インタビュー:幸田真洋さん(劇作家・演出家・俳優)、萩原あやさん(俳優)/劇団HallBrothers

*かねてより劇団HallBrothersが、再演をすること、ロングランや平日公演、託児をすることに感心していた(このうちの「どれか」をやる劇団はあるけれど、「どれも」をやった小劇団は福岡市にはない)。良いと思ってもそれを実際に取り入れるのは難しいからだが、お話を伺っていると「影響を受けたらやってみようとする素直さと柔軟性」があるからできたのだと知る。その一方で、幸田さんにはぶれない「描きたいこと(伝えたいこと)」と「伝えたい相手」がある。それは「世の中の分かりやすい価値観や耳触りのいい言葉に流されやすい人たち」に何かしら刺さる芝居を作るということなのだが、それはともすれば上から目線の啓蒙主義になる。でもそう感じないのは、彼らの素直さ(腰の低さ)があるからかもしれない。――「演劇はどうしても知的な人たちに向けたものになりがちだし、もっと広い層に向けるとザ・エンターテイメントになってしまう」という幸田さんの言葉にハッとした。その言葉を受けて今後のHallBrothersの作品を見たら、また見方が変わりそうで楽しみである。

<始まり>

柴山:HallBrothersさんも1999年に劇団を結成されてもう27年になりますね。まずどういう経緯で劇団を始めたのか教えてください。

幸田:高校演劇をしていたんですけど、代は違うけど「風三等星」の広瀬(健太郎)さんとか「ガラパ」の川口(大樹)くんとかと同じ大濠高校で。「風三等星」の小沢健二くんが同級生で、高校卒業後に2人で「L.H.THEATER」という劇団を作ったんです。主宰が小沢君で僕が作・演出だったんですけど、2年ぐらい経って方向性が違うなと思って僕がやめて。それでHallBrothersを作ったんです。

L.H.Theater 第2回公演『アンドロイドは何の夢を見る?』1997年

柴山:何が違って、何がやりたくて…?

幸田:僕は当時「第三舞台」の鴻上尚史さんが好きで。「第三舞台」のエンタメ性も好きだったんですけど、人間の裏側とか社会の裏側を描こうとするところが好きだったんですね。だから僕が書くものもエンタメだけでなくそういうものがちゃんとあるものを書きたい。ただ小沢君は、「ザ・エンタメ」みたいなものが好きだったので、そこでちょっと合わないなとなったのがあります。そして僕も若かったので折り合いのつけ方がわからなかった感じですね。だからこれはもう僕がやめた方がいいのかなと考えて。作・演出を合計3本やってやめました。

萩原:サカセさんとかコガキョとかも…

幸田:そうそう、古賀今日子も同級生なんですよ。酒瀬川(真世)が1コ下で。2人も在籍していました。

柴山:始める時から幸田さんが作・演出をすると決めていたんですか。高校演劇の時から書かれていた?

幸田:そうです。1年間の終わりに福岡市内の演劇部が集まって合同公演をやっていたんですけど、1年生の時も2年生の時も僕が作・演出をして。2年生の時にやったやつが、ザ・エンタメって感じのお芝居だったんですよ。殺陣とかアクションもあって。小沢君はそれがいいなと思っていたみたいですけど僕は…やっぱり違うなと思って。劇団になった時は自分のやりたいことをやりたいな、と。

柴山:劇団を始める時の明確なモットーなどは?

幸田:とにかく自分がやりたいことをしたい、後は「大きくなりたい」みたいな漠然とした思いしかなかったですね…。

柴山:そこで言う「大きくなりたい」とは具体的にはどういうことを指すんですか?

幸田:動員ですかね。500、1000、なんなら東京にも進出して…みたいな。数字の上で観客が増えて、ステップアップしていくイメージですね。

柴山:それはプロになるという意識とはまた違うんですか。

幸田:う…ん、ただただ動員を増やしたい、有名になりたいみたいな漠然とした感じですね。当時、「風三等星」がイムズ芝居に出た時で。イムズで開場前にお客さんがものすごい並んでて。ロビーから階段を降りたところまでずっと並んでたんですよ。その列に加わりながら「ああ、すごい」と。ただもう、こうなりたいな、と。

柴山:始めた時の人数は?

