにくらべたら学生演劇祭とか。最近になって「昨日の明日」のような、ああいう昔だったら絶対にやらないイベントに参加するようになり、ああこんなに福岡には演劇をやりたい人がいるんだと。オーディションやったら60、70人来るんですよ。へぇ…と。なので、変わりゆく状況に対応していくしかないという感じですね。やりたい人たちがいる限りは悲観的にならなくてもいいのかな。
