2、第一期:創立から約20年、政治の時代
「現代劇場はいわゆる労働者の演劇だからね。左寄りの」と長年、現代劇場を見続けた於保清人(劇団焔)は言った。また初期からのメンバー富原智一も「…『あかはた祭』に出たりしてるからね。(略)60年安保、70年安保などが劇団にかなり影響を与えていたと思います。(略)左というのが共産党的と言われたらそうかもしれません」と言い、富原の妻であり劇団員でもあった美智子もまた「ものの考え方としてね、左というのはそうだと思います。その時代の社会の状況を思うと…三池炭鉱とか社会運動が非常に盛り上がっている時期でしたから」と話す。初期の現代劇場を知らぬ者にとって、これらの証言は少々驚きを持って受け止められるかもしれない。


というのも、現代劇場のことを「老舗」「お堅い」というイメージを持つ者はいても、政治色が強い劇団だとはあまり認識されてこなかったように思うからだ。もちろんこの劇団が扱ってきた作品は新劇が多いが、新劇の歴史を知らなければそれは一つの演劇のジャンルでしかなく、今では「古い、お堅い」というイメージだけになっている可能性もある。私にしても、現代劇場にそこまで強い主張があるとは思っていなかった。
だが公演ごとのプログラム(時として1枚だけのリーフレット)をざっと見ただけで、確かにそうだとうなずく言葉が並んでいる。例えば、第3回の公演『カラールのおかみさんの銃』(1960年)のプログラムには「今年の六月安保デモに劇団として参加した(略)」*1、同公演の再演時(1965年)にも「反ファッショ(注:ファシズム)に結集するすべての人々に捧ぐ」といった一文を見ることができる*2。また1970年の機関紙には「EXPO’70か安保廃棄’70か ベトナム・沖縄のいたみのなかで!」という言葉も見られ*3、普通の劇団のそれとは大きく異なる。
改めて細かく追っていくと、結成から約20年は、確かに「政治性がある」と言われても納得する(ただし当時の世情を考慮せずに、現在の文脈で「政治的」と表わすのが適切なのかは議論を別にする必要がある)。そこで、この時期を現代劇場の第一期・政治の時代としてまとめたいと思うが、この時期のキーワードとなる「B・ブレヒト」「運動」「人間らしさ」「地域」を軸に見ていきたい。

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<B.ブレヒト>
1958年に劇団が結成された。戦争こそ終結して10年以上が経っていたが、1950年には朝鮮戦争が始まり、その少し前の1948年には全学連(全日本学生自治会総連合)が結成される。全学連はそののち安保闘争などを展開していき、社会そのものが政治的にゆれ動いていた時期だったと言える。
猿渡はその中で「現代、アクチュアルないまを」芝居で描きたいと思っていた。彼が死ぬまで一貫してブレヒティアン(劇作家ベルトルト・ブレヒトの演劇論の信奉する人)であったことは周囲において有名な話だが、実はなぜ彼がブレヒトに惹かれたのか理由はどこにも語られていない。だが、当時流行していたスタニスラフスキーシステムに対して疑念が生じていた彼にとって*4ブレヒトは画期的に映ったのだろう。
猿渡と現代劇場は、まさに安保闘争の真っただ中の1960年にブレヒトの『カラールのおかみさんの銃』を上演した。スペインの内乱を舞台に、関わらなければ安全に暮らせると信じ銃をとらないカラールのおかみさんが、不当に息子を殺されて初めて銃を持って立ち上がるという物語である。先に書いたように安保デモに参加した劇団員たちは、本作と社会状況を重ね合わせたという*4。安全地帯から眺める傍観者への批判を込めて、本作に取り組んだのだろう。またその翌年にもブレヒトの『第三帝国の恐怖と貧困』の中から『誰もがその持ち場に』を上演している。処刑前の労働者の会話に、60年安保後の挫折の中でその状況からどう脱出するかの活路を見出したそうだ*5。プログラムにブレヒトの言葉――「現代の世界を 現代人のためにえがきだすことができるのは それが、変革できる世界として描かれる場合にかぎる。 『今日の世界は演劇によって再現できるか』より」*1――を引用・掲載しているが、ブレヒトの劇世界に時代も場所も離れた自分たちの世界を重ね共感し、そして希望を持って上演していたのだろうと想像する。


