2023年12月17日(日)
対象作品 「プロジェクト わたしのほころび」 … 百瀬文の4作品 パフォーマンス作品『定点観測』、映像作品『Jokanaan』『山羊を抱く/貧しき文法』『Social Dance』 @久留米シティプラザ
*2016年から「シアターカフェ」を不定期で開催してきた。シアターカフェとは、観劇した後に有志の観客(10名程度)でお茶を飲みながら、見たばかりの作品について語るというものだ。作品の役者・劇作家・演出家が参加してくれることも多く、毎回かなりの盛り上がりを見せる。
今回は、参加型のパフォーマンスを含めた映像3作品(いずれもアーティスト百瀬文さんの作品)を対象にして12名の参加者が自由に語り合った。そこでの内容を参加者の許可を得てここに紹介したい。
<参加者>
Y:会社員。『定点観測』は見学のみ。
U:このまま帰ったら疑問符だらけになりそうで参加。
Yっち:パントマイミスト。『定点観測』見学、参加、どちらも。
M:グラフィックデザイナー
Te:演劇好き、劇場設計なども携わる
Tu:高校演劇出身、社会人の今も演劇WSに参加。コミュニケーションのズレを普段感じていて、本公演がヒントになるかと。
F:今日は不思議な空間だった。『定点観測』は見学。次は参加者をやってみたい。
NT:ダンスの活動をしている。自分の作品でも観客参加型をする。『定点観測』は自分の意見を交換するものをイメージしていたが、予想していたものと違った。
K:お線香を作っている。趣味でエッセイも書いている。私らしく生きるって何だろうと考えていた。サークルの1つを抜け所属が減り「私を定義づけるものは何か」と考え出した。
MY:映画などプロジェクトの企画もしている。ラジオも。
A:百瀬さんが大好きで参加。
N:演劇活動をしている。最近「どこまでが自分なのか」ということについて考える機会があり、『定点観測』に興味を持った。
●パフォーマンス作品『定点観測』●
パフォーマンス『定点観測』とは
*参加型パフォーマンスだが、見学者もいる。15名の参加者が、場内に流れるガイダンス音声に従って、舞台中央の椅子に着席。椅子の上には質問用紙と鉛筆が用意されていて、実は各人の質問はそれぞれ違う。質問は、自由記述と2択の形式で合計14。参加者は音声の合図で回答を書き込む。全員が書き終わると、音声の指示で場内がいったん暗くなり、明転と同時に1番の人から順に1つ目の質問の回答だけを読み上げていく。1つ目の回答を全員が読み上げたら、また1番目の人が2つ目の回答だけを読み上げ…最後までそれをくり返す。余計なことも言わず、前の人が終わったらすぐに自分の回答を口にするのが約束である。
すべての回答を全員が読み上げたら、照明が落とされ薄暗い中で、録音されていた「今読み上げた回答」が流れていく。
●主体性が奪われる?●
――まず参加者ではなく見学者2人の感想を。
Y:途中から言葉が繋がるところに躍動感を感じた。人間の無意識の連帯感…潜在意識?
F:人が集まれば作品になっていくんだな、と。
――参加した方はどうですか?
A:言葉がリズムになってポンポンと躍動感があった。それに合わせて自分の喋る速度を変えた。録音を聞いている時に、自分が選ばなかった選択肢だったらどうなったかな…と。
K:全体感が出ると感じた時に、流れとしてもう一つの方を選んだ方がよかったと…でも選んだのはこっちだしと…そんな緊張感があった。
――でも百瀬さんが意図して意味を持たせるとか何かの流れに持っていこうとしているとは思えない。
NT:始まる前の音声ガイドの説明が不快で。無機質で怖かった。知らない人たちが音声ガイドだけで集まって座る…何か大きな装置の一つという感じがした。
――あ、私は音声ガイドが、流暢だけど時々イントネーションが変で、AIかなと思った。そこから組み込まれたような感じがした。
Y:わかる! まさにおんなじこと思った。違和感あった。
Tu:「わたしのほころび」という言葉がパワーワード。僕の場合は自分を「定点観測」しようと思って参加した。傍から見たら(参加者たちの)言葉は繋がっているように聞こえるかもしれないけれど、参加している自分は集中が続かなくて切れている。そういう時ってコミュニケーションのずれが起きてる? (参加者でも自分以外の人の)質問が分からないから解釈ができない。それが「ほころび」ってことかなと。
――自分を定点観測しようってどういう意味?