幸田:僕含めて5人くらいでした。L.H.THEATERから3人連れていって、その友達が1人来て、僕で5人。あとは当時あった、いろんなものを募集する『じゃマール』って雑誌とか、『シティ情報ふくおか』に劇団員募集を載せて。それで何人か来た記憶があります。

<劇団の特長:再演、平日公演、ロングラン、託児>

幸田:せっかく書いたのにもったいないなと。小劇場の演劇って新作至上主義というか、どんどんどんどん新作を作っていくのが当たり前みたいなところがありますけど、レパートリーになるものを作っていきたいし、そうなりそうだなという作品を何回もやることで育てていきたいなという思いもあります。

柴山:それは最初からそう思われていたんですか?

幸田:いえいえ、言葉にできたのはここ何年か、ですね。若いころは全然そんなこと考えてなかった。直観ですね。今自分がやりたいなと思うものをやっていた感じです。

柴山:『たまねぎのしん』が再演の最初ですが、劇団立ち上げの2年目にしてもう再演しているので非常に珍しいなと思っていたんですよね。『となりの田中さん』も何度もやっていますね。

幸田:あれは、自分たちでやろうというより「田中さんやってください」って。代表作なので望まれるのかなあと思いますし。

柴山:HallBrothersの代表作はこれです、というのが一つあるのは大きいことですね。

幸田:ただ、おっしゃる通り『となりの田中さん』を何度もやってるので、うちの若い劇団員が「え、またですか」とどこかで言われたらしくて(笑)。

萩原:そればっかやってるって(笑)。

幸田:そのようには見られるんだろうなと思うんですけど、世の中に対しては分かりやすいですもんね。「あれが代表作で、この芝居をやっている劇団だ」みたいな。若い子は怒ってましたけどね(笑)。

2014年版 『となりの田中さん』
2025年版 『となりの田中さん』

柴山:さて旗揚げは5名で、その後…

幸田:彼女(萩原さん)が第2回公演『たまねぎのしん』から。第5回公演辺りで中心メンバーが固定した感じです。第12回公演『スパイラル・モンキーズ』(2004年)までが、僕が好きだった鴻上(尚史)さんに寄せた、それが演劇だと強く思っていた時期の作風だった気がします。その後、『LILAC』(2005年)から大きく作風が変わったので。そこが転換点ですね。

『ILAC』2005年

柴山:もう少し詳しくお聞かせください。

幸田:高校生の時は鴻上さんが好きで、僕らの世代は、その他に成井豊さん、野田秀樹さんとか。身体も張るし声も張るし、スピーディーな展開で、ああいうのがお芝居だと思ってて。当時HallBrothersの中心的な俳優だった切口君もそういうのが好きだった。最初波長は合ってたんですけど、僕が台本を自然に書こうと思うと、今やっているような日常の話をつい書いてしまう。それを稽古場に持っていって読んでみても「あんまりおもしろくない」と。そうだよねと荒唐無稽な話に書き直したりしてたんですよね。そのうち自分の特性と憧れているものの間に開きがあるんじゃないかと思い始めて。自分の「これだ」という芝居が見つかっていない感覚がどんどん出て来て。まどかぴあで『月の岬』を竹内銃一郎さんが演出したのを見た時に衝撃を受けたんです。で、だんだんそんな方向が自分のやりたいこと、自分に合ってることなんじゃないかなと思い始めて、切口君とも方向性が違ってきた。彼もこのままうちにいていいのかな、自分で(劇団を)やった方がいいんじゃないのかな、もしくは東京に行った方がいいんじゃないのかなと迷ってる時期だったので一回休ませて、思いきって違うことをやってみようと思ったのが『LILAC』でした。

『ILAC』2005年

柴山:切口さんはお休みされて、自分が書きたいものを書いて、手応えはどうだったんですか。

幸田:やっぱりこれだなと思いました。

柴山:他の劇団員の手ごたえは?