しかし、猿渡も後から述懐するように*5、この二本はブレヒトの戯曲の中でも現代をリアルに描いた例外的な作品である。現代日本社会を投影しリアルに演じることで作品は成立したが、それは今までの自然主義的な芝居の延長であり、役への感情移入を否定したブレヒトの叙事的演劇の手法でやったとは言い難い。彼らが本格的にブレヒトの作品を上演するのはそこから10年以上も先のこと、『アンティゴネ』まで待たねばならない。
<運動としての演劇>
現代劇場は、社会の動きや問題を「舞台を通して考える/舞台の上から主張する/観客に考えてもらう」という形で演劇を捉えていたようだ。「現代における私たちの生を舞台の創造を通じて学び、舞台の創造において生きようと考えているのです」*6との言葉からもそれはうかがえる。
では当時の社会が抱えていた問題とは何だったのか。安保闘争、石炭産業の陰り(およびその過酷な労働環境)、沖縄の基地問題…。現代劇場がブレヒトに挑戦したすぐ後に手掛けた創作劇は、炭鉱をテーマにしていた。宇佐美千年の話を劇団員で討論する形でつくり上げた『おれのまたおまえの眼を』(1962年)である。


筑豊を舞台に斜陽産業となった炭鉱のヤマで働く者たちの苦悩――爆発事故の危機、事故が起こっても十分な補償をしない会社、生活苦、ヤマに強制連行された朝鮮からの労働者…を描いた物語だ。興味深いのは、上演のみならず「〝石炭危機“のかげに」「筑豊の小ヤマから」と題した記事と資料を見開き2ページにわたって掲載している点だ。芝居を見るうえでの補足というよりも、現状を正確に詳しく知ってもらいたいという意図が見える。その後は時に喜劇や軽めの作品を挟みながらも、間接的な批評性のある作品を数年上演し続けた。
1969年、「東日本・西日本リアリズム演劇会議」*7は「’70演劇行動」を行おうと加盟劇団に呼びかけた。(ちなみに猿渡は「西日本リアリズム演劇会議」の創設に関わり、長きに亘って議長も務めていた。)それは「安保固定期限終了期の70年を前にして(略)、北は北海道から南は九州まで、全国各地で自主的、民主的な演劇創造活動を進めている劇団が、安保、沖縄問題に取り組んだ創作劇の一斉上演活動を展開しよう」*8という試みだった。現代劇場も「憲法で保障された民主主義さえ公然と踏みにじられ、人間としての誇りも喜びもむしり取られるような、現体制の中で、また、与えられた文化、パターン化したマスコミ文化の海の中で、私達は人間復興の斗いを進めます」*8と、その「演劇行動」に参加することを宣言する。
まず現代劇場は宣言通り社会問題を扱う芝居を展開した。『生と死と一九七〇―2つの詩と3つの作品による構成―』(1970年)では、原爆の被害、三池のガス爆発と抗議のための坑内座り込みスト、ベトナム戦争の補給基地であった羽田での労働者の死、板付基地で米兵の車による日本人の事故死、米軍弾薬庫への送電復旧している労働者の逡巡、をテーマにしたオムニバス作品を上演している。

