インタビュー:百瀬文さん(アーティスト)

 2023年12月、久留米シティプラザにおいて興味深いイベントが行われる。国内外から注目を集めるアーティスト・百瀬文の映像とパフォーマンスを堪能できる企画である。

 上映される映像作品は『Social Dance』、『Jokanaan』、 『山羊を抱く/貧しき文法』の3本。パフォーマンス『定点観測』は体験型で、単純な仕掛けながら思ってもみない「何か」が立ち上がってくる作品となっている。これらの作品について、そして9月にえーるピア久留米で上映された『Flos Pavonis』について、百瀬さんにお話を伺った。

 百瀬文さん プロフィール

Photo 金川晋吾 
Shingo Kanagawa

1988年東京都生まれ。映像によって映像の構造を再考させる自己言及的な方法論を用いながら、他者とのコミュニケーションの複層性を扱う。近年は映像に映る身体の問題を扱いながら、セクシュアリティやジェンダーへの問いを深めている。主な個展に「百瀬文 口を寄せる」(十和田市現代美術館、2022年)、主なグループ展に「国際芸術祭 あいち2022」(愛知芸術文化センター、2022年)、「フェミニズム/FEMINISMS」(金沢21世紀美術館、2021年)、「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、2016年)など。近年は、ACCの助成を受けてNYで滞在制作を行ったほか、イム・フンスンと共同制作した『交換日記』が全州国際映画祭に正式招待されるなど、国内外で活動を行う。主な作品収蔵先に、東京都現代美術館、愛知県美術館、横浜美術館などがある。

インタビュー

百瀬:そうですね。久留米でも上映する『山羊を抱く/貧しき文法』で言うと、チラシに「共感を試みる」と書かれていますが、間違いではないんですけど、私はそれだけを目指して作品を出しているわけではないんですね。

あの作品は、共感を試みたものの、結局私はその手綱を自ら手放すことができずに、動物と人間というものの非対称性が炙り出されてしまった、ある種の連帯の失敗の記録だと思っています。だからこそ私は山羊が(彼女って呼びますけど)、彼女が私の描いた絵を食べてくれなかった時に、贖罪のような気持ちでそれを自ら食べるということを即興的に判断したわけです。なので、共感を示すための映像というだけでは、説明としては不親切なんですね。

私自身は共感だけではなくて、連帯の難しさも表したかった。例えば、フェミニズムにおいても、同じ女性でも白人女性と黒人女性で立場が全く異なると思いますが、動物も人間も、男性の性欲を満たすものとして扱われたもの同士、連帯できるのだろうかということを試してみたかった。けれど、結局私は手綱を手放すことができなかった。例えば(食べさせようとした絵は)食紅を使い、トロロアオイという植物由来で食べても害はないと言われる和紙を用いるなどして、今自分が出来る限りの最大限の倫理を尽くしたとしても、(山羊に絵を食べさせようとする)イメージを見せることが暴力的だと言われたら、勿論、その通りだと思います。

私は作品で用いたやり方で、(山羊と人間)お互いが過去の歴史を共有するということが、そもそも可能かどうかということをまず試そうと思いましたが、失敗した。ただそれを失敗の記録として、再構成して編集して一つの映像作品にしました。だから私は、(山羊に対する人間の)共感をもちろん求めて行ったけれども、その共感してくださいってことそのものがメッセージではない。