Tu:自分と、相手によって自分の捉え方が違う。集団とコミュニケーションをとる中で自分がどんな風に変化するのかということ。
NT:自分のまとまりをほころばせていく内容という気がした。質問にピッタリの答えがあるわけではないから。文脈も関係ない、自分が分解させられる。言葉だけが浮かび上がっていく。他の人が読んでいるのを聞いている時はバラバラだけれど、暗くなって聞きなおしているときに途中で一つのアイデンティティが浮かび上がってきた。それでゾワッとして怖くなった。
――私は暗闇の中で言葉が繋がって感じられた時に、何かに操られたかのような、質問が操作されているような気がして居心地が悪かった。自分の意思で参加して質問に答えているはずなのに、主体性が奪われたような。ところが読む時につっかえたり止まったりする人がいて、そこで初めて我に返るような感覚を覚えた。彼がいなかったらもっと「乗せられた」感じがしたのかなと思った。
U:私は乗せられる感もなくはないけれど、手を引かれている感覚がありホッとしながら参加した。
Te:ステージ(回)によって全然違ったかもしれない。構成メンバーによって変わったかも。
Yっち:僕は参加と見学とで2回経験した。参加の時は役に徹した。『12人の怒れる男たち』という映画のような気がした。ルールを守ろうとしているというか、縛られているというか。
Te:初めのアナウンスが、『ウルトラセブン』の怖さを思い出した。コントロールされる怖さ。一つの役を与えられ、「順番に」「間違えてはいけない」「滞らせたらいけない」という緊張感があって。(言葉の)繋がりを感じ取らなきゃいけないのかと探すが見つけられないストレスもあって、このストレスは、自分で選択したつもりだが実は違う文脈にはめこまれているのではないかという恐怖感からきている。でも自分の気持ちを書いているのは救いなのかと、いや、そうではないのかというストレス。これは日常でも同じなのかと、そういう感覚が誇張されているかと思った。
――白々としたライトの中の15個のイスに座って…確かに宇宙船に乗せられているような感覚というのも納得。
MY:権力と自由をめぐる体験だったと思った。(質問に選択肢はあるが)選択の自由は実は制限されていて、大きな物語装置の歯車になっていて、その回答というのもかなり振れ幅を制限されているなと。僕はブランドのリサーチなどでアンケート作る側なので、これやられてるなと(笑)。回答者およびそれを観察する人も、実は全容を把握できない、見えない権力の中の装置に自分がさらされてしまう。参加者として読み上げて、美しいつながりに聞こえてしまう場面が出てくる、「それは希望ですね、美しい話ですね」と思うはずなのにいざ自分がその対象に置きかえられた時に気持ちが悪かった。それはSNSとかでバズっちゃって話題になっちゃったときの気持ちの悪さ、コントロールできなさみたいなところと繋がるところがある。もっと言えば今政治で行われていることは大なり小なりこういう経験なのかもしれない、すなわち自分たちで選んだつもりでも実は徹底的にダイレクションされている、せいぜいこの幅の中で君たちの自由は収まるんだということを疑似体験をさせられている気がした。
――そこに救いはない?
MY:そう。とはいえ美しさみたいなものが宿る瞬間がある。連なった言葉、きらっとした物語のように聞こえる瞬間がある、図らずしもリズムが生まれていってそこに音楽的な拍動的な気持ちよさ、声がいいとか、そういう一個一個の表れが美しく出てくるところもある。そこは希望と捉えたいけれど、当事者になった時にそこだけではないそこだけでは収まらない居心地の悪さとか。装置の一部になってしまったというか。
――途中までは賛同するが、参加者の一人の訥々とした喋り方や言い間違えなどが「(自分が)組み込まれた装置」からの救いだと感じた。間違えないように、リズムを崩さないように、きれいに言おう、余計な音を立てないように、と思ってしまっていたが、でも失礼ながらその彼はうまくしゃべろうとしていない。後から、ほころんでいる部分かなと思った。
MY:自ら権力装置の一部になってしまおうとする人たちと、そこから外れる人ってことですよね、そこが救いというのはわかる。
NT:録音を聞いていてアイデンティティが浮かび上がってきたのが、百瀬さんが直接語りかけてきているように感じた。超越した観察者が急に現れたという感じがした。一緒に観察するスタンスとして感じた。
――百瀬さんの立場が、「全能の神」として超越した存在だと感じたという意味?
