福岡の演劇の歴史5 五大学演劇連盟

 敗戦から10年足らずの頃、福岡市で大学生による演劇の大きな盛り上がりがあった。5つの大学が一つになって連盟を作り、演劇祭や合同公演をやったのだ。活動の大きさといい、様々な人材の輩出といい、福岡市の戦後演劇を語る上で外すことができない。「福岡五大学演劇連盟」、大学生たちの試みを記録しておきたい。

 1945年に終戦。福岡でも様々な文化活動が一斉に花開いた。例えば音楽の盛り上がりもその一つ。1948年(昭和23年)に旧制福岡高等女学校(現:福岡中央高校)が米倉美枝の指導・指揮によって第1回全日本合唱コンクール全国大会学生部門で優勝したことで、福岡の合唱熱は高まる。その2年後の1950年には石丸寛らが混声合唱団 福岡合唱協会を設立し合唱がますます隆盛を誇るようになるのだが、この石丸寛は1947年に九州大学の学生オーケストラを再建、フィルハーモニック・ソサイエティ(合唱団)の創設、そして1953年には九州交響楽団を結成する。(石丸寛は、今から述べる九大演劇部公演で音楽を担当した)

 大学演劇部の活動も同様に活発だった。「福岡現代劇場」の猿渡公一が「戦後の福岡の演劇は九大演劇部と共に始まったと言っても過言でない」と述べていたように*1、1950年に九州大学演劇部が行った公演が「五大学演劇連盟」結成に繋がるエポックメーキングなものであった。

 その作品は『プラーグの栗並木の下で』(コンスタンチン・シーモノフ作)。1946年に東京・新宿で「新協劇団」が土方與志の演出で上演したばかりの作品を、わずか4年後に遠く離れた九州の学生たちが上演している事実にまず驚く。

演出は広渡常敏、本作上演後には大学を中退して上京し、後に「東京演劇アンサンブル」を作る人物である。音楽も、九大オーケストラによる生演奏とフィルハーモニック・ソサイエティの合唱、それを(前述の)石丸寛が音楽監督として指揮するという本格的な物で、もはや学生劇団の域を超えていたと言えよう。この公演の翌年入学した猿渡公一は次のように語っている。

「画期的に大きな芝居。学生演劇というよりももう、むしろ一つの市民劇団のような運動だったと思う。その後、タリさん(注:広渡常敏)は東京に行ってしまうんですよ。タリさんと一緒に旧制福高で演劇部にいた熊井宏之*2さんですね、この二人が九大演劇部に与えた影響は大きい。理論的にも。その影響を引き継いで、小田健也とか、今泉俊昭とかがいるんですよ。その辺が、強い影響力を持っていた。そういうことで、九大演劇部というのは人材も豊富だった。東京に行った先輩たちが帰ってきて演劇部のお芝居を手伝ったりして、割に力を持った学生演劇の集団だったんです。学生演劇っていう風に僕たちは当時考えてなくてね、市民劇団のように考えてました。だからチケットなんかもいろんな所に売り回ってね。」*3 

 九大ほどではないにせよ、他大学の演劇部の活動も盛んになっていた。西南学院大学は学内のランキン・チャペルで、福岡商科大学(1956年に福岡大学に)と九州大学は天神のタロー劇場で上演していた。県立女子専門学校(1950年に福岡女子大に)も九大演劇部から男役に男子学生を借りて公演していたという。それぞれの大学演劇部が力をつけてきたところで、九大演劇部のスタッフ(谷口裕、今泉俊昭、金光英雄、木崎午郎、萩野雅弘)が軸になり、一つの大きな芝居を作る話が持ち上がったのだという。1954年9月、九州大学、西南学院大学、福岡商科大学(のちの福岡大学)、福岡学芸大学(のちの福岡教育大学)、福岡女子大学の5つの大学で「福岡地区大学演劇連盟」(またの名を「五大学演劇連盟」、本稿ではわかりやすいので「五大学演劇連盟」の名称を用いる)を結成した。

 連盟の会長には九大の仏文学教授・進藤誠一(『フランス演劇』という著書もある)。運営委員会は各大学から1人ずつ出て作られ、運営委員会長には下川一弘(のちに猿渡が旗揚げした「福岡現代劇場」の俳優となる)が就任した。それとは別に事務局もできた。作品など上演に関する決定を運営委員会で、広告取りやチケット管理などを事務局が担当するという分担だったようだ。