さらに同年、満を持して「北から南へ日本縦断 ‘70演劇行動」と題したオムニバス公演を、劇団生活舞台と共に公演する。プログラムには「安保問題懇話会」からの寄稿文もある。だが、果たしてこれがどのくらい問題意識を共有していない人に届いたのか。「演劇行動」という勇ましい掛け声に反して福岡で参加したのは現代劇場と生活舞台だけであったため(西リ演に加盟していたのは福岡ではこの二劇団だけだったからだが)、当時の労演会長だった森下公平*9には開催を喜ばれながらも「今回のような行動には『セクト』を排し、他劇団にも呼びかけ上演してほしかった」*10との指摘も受けている。反響がどうだったのか、残っている記録はない。
この「演劇行動」のあと、現代劇場の問題意識に少し変化が見える。「大きな社会の問題」から「人間個人の問題」へと関心が移行しているように見えるのだ。
<人間らしさ>
ちょうど「演劇行動」の準備をはじめたころから、現代劇場は小劇場シリーズというものを始めている。「…小劇場シリーズを始めたのは、くりかえし、数多く、色々な作品に取り組む中で、現代のメカニズムの中で、ともすれば失われようとする人間を取り戻し、我々自身の文化を切り開くとりでにしようということだった」*11。小劇場シリーズの作品*12は作家も舞台設定も様々だが、「人間らしさ」がテーマだったようだ。以下のような言葉が何度も登場する。
「1970年代、あくなき資本の欲望は、外からは人間の肉体を蝕み、内からは体制に順応するイデオロギーをふきつけ、人間の存在を否定していくとき、如何に『人間』が『人間』をとりもどす斗いが必要であるか」*13
「しかし、人間であることは、すなわち人間であることを求め続けることだと思います。自由を、民主を、平等を、平和を求め続けることだと思います」*14
折に触れて「人間」に言及するようになった理由は何か。1960年代といえば日本の高度成長期真っ只中であり、社会が急激に変化していた頃だ。1964年にはオリンピック、70年には日本万国博覧会が開催され、また「新・三種の神器=カラーテレビ、クーラー、カー」が人々の生活を便利に豊かに変えていく。大量消費社会への突入もこの頃だろう。一方で、そんな近代合理主義社会のほころびが見え始めたのも60年代中盤である。公害、急激な開発による環境破壊と災害、大量消費によるごみ処理問題。経済成長のために優先された合理主義のしわ寄せは、力なき個人や地方に出るようになっていた。「今」を描き続けたい現代劇場が人間に注目するのは当然のことだったのだろう。
<地域に根差す>
1970年代に入ったころ、中央から見ての「地域(地方)」とはどのような位置づけだったのだろうか。「地方の時代」を提唱する声が聞こえ出したのもこの頃であるが、あくまでも政治(社会)システムとしての話だったかもしれない。一方、演劇の世界では先述の「西日本リアリズム演劇会議」の雑誌『演劇会議』では盛んに「地域に根差す」という言葉が登場する*15。同じ演劇雑誌の『テアトロ』ではせいぜい「関西の演劇状況」「東海の演劇状況」が論じられるくらいで(沖縄返還を前に1971年に沖縄が特集されることはあったが)それ以外の地方はまったく無視されていたとことからも、『演劇会議』が先駆的だったと言えるのかもしれない(日本全国の劇団が加盟している団体であるからという理由も大きいだろう)。

1973年に「福岡の民衆の歴史シリーズ」の第一弾として『おんな抗夫』を上演したのもそういった背景がある。本作は、大正時代の三池炭鉱大争議(大牟田の三池炭鉱)を舞台にした作品*16だ。現代劇場が拠点としている福岡県は明治から昭和にかけて石炭産業が盛んであり、本公演の10年ほど前に創作・上演した『おれのまたおまえの眼を』でも筑豊の炭鉱を舞台にしており、今回は県南の大牟田が舞台だ。「地域にねざした劇団」としては炭鉱の歴史・問題は目をつぶるわけにはいかず、舞台化することでこの地で演劇をすることの意味も考えようとしたのだろう。劇団は上演にあたって、大牟田まで調査に行き、実際に女抗夫をしていた女性に話を聞き、三池炭鉱史の講義を受けている。『女抗夫』の写真そうして、個別の物語ではなく三池炭鉱史として――封建的抑圧の中で男性同様に(しかし男性より安い賃金で)抗夫として働いた女抗夫のことだけでなく、囚人労働や与論島などから連れてきた人々を低賃金で労働させたこと――などのスライドも加えた改変をしている。また米騒動、八幡製鉄所争議のスライドも用いて、争議の歴史という流れも見せる工夫もしたという。


