
●木挽町のあだ討ち
監督・脚本:源孝志
原作:永井紗耶子
出演:柄本佑、渡辺謙、滝藤賢一、長尾謙杜、瀬戸康史、山口馬木也、北村一輝、高橋和也、正名僕蔵、石橋蓮司、沢口靖子、愛希れいか、野村周平、イモトアヤコ、冨家ノリマサ、本田博太郎
感想
本ブログでも紹介した永井紗耶子の同名原作の映画化である。『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子) | 福岡演劇情報 New Theatre Review 原作との違いは大小あるのだが、映画もよくできていてとても楽しめた(見て損はない)。ただ演劇ブログとしてここでは映画評は控えて「江戸時代の芝居小屋」という観点からこの映画について書きたいと思う。
簡単にあらすじを書こう。江戸は木挽町にある森田座である雪の晩にあだ討ち事件があった。『仮名手本忠臣蔵』の千穐楽がはけた森田座そばで、きれいな女になりすました若い男がならず者の男を「父の仇」と討ったのだ。はからずも森田座から出てきた大勢の客たちの前での大立ち回り、討ち取った宿敵の首をひっつかんで歩く血に染まった美少年の姿は「木挽町のあだ討ち」と語り草となっていた。その一年半後、敵を討った伊納菊之助の縁者という男が、討たれた男・作兵衛の墓に手向けたいと森田座を訪れるところから話がはじまる。その男・総一郎はとぼけた口調で芝居小屋の人びとの話を聞き「木挽町のあだ討ち」の真相を探ろうとする…。
(ここからネタバレになるが)結論から言えばこれはあだ討ちの狂言で、武士の掟として「父を殺した作兵衛にあだ討ちを果たさねばならない」菊之助が、森田座の面々とともに作兵衛を殺さずにすむ策を講じたのだった。
原作との大きな違いはこの総一郎が姿を見せるか否か(原作では、森田座のそれぞれが総一郎に語るという形で進んでいく、従って総一郎は「聞き手=読者と同じ存在」である)。映画としてよくできた改変だとは思うが、そのため大きく損なわれてしまったことがある。それは、芝居小屋に流れ着いてきた人々の半生である。原作では、総一郎が話を聞く、木戸芸者、針子、小道具方、戯作者それぞれの語りが一章ずつ割かれ、その語りの中でそれぞれがどんな境遇でつらい思いをして「悪所」と言われる芝居小屋に流れ着いたかが明らかになる。遊郭の幇間(宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業)から木戸芸者になった者、蔑まれる焼き場(火葬場)の陰亡(棺を火にくべ火の番をする仕事)に育てられ流れ着いた衣裳部屋の針子、我が子の死よりも御武家の命を優先せねばならなかったことから小道具方になった者、殺生を嫌い理不尽な目にあってしまったことで武士の道を捨てた戯作者。その部分をほぼ描かなかった(わずかなセリフで語らせただけ)ために、「江戸時代の芝居小屋」の存在が薄まってしまったと思う。下層の者、世間を捨てた者たちがたどりつく先の「悪所」、しかしそこは世間から爪弾きされる彼らを受け入れてくれる懐の深い場所でもあった――。それを「芝居小屋は、なんでもある戯場国」という言葉で片付けてしまっているのはなんとも残念。
もちろん映画としてよくできているとは思うのだけれど(文句はない)、芝居小屋に働く者たちを深く描けなかったことで結果的に「菊之助と作兵衛を助ける芝居小屋の人びと」という人情噺に落ち着いてしまっている。いや、何でもある戯場国だから二人を助けられたんじゃないよね? どん底を知っている彼らだから、そんな者たちが集まる芝居小屋だからこそ、二人を助けられたのだよね?
その点から見ると、江戸時代の芝居小屋については全然描けていない映画だったと言える(物理的には江戸の芝居小屋や道具が見られて面白かったけれど)。清濁、誰をも受け入れる芝居小屋。人間の業も苦しみも理不尽さも激しさもすべて呑み込んでいる芝居小屋。そんな現が見せる舞台の幻想。…ああ、そうか。「欲に溺れる汚い社会、暴力的で理不尽な武士社会の掟(現実)/木挽町のあだ討ちという狂言(芝居)」という構図は、「芝居小屋に集う人々から見える悪しき現実/芝居小屋が見せる一時の夢」と同じなのか。原作は、芝居小屋を描いたことで江戸の社会を描いていたのだ。
エンドロールになって、椎名林檎の『人生は夢だらけ』が流れてきた。ミスマッチだとか賛否は大きく分かれるだろうが――芝居小屋の懐の深さを思うとき、私にはこの歌詞は沁みた。
