福岡の演劇の歴史4 福岡現代劇場②

 「福岡現代劇場」(以後、「現代劇場」)は1958年3月に結成した劇団である。主宰は猿渡公一、2020年に他界するまでの62年もの間、自劇団の公演はほぼ全て彼が演出をしてきた。猿渡が他界してから劇団の活動は行われていないが、合同公演を含めると100本近い公演をうっている。それもギリシャ劇やラシーヌ、モリエール、シェイクスピアといった古典劇からチェーホフ、ロルカ、ブレヒト、アーサー・ミラー、木下順二、岸田國士、阿部公房、宮本研、井上ひさし…といった現代作家まで、(全てを挙げられないほど)国も時代も越えた幅広い作品を取りあげて来た。ラインナップを見るだけでも勉強になるが、それだけでなく「戯曲研究など猿さん(=猿渡)の講義があった」「本読みに数カ月かけた」という稽古の様子は、まさに「猿渡学校」と称することができそうだ。

 ただ、取材で多くの人に話を聞きまた資料を読んでいく内に、それを教養主義的だと片付けるのは違うのではないかという気がしてきた。現代劇場というと猿渡の学究肌ばかり強調されるが、むしろ彼はもっと素朴に「演劇の一生を全う」しただけではないか。演劇をやるために休みが保証された公務員を職として選び、演劇のために使うお金は厭わず、劇団の盛衰にも動じずにその時にやれる形で演劇に関わった。さらに言えば、彼は演劇(戯曲)を通して「時代と社会」を考えようとし、「時代と社会」を演劇(舞台)で表現しようとしていた。少なくとも猿渡は個々の作品というより「演劇」という大きなものに常に向き合ってきたのではないかと思うに至った。猿渡公一を中心に、現代劇場の60余年を振り返ってみたい。

猿渡公一氏

1.黎明期:めざしたもの

 「戦後の福岡の演劇は、九州大学演劇部と共に始まったといって過言ではない」*1と猿渡は1991年の毎日新聞の取材にそう語っている。演劇部初代部長は瓜生正美、二代目は広渡常敏。瓜生は九大を中退したのちに上京して「青年劇場」を結成した脚本家・演出家であり、広渡も上京して「東京演劇アンサンブル」を結成した演出家である*2。猿渡が役者として出演した九大演劇部の公演(1952年『雲の旗手』、九州大学演劇部第11回公演)でも、卒業後にプロの演出家となる小田健也*3が演出しているし、脚本を担当したのは、病気でプロになるのを断念したが郷里で高校演劇の発展に努めた岩町功である。そして猿渡はその2年後の1954年に五大学演劇連盟を立ち上げ合同公演を行っており(本ブログ「五大学演劇連盟」参照のこと)、確かにこの時期の九大演劇部から錚々たる面々が生まれたようだ。

 福岡現代劇場は、正確には猿渡が始めた劇団ではない。猿渡の妻であり女優の前崎圭以子が、「サボテングループという青年団のような劇団のメンバーや放送劇団のメンバーと現代劇場を立ち上げた」らしい。その劇団には演出がいなかったから、九大を卒業し教育庁にいたという猿渡のうわさを聞いて声をかけたのが始まりだという*4。ただサボテングループだけでなく別の団体の名も登場する。「福岡市内の演劇グループ『仲間』『サボテン』『生活舞台』にあきたらず新しい演劇活動を目指して10人の有志が現代劇場を創立した」という新聞記事*5や、また「五大学演劇連盟のOBと久留米で活動していた『はぜの実』とが合体してできた」という新聞記事*6もある。さらには「KBCにいた岩松氏と猿渡が友達で、そこから始まった」という説もあり、つまりはいろんな場で演劇をやっていた人々が集まってできたと考えていいだろう。