この上演は観客にも好評で劇団としても手ごたえを感じたようだ。翌年も「福岡の民衆の歴史シリーズ」として『一鍬ぼり』を上演し、地域に根差した劇団として発展することを念頭に「私たちは福岡という土地に責任を持ち、自立した独自の演劇文化を築きあげていきたいと考えます」と述べている*17。ちなみに同年1974年に劇団生活舞台・劇団ふぐ・劇団道化と共に上演した『筑後川異聞』(作・高尾豊)も地域の歴史を舞台化したものである。「地域に根差した劇団」であることを、強く意識していた時代だった。
<再びブレヒト>
つくづく真面目だと驚くのだが、現代劇場はその後、こういった上演の成功が「啓蒙主義に陥っていないか、教養主義的ではないか」と自己内省するようになっていく。観客を受動的な存在と決めつけ、既知の思想で作品を解釈したつもりになり、その解釈を分かりやすく伝える技術を磨くことに走っている…と気がついたというのだ。形式主義と技術主義に侵されていることは自由を失っている、管理社会の中で生きているのではなく生かされているに過ぎないと言い、「私達は本気で、『生きるとは何か』『人間の自由とは何か』問い返そうと考えた」*18。「そしてそれがブレヒトの『アンティゴネ』(1977年)の上演に繋がっていく。暴君に対して命を賭して反逆をするアンティゴネの「主体的選択」に、人間の自由、人間らしさ、生きるということを見出そうと考えたのだった。
結論から言えば、それは的外れな見方であったことに稽古をしながら気がついていく。確かに、作品の内容に「哲学的真理」を求めてしまうこと自体が、自分たちが越えようとしていた近代主義から逃れていないことの証左だろう*19。現代劇場の「政治の時代」はここをピークに落ち着いていく。演劇を通して「時代と社会」を考えようとし、「時代と社会」を演劇(舞台)で表現しようとしていた20年だったといえよう。

注(クリックしたら注が出ます)
*1 1960年『カラールのおかみさんの銃』公演のプログラムより
*2 1965年 秋季福岡市演劇祭プログラムより 現代劇場公演『カラールのおかみさんの銃』の紹介において
*3 1970年 福岡現代劇場機関紙N0.8
*4 「〝地域”を考える(1) 一地方演劇人の戦後演劇史メモ 猿渡公一」より
*5 1979年『セチュアンの善人』プログラムより
*6 1959年『ドン・ベルリンプリンとぺリザの庭の恋』のプログラムより
*7 「地域に根ざした演劇の創造と普及をモットーに、各集団の自主性を尊重しながら、互いに交流し、学び合い、刺激し合って力量を高め合おうという全国的な協議体で、正式名称は全日本リアリズム演劇会議と言います。1960年、安保闘争のあと、文化団体や新劇運動の中にも様々な形で分裂現象が起こりました。こうした中で、地域に根をおろし、国民の民主的な運動と連帯したリアリズム演劇の創造と普及を目ざす劇団が集まり、1962年に、西日本リアリズム演劇会議が結成され、翌1963年には東日本でも結成されました。東・西リ演はそれぞれに活動していましたが、1981年に合同し、全日本リアリズム演劇会議となりました。」全リ演HPより
*8 『玄朴と長英』(1969)公演プログラム
*9 この時期の演劇祭プログラムやシンポジウムの司会などによく登場する名前である。産婦人科の医院長をしていたという話で、この時期の福岡演劇を裏から支えた人物と聞いている。彼についても機会があったら調べてみたい。
*10 『北から南へ日本縦断 ‘70演劇行動』(1970)プログラム
*11 『スカパンの悪だくみ』(1971)プログラム
*12 『玄朴と長英』真山青果、『人斬り以蔵』真山青果、『ベルナルダ・アルバの家』ガルシア・ロルカ、『スカパンの悪だくみ』モリエール、『みんな我が子』アーサー・ミラー、『人命救助法』安部公房、『鳩』勝山俊介など
*13 『人斬り以蔵』(1970)プログラム
*14 『人間救助法』『鳩』(1972)プログラム
*15 例えば、「地域に根差す演劇活動」(1973年4月)、「地域に根差したということ」(1974年3月)、「地域にねざすたたかいの中から」(1974年7月)、そのほかでも「地域にねざす」という言葉がこの頃の『演劇会議』にはほぼ毎号登場している。
*16 大牟田の劇団「あらぐさ」1971年大牟田市民会館にて上演、山崎暁一郎作の創作劇。
*17 『一鍬ぼり』(1974年)プログラムの中から「福岡の民衆の歴史シリーズのこと」より
*18 『セチュアンの善人』(1979年)プログラムの中から「福岡現代劇場とブレヒト」より
*19 劇団(猿渡)が求めようとした、「アンティゴネの主体的選択」はあくまでも物語の導入に過ぎなかったと「*18」のプログラムに書いている。そこで学んだのは、コロス、――つねに舞台上にいて、物語の進行に加わるわけでもない、解説はしても行動しないコロスに、民衆あるいは社会の共通意志のようなものを感じ、自分たちがそれまで創ってきた芝居が「ヒーローの芝居」でしかなかったことに気がついたと、色々な所で猿渡は吐露している。