『山羊を抱く/貧しき文法』2016年

百瀬:そうですね。おっしゃる通りで、私は実はあの映像は、寝転がっている彼女に対して視聴者がある種そういった両義性を感じられるような演出をあえて施しています。

百瀬:そうです。視聴者のいろんな反応は面白いです。女性でも、「あの女性も結構わがままだよね」という人もいたり。常に虐げられた「かわいそうな身体」というふうに、彼女を扱いたくなかったんですよね。一方で自立したふてぶてしさを持った身体としても彼女を描きたかったし、常に被害者側にいるわけではないというか。フェミニズムの問題は、常に被害者の立場をとるということがフェミニズムではないと私は考えていますが、あの映像の中で起こっていることは、別に男女の問題に限らずいろんなところで起きていて、私たちはどうしても自分の属性に引き寄せて、つい女性の方に感情移入して見ちゃうケースが多いかもしれないです。例えば(女性である)自分は日本国籍を持っていて、日本のパスポートを持っているっていうことが優位に働く文脈においては無意識のうちにあの男性のような振る舞いをしてしまうかもしれない。つまり、男性・女性のようなある限定された属性の話をしたいわけではないんですよね。むしろ彼女と彼が触れ合っていたコンタクトゾーンにおいて、彼は彼なりに真摯に、多分慰めようとしたんだと思うんですね。ただ、それが彼が不器用ながらコミュニケーションを取ろうとしたこと自体が絶望的なすれ違いを呼んでしまった。つまり、一つの出来事の中に全く異なる二つの文脈が重なることによって、時としてすれ違いを生んでしまうことがあるということ。物事は一つに括れない、複数の状態がある行為の中に含まれてしまうということを示したかった。二重化されたある一つのシチュエーション自体を扱いたかったんですね。それを私は「矛盾」って名付けたんです。あの映像を見て、単純にあれが男性のマンスプレイニングの比喩だと単純に切り取るのはすごく簡単だし、そこに共感する人が多いのもわかります。でも一方でやっぱりそんなに人間は単純じゃないし、男性だから女性だからというより、常にそういうシーソーがグラグラしてるみたいに、関係の優位性ってそんなに単純にジャッジすることはできないのではないか、そういうことを表しています。

ラストシーンでは、男性が向こうに背を向けた状態で、女性は視聴者のみに語りかけてくるような場面がある。そこでは時空のねじれが起こり、その瞬間に(さっきの言い争いは)回想だってことが突然明らかになるんですよ。女性はその瞬間において、鑑賞者とマンツーマンの関係性を特権的に結んでいるともいえる。男性はそこにアクセスすることができなくなっているわけですよね。彼は背中を向けているので。見た人には、たぶん歯切れの悪さが残ると思うんですね。私はその「歯切れの悪さ」というものがすごく重要な気がしているんです。単純な二項対立に回収しきれないものというか、そういうものを大事にしてるという感じですかね。

『Social Dance』2019年

百瀬:私の作品はどっちつかず、「歯切れの悪さ」がすごく残るために、見る人としてはどっちかにしたくなるんだと思うんですよね。今までいろんな人に紹介を書いていただきましたけど、書き手自身の思想だとか、考え方に引き寄せて、みなさん好き勝手書くわけです。それについては、私は何も言いません、私なりの思いはもちろんあるんですけど。

例えば『Flos Pavonis』について言うと、国家に管理されるっていうこと自体を批判しているというよりは、国家に管理されるっていう事を批判しながらも、それを欲望している自分もいるんじゃないですかってことなんですね。まさにそれはコロナの政策の中で、みんなある種、どこかで国家に守られたいと思っているのではないかと感じた。国家に従うこと自体を、実は欲望しているということが、あの時、世の中で浮かび上がっていた。このような二重化された欲望の中で、私たちの身体は翻弄されているわけですよね。まさしく矛盾というか。Nataliaはああいうこと言っておきながら、なんでじゃあ中で出してんだよみたいな、そういう愚かなことをときに人はしてしまうんだと。そのこと自体を描き出したかった。常に正しさという原理で、物事が動いているわけではなく、私たちは(国民を管理しようとする)国家を糾弾しながらも、国家がなければ生きられないということを描いています。

ただ、どうしても出てくるテーマがポーランドの中絶の問題、現在進行形の喫緊の問題なので、どうしてもアクティビズムとしての側面の方が強く取り上げられやすいんです。もちろん国家が個人の身体を管理するっていうのは良くないけれども、一方で国家という枠組みを望んでいるのも私たち自身であるということ、それは一体どういうことなのかということ問いかけている作品なんじゃないかなという風に作者としては思っています。