五大学演劇連盟会議(1954年12月9日 @レストランキング)日程から見て第1回演劇祭の後のようだ。
上段左より、貞永方久(九大)、猿渡公一(九大)、西村純三(西南)、今泉俊昭(九大)、萩野雅弘(九大)、
下段左より、安本清史(学芸大)、下川一弘(福岡商大)、進藤誠一(九大仏文教授)、中山妙子(女子大)、木原路子(女子大)

定まった事務局の場所はなく、天神西鉄の「風月」(たまり場にもなっていたようだ)や「紅屋」(現在のワン・フクオカ・ビルディングの辺り)といった喫茶店、あるいは産婦人科医の森下公平宅で会議を開かせてもらうこともあったという。目指したのは5大学による合同公演だが、まずはその前に「五大学演劇連盟主催第一回演劇祭」と称してそれぞれの大学演劇部が九大医学部講堂に一堂に会して上演をしている*4

寺田健一郎という二科展の画家に描いてもらった

 二日間にわたり各大学演劇部が二回ずつ上演、パンフレットには各大学の教授や「福岡演劇協會」、「劇団青踏座」の小台三四郎、「生活舞台」らによる短いコメントも載っている。連盟発足からわずか3か月後の公演だったが、上々のスタートを切ったようだ。なお猿渡によれば、「合同公演を最初から計画していたから、この演劇祭で(そのための)役者を探そうと思っていた」らしい。

 第一回の5大学演劇部による合同公演は『探偵物語』(シドニー・キングスレー作)だった。この作品を提案したのは、当時4年生だった猿渡公一。戦後アメリカの警察署を舞台にした作品だが、猿渡はこれを現代に生きる人間の問題として共有できると考えたのだという*5。最初の会合において提案し、同時に彼が演出に選出された。猿渡は「今日からこの作品の稽古を始めます、始めるにあたって、みなさんを学生としてではなく一個の芸術家として扱います」と宣言したそうで、若者らしい自信と不遜さとやる気を感じることができるだろう*6 。『探偵物語』は元は同名の舞台作品で、1951年にアメリカでカーク・ダグラス主演で映画化され日本では1954年2月に公開されている(そして翌年3月に彼らが上演している!)。上演権の交渉をどうやったのかは定かではないが、本作の翻訳者である菅原卓に「この作品は難しいからあんたたちがやるような内容じゃない、やめときなさい」と言われたと、舞台美術を担当した金光英雄が回顧している。

 稽古は九大箱崎キャンパスの三畏閣(第三学生集会所)にある畳の大広間で行われた。学生たちはお金がないためそこまで歩いて通ったのだそうだ。リアカーに材木をいっぱいに載せて六本松から箱崎まで約10キロの道のりを運んでいったという逸話もある。

九大箱崎キャンパス 三畏閣

 面白いので稽古場での様子を語った内容を少し紹介したい*7。 

 猿渡「だから本当に毎日稽古。演出はずっとおらにゃいかんけんさ。学校に行く暇がない。普通は(稽古は)夕方から。でも米倉正扶三(のち米倉斉加年、上京して俳優になる)なんかは、その頃芝居を始めたばかりで下手やったたいね。リズム感はいいしいい役者なんだけど。これはいかんと思ってね、僕の下宿に朝十時に呼んで2時間ぐらい稽古して、1時からの三畏閣の稽古に行って、夜はまた全体の稽古。8時間ぐらい稽古して。」

 周囲の大人たちのサポートも忘れてはならない。先述の産婦人科医森下公平は自宅のホールを第一回目の稽古場として使用させてもくれた*8。他にも朝日新聞の記者たちもまたこの公演に関して手厚く支えてくれた。朝日新聞社企画部の奥村正雄、西村敏、森部善七(ペンネーム、オキュート)らである。例えば、警察に学生たちが留置所や取調室を見学する算段をつけてくれたり、広告も必要な分だけ代わりに取ってくれたり、時にはレストランキングでごちそうしてくれたりしたそうだ(ここで店名を挙げたのは、先の集合写真の場所でもあり、パンフレットにも広告が載っているからである)。何より大きかったのは、学生が当時借りることなどできない「一流の」電気ホールを使用できるように手助けしてくれたことだ。朝日新聞企画が後ろ盾になってくれたおかげで借りられたのだと学生たちもわかっていた。そしてまた電気ホールの管理部門の人たちも支えてくれたという。

『探偵物語』のパンフレット (1955年)

 こうして1955年3月21日、電気ホールにて『探偵物語』は幕を開けた。当時を回顧する者(いずれも2006年時のインタビュー)の言葉と共に写真を見ていただきたい。

『探偵物語』電気ホール上部から

「舞台が大きいというのはありましたね。私の最初の出番の所で挨拶・声を交わしていくのにどのくらいの歩数がいるか、そこのところを入念にチェックする。」下川一弘 (役者) 

