レポート「演劇ワークショップ 老いを演じてみよう」

 久留米シティプラザが2022年度から行なっている「知る/みる/考える 私たちの劇場シリーズ」は刮目に値する。「一筋縄ではいかない芝居」を上演することで観客に考えることを促し、しかも上演にとどまらず、作品が投げかける問題をしっかりと受け止めるためのプレレクチャーも実施している。10代、20代を対象におこなっている「ユースプログラム」も、ワークショップや感想シェア会、公演鑑賞後も「対話の時間」をとるなど、上演作品を味わい尽くす作りとなっている。

 というのも、その「一筋縄ではいかない芝居」が、現代の日本が考えるべき問題を提起しているものばかりで、単純に見ればわかる・楽しめる、というわけにはいかないからだ。ジェンダーと性の問題だったり、海外からの来日就業者の環境についてだったり、沖縄基地問題だったり…もちろん芝居を見て初めて知るのも悪くないが、問題意識を持って見た方が理解はしやすいだろう。

 2025年度前半は「老いと演劇」をテーマにしてOiBokkeShiの『恋はみずいろ』を7月に上演予定だ。上演にあたってのユースプログラムは、「演劇WS 老いを演じてみよう」だという。進行はOiBokkeShi主宰で、劇作家・演出家・俳優・介護福祉士の菅原直樹さん。大学生に「老い」や「死」は距離があるけれど、却って面白いことになるかも…とワクワクしながら見学させてもらった。

 菅原さんの自己紹介から始まる。彼は学生時代に演劇活動をやっていて、かつ介護福祉士も経験したことで、「介護と演劇は相性がいいのではないか」と気がついたという。例えば、介護中に認知症の方が文脈に関係ないことを言い出すことがある。お風呂に行こうと話しているのに介護士を時計屋だと思って修理の話をする、というような。その時に介護士が時計屋を演じることでスムーズにお風呂へと連れていくことができるという。「老いの豊かな世界を体験してほしい」と言い、WSが始まった。


 まずは遊びを通じてリハビリをする「あそびリテーション」をやる。介護現場でよくやっているらしい。①身体の部位に数字をつける(頭が1、鼻が2、肩が3…など)。②参加者は円になり、一人だけが「将軍」となり輪の中へ。③将軍は「将軍らしく」数字を2つずつ言い、他の人は数字の場所を触る…というゲームだ。

 さすが大学生、間違えることもなく将軍の指示に従って自分の身体を指す。それなら今度は他人の身体を指してみよう、次は2つの数字でそれぞれ別の人の場所を指そう、と難度を上げていく。各自動き回って、右手は目の前の人のつま先を指し、左手は隣の人の鼻を指し、自分も誰かに鼻を指されていて、とまぁ、ごった煮の状態である。自然とみんなの顔もにこやかになっている。「高齢者施設では間違えます。でも、遊びにおいては、間違える、できない、は良いことなんです。それは人間味ということです。一方、僕らの生きている社会では、できないことはダメなこと。反省すべきこととされますよね」と菅原さん。そういえば、先程、「介護を通じて老人と接すると前向きになれる」と言ってたのは、そういうことか…。

 一般的に、ヒトの成長とは「上り坂」で「できるようになる」ことを指すと思われている。逆に老いとは下り坂、だんだんできないようになっていくことだと思われている。でも菅原さんは言う、「求められる価値観が違うんですよ。できないことを受け入れるという成長もあるんです」「上り坂の人が下り坂の価値観で得るものもあるのでは?」。なるほど…!


 お次はちょっと変わった椅子取りゲームをやる。部屋一杯に、バラバラな向きにしたイスを点在させる。そのイスに参加者全員が座り、一つだけ空席になっている。そこで、オニはイスの間をゆっくり老人の様に歩いて空席に向かうのだが、オニを座らせないように誰かが自分の席を立ってその空席を埋める…というちょっとイジメのような遊びである。大切なルールがあって、一度イスから腰を浮かせてしまった人は必ず別のイスに座らねばならない。