NT:いいえ、そういうものに対しての批評性も含まったポジションとして、百瀬さんがいるように感じた。
Yっち:作者からのメッセージを、傍から見ている方がわかる。客席で見ている時は15人からドンと来るけれど参加している時は一つの文字、言葉で、あんなに大きく受け止められるものを発しているとは思わなくて。
A:確かに散文詩的な感じになるけど断片的に感じられた。
Y:百瀬さんの作品は説明しがたいことがいっぱいある。以前、東京大学の『アートを通じて呼吸する空気』という講座をwebで聞いた。そこで百瀬さんと聴覚障碍者の方が対話する映像作品が結構衝撃的でひきこまれた。最初は違和感、計算されているかもしれないし受け手に身を委ねているところもあるけど、実はそうでもない…伏線回収もなく終わって。のちに説明があったが、よく分からないというのが百瀬さんの作品の醍醐味かもしれない。でもよく分からないというのも百瀬さんの計算かもしれない。今回もそういうことが起きていて、来てよかったと思った。
Tu:確かに質問用紙って作られていて計算されているが、回答するのはその時参加する人によって変わって来るから、計算できる所とできないところがある。
それと、自分の回答が他の人の回答と繋がった時はホッとして、繋がらなかった時はやべえな(笑)と突き放されるような感じ。リズムよくつながっている時は暖かい気持ちになるし、そうじゃない時はちぐはぐな居心地の悪さとか、何やってるんだろうみたいな気持ちにもなって。つまりそもそも人それぞれが持っている価値観はバラバラなんだということを象徴しているのかと思って、でもそれが繋がった時に人って喜びも感じる。伝わらないんだと感じた時に、淋しさを感じるのかなと。そういうところももしかしたら計算されて作っているのかな。
●『Jokanaan』男女の関係? 人形と人間?●
――映像の場合は、パフォーマンスの参加者・見学者とはまた違う自由度があると思うが。
M:『ヨカナーン』は何をやっているのか全く分からなくて。途中で男性と女性(CG)の動きがずれてくる意味が分からなくて…皆さんの意見が聞きたい。
――オスカー・ワイルドの『サロメ』が下敷きだが、それを知らない方の感想から聞かせてほしい。
N:最初は男の人の動きがモーションキャプチャーで(人形が)同じ動きをする。その後にずれてきて、逆に女の人が動いてそれを男性が真似している動きになって。動きがシャッフルされていくうちに男の人が裸になっていく。それで最近見たCMを思い出した。「自分の夢はパイロット」とか「お医者さんになる」とか。その後、「今の声は誰が言った声に聞こえた?」という話があって、この職業は男性、これは女性と当てがって考えたでしょう、それは無意識の差別だよと。その言い方もちょっとひどいよなと。単に量的な部分で経験してきただけのことを差別というカテゴライズするのは乱暴だなと。それをシャッフルしている映像と思いながら見た。
Tu:途中から見た。だからモーションキャプチャーと気がつくのが遅くて、なんでこんなに動きが合うのかなと。人工的なロボットみたいな大理石みたいな女性と人間が恋愛しているように見えた。踊りながらズレていくところも男女のコミュニケーションともいえるし、人間がAIに恋愛するのもありうるし、お互いがお互いを求めて最後は互いに傷つけあって、頭をお盆にのせて終わるのはラブストーリーを見ているようだった。
Te:人形を使った演劇、日本でいうと文楽、それを思い出した。人形の方が魂を持つ、人間が操作をしているけれどコントロールされていく、逆転して、この映像を見た時にそれを感じた。最終的に人形と言うよりAIの方が力を持っていくという思いを抱いた。
●『山羊を抱く 貧しき文法』 相手を理解・寄り添う「つもり」●
Tu:人間の性の処理として山羊を使っていたというのを、小さい時に母親から聞いていた。人間ってこんなに怖い一面があるんだと思い出して、どんな女の人がこれを作ったのかと(笑)。この映像の最後、なんで紙を食べちゃったんだ!って思った。
――なぜ食べたと思う?