『探偵物語』

「『探偵物語』の舞台は、リアリズムに徹した大道具によって舞台全体が囲まれている。舞台上手の出入り口と舞台中央の刑事室は、大きな書割によって仕切られ、正面のガラス窓からは摩天楼が見えた。」金光英雄(舞台美術担当) 

舞台上手側に摩天楼が見える

「役者は役者でさ、良いものを作ろうと。で、裏の方は裏の方で、また。例えばほら、なかなかいい舞台でしょ。これ、窓からゼネラルモータースのネオンが見えるんですよ。ニューヨークの」猿渡公一(演出)  

 照明も音響も担当の学生がプランを立てて実施した。舞台美術の担当者も工学部在籍で、それぞれがそれぞれの仕事にこだわりと責任をもって仕上げたことがパンフレット内の記事でもわかる。そして公演は、ほぼ満席の大成功に終わったそうだ。

『探偵物語』関係者集合写真

 『探偵物語』上演の年の12月、中央公民館にて再び5大学で演劇祭を行った。勢いはそのまま続き、翌1956年3月には電気ホールにて『セールスマンの死』(アーサー・ミラー作)の合同公演を行った。前作に引き続きアメリカを舞台にした現代劇である。『セールスマンの死』は1949年にアメリカ・N.Y.においてエリア・カザン演出の舞台が上演されていたし、1951年にはフレデリック・マーチの主演で映画化もされている。日本では劇団民藝が滝沢修を主演に据え1954年に上演しており、すでに広く知られていた。

 五大学演劇連盟の旗振り役でもあった猿渡は前年に卒業しており、今回の演出は今泉俊昭、後に「人形劇団プーク」にて演出をするようになる。劇中の音楽は、九大フィルハーモニーオーケストラによる演奏と合唱を録音して流したそうだ。それは全て九大オケのメンバーだった荒谷俊治の作曲。荒谷は後に東京フィルハーモニー交響楽団の指揮、国内外の指揮者として活躍していく人物である。

 舞台美術も『探偵物語』に輪をかけて本格的になった。前作に引き続き舞台美術を担当した金光英雄は、舞台上に二階を作ったのだ。「(後に見た)民藝の舞台は中二階になっていてそれが横にあったけどね、(合同公演では)真正面に置いたのね。正面にロフトというか中二階にして。強度計算書を作ったわけじゃないけどね、私の専門は構造力学だから、そういう意味ではちゃんとしたものを作ったね。だから美的センスはない。ただ壊れんとか、がっちりしてるとかさ、そういうことに関しては常識があるわけね(笑)。」と金光は述懐した*9

『セールスマンの死』

第1回の合同公演の成功があって、今回は2回の上演でしかもそのうち1回は九大の買い取り公演になったそうだ。また、九州電力を始め企業にもかなりチケットを買ってもらえたという。前回同様、観客も入り収支も黒字、そして出来も好評だったそうだ。

『セールスマンの死』関係者集合写真

 さて『セールスマンの死』上演の年の11月にまた各大学演劇部が九大医学部講堂でそれぞれ公演する演劇祭をやる。そこまでは過去2年と同じだったが、その翌年予定の合同公演は中止になった。『なよたけ』(加藤道夫作)を上演する予定だったという。理由は定かではない。ただ演出家が行き詰ったのではないかとのことで、そのせいか、翌年の合同公演では演出家に立候補がいなかったらしい。結局、『なよたけ』に役者で出る予定だった福岡学芸大学(のちの福岡教育大学)演劇部の西山健児が演出を担当し『アンチゴーヌ』(ジャン・アヌイ作)をやることに決定した。アヌイと言えば、結成したばかり(1953年)の劇団四季が旗揚げから数多くのアヌイ作品をやっている(1954年『アルデール又は聖女』『アンチゴーヌ』1955年『野生の女』など)。西山は演劇雑誌を見て興味を持ちアヌイ作品集を購入するほど夢中になった(公務員の初任給が1万円を切る時代に380円の作品集を3冊セットで購入したという)。「ギリシア悲劇を描きながら現代のフランスのナチス体制を批判したレジスタンスと受け取って。当時はサルトルとかカミュとかフランスの実存主義のかぶれているということがあって、それで取り上げたんじゃないですかね」とは西山の弁だ。

 しかし、過去2回のようにうまくはいかなかった。一つは、『なよたけ』の中断で一年空いてしまったことで知識・経験が継承されなかったことが理由だ(学生なので卒業してしまう)。

