レポート 「いろんなみえかたに出会う いろんな表現に出会う 第2回 言葉と身体のワークショップ」

 目の見える人、見えない人、見えにくい人…参加者みんなでいろんな表現を「共にやってみる」というワークショップ。全三回のうち、都合の合う2回目だけ見学させてもらった。

 2回目の今回は、詩人の大崎清夏さんがファシリテーターで、アシスタントに乗松薫さん(太めパフォーマンス)。参加者は24名でそのうち目が見えない/見えにくい人は4名ほど、ガイドを務める人が2名ほど。「言葉」「身体」に加え、「視覚」という要素がポイントとなるこのワークショップ、果たしてどんな「出会い」があるのか、楽しみである。

 参加者一同が大きな円を作って座る。真ん中に立つ乗松さん。まずは手をこすって温めるところから。そして自分の腕に触れる。最初は皮膚だけ、次はつまんで…骨を触わる。それから腕だけではなく頭、顔、耳、首、と徐々に触る場所が下がってくる。腹まで来たとき「揉まない!」との声がかかる(笑)。ついついお腹は揉んじゃうね(笑)。そして足へ。両足だけで全体の4分の1ほどの骨があるというトリビアを聞きながら、参加者はゆっくりじっくり、あるいはせわしなく摩擦させながら、自らの体を触っている。両手で抱きしめるかのように身体を触っている人もいる。自分の身体を触っているだけなのに参加者の顔がほころんでいるのが印象的だ。

 次は二人組を作る。片方の手の甲と手の甲を「皮膚レベル」で合わせてと言われ、おずおずと甲を合わせる人たち。乗松さんはにこやかに「肉レベルで触れて」「次は骨レベルで」。まだ皆さんはぎこちない。「二人の丁度いい所で(触れ方を)ストップしてください。あ、話さないでくださいね」。甲を合わせたまま静かに座り、寝転んで、また立つという動きを始め…この辺りから参加者がそれぞれ「二人だけの世界」に入る。喋っちゃダメと言われてもあーだこーだと話す二人、見つめ合いながらゆっくりと動きを楽しむ二人、指示はなくても思うがままに動き始める二人…。次第にペアたちは甲をつけたまま歩き始め、他のペアと繋がって(その頃にはペアの時の繊細さは無くなっているけれど)最後に一つの大きな円になった。「目を見た方がいい」「逆に見ない方がいい」「見なくても見える、感じる」との感想を述べる参加者。私も「見る/触る」、この二つはどんな関係にあるのかなとぼんやりと考える。

ジェスチャーをする大崎さん(中央)

 ここからは詩人の大崎清夏さんのターン。まず6名ずつぐらいのグループに分かれ、それぞれが輪になって椅子に座る。今からやるワークは、福留麻里さん(ダンサー・振付家)の「まとまらない身体と」のワークを借りたとのこと。自己紹介、今日のコンディションを語った後で、日常でよくやる動きを一言もしゃべらずにやってほしいと言う。そしてその動きをグループにいる他の人たちに言葉にしてもらうということらしい。「日常の中にどういう動きがあるか。またどういう言葉があるか。それを見つけてほしいです」と穏やかな声で大崎さんは話す。まずは大崎さんが手本として「動き」を見せてくれた。見えない参加者は彼女に触れながら動きを理解する。その他の参加者は真似したり、「ああ、あれでは…?」とつぶやいたり。すかさず大崎さんは「これは何の動きかを当てるゲームではないです。他の人に(動きを)言語化してもらうことで言葉の世界を広げてもらうのが目的です」と言う。なるほど、それならできるだけ具体的なジェスチャーじゃない方が面白いのかもと考える。

 さてグループでそれぞれワークがスタートする。とあるグループでは、男性が「足を組んで、手を顎に当て、足を組みかえて、今度は腕を組む」というジェスチャーをすると、こんな声が聞こえてきた。「足を組んで寝てる? 考えてるのかな」「眠りたいのかな。電車で座ってて寝る位置を探してる感じ」「カフェで外のテラス席に座ってる。風を感じてる」「うんこしてる? でも足は組まないか!」笑い声も響く。目が見えない人が彼の身体を触るが、見える人も彼の後ろから頭に手を置いてみたり腕をつかんでみたり。

 大崎さんが各チームの誰かのジェスチャーにタイトルをつけたから当ててほしいと言いだした。『素材の違い』そのタイトルだけですくっと立ち上がってジェスチャーをし始めた女性。その姿を見ながら、口も滑らかになっている参加者はあれこれ言いだす。『足踏みミシンの天使とポケットピカチュウ』のタイトルでも該当者はすぐに自分の動きだと分かって立ち上がる。ジェスチャーを見てみんなは「うどんを踏んで伸ばしてる?」「ビジュアル系バンドが…」「貧乏ゆすりで、ポイ活してるんだよ」…(笑)。どんなジェスチャーだったのかって? ふふふ。

 大崎さんは「目が見えているから全部が見えているわけではない。声を聞きながら見るのも違うし、異なる要素によって見え方が違ってくる…けどまとめるのは良くないですね」と一言。そして最後に、冒頭で彼女が見せたジェスチャーをもう一度やってくれた。なんと一人の参加者が「紐で薄めの洗濯物を干しているのでは? 紐に沿ってスゥっと手を動かすのが大崎さんにとって気持ちがいいのかなと思いました」と言うとドンピシャだったらしく大崎さんが思わず握手を。ご名答! 大崎さん、晴れた日に手ぬぐいを干すのが好きとのことでした。

 ワークはこれで終了。それぞれ感想を1分で話す(大真面目に大崎さんはタイマーをかけた!)。ここでいくつかご紹介しよう。「レベルの違う触れ方に言葉がなくてもだんだんわかるようになっていった」「今度はアイマスクをして(触って言葉にすることを)やってみたい」「甲に触れたまま動くのは難しいけれどここだけ温かさを感じた」「ジェスチャーで生活が赤裸々になって恥ずかしかった。家の広さや材質まで想像できるし…」「同じ動きでも感じ方、表現の違いが楽しい」など。みなさん、楽しんだようだ。

 目が見えない人も見える人も楽しそうにワークをやって、言いたいことが言える自由な空間だった。両者が一緒に何かをする機会はあまりないので(私が知らないだけか?)その点でも大きな意義がある。

 ただ私には消化できていない部分も多い。まず「見え方の違い」にあまり意外性がなく、ワークの着地点が予定調和的だと感じられた。それが悪いわけではないが、言葉を拓いていく地点には距離があり、せっかく言葉にセンシティブな詩人とやったのにもったいなく感じる。ジェスチャーが分かりやすかったせいだろうか、どうしても「答え」を求めてしまいがち。例えば「物を膝の上に乗せる」というジェスチャーに対して、細かく分析して(触れた人も腕の緊張具合を判断し)石ではない、生き物だけど柔らかそう、では犬ではないな、ネコだ…と分かったという話はとても興味深かったのだが、それは「身体を見る」という点においては意味があるが「言葉」という点ではあまり面白味がない。説明ではなくどうやれば広く深く、「見る」と「言葉」の間を繋げられるのだろうと考えた。最初から「これは○○している動作です」と明らかにした上で、そこからあえて違う見立てをしたりオノマトペを出したり歌を作ったりすれば、少しは面白くなるだろうか? 

 もう一つは、「共にやる(一緒に同じことをやる)」だけに留まらないWSとはどういうものだろうかと考えた。今回の重要な要素として「触れる」が挙がると思う。参加者の感想で「他者と手の甲を合わせて動く」ことについて言及した人も多く、他者に「がっちりとさわる(つかむ、つなぐ、のる、ひっぱる…)」ではなく「デリケートに触れる」ということが新鮮な体験として参加者に印象に残ったのだと思う。「全員アイマスクをして触ってみたいと思った」という感想からもわかる。

 そういえば、と思いだしたのが、2021年に国立民族学博物館でやった『特別展 ユニバーサル・ミュージアム――さわる! “触”の大博覧会』である(会期:2021年9月2日~11月30日)。実はこの展覧会に行った夫から話を聞いただけなので多くは語れないのだが、視覚優位な社会において触覚情報に集中してもらうという興味深いものだったようだ。通常の博物館ではありえないほど会場を薄暗くしているのは、「『視覚を使わない不自由』ではなく『視覚を使わない解放感』を体験していただくのが狙いです」(文章はそのまま「artscape」による展覧会の紹介映像より)だという。遮断することで別の感覚を研ぎ澄ますという方法は確かに効果的。今回のWSでも場内を薄暗―くして触れると、言葉に鋭敏になれたのだろうか?

 ところがその後に当該の弱視の方が「普段は(触れるのではなく)言葉で判断している」と発言したのを聞いて(注意、彼女はこのWSを好意的に評価している)、意外に感じたし同時に納得もした。物体ならともかく、人の身体にはそうそう触るものではない。…となると、視覚を遮っては「身体」のワークショップは難しいよなぁ…。

 ともあれ、こういった企画は一度で評価や判断をするものではないことも承知している。回数を重ね、試行錯誤することで気づくことも多い。私にとっても、考えるきっかけを与えてくれたという点で、面白いWSだった。

タイトルとURLをコピーしました