『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子)

本の紹介(4)

『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子)2023年 新潮社

 第169回直木賞、第36回山本周五郎賞をダブル受賞した作品。

 睦月晦日の戌の刻、江戸・木挽町の芝居小屋・森田座のすぐそばで多くの野次馬が見守るなか仇討ちがあった。父を殺されたという菊之助という少年が、父の下男だった作兵衛の首級をとったのだ。雪の降る中、菊之助の白装束は返り血で真っ赤に染まる。見事仇討ちを果たした菊之助は、作兵衛の首を手に宵闇に消えて行った――それは「木挽町の仇討」と呼ばれた…。

 この事件の2年後、とある男が当の菊之助に頼まれたと言って、この事件の話を聞かせてくれと森田座の界隈の人々のもとを訪ねる。彼らに語ってもらうのは仇討ちの話だけでなく彼らの来し方、その生き様。そうして見えてきた事の顛末は…。おっと、本書の面白さや解説は、他の人に任せよう。


 本書を本ブログで取り上げたのは、舞台が江戸の芝居小屋だからである。始まりは芝居同様「とざい、とーざい」の声。最初に出てくるのは木戸芸者の一八だ。木戸芸者とは、木戸(芝居小屋の入り口)の前で、入ろうかどうしようかと迷っている客を相手に芝居の見所や面白さを伝える役者のことだという。つまりは口八丁でなければ務まらない仕事だ。一八が聞き手の(のちに総一郎という名と分かる)に語る体で、読者はしっかり芝居小屋の様子を思い描くことができる。このように、本書は芝居小屋界隈の人々――他には立師や衣裳部屋の針子、小道具づくり、戯作者――に仇討ちの話を語ってもらいながら、役者だったり道具だったり外題だったり、いくつもの観点から江戸の芝居環境が描かれているのだ。しかもそれらが本筋の伏線になっているのがすばらしい。

 そしてもう一つ、彼らが来し方を語ることで、芝居小屋が「悪所」と呼ばれる所以(同時に「悪所」とされるがゆえに行き場のない人々が集うのだが)が見えてくるという点を記しておきたい。例えば遊郭で生まれ、幇間ほうかん(宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業)になり、そこから流れ着いた者。親に死なれ飢え死にしかけ焼き場(火葬場)の陰亡おんぼう(棺を火にくべ火の番をする仕事)をし、そこから流れ着いた者。我が子が死んでも御武家に呼ばれれば命に背くこともできなかったことから芝居の小道具づくりになった職人。武士でありながら殺生に迷いを抱き、また理不尽な目に合った者。武士の道から逸れ戯作者になった者。そういった、蔑まれたり世の倣いにうまく迎合できなかったりした者たちが集まっているのが芝居小屋だと、いや、そういった人々を受け入れるほど芝居小屋の世界は懐が大きいのだとも言える。

 終盤、このあだ討ちの真相が見えてきた時に戯作者の金治が、聞き手の総一郎を一喝する言葉がある。「芝居を馬鹿にするんじゃねえよ」「芝居ってのは、大の大人が本気でやってこそ面白いんだ」。これは本筋に関わる重要な部分なので詳細は割愛するが、それぞれに必死に生きてきた彼らだからこそ、そしてそんな人たちが真剣に作るからこそ、芝居はつらい現実を一刻忘れさせたり夢を抱かせたりできるのではないか。

 よくできた小説である。ストーリーを楽しむもよし、テンポよい語り口に乗っかるもよし。そして江戸の芝居小屋界隈に思いを馳せながら読むのもまた、本書の味わい方の一つだろう。

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