『アンチゴーヌ』稽古場日誌

 また当時の稽古場日誌をめくると、稽古開始が1月20日で過去2回よりずいぶんと遅い。『セールスマンの死』に出た役者が「稽古の途中で抜けて福岡国際マラソン(12月上旬開催)を見たことを覚えている」と発言していたから少なくとも1カ月は始まりが遅かったようだ。そして稽古場日誌には「とにかく人が集まらない」という記述もあり、苦労が絶えなかったことがうかがえる。それでも舞台装置は竹中正基(後の彫刻家)に抽象的なものを作ってもらい、合唱隊も登場させるなどの工夫をした。

『アンチゴーヌ』

 しかし結果的には大赤字を出してしまう。電気ホールがガラガラだったそうだ。大きな赤字を出してしまい、演出した西山は、猿渡と一緒に先述の森下公平(産婦人科医)のもとへ借金の申し込みに行ったという。その借金をきちんと返済できたのか分からないままだが、結局「五大学演劇連盟」はこの公演で幕を下ろすことになった。

『アンチゴーヌ』関係者集合写真

 わずか数年の大学生たちの盛り上がりだが、関わった若者たちの中には芸術関係に羽ばたいた人も多くいる。漏れはあるだろうが分かる限り列挙しておきたい。猿渡公一(「福岡現代劇場」主宰の演出家)、下川一弘(「福岡現代劇場」役者)、今泉俊昭(「人形劇団プーク」演出)、米倉斉加年(俳優)、貞永方久(映画監督)、安本清史(山口「はぐるま座」主宰)、石丸寛(指揮者)、荒谷俊治(指揮者)、寺田健一郎(洋画家)、竹中正基(彫刻家)。そのほか、放送局のアナウンサーや放送劇団員などもいる。

 1961年の九州大学新聞に「1961年に五大学演劇連盟が復活した」という記事がある*10 。同紙によれば「4月に電気ホールにて『ピクニック』を上演。60年12月に九州大学演劇部が『墓場なき死者』を中央公民館で上演して、五大学演劇連盟の再発足の動きが活発化した。」と書かれている。現時点で(2026年5月)資料はないが、この『ピクニック』(ウイリアム・インジ作)を4月に電気ホールで上演、その時に主役を務めていたのが石川宏士郎(のちの石川蛍、「劇団夢工房」の主宰者)であることは分かっている。ここから先は不如意な記録でしかないが、1961年11月 五大学演劇祭(西南学院大学ランキン・チャペルにて)、1962年2月第9回九州地区大学連合文化祭(佐賀劇場にて)、同年4月 合同公演『怒りの夜』(アルマン・サラクルー作、於保清人演出)同年11月 第10回九州地区大学連合文化祭(熊本市公会堂にて)までは「五大学演劇連盟第2期」の活動として明らかになっている。

注(クリックしたら注が出ます)

*1 「舞台に魅せられ6」(毎日新聞、1991年7月)

*2 広渡常敏同様、俳優座養成所三期生により結成された「三期会」のちの「東京演劇アンサンブル」に所属し、後にフリーの演出家となる。修猷館出身で1946年春に福岡高校に編入学、その後に東大経済学部に入学。おそらくこの時期はまだ高校生だったということだろう。照明家の立木定彦が、熊井は機嫌が良くなると鼻歌を唄う、その歌は『プラーグの栗並木の下で』だったと記述している。『戦後演劇 演出家の仕事②』日本演出者協会編 れんが書房、2007年 

*3 New Theatre Review 23号 (2006年12月)下川一弘との対談にて

*4 1)福岡女子大演芸部『水のほとりの女』(田中澄江作)、2)福岡学芸大学演劇部『未知なるもの』(梅田晴夫作)、3)九州大学演劇部『記念祭』(チェホフ作)、4)福岡商科大演劇部『命を弄ぶ男ふたり』(岸田國士作)、5)西南学院大学『白い晴着』(ポール・グリーン作)

*5 『探偵物語』パンフレット「演出のはしりがき」より

*6 キャスティングも猿渡の一存だった。その頃は演出の力が強かったのだと言う

*7 New Theatre Review 23号 (2006年12月)下川一弘との対談にて

*8 「福岡演劇協会」の顧問として当時の福岡の演劇シーンを支え続けた人物である

*9 New Theatre Review 23号 (2006年12月) 金光英雄氏へのインタビューより

*10 九州大学新聞 456号 1961年2月25日発行

<協力>猿渡公一さん、下川一弘さん、兼川路子さん、金光英雄さん、帆足靖子さん、星子孝枝さん、林欣子さん、片山洋佑さん、椿壬生男さん、西山健児さん (順不同)ありがとうございました。

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