 やり始めて分かったのだが、このルールがあるために気づくとオニのすぐ傍が空席になって、オニにイスを取られやすくなる。まさに2回目には「菅原オニ」にイスを取られてしまう羽目になった。オニの動きはスローなのに…! 途中で、菅原さんから作戦タイムを与えられる(律儀に部屋の外に行く菅原さん)。「空席から一番遠い人が座りに行くといい」「オニが後ろを向いているすきに!」などいろんな意見が出たのだけれど、いざ再開したらさっきよりダメになっている(笑)。さらに「シャッフル!」というオニの一声で、全員が別のイスに座らねばならないという新たなルールも加わり、そうなるともう、オニがいくらゆっくり歩こうと簡単に席を奪取できる…。むむむ、オニを老人と考えると、なかなか示唆に富んでいる、かも。

 「身体を使って他者とコミュニケーションをとるというのは演劇の原点」と菅原さん。

 「介護の現場では、日常生活よりも演技の濃度が高い」と菅原さんは言う。誰もが立場に応じた演技をすることがあるが、介護現場では認知症のお年寄りに合わせて介護士たちが演技をすることがある。それは、論理や理屈ではなくその方の感情に寄り添うという行為である。認知症の方の「文脈から外れた、的外れな」言葉を正すのか、受け入れるのか――次のゲームは、相手の発言を必ず肯定し(Yes)さらに付け加える(and)というもの。これは二人一組で介護職員役、認知症の人役をやり、Yes, and…で会話をするというものだ。「○○さん、お風呂に入りましょうか」「今から遊園地に行くの」「いいですねぇ、ディズニーランドにしましょうか、ミッキーの帽子をかぶりましょうね」、こんな感じで、にこやかに話を膨らませていく参加者たち。「靴ひもをパピコにしたい」というご老人も現れて(意味不明‼)、それでも介護士役の人は必死に肯定して話を合わせ、周りの者は大笑い。菅原さんが、「家で介護をしている人は、このYes, and…を難しいと感じるようです。余裕がないとか、身内のその状態を受け入れられないとか…」と話す。ではどうやってしまうのか。Noと否定してこちらの現実に合うようにせさるのである。

 頭ごなしに否定する会話を菅原さんと一人の女性参加者とでやってみる。ごはんに行かせたい介護職員・スガワラと「キャリーパミュパミュがそこにいるからごはんに行かない」という認知症老女。「そんなのいません、どこにいるんですか!」「そこにいるの、踏んでるわよ!」「いないから!」「私は渋柿に住みたいの!」「何を言ってるんですか、意味が分かりません!」、いつの間にかヒートアップして二人は怒鳴り合い、険悪な空気となっている。

ちょっと写真が遠いけど、介護士・スガワラと認知症の老女がやり合ってます!

 すぐ後に、別の参加者に今度はすべて受け入れる介護士役をやってもらうと…「渋柿に住みたいの!」「言ってませんでしたっけ、今日からここが渋柿の中なんですよ~」「そうなの?」「キャリーパミュパミュも一緒に食堂に行っていいですよ」「良かったねーキャリーちゃん!」「食堂ではキャリーパミュパミュのコラボメニューが今日から始まってます、たぶん、一番乗りですよ」「最初なの? じゃぁ、行こう」――老女を演じた女性に聞くと、前半では「自分も否定されている感じだった、(相手を)イヤな奴、どっか行け!と思った」と言い、後半は「この人ステキ」と思ったと話した。見ている方としても、後半は認知症(役)の彼女の世界が広がっていって楽しかった。世界を共有することで、相手と信頼関係も築かれる。「これは認知症の人相手に限った話ではないのでは? 価値観の押し付けをしないのは、他者とのコミュニケーションの大原則ですよね」と菅原さん。そして、面白いことに介護士・スガワラが否定している時は「老女は介護士・スガワラを困らせている」ように見えるのに対し、すべてを肯定して世界を共有している二人を前にするとなんでも否定する介護士・スガワラの方が困った人に見えるのだ。菅原さんは、幻視が特徴とされるレビー小体型認知症を例に挙げながら、「自分が見ている世界が絶対ではないんです」と話した。

 最後は数人の会話の中で、認知症の人をみんなが受け入れる(=肯定)か、話を正したり無視したりする(=否定)という状況を2パターン演じてもらうことになった。5人のうち1人だけ車いすに座った認知症の老人役だ。老人役に本を渡し、残り4人の会話に関係なく本の中のセリフをしゃべってもらう。