 さて「福岡現代劇場」という名前の由来を説明するにあたって、まず時代背景を押さえておきたい。戦争が終結すると、遅れを取り戻すが如く一斉に文化運動が花開く。その一つが、戦前の築地小劇場の流れを汲んだ新劇運動である。終戦数か月後の1945年12月に東京・有楽座で新劇合同公演としてチェーホフの『桜の園』が上演され大成功を収めたことに象徴されるように、新劇が、演劇ひいては文化の中心的存在になった。言ってみれば「ヨーロッパの近代劇をそのまま日本に移植する」形で、戦後民主主義、進歩思想を推進する役割を果たしていたのである。その旗手となったのが千田是也である。1944年に俳優座を作った千田は「演劇大衆化」の提言と「俳優の演技についてアカデミックに追及する」ことを目指す。それはモスクワ芸術座のスタニスラフスキーシステムを研究し、リアリズム演劇を探求することで、職業としての演劇人を作ることを指していた*7。ところが1950年代後半には新たな新劇の方法論が登場する。ベケットやイヨネスコなどの不条理演劇、カミュやサルトルなどの実存主義演劇である。また千田是也がベケットを日本に紹介・翻訳したことで、叙事的演劇(役への感情移入をするそれまでの演劇とは違い、出来事を客観的・批判的に捉えることを観客に促すような演劇、その手法として「異化効果」がある)も広がる。演劇においてわずか10数年の間で急激な変化が生まれ、そして1960年前後には安保条約の改定をめぐる闘争――政治の季節が始まる。

 地方都市である福岡は中央より少し遅れた形でその動きをなぞっている。1954年に設立された劇団生活舞台もスタニスラフスキーシステムを学び、社会主義リアリズムの作品を上演していた。先ほど挙げた九大演劇部の活動も、スタニスラフスキーやチェーホフの影響が大きく、また大学生らしいアカデミズム要素を含んでいたように見える。そして批判性を持った眼で社会をながめ、演劇を作る時代が到来…そんな中で1958年に「福岡現代劇場」は誕生したのだ。この文脈でのみ、劇団名の由来を理解できるだろう。すなわち「私達の生活と労働の場である『福岡』という地域に根差し、啓蒙主義的近代劇を脱却して私達が生きる今『現代』に視点を据えた演劇の創造に挑戦し、職場や生活の場での知人や友人を観客に想定して、お互いに楽しみあい、学びあえるような濃密な劇場空間を夢見て」*8いたこその、この劇団名だったのだ。そして創立から2年目の安保闘争が盛んな時期に、劇団のスローガンとして「学ぶことが武器となる仲間へ  真実を!」と掲げた*8

 ここから見ていく現代劇場の62年は、4期に分けられる。第一期は上述のような社会背景の中で、猿渡が社会と演劇の関係を強く意識して芝居を作っていた時代で、劇団創立から約20年間を指す。第二期は1980年代終盤までの10年間で、劇団の変化の時期、場合によっては「停滞」とも言える時期である。第三期は新しいメンバーが増え再び活気を取り戻した時期。1989年頃から1990年代後半までを指す。そして第四期はその後から猿渡が他界する2020年まで。なお猿渡の逝去後も活動はできていないが劇団は存続していることを断っておく。

タロー劇場の前で
注(クリックしたら注が出ます)

*1 「舞台に魅せられ6」(毎日新聞、1991年7月)

*2 上京前に、瓜生は福岡で火野葦平と共に「かもめ座」を作って活動していた。広渡も「薔薇座」を作って活動していたという記録がわずかに残っている。

*3 小田健也はのちに創作オペラ『夕鶴』の演出などを手掛けた。

*4 「劇団を訪ねて アマチュアの心を忘れるな 福岡現代劇場(福岡)」『演劇会議Vol.130』2009年7月

*5 新聞名不明 1963年1月

*6 朝日新聞 1973年

*7 1948年に舞台芸術学院(院長・秋田雨雀)が創設され、1949年には俳優座の養成所ができている。俳優教育機関であり、演劇をアカデミックに学ぶ組織だった。

*8 「福岡現代劇場はなにを求め続けていたのか」猿渡公一、『地域懇ニュースN0.60』 1983年9月20日

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