Tu:食用の絵の具まで使って山羊に食べてもらおうと思ったのに、食べてもらえなかったから…
N:でも全部、人間さじ加減でやってる。コントロールされている所もあるけれど自由な所が存分にあったなと。支配されていることは頭の中の処理として、でも人間が想像を巡らせている範囲なんてすっごい狭くてたかが知れている。そこから外れる流れる空気とか、音が違う所とか、操作したのかたまたまなのか分からない質感の違いから、コントロールされている言葉で喋る内容と違うところを泳いでいる声があるとか、意識下の余白が結構あるって。それは山羊に思いを寄せる人がいるのに、微妙に山羊が拒否しているとか。人間はすり寄って昔の罪を懺悔するかのように近づいているのに山羊はそんな世界に生きていない。性処理に利用された山羊の感情を想像しているのも人間で、その人間の世界って何なのだって。もっと全然違う世界があるのに、人間は勝手にその世界の中で可哀想とかひどいとか…
――ああ、人間の文脈の中だけで勝手に決めて、代弁して…
N:うん、その感じが如実に浮かび上がる感じがして。
●『Social Dance』 愛の暴力、優しさの暴力●
――『Social Dance』も同じですね。
N:「私は目で見える世界に生きているのよ」って言うこととか、まさに星が違う、世界が違う。もっともっと距離があって、得体のしれない世界があって、でも人間はその中でざわついている感じがして。
MY:相手のこと、相手と連帯したい、共感したい、エンパワーメントしたいという気持ち自体はいい事でしょうけど、基本的に自分と相手が決定的に異なる存在であるという前提としてからじゃないと、始まらないと思った。その上で、「私のほころび」、自分の想定している輪郭と相手が想定している輪郭が固定的なものと捉えた時にはずっと分かり合えないんだけど、お互いにそれを決壊していかなきゃいけない、崩しあって、ほころばせていくことで、もしかしたらそこに、基本的には不可能なんだけど、山羊の瞳みたいに実は何も見てないのかもしれないんだけれど、その瞳の奥に捕まえられる何かがあるのかもね、ということを思いながら聞いていた。
N:当事者として溺れる時間と、冷徹に距離をとって見る瞬間とを行き来する…というか。当事者として溺れる時は、具合が悪くなる、居心地が悪くなって感情を揺さぶられる…一方で何だったんだろうと距離をとる瞬間もやって来る…
Yっち:(手話で)話しているのに手を押さえるのは、「あぁ…」と。コミュニケーションの上での遮りは分かるけど物理的な手の抑え込みが強く攻撃的に感じた。すごい嫌だった。
U:同じように感じた。ちょっとしんどくなって途中で出た。女の人は寝ていて男の人は立って押さえたりできるし移動もできる。きつい気分になった。
Te:息苦しさを感じた。でもこれは見ないといけないと思って。
――最後まで印象は変わらなかった?
Te:変わらなかった。
N:すっごいヤだった。ただあの後、男の人が机にもどったけれど女性はずっと手話を続けていた。それは彼が気がつかないことをぐるぐる手話でやって、空気を動かしている。文句を言っている、言ってみれば自由。私達が持っている言語とまた違う世界で生きているように思えて。それがさっき言ったような、こっちの世界とは全然違う世界を持っている、というような。
M:手話の映像は見てないが、山羊の方を見て思ったのは、人はなんてひどいんだ、無理やり山羊に謝罪しに行く。でも山羊は何とも思ってないし、なんなら迷惑。角をひもで引っ張られていやがっているように見えた。それで謝罪が暴力的だなと。もしかして3作品すべてが「愛の暴力」とか「優しさの暴力」をテーマにしているのかなと皆さんの話を聞いて感じた。
Yっち:「謝ってるじゃないか!」と怒るっていうね。
U:「謝ってるのに、もういいよ、自分が食べる!」みたいな。
A:『Social Dance』は苦しい…確かにその通りで、自分は相手のことを思ってやってるのに、押しつけ…最後の独り言の手話で「想像するだけでいいと思ってるだろう」というので、自分が相手のことを思ってやってるのに、いや、わかってねぇだろうという、どん底に突き落とされるという…。
それと今日のパフォーマンスの話で、全体的に「わかりあえなさ」とか「支配」とかがキーワードとして出てきたが、映像作品も同じようなキーワードで語れると思った。
●「ほころび」って?●
F:…ほころびって何なのか。分からなくなってきた。
