*戦後まもなくから活躍してきた老舗劇団といえば、私には5つの劇団が浮かぶ。「劇団生活舞台」「福岡現代劇場」「劇団道化」「劇団アトリエ座(「どらん小劇場」として旗揚げ。のちには「夢工房」と改称)」「テアトルハカタ」である。始まった時期はそれぞれ違っているが、それぞれの劇団から生まれた演劇人たちが現在でも福岡市内外で活躍していたり、少なくとも近年までその名で活動してきた長い歴史があったりという点から見て、老舗劇団と言って間違いではないだろう。
今回紹介するのは、その5つの劇団の1つ「福岡現代劇場」である。主宰の猿渡公一は劇団を立ち上げる前には九大演劇部で活躍しており、「五大学演劇連盟」(1954年9月に始まった大学生たちの演劇祭)の第一回合同公演『探偵物語』(1955年)も彼が演出している。猿渡の長きに亘る演劇活動は大学演劇から始まったとみていいだろう。
同様に、「福岡現代劇場」の初期主要メンバーもその前にはそれぞれ異なる演劇活動をしていた。福岡現代劇場を紹介する前に、初期主要メンバーがいた二つの劇団を紹介したい。
<劇団なかま>
「劇団なかま」は1953年ごろに創立した劇団である。
福岡現代劇場の初期からのメンバー・富原智一とその妻・美智子は、現代劇場の前にはこの「劇団なかま」に所属していたという。富原は福岡高校演劇部の出身で、この演劇部はNHK放送劇団で演出をしていた八島まさみ(旧姓は原田まさみ)が顧問として演劇指導を行っていた。その八島が、卒業した富原とともに作った劇団が、「劇団なかま」である。この劇団のメンバーには、後に上京し民藝に入った俳優・米倉斉加年や、前衛美術集団「九州派」の代表的な画家の菊畑茂久馬もいた。八島が児童劇の演出をしていたこともあり最初は児童劇から始まり、雑誌『テアトロ』に載っていた戯曲を中心に公演していたという。3,4名程度の小規模の芝居を、タロー劇場という公会堂のような小さいホールで上演していたそうだ。米倉も主演したそうだが1年程で上京。その後、富原も職場(教育委員会)で一緒だった猿渡公一に声をかけられて新しく立ち上がった劇団(福岡現代劇場)に入ることになったために、「劇団なかま」はそのまま自然消滅する形となったという。活動期間としてはあまり長くなかったようである。



<劇団焔劇団焔>
先述の富原智一は初期の現代劇場に於いて主役を多く務めていたが、仕事が忙しくなったことで1980年の公演を最後に劇団を退いた。その少し前に入団し富原と入れ替わるように主役を務めるようになったのが、沼田勲だ。その沼田が現代劇場の前に入っていたのが、「劇団焔」である。
劇団焔は、九大演劇部出身の於保清人が大学を卒業した1965年に立ち上げた劇団である。演劇部で仲が良かった2学年下の友達が卒業したら一緒に劇団でプロになっていきたいと目論み、彼を待つ形で早々と劇団を作ったという。ところがその友達は役者として優れていただけでなく学業も優秀で、大学院に進学し(その後、大学教師として功成り名を遂げた)於保の待つ劇団には入らなかったそうだ。「約束はしてない、僕が勝手に(劇団を)作って待っていた」と於保は当時を振り返って笑う。その友人が入団しないと分かった時点でプロになる道を探る気はなくなったそうだが、とはいえ、ピーク時には30名ほど劇団員が在籍していたというから、しっかりとした体制で活動をしていたようだ。
劇団が扱っていた芝居は、そのころ新しい思想として流行していた実存主義。サルトルの『出口なし』(明治生命ホールにて)や、カミュの作品を上演したという。年に1本のペースで6~7年ほど活動し、上演作品の全てを於保が演出している。毎回300人ほどは集客できていたそうだが、「(観客の反応は)よくなかったと思うね。下手だったし。役者も(演出家としての)僕も」と於保は言う。於保は30代に入るころに劇団を続ける気持ちも薄れ、劇団は自然消滅をした。
実は於保は、大学の演劇部時代に五大学合同公演を経験している。『ピクニック』という作品では、後に「劇団夢工房」を立ち上げた石川蛍が主役を、於保は裏方を務めた。当時の石川は西南大学の学生で於保の2つ上だったが、仲良くなり於保が劇団焔をやめた後もずっと親交は続いていたという。ちなみに石川が卒業した後の合同公演『怒りの夜』において於保は演出を務めている。
さらに面白いめぐり合わせがある。大学卒業後の於保は福岡市役所に勤めており2年程で文化課に配属される。その彼が係長か課長かという立場のときに、猿渡公一と共に「地元の芝居を作ろう」と動き出したのだ。それが1980年『海の五十二万石』である。この作品は、市民芸術祭の一つとして7劇団(劇団アトリエ座・福岡現代劇場・劇団生活舞台・劇団青踏座・演劇サークル大地・劇団道化・テアトルハカタ)の合同公演である。脚本は福岡出身の広渡常敏(当時はすでに東京で「東京演劇アンサンブル」を立ち上げていた)に頼むことに二人で決めた。於保は「猿さんからの話(提案)だったかわからんが、(話を)受けたのは僕で、僕がいなけりゃそれはできなかった。企画書はないと思う。猿さんと話をして、合同(公演)をして猿さんに(演出を)させるというのが僕の裁量でしたね」と話す。於保は演劇活動をやめた後も行政として福岡市の演劇興隆に貢献していたのだ。
石川とは彼の晩年まで飲み友達として付き合い、猿渡の芝居もずっと見続けていたという於保。今も市内で上演される数多くの演劇を見ている。資料こそ失われたが、劇団焔と於保もまた、福岡市の演劇の歴史の一ページとして記しておくべきだろう。