萩原:それまで悩んでた姿を知っているので。台本が書けない状況とか、その度に切口君とやりあったりしている姿を見ているから、やりたい方向でやってもらった方がいいんじゃないかなと。他のメンバーも嫌という人はいなかったしお客さんの反応もいいということで、その方向でやってもらったらと思ってました。

柴山:ではこれ以降で方向転換、になったわけですね。切口さんにはどのようにお伝えになったんですか。

幸田:切口君も芝居見たら「よかったよ」とは言ってくれて。そういう方向が嫌だとは言わなかったですね。彼はちょうど自分のユニットをやろうとしてたんで興味なかったのかもしれません(笑)。あんまり深く話した記憶はないですね。

柴山:切口さんは作風が変わった後もそのまま劇団にはいらっしゃったんですね。

幸田:そうです。ただ『LILAC』 で変わったのに、その後また僕の作風も戻ったんですよ、僕もゆれ動いて。彼は2009年に東京に行くと言ってやめました。

柴山:2007年に『ヘルメット・オン・ザ・ビーチ』で初のロングランをされています。

『ヘルメット・オン・ザ・ビーチ』2007年
『ヘルメット・オン・ザ・ビーチ』2007年

幸田:FPAPの企画でロングランシアターというものがあったんですけど、その2回目。1回目は轍(劇団轍 WADACHI)さんで。2回目に僕らが選ばれて。

柴山:初のロングランはいかがでしたか? 

幸田:10日間14ステージかな。楽しかった…ですね。僕当時役者をやってないので役者がどうだったかはわからないですけど。

柴山:ロングランの意義は感じましたか?

萩原:くり返しお客さんの前でやれるってことがこれだけ役者にとってプラスになるというか、気づけることが増えるし、自分の感覚も研ぎ澄まされてくるというか。共演者との息もどんどん合ってくるし、役者にとってすごいメリットがあったと思います。

柴山:お客さんは平日の夜も入りましたか?

萩原:ぼちぼち入って、土日に来れない人たちが月火に来るんだと知りました。

柴山:演出としては最初のステージからだんだん変化したとかはお感じになりますよね。

幸田:それはあります、芝居もどんどん落ちついてくるし、やっぱ回数をこなした方がいいなと。

柴山:その後も何度かロングランをされてますよね。それはここで得られた経験でやりたいと思われたんですか。

幸田:そうですね。ロングランをやった方がお客さん入りますし。

萩原:後半になるにつれてお客さんがどんどん来るようになって。最終公演が満席になるみたいなことも経験して。土日だけだったらなかったことで。またやりたいなと思ったのはあります。

幸田:長くやってたら、まぁ見に行こうかなぁっていう人も増えますよね。

柴山:口コミ…? 2007年その当時はまだSNSは…

幸田:ブログとミクシィ。コリッチがまだできたばっかで、コリッチに投稿していた人が多かった時期。福岡演劇では。

柴山:その後、2009年『饒舌な足裏』でドラマドクターとしてMONOの土田(英生)さんについてもらっていますね。それは他の方に見てもらった方がいいと思われたんですか。

『饒舌な足裏』2009年

幸田:そうですね、その頃はもう今の作風に近いものがやりたいというのが明確にあって、でもあんまりうまく書けなかったので誰かに教えてもらおうと思って。ドラマドクターの企画をやっているFPAPにお願いして。

柴山:では幸田さんから土田さんを指名したんですか。

幸田:そうです。2007年に福岡市文化芸術振興財団のプロデュースで『遠州の葬儀屋』をやった時に演出部で参加してたんです。その時に土田さんの本を知ってこういうものが書けるといいなと思って。そしたら、僕がいい加減だったからぼろくそ怒られて。当時は自分からお願いしたくせにイヤでイヤでしょうがなかったですが、今ではいい経験だったと思います。

柴山:何を怒られたんですか。

幸田:全部です。創作に向かう姿勢から作り方から何から何まで。初日、FPAPの方と一緒に京都に行ったんですけど、それまでにプロットを出してねと言われていたんです。でも僕それまでプロットを作ったことがなくて。行けば教えてくれるかなぁぐらいに暢気に構えていたら、「ちゃんとプロット書かな!」って新幹線の中で言われて慌てて書いて。そしたら見抜かれますよね、「これさっき書いたの?」「はい」、それでまず叱られて。でも、ほんとにプロットが何なのかも書き方もわからなくて。「こことここ矛盾してるよね」と突っ込まれても分からない。「ここつながってないじゃん」と言われても「そうですかね……?」と。それまで思いつきと勢いでしか書いてなかったから、論理立てて考えられない。で、福岡に帰って書こうとしても書けなくて。実際に台本を書いてと言われても、書けなくて。彼女(萩原)と、古株の女優と3人で、京都に行く前の夜に無理やり書いたものを送ったら「俺だって時間がない中読んでるのに、これ何?」って。もうだめだと心がボキッと折れて(笑)。土田さんからノート見せられて「こんな感じで書きたいことだったりキャラクターだったり、あと箱書きも作る。こんなノートが1作品に何冊もある」って。そんなノートとか書いたこともないし、「箱書き」すらわからない。教えてもらったけど、今までそんなことを考えたことがなかったから全く意味がわからなくて。でも、どうにか見よう見まねでやって、形にはなったんです。それが今に繋がるいい経験だったなと。