百瀬:私もあのシーンが作品の中で一番重要だと思っています。かなり確信犯的に作っているんですよね、コロナ禍の中での制作でしたので。他人の体液が、自分の生命を脅かすかもしれないものに変わったわけです。急にみんなが、他人の体液の侵襲をすごく怖がるようになった。作品の中でNataliaも言ってましたけど、今までずっと私たちの身体は、見知らぬ体液の侵襲にさらされつづけてきたわけじゃないですか。いまさら何を言ってるんだろうと。

だからこそ、私はその構造を逆転させて、指先をペニスのようなものに見立てて、自分の唾液を相手の口の中に入れるっていうことをやっている。ある人があの場面を見た時には、そこまで乱暴に無理やり突っ込むわけでもなく、すごくゆっくりと指が口の中に入っていく様はなんかこうその…レイプの仕返しみたいなものだけでは語り得ない、もっと複雑なものがあるような気がしたと言っていました。私もあれを単純にレイプの反転のようにただ暴力的にやるより、この行為自体の意味を感じられるような撮り方を選択したと思う。この単純な暴力の応酬というだけではないものとして、見えるといいのかなと感じながら撮っていました。

『Flos Pavonis』

百瀬:私自身がカメラを回しているわけではないんですけど、『Flos Pavonis』に関しては、「肉体的な身体の映し方」とはどういうものがあるのかはわからないんですけど、例えば唾液のシーンを際立たせるために、他のシーンは割とドライにしているかもしれない。対比として見せたいので。それは私が美術の人間だからかもしれないです。肉体も、この地球上にあり、生きてはいますけど、オブジェクトの一つだという意識があると思うんですよね。だから身体って言った時に、人間だからといって特権化したいわけではなく。それは時としてそういうノイズというか、バグのようなものとして、唾液を突っ込んでしまったりとか、中に出してって言ってしまったりする。だからこそ人間の営み自体はなるべくフラットに、特に演劇性を誇張するでもなく撮っていると思います。『Social Dance』に関しても極めて静的に撮っていると思います。

山羊(の作品)の話で言うと、山羊が結局食べるか食べないかっていうのは私にはわからなかったんですけど、共感は可能なのかという問いだけが雑然と投げ出されているような状態でした。作品ごとに、どこまでグラスを作り込むのかというのにも当然濃淡があって。山羊(の作品)に関して言うと、極めて実験的で、作品になるかどうかもわからない状態でモンゴルに行った。だから作品にならない可能性もありましたし、(山羊が差し出された絵を)素直に食べてしまったら意外と全然面白くなかったかも。山羊の作品と、例えば『Flos Pavonis』みたいな作品では、作り方はかなり違います。

百瀬:実際に見てみないと分からないですね。もちろん私がコントロールはしているんですけど、参加者の経験として、自分が吐いたはずの言葉が奪われているような気持ちになるだとか、そういう体感の方に重きが置かれてるとは思います。参加者の言葉によって内容が変わってくるというか、おおまかな行動はもちろん変わらないんですけれども、見えてくる風景が微妙に変わってくるっていうか。そういう微細な変化みたいなことが、毎回生じるというか。

百瀬:『定点観測』に関してはそうですね。重要なのは、参加した体験者、その輪の中に座った人々が何を感じたかということであって、朗読のクオリティを求めたいわけではないですね。体験者として、パフォーマンスは二段階のフェーズがあって、一段階は自分がさっき朗読していたものを読み上げる。ただ、そのときは読み上げることが必死で緊張もしているし、たぶんアップアップだと思うんですね。二段階目のフェーズで、今度は自分の録音された声をみんなで聞くっていうフェーズになるんですけれども、そこで初めて自分の言葉、自分の声を他人事のように聞くというか、「あれ私が言ったことってこんな事だっけ?」みたいな、そこで声が手放されるような経験をすることになると思うんです。実際に声を差し出した人の中には、たぶん色んな感情が起こるだろうとは思っています。

百瀬:その通りだと思います。

百瀬:「想像」って言葉がちょっとマジックワードみたいになっているとすごく感じます。横になってる女性は私の友人なんですけれども、彼女は耳が聞こえないダンサーで、実際に彼女がかつての耳の聞こえる恋人と喧嘩した時のエピソードをもとに、私が脚本を作っているんです。彼女が彼に対して「想像だけで済ませる人だったんだよね」と言っているのを聞いて、ちょっとドキッとしちゃったんですよ。いや、でも私だってそうだよなと思った。想像してますっていうことがアリバイみたいになってしまうというか。でもそれをどうやって証明したらいいんだみたいに、想像だけじゃなくて、実行に移すことができるなら、私は極力実行に移すようにしています。ただみんなができるわけではない。このことは毎回悩みつつやってはいます。「想像しています」ということが、今はスマホの中でワンクリックでできちゃう。SNSとか。例えばブラックライブズマター(Black Lives Matter)の時に、みんながインスタに黒い四角をアップしまくるみたいな。すごくこう…社会的な運動に簡単にアクセスして、自分も応援してるよみたいなそういうノリでみんな態度表明ができるようになっている。私は、本当にそれでいいのかという気持ちにもなります。想像だけでいいのかという問いは、あの作品を通して彼女から受け取ったことで、ずっと今でも考えつづけていますね。

百瀬:はい。

百瀬:それは見る人が解釈すればいいかなとは思いますね。私はただ、自分がよくそうなんですけど、本当に疲れて動けない時ってある。女性が男性を来させている、自分で起き上がらずに来させてるみたいな。そういう怠惰で強気な女性でもあるっていうことにして、寝そべってもらっていました。ただ、女性が寝そべっているというイメージはわかりやすく弱者として読み取らせてしまうような記号性があるため、そういう風に読み取る人もいます。

百瀬:『定点観測』に関して言うと、極めてリテラルにつけています。例えば絵画で「薔薇とパンのある風景」みたいなタイトルってよくあるじゃないですか。すごく文字通りですよね。私、ああいうタイトルの付け方が好きなんですよ。すごく簡潔にそのものを表しているけれども、そういうタイトルであることによって、薔薇やパン以外のものが、むしろよく見えてくる。『定点観測』に関して言うと、「今から観測をします」っていうことを文字通り説明していて、定点っていうのは、川の増水量とかを見るためのカメラのことですけど、私の視点は常に一定で、それをわずかに…上下する水面、たゆたう水面のようなものを私は定位置から見ていますよっていうニュアンスを込めて付けました。『定点観測』はシリーズなので『何々の場合』って付くことが多いですけどね。

『Social Dance』に関して言うと、あれはポエティックというか、トリッキーな付け方をしています。彼女はダンサーなのでダンスにまつわる単語にしようかなと考えた。彼女の手の動きが言語表現でありながらも、同時に彼女の身体性によってダンスのような視覚芸術にも見えてしまうみたいな二重性があり、「社交ダンス」という言葉を思いついた。社交ダンスの英訳がソーシャルダンスです。社交ダンスは男性と女性が手を繋いで踊るわけですけど、男性がリードして女性が合わせる構造のもとに作られているダンスでもあるし、どちらがイニシアティブをとるのかというような会話が力学の元に動いている側面もある。会話とソーシャルダンスの力学って結構似てるのかなと思い、そういうニュアンスで付けました。

『山羊を抱く/貧しき文法』に関しては、撮り終わってから、これは山羊との連帯の失敗の記録なんだとわかって。でもこの失敗してしまったっていうことは、フェミニズム含む、あらゆる運動が繰り返してきた歴史とも似ているなと思うんですよ。何度も連帯しようとして、その都度分断が起きて、線引きされては、その線をなくそうよってことが起きたりした。私もまたある失敗の記録を、(運動の失敗の歴史を)示唆するようなものとして、また一つこの世に生み出してしまった。そこで出てきたキーワードが、「貧しい」って言う言葉。でも貧しいけれども、やらざるを得なかったんだよねっていうニュアンスを込められたんじゃないかって思います。敗北の先というか、そういうニュアンスを込めて。

でもそれを見せる意味はあるんじゃないかと思っています。美術館でも日常でも、そこが常に成功した事例ばかりがある空間だと面白くないなと私は思うんですね。人って間違えるし、愚かなことをするということが、私は重要だと思っています。なので、そういう失敗の記録っていうものとして、ちゃんとそれ自体を作品にしたいなと。

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