 1チーム目、まずは老人の言葉を周りが全否定・無視するという設定で始める。老人役に渡されたのは昔話の本。ランダムなセリフを抜いて口にするのだが、このチームはその言葉を否定するどころか相手にもせず「行きたい旅行先」について話が盛り上がっている。うーん、見ていていたたまれない…。一転して老人の話を肯定する設定にすると、話がどんどん展開して楽しげな雰囲気になっていく。終わった時に、老人役の人は「無視が1時間続くと黙っちゃうかも。逆に肯定されると、(自分の言葉は文脈にあってなくても)会話をしている気がして気持ちが良かった」と感想を述べた。

 2チーム目も同じだが、老人役に渡した本が『ゴドーを待ちながら』の戯曲。言わずと知れたベケットの不条理劇である。1チーム目とやったことは同じだったのだが、面白かったのが戯曲から抜き出して口にしたセリフが、状況にぴったり合う形で聞こえたこと。老人はあくまでもその瞬間に目についたものを言っただけ(意図的に選んでいるわけではない)。それなのに否定されまくっている設定の時には「考えろ、ブタ!」とのセリフを叫ぶ老人! 嘘みたいにぴったり合った挑発的セリフに見ている人たちは大笑いだが、本人はどんどん声が大きくなり攻撃的な口調になっていく。逆の場合は、まったくそぐわないセリフなのに周りがニコニコと合わせてくれるので、見学者たちも突拍子もないセリフをなんとなく受け入れて見ていることに気づいた。老人役を務めた男性は「どんなことを言っても無視されて悲しかった。攻撃的に言ってやれと思っていたが、それが続くと何も言わないと思う。でも肯定してくれると、面白くて、自分を見てくれたのが嬉しかった」との感想を述べる。

 その様子を見ていて、「他人の言うことを受け入れるか、否定するか」によってその場の雰囲気や周りに与える印象がまったく違うことに驚かされた。頭じゃわかっていたつもりだったのだけど…息子に対して否定から入ってないかと反省している自分に気づく…(笑)。そう、これは認知症の高齢者相手だけの話ではなく、誰に対しても通用する話なのだ。

 ただし、菅原さんがその後で言っていた話が少々気になる。このゲームを介護従事者がやると、「肯定する方が楽だ」と答えるそうだ。介護に関係ない人々がやると、否定も肯定もやりやすさは半々。でも高校生は「否定する、無視する方が楽」と答える方が多いと言う。受け入れ方が分からず困惑するのだろうけれど、その「楽さ」に甘んじてはいけないと思った。そしてふと考える。例えば学校や職場で起こる無視は、いじめと認定される。でも相手が認知症だった場合は「どうせわからないんだから」と無視することに罪悪感を覚えないということもあるんじゃないかと。無視ではなく正そうとするのも同じで、相手を軽んじていることだ。たとえ「昔のしっかりしていた頃に戻ってほしい…!」という理由であっても、「否定して、間違いに気づかせ、正しいことを伝える(従わせる)」はエゴに過ぎず相手のことを考えていないということだ。

 菅原さんは、「記憶や見当識の障害、判断力の低下を中核症状といいますが、そこに誤ったアプローチ・不適切な関わり方をすることで、攻撃的言動や抵抗、興奮、徘徊、不眠…etc.といった行動心理症状が出るかもしれません。相手の気持ちに寄り添った態度を取ることで、それらが改善できるかもしれない」と結んだ。

 最後に参加者の感想を少し。「介護現場では、認知症の方相手に肯定するばかりはストレスになるのではないか。肯定することが当たり前になればいいのかもしれない」「子どもと関わる時も近いのかもしれない。でも介護する人の気持ちは折り合いをつけるのが難しいのではないか」「気持ちに余裕がないと受け入れてあげられない。認知症の祖母を否定したことを思い出した」

 菅原さんは、参加者の感想に一つ一つコメントを返し、最後に言った。「認知症を知った時にはこんなに恐ろしい病気があるのかと思った。だがお年寄りたちと演劇活動をする中で、演劇だって〝今この瞬間〟を楽しむもので、仮にその体験を忘れてもお年寄りたちに楽しんだ感覚が残るのであれば、それでいいのではないかと思うようになった。記憶も美しいものだけれど、今この目の前にある風景も同じように美しいものですよね」。

 現実はWSの様に簡単にはいかないかもしれない。相手が誰だろうと理不尽なことを要求されたり振り回されたりすれば、傷つくし怒りも覚える。暴力もセクハラもある。でも相手は生きた「人」である。「自分だっていつかは老いるから」ではなく、「相手も自分と同じ人なのだから」、気持ちに寄り添うことが大切だなと感じ入った。

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