『饒舌な足裏』2009年

柴山:ではつらかったでしょうけれど、意味があった…

幸田:はい、良かったです。演出の仕方も教えてもらって。役者にどんな風に声掛けしたらいいのかも細かに。稽古も見に来てくれて、いつも通りやっていたら後から「あれはさぁ」って(笑)。

柴山:役者さんとしてはどうでしたか?

萩原:演出力もある方だから。一言一言の声かけとかも全然違うし、何を言われているかがわかる。こんなにわかりやすく言ってくれるのかと。そしたら役者もすぐに要求をクリアできるようになる。劇団にとっても大きかったですね。

柴山:しかもこの時の公演で、初めて託児をされていますね。取り組みとして、結構早かったのではないかと思っています。

萩原:メンバーの友達に「子どもがいて見に来れない」と言われたので、じゃぁ託児やろうかと。「PA! ZOO!!」さんにお手伝いに行った時ボランティアで託児をされている方と知りあったので、うちでもやってもらえますかと言ったらいいですよと。

柴山:確かに、福岡の小劇場系では「PA! ZOO!!」さんが託児の最初という認識です。とても良いサービスだと思います。いろんな状況にある方にお芝居を見てほしいし、家族だって預かれない時もあるし、母親だけが引け目を感じながら芝居を見るのも変だと思うし。今後も状況が許すときは託児システムをやってほしいと思います。

 そのほか、くうきシアターのワインコインシアターにお出になられたり、インディペンデントシアターにもお出になられたり、いろんなことをされていますね。ただ、県外公演はあまりなさっていません。2017年に大分でやられたのが最初で、その後に大分県別府市、そしてこの前、朝倉で、その3つぐらいですね。自分たちで外に持っていこうとは思われないんですか?

幸田:まぁ、チャンスがあれば…ぐらいですね。

柴山:大分のは演劇祭ですが、ご自分たちで出ようと思われて?

幸田:大分のはそうですね。

柴山:そのように、例えば東京でも応募することはできますよね。そういうことはなさらなかったんですか。

幸田:若いころは自分の作品に自信がなかったです。今ならそれなりの作品を作る自信はあるけど、娘たちがいるのであまりフットワーク軽くはできないですよね。自信がなかった時は東京とか意識はせずにとにかく目の前のお芝居を、少しでもレベルアップしていくことしか考えてなかった。

柴山:『LILAC』で転機とおっしゃってましたが、その後には?

幸田:『LILAC』で今の作風に近くなり、『饒舌な足裏』ではっきりと今の作風で行こうと思いました。その後、2012年ごろにメンバーが入れ替わったんです。劇団初期からいた子が結婚して辞めたりとか。そこが転機だった気がします。

柴山:誰かに聞いたんですが、HallBrothersさんって来る者拒まず去る者追わずだとか。

幸田・萩原:そうです。その通りです。

柴山:「下手だからダメだよ」という拒否はしないんですね。もちろん訓練はされているのでしょうけど。

幸田:そうです。特に2012年からその傾向が強くなっていった感じですね。だって募集しても素人しか来ないですもんね。特に僕らはどこかの高校や大学の演劇部とつながりがあるわけではないので、「お芝居やってみたいです」みたいな素人しか来ないです。その人たちを上手に見せるのも演出力だと思うし、その人たちを下手に見せないようにハマった役を書くのも劇作の力かなと思って。

柴山:ということは宛て書きですか。

幸田:はい。すべては自分の経験になるなと思って。何でも来いという感じですね。でもそのおかげで自分の幅はとっても広がったと思います。よそでは難しいかな、という人もどんどん受け入れていきますからね。