――自分が「自分」だと思っている、「統一の自分」からずれていくもの。取り繕っているのにその裂け目から流れ出る・零れ落ちるもの、というイメージ。今日の『定点観測』で言えば、私が言ったはずの言葉と私の声なんだけど、組み込まれた瞬間に違うものになってしまった。それをMYさんは「踊らされている」「一つの何かに乗せられている」と表現したんだけれど、そこまで強くなくても他人に「勝手に理解される」というのもそうだし、日常で会話や書いた物が違う解釈されてしまうこともそうだし、いろんなレベルでいろんな「統一のわたし」が崩されて行く。そうならざるを得ないってことかな。
Tu:自分がきちんと生きていきたいんだけど生きていけない、コミュニケーションできない、優しくしたいのにできない…。ほころびって悪いイメージだったが、ほころびがあるから繋がれるという視点ができた。
Y:個々の言葉が繋がった時に躍動感を感じるとさっき言ったが…先程、(質問の)もう一つを選択していたらという話で、それは「ほころび」かもしれないけれど、逆に言えば別のものも「ほころび」かもしれない…正しい/間違いでは言えない、多角的にいろんなことが言える、そんなことを考えた。
Te:「ほころび」っていい言葉だなって思った。多くのことを感じさせる言葉だと。今日のパフォーマンスとカフェを通じて感じた。
U:「ほころび」こそ人らしさ、自分らしさ、かな。その人の感じが出ていて惹かれるところかもしれないし。「ほころび」を寄せ集めたのが自分かもしれない。
M:洋服のほころびだったら、すごい大切に着たものを修理して着ていく…絆って言うか大事にしていくってことかな。
Y:「ほころび」とは修理する、元通りにする、でこぼこを平坦にするという、割と社会的な意味合いもある。社会的に見映えをよくするとかに繋がるのかなと考えて、それはいい事かもしれない。例えば補正とか均一化させるとか。でもほころんだままでもいいじゃん。ほころんでてもいいんだよというのもこちらからの押し付けで、周りがとやかく言うことでもないとかそんなことを考えた。
――話は尽きませんが、時間が来たのでここで終わります。自分と「ほころび」を考えながら、おうちに帰っていただければと思います。今日はありがとうございました。
―シアターカフェを終えて―
百瀬さんの作品は、一筋縄ではいかない。考えが熟すのに時間がかかる。「わからない」と突き放すことはたやすいけれど、気持ちの引っ掛かりや居心地の悪さ、あるいは納得や細やかな気づきを誰かと共有したいという気にもさせられる作品だ。その点で、シアターカフェと「プロジェクト わたしのほころび」は相性が良かったのだろうと思う。
個人的な感想を少々。今回の映像3つはあれこれと話したくなる作品である。事前に見て百瀬さんにインタビューをしていた私はカフェにおいてほとんど口を挟まなかったが、そうでなければ時間を忘れて話し込んでいたかもしれない。他方でパフォーマンス『定点観測』の体験は想像よりも淡白で実は拍子抜けした。途中の妙な緊張感はあったが、「これで終わり?」という肩透かしの気分で席を立った。ところがカフェで話していくうちに、自分が体験中に感じた些細なことを思い出した。私はそれらを「とるに足らないこと」として無意識に蓋をしていたのかもしれない――そんなことを考えた。
ただ、全体論で語ることになったのが残念だった。どうしても「理解したい」私たちは、全体論を語りがちで、乱暴にまとめがちである。対象作品が多すぎたせいかもしれないが、例えば『定点観測』においてもう少し具体的な部分を話しても良かったかもしれない。質問が自由記述と2択の2種類だったのはなぜだろう。2択の質問こそが、私達が感じた「言葉の連なりにリズムが生まれて躍動感を感じ」させた原因だとしたら、それはやはり作家に誘導されたことになるのではないか。録音による効果は何だろう。肉声と録音の声に大きな違いがあるとしたら、声とはいったい何なのか。2択の質問のため言わざるを得ないオノマトペが言葉のリズムにどれほどの影響を与えているか。突き放されたような終わり方はどう考えたらいいのか。頭で小賢しく「この体験はこういうことだ」と語るのもとても楽しいが、体験したからこそ気がつく小さなことをもう少し大切にして話すべきだったのかもしれないと思う。――もちろん、それもカフェを経たからこそ気がつけたことなのだけれど。
最後に付け加えておきたい。私達の会話を百瀬文さんは黙って後ろで聞いていた。後から、カフェをとても面白く受け止めてくれたと聞いて嬉しく思っている。