萩原:それもあるのか、演劇の同業者がうちをあまり見に来ないんです。ハマった役だったとしても限界はあるし。演劇人は演技の上手い下手は気になると思うんですよね。だからそこに向けずに、見てくれる人に向けようと。

柴山:ではどういう人に見てもらいたいんでしょうか。

幸田:世の中の分かりやすい価値観や耳触りのいい言葉に流されやすい人たちというか……そういう人たちに何か「あ」って突き刺さるものを作りたいと思っていて。一番、演劇や芸術が必要な層って実はそういう層じゃないかなと思ってるけど、そこにタッチするのってあまりないじゃないですか。演劇はどうしても知的な人たちに向けたものになりがちだし、もっと広い層に向けるとザ・エンターテイメントになってしまう。それはちょっと違うなと思うので。何か一番この人たちに必要なものを届けられたらいいなと思っています。そこを狙って書いてはいますね。

柴山:幸田さんのテーマにも合致していますが、気づかずに呑み込まれている人たちに気づいてほしい、という演劇をその層の人たちにわかりやすく作っているということなんですね。それしにしてもずっと精力的にやられていますね。

幸田:基本的には年に2回。あとはその時の状況で3回だったり4回やったりで。

柴山:幸田さんの方法論を言語化していただけますか。書きたいテーマ、届けたい対象はわかりました。その上で、作り方の独自性と言いますか…秘密ならいいですが。

幸田:特に秘密ではないんですけど、劇作で言うと、日常をベースにした、というのが大前提にあります。あと基本的に一つの場所ですね、喫茶店、工場の休憩室、などそこに人が出入りをすること、会話で見せていく。そして当て書き。「この人にはこういう役が似合う、こういう役とこういう役の人がいるからこういう関係だったらこんな話が生まれるな」と。宛て書きから話が生まれますね。だからまず人間があって。物語ありきではないですね。

柴山:幸田さんは九州戯曲賞を取られて、その翌年には北海道の戯曲賞で最終候補に残られた。それまでは賞レースには出されていなかったんですか?

幸田:あいえいえ、出してましたよ。ただ全然引っかからなかった(笑)。

柴山:2014年に受賞されて、何か変化があったのでは?

幸田:それから何年かは注目されるというか、一応みんな知ってはくれてるなぁみたいな、この福岡の狭い中ですけど。それまで「誰?」みたいな感じだったのが「ああ、あいつか」みたいな。今はもうさっぱりですけどね(笑)。当時はそうですね。なんか認められたなと。安堵した気持ち、やっとだなという気持ち、それが自分に落ち着きをもたらしてよりよい方向で創作はできるようになったというのはあります。仕事が増えたかというと、…(笑)。でもいくつかはお話を頂いたので、やっぱりそれは取る前と後では違いますね。特に行政関係とかはそういう肩書きがあると「この人は大丈夫だ」と思ってもらえるので大きいなと思いました。

柴山:その後、福岡と釜山(韓国)を結ぶ演劇活動プロジェクトのHanaroプロジェクトにも参加なさっています。

幸田:最初が2017年で『セレモニー』という作品を韓国の方と僕が協同演出。2018年に『ナ・チャレッチ』という脚本(ほん)を書きました。2019年はまた『セレモニー』をやるというので再び共同演出をやりました。

『ナ・チャレッチ』2018年

柴山:どうしてやることになったんですか。

幸田:山下(晶)さんから声をかけて頂いて、ですね。

柴山:いかがでしたか。

幸田:初の海外で楽しかったです。知らない役者さんとも知りあえたのもあるし、演技見ていて、言葉がなくても通じることがあるんだなと。何を言っているのか分からないんだけどでもこういうことが言いたいんだなということが通じるので。どうしても僕は会話劇をやってるので言葉を伝えるということがありきですけど、ああでもやっぱり演劇ってそれだけじゃないなというのを確認できたのは大きいですね。

『セレモニー』2017年

柴山:ご自身の作品に何かしらの影響は?

幸田:うちの役者に演出していくときに自然と出ているでしょうね。会話劇なので言葉を大事にはしますけど、それだけじゃなく、もっと行動に移していくというか。劇作も昔に比べてセリフが短くなりつつあります。言葉だけで説明しないことを意識しているというか。

柴山:なるほど、幸田さんご自身の受けた影響によって、作品が変化していってるんですね。その変化を感じていけるのは観客としても楽しみです。貴重なお話をありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました