広瀬健太郎さん(劇団風三等星)
*「劇団風三等星」は長く福岡で活動してきた劇団である。活動歴、なんと30年以上! こんなに長く劇団を続けられるのは並大抵のことではない。つまるところ、主宰の広瀬健太郎さんは福岡の演劇シーンをしっかり見てきたおひとりである。ところが…私(柴山)は、同じ頃から活動している演劇関係者の方々は知っているのに、なぜか広瀬さんにはご縁がなく今回初めてお目にかかった。(もちろん芝居は拝見している) 広瀬さんは言葉を選んで穏やかに話す方で、丁寧に当時の事をお話しくださった。おかげで、時代の雰囲気も伝わるインタビューになっている。楽しんでいただきたい。
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インタビュー
柴山:90年に旗揚げされていますね。公演は、福岡市民会館の小ホールにて『ある日、ぼくらは夢の中で出会う』。
広瀬:結成は89年だったと思うんですけど、90年に公演を。
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柴山:どういったメンバーで始められたんですか。
広瀬:僕は大濠高校…当時は男子校で、そのメンバーが中心ですね。僕を含めて同級生3人で、3人とも進路が決まっていて春休み何もすることがなかったので、じゃあ演劇部卒業して高校も卒業するけれども自分たちで学校以外で劇場借りてやってみようかということを話して。それに賛同してくれる同級生が集まって旗揚げしました。大会とかあるじゃないですか、そこで仲良くなった他校の演劇部の人にも声をかけて、面白そうじゃんという人と。
柴山:ということは大学生だった?
広瀬:3人の中で大学生だったのは僕だけで、他は専門学校に行ったりフリーターだったり。
柴山:90年3月が卒業の年ってことですね、基本的に「風三等星」はぽんプラザができるまでは市民会館で公演なさっていますね。
広瀬:小ホールでしたね。当時、小さくてできる所というのは、小ホールと夢工房。そしてキャビンホール。あそこでK2さん(注:劇団K2T3)がやっていたのを見てました、手ごろに、と言っても小ホール客席広いんですけど、当時はそれぐらいしかなかったんじゃないかな。
柴山:市民会館を選ばれた理由は何だったんですか。
広瀬:まず僕らの先輩が1回やったことがあったんですよ。高校の垣根を取っ払って。それを見たのが一番大きかったですね。まずはそこを真似てみよう、そんなに料金も高くないしと。…そこしかなかった気がするんですよね、今考えると。夢工房は利用したことはないですねぇ。
柴山:当時は高校演劇出身の方たちが自主公演をするのは多かったんですか?
広瀬:当時の感覚で言えば、そんな事をした人はあまりいなかった気がします。高校生が集まって学校以外の場所で公演したのは僕の先輩が初代。先輩も続きはしなかったですが。
柴山:広瀬さんは劇団をやるつもりでなさったんですか。
広瀬:そうですね。記念の公演で一回だけやって終わりにしようではなく、気の合った仲間と「劇団作る!」という気持ちは強かったです。
柴山:動員数も含め出来はいかがでしたか。
広瀬:観客は100人ぐらいだったと思います。小ホールが380(席)とかぐらいで、後輩とか来てくれてけっこう盛り上がったというか楽しんでもらえた。珍しかったというのもあったと思うんですね。高校生がやって、応援したいという気持ちもあったと。本当に身内だけで。そこそこウケたりはしますよね。そこで手応えを感じちゃったんでしょうね。
柴山:これはお金は…基本的に現在まで「風三等星」は観劇料が安いですよね。
広瀬:そう…みたいですね…。旗揚げは前売り300円、当日は500円でした。たぶん最初の料金設定は大学演劇がそのくらいだったと思うんですよ。今でもそのくらいでやってますよね。あちらは自分たちの施設が使えるというのもあるんですけど、そのぐらいが相場だろうと思って。それにしても、今考えると安かったと思います。その証拠に、新聞社から電話がかかってきました、「これ載せますけどほんとに合ってますか」って(笑)。
柴山:経済的には…。
広瀬:そうなりますよね、300円で100人呼んでも…たかが知れてる。だから自分たちで2万か3万は手出しはしたんだと思います。
柴山:まだ卒業してないからお稽古は学校で出来た…、いやでも他校生がいるから…
広瀬:そうなんです、そこで登場するのがテアトルハカタなんです。たぶん夢工房と近いところにありましたよね、何かの伝手があってテアトルハカタの稽古場を借りることができたんです、もちろん料金は払ってですけど。その時はたぶん仲谷さんもいらっしゃって。テアトルハカタは劇場もありましたもんね、階段を上って…稽古場も隣接であったから。先輩劇団から教えてもらったのかもですけど、そこで練習を最初の頃はしてました。たぶん、1000円とかそんなもんぐらいで借りれたんじゃないかな。
柴山:では、野尻さんなどテアトルハカタの方とは…
広瀬:それが残念なことにお会いしたことはないんです。…直接は関係ないんですけど、たぶんあれは仲谷さんだったと思うんですけど、白塗りだったんですよ、対応してくれた時に。さすが、違うなぁと思って(笑)。
柴山:広瀬さんがご自身で脚本を書かれるようになる2,3年後までは、ほぼ高橋いさをさんの脚本で演出を広瀬さんがやられていますね。これはお好きだったからですか。
広瀬:そうですね。僕らが一番初めにやったのが高橋いさをさんで、男が4人だけ出てくる。これはそんなにお金もかからないだろうという目論見がありました。いきなり劇団を立ち上げて自分の脚本を書くというのはリスクが高いという計算もありました。まずは劇団として運営するためには脚本がしっかりあるべきだろうという…安全策。
柴山:いえ、正しいと思います。
広瀬:その頃の高橋いさをさんは今と違って、舞台はつかこうへいみたいにほとんど素舞台であり、役者の肉体だけで頑張り、衣装もそんなに、場面展開も役者が身体で表現する、ということがぴったり合ったんだろうなと。そこで基礎体力を僕らがつけたのかなと今考えると。
柴山:高校演劇部の時も既存の脚本を?
広瀬:いえ、高校の時は僕が脚本を。だから高橋いさをさんを3,4本やって、そのうち書くぞ、安定してきたら、ということだった。どっちかというと僕は脚本を書きたかった。今考えると強かったかな。
柴山:番外公演として日高(靖幸)さんという方が書かれましたが…だから広瀬さんが演出をされたいのかと思ってました。
広瀬:ああ! 脚本・役者・演出あると思いますけど、最近までは、やりたいことは脚本→役者→演出でした。演出はよく分からないから…。今は演出が一番やりたくなってきたという心境の変化があって。演出→脚本→役者。当時は映画いっぱい見て脚本の勉強も独自でやってましたからね。
柴山:旗揚げ公演から半年に一度、いや2年目は1年に3本も公演されています。団員数の増減は?
広瀬:感覚で言うと8人ぐらい。主要メンバーは6人とかそれぐらい。
柴山:団費を徴収して運営されていた?
広瀬:えっとですね、一般的な団費というのは例えば劇団員から月に3000円もらうよ、ということを僕たちはしていなくて、半年後のここでお芝居をします、3カ月前から稽古に入ります、やっていくうちにお金が無くなったら僕が半分だすから後はみんなで出してね、って緩いかんじてやってて、だから劇団員たちは1万とか2万ぐらいを出していたと思います。アルバイトしてつぎ込んでいたんでしょうね。たぶん、団費を取るのが普通だった気がするんですよ。
柴山:それをなさらなかった理由は。
広瀬:一番に考えるのは、手間暇、事務処理を僕がしたくないということがあったんですけど、それよりも大きかったのはその公演のためにみんなが集まり、その後はカッコつけて言うと風のように去っていく…劇団を続けたいんですけどその時だけ集まって日常的には会いたくないというか。キュッと集まって。流儀とまでは言いませんけれど潔さというか。そこがちょこっと他の劇団とは違うのかな…。
柴山:メンバーもその公演ごとで大きく変わって…?
広瀬:主要メンバーはそうですけど、定期的に出てくれる人もいますけどいろんな理由で出なかったり新しい人が入って来たり。そこでお芝居を一生懸命にやるためにはそれ以外の生活を一生懸命しておかないと社会人になったらきちんと働く大学生ならその生活を。3カ月しっかりとこっちに集中してもらうけどそれ以外でちょこちょこ会って会議したり練習したり団費を集めたりをしたくなかった。それは今も続いてます。
柴山:では公演で思ったより入らなかった時はその負担は広瀬さんが引き受けるということに…?
広瀬:でしょうね。でしょうねと言うのは、赤字になることはわかっているから、自分がどれだけ損したのかをはっきりさせたくないといのがあって(笑)。あぁ、これたぶん15万か20万は俺が払ってることになるだろうけど具体的数字にしちゃうと具体的に落ち込んじゃうのでぼんやりと…「赤字やったねー」ぐらいで。調子に乗って言わせてもらうと、お客さんが集まらないのは僕が面白い芝居をしてないからだと思うんですよね。赤字を補填しなくなるくらい面白い芝居をすればいいだけの話で、そこは赤字になることが自分のモチベーションを挙げること…
柴山:かっこいい…。マイナスが出たとしても次のモチベーションとして、他のメンバーに負担や心配をかけずに気持ちよくやってもらおうということなんでしょうね。
広瀬:(照れ)
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柴山:前後しますが、「風三等星」という名前の由来を教えてください。
広瀬:当時、劇団名に漢字四文字というのが割と流行っていた気がして。例えば「幻想舞台」もそうですし「空想伝馬」もありましたね。東京で言うと「第三舞台」もそうですし。今となっては漢字四文字珍しいかもしれないですけれど。なぜその感じなのかというと、「風」という字が僕が好きだったのと、野田秀樹さんだったかな、「舞台を風のように」とか「風に記された…」(ピーター・ブルックの言葉「演劇は風に記された言葉」)、つまり風というキーワードが非常に演劇的だな。一瞬しか吹かない舞台の風。そういうのが舞台の…というのがまずあって。「三等星」というのは、まず「なんで一等星じゃないの」と言われるんですね、でも三等星というのはあくまで地球から見て3番目に光っているだけで本当は1等星よりも大きくて輝いているかもしれない星なんだよ、だから見にきて確かめてくださいという所があった。僕の独創じゃなくて確か『ブラックジャック』にあった。「6等星」というエピソードがあってその中でブラックジャックが言ってたんですね。確かそのエピソードは有能なのに人の下でずっと助手ばっかりしているお医者さんが病院で目立たない、でもいざ手術する段になるとものすごい技術を発揮して周りがびっくりする、みたいな。「3等星」というのは3番目じゃなくて、可能性がある。
柴山:あなたの目で確かめてくださいということですね。
広瀬;そういうことです。
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柴山:演出が代わった番外公演をなさったときは、その方がやりたいとおっしゃったんですか。
広瀬:彼がやりたいと言ったわけではなくて僕らが担ぎ上げたというか。2点あって、僕が人から演出をされたことがあんまりなかったので演出されるだけの役者の気持ちを味わいたかったのと、彼がお芝居をやろうかどうか迷っていた時期だったので、お前はお芝居をやった方がいいと思うし演出に才能があると思うから俺たちを使って一度やってごらんよというのがあったと思います。
柴山:演出される方が変わると当然、空気やいろいろ変わると思いますが、如何でしたか。
広瀬:『ボクサァ』という、これも高橋いさをさんの作品だったんですが、やってみたらお客さんもわいてくれたんですね。稽古は僕らがいつもやっているような動きが激しくというものではないんですね、この作品が。だからやりにくいなぁ、これお客さん喜んでくれるかなと思いながらやっていたんですけど、ふたを開けてみたらお客さんの反応も良くて。だから役者が納得できなくてもお客さんが喜んでくれることもあるんだなと。もちろん稽古の終盤になると面白さも分かってきたんでしょうけど。
柴山:でも役者として不満…ありませんでしたか、納得していないのに受けるというのは。
広瀬:だから僕も逆で演出している時にそういうことがあるのかもしれないなと思いました。役者が納得してないけど僕(演出家)がこれで行きたいと、そういうこともあるのだろうなと。そこが難しいですよね。
柴山:では違う立場になったことで、ある種の気づきがあったと。ただ、その後からはずっと演出をされて。93年ぐらいからご自身が書き始めた。満を持して旗揚げから3年後ですね。このころの動員数は?
広瀬:このころになると300ぐらい…だいたい50人ずつぐらい増えていた印象があります。理由がありまして、僕が高校3年生の時には見に来てくれた人が後輩で1,2年生、1年経つとそれだけ後輩が増えてくるんです。直接の後輩じゃなくても。そういう所にチケットを売りに行くと買ってくれるんです。一般のお客さんも増えたと思うんですけど、後輩も増えて行った。そこには今活躍している幸田(真洋、劇団HallBrothers)とか川口(大樹、万能グローブガラパゴスダイナモス)とか中村卓二(P.T.STAGE DOOR)とかいるんでしょうけど。それはちょっと前すぎますね、まだいなかったかな。
柴山:後輩というのは感想をくれるんですか。
広瀬:そうですね。良かったですとか。一つは、自分たちで劇場を借りてお芝居をやっているということが珍しかっただろうし俺たちも卒業してやるという流れにもなっただろうし、そういう意味では「良かったです、入りたいです、俺たちもやりたいです」というのが出てきた感触はありますね。「客演集団THE☆ネリ」もそうですね。井上君(井上典久)…彼はよその高校の一個下ですが。結構いろんなお芝居をしていて、彼らは既成の脚本ばかりやっていて。広瀬ってやつができたぐらいなら俺らもって…(笑)、何個かあった気がします。あったけど無くなったのかな…。
柴山:交流はあったんですか。
広瀬:ありましたね。高校演劇から派生した劇団は、うちの劇団からそちらに出たり逆だったり。その当時で言うと、「風三等星」があって、その半年後に「座K2T3」ができて、その半年後に「劇団PA! ZOO!!」が出来たという感覚があります。僕らは35…年?
柴山:観客が50名ずつ増えるというのはずっと続いて…?
広瀬:それがやっぱり(笑)…マックスが450ぐらいだったと思うんです、もちろん高校生が来るというのは限界がありますし。
柴山:脚本をお書きになるようになって、観客の方からの反応はいかがでしたか。
広瀬:少なくとも僕の記憶では、高橋いさををやっていた方が面白かったとは言われなかったですね。でも、脚本を書いているときはそういう感覚はなくて…役者もうーんという葛藤はあったと思います。だからこそたまに高橋さんや成井(豊)さんをやったんだと思います。僕の中でのちょっとした居心地の悪さは、35年やってるけどそのうちの半分くらいは僕脚本書いてないよなって。既成(戯曲)をやってるなって。
柴山:既成をやって体力つけてから自分の脚本を書くという戦略は間違ってなかったと思いますよ! 94年に大学卒業?
広瀬:中退してます。フリーターとして芝居を続けて。(メンバーは)結婚して出産したりとか、就職したりて東京行っちゃったりとか、劇団員同士で結婚して片方が出られなくなったりして。でも不思議なことに核となる役者は常に入ってきてくれたという気がするんです。そこはうまいこと…役者が足りなくなったという記憶が僕にはなくて。旗揚げしたころのメンバーで安河内君という人がいて、彼は最初は劇団を引っ張ってくれてでも就職して出れなくなって、となった時に、また新しい子が来て…で、何十年か後にまた戻って来てくれて。梶川竜也にしても小沢(健次)にしても、役者がおらんくなったもう俺芝居できないなって時に入ってくれて「一緒にやりたいです、見てました」と。
柴山:大学を中退されたのはお芝居に専念されたいから?
広瀬:今考えるとそれは後付けかもしれないです。僕はやはり…劇団やってて、今は専門学校で先生やってて、何か集団の中であれこれ言う立場に慣れちゃってるので他のシステムに入っちゃって逆になるとついていけなくなるのかな。僕にとっては大学がそういう所だった…たぶん、大学入った時に変なプライドがあったんだと思うんですね。大学入った時に、「演劇部にははなから興味ねぇし! 俺は自分で劇団作ってお客さん呼んでるし!」みたいなプライドは、学校生活で単位を取るとか友達作ることには邪魔でしかなかったって気がするんですね。今考えると謙虚にならなきゃいけなかった…でも当時はとんがってたんで、俺は自分でやってんだ!って。
柴山:若さですね、自負があるってことだったんですしね。94年にイムズ芝居に出ていらっしゃいますね。イムズ芝居は選考でしたが、イムズ芝居が始まった時から挑戦なさっていた?
広瀬:出して何回か落選してました。出たかったですね。甲子園みたいなもので、あんな素晴らしいところで出来る…大きかったんですね。
柴山:後藤香さんが、「イムズの外壁、金ぴかのあそこに自分たちの名前の書かれた幕が下がっているのを見たとお気に感動して」とおっしゃっていました。
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広瀬:そうなんですよ…。写真撮りましたもんね。2つエピソードがあるんです。僕は毎年応募して、2回か3回落ちていることを劇団員は知っていたんですね。そしてビデオを提出していた気がするんですけど、いずれにしてもある公演のビデオを提出しました、今選考中であるという時に、僕たちがお芝居の稽古中に事務局から「選ばれました」という連絡が来て、あ、これを劇団員に言ったらめちゃめちゃ喜ぶだろうなと思ったんですね。劇団員も気になってるんですよ、「広瀬さん言わないから今回もダメだったんだろうな」という風に思っていた時に、公演が終わった打ち上げで「次の劇場が決まりました、イムズです」って。「うわー!」でしたね。2点目は、応援してくれた父と母、特に母がものすごく喜んでくれたというのが…僕はその2つの方が嬉しかったですね。こんなに喜んでくれるんだって。
僕は、イムズ芝居は本当に公平な審査、作品の良し悪しだけで完全に決めてたという印象があったんですよね。だから他にある演劇祭はそんな事ではなくて…と考えると、イムズというのはシンプルでその分、力強さ、吸引力がある。本当に胸を張って選ばれたという。自分でもおかしくなっちゃうんですけど、確か演劇の公演のビデオを提出してそれを参考にということだったと思いますが、秀巧社に事務局があってそこにビデオを郵送するか持っていくかだったと思うんですね。僕は選ばれた公演のビデオを持って行かないでおこうと思っていた、諦めていたと思うんですね。でも後藤さん(座K2T3)に「広瀬君出してないと?」と言われて、「もう無理だと思うんで…そうか出した方がいいか」と。それで〆切の日に持って行った気がします。
柴山:後藤さんが背中を押してくれなかったら…! 何が一番変わりましたか?
広瀬:イムズ芝居は僕たちの年まで1年に1回だったんです。僕たちの代は、次の1年もやれる権利があったんです。まずイムズ芝居の1年目、お客さんもあったかくて超満員で、こんなに笑い声が塊としてバーンときて盛り上がって、終った後もいろんな声を頂いて、あそこが風三の一回目の絶頂だったと思うんですけど。僕の中でのほろ苦さは二回目なんです。僕の中ではこけたというか、劇団内でもごたごたがあって、人数もものすごく呼んだんですよね。脚本もギリギリできなくて、プライベートもごちゃごちゃあって、イムズのあの2回目の公演は納得できない…失敗だったかなと…。それから2年連続がなくなったのは俺らのせいかと。
柴山:関係ないです(笑)。
広瀬:出演者も増やしたのでその分チケットも(売れて)。僕の脚本のネタがそろそろ尽きて、無理くりひねくりだしていろんな昔の書いたやつを焼き直して他のアイデアと組み合わせたけどうまくいかない…その証拠に本番前に全員そろって通したのは1回だけだったんです。人数が多い分揃わなくて1回しかできなかった、その一つとその時に初めて2時間15分ぐらいと長いことが通してやっとわかって。本番もいろんなことがバタバタ、間に合ってないことも。1回目のイムズが終わって来年もイムズで出来ると分かって、僕は気前よく「お前も出ろよ」と声をかけてみんなもイムズに出たいし、きっとそこが…脚本力のなさとそんなたくさん出る芝居を書いたことがないことが…イムズに関しては苦い思いが。あの時の打ち上げはちょっとみんな荒れてましたからね…。きっと僕も役者としても名残があった時なので役者としても出てました。だから尚更ですよね、全体を見るという点で。
柴山:先ほど、テアトルハカタを稽古場に使っていたとおっしゃっていましたが、このころはもう(パピオ)ビールームとかできてる頃ですよね、どちらでお稽古されていましたか。
広瀬:テアトルハカタでは2公演分ぐらいしかお稽古してなくて、パピオが出来てパピオを使ってたんですが、その間は実は六本松に九大があった頃、学生会館がありまして九大生はそこでお芝居をしてまして。夏休みの期間はいろんな会議室みたいなところがあって僕らはそこを使ってました。今考えると正式な手続きは取らずに勝手にそこで練習してたなぁ。九大生一人ぐらいいたからいけたのかな。意外とそこで練習していた期間は長く、僕もその頃はよその大学生で、夏休みを利用して昼間に参加できる人を集めて稽古していた気がします。
柴山:佐世保でも一度公演されていますね。これは声がかかって?
広瀬:そうです、九電さんからお声がかかって。九電文化の森シアターっていう名前でしたかね。
柴山:下世話な質問ですが、それはお金を支払っていただける?
広瀬:はい。長崎でやるのでもちろん宿泊費も交通費も劇場代も稽古場代も全部出してくれました。僕らの後にたぶんK2がやったと思います。しかしお客さんはそんなに入ってなかったですね。福岡から見に来てくれる人は数名いましたけど…。よその地域の劇団が来ていきなりお芝居して…はアウェイですからね…。
柴山:「風三等星とゆかいな仲間たち」公演というのもされていますがこれは?
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広瀬:これは僕が高校一年生の時に北九州でお芝居があるよ、だいぶ前の大濠高校の先輩が出るよと聞いて見に行ったんですね。その時に大塚(ムネト)さんが」出られていて僕の中では憧れの先輩で。向こうは僕のことは知らないです。大塚さんがまだ高橋徹郎さんとお芝居をされていた頃だと思います、僕が喫茶店に一人でいた時に、高橋さんが大塚さんと一緒に入って来たんです。僕は高橋さんと知り合いで親しく話をさせていただいていたので、大塚さんを見て「あ‼大塚さんだ!」なんですけど向こうは「この子何で僕のこと知ってるの?」と(笑)。実はこうこうでと話すと「嬉しいよ」と。その頃、ギンギラ太陽’sがスポーツバーでやっていてそれを見にいって大塚さんと親しくさせていただくことになってそれで大塚さんに出演していただけませんかと。演出と出演はお任せしますからそれ以外は僕らが引き受けます、と。
柴山:それまでもずっと金銭的なものは個人で負担されてきたとのことですが、この時も?
広瀬:記憶がないです。いっつも負担してたから覚えて無いだけかもしれないですけど、その時はそこそこお客さんが入った感触があって。大塚さんもずっと前の後輩がやってくれてるからときっとやりくりしてくださってたと思うんですよ。北九州から通って、自分で衣装を用意して。
これは成井(豊)さんの『また逢おうと竜馬は言った』をしたんですけど、これは実は僕が成井さんの作品の中で一番好きでその中に出てくる主役をしたくてしょうがなくて、初演で上川隆也さんがやった役なんですけど、これさえできれば役者としては満足だと思ったんですね。ただこれを俺がやると新人の子が伸びないなと思ったんです。だから新人の子に主役をやらせて僕はちょっと脇に。結果としてはそれが成功したんですね。後々彼が看板になってくれるようになったんですけど。結構あれは大塚さんは、みんなに厳しめに言ってくれて、僕はそれぐらい役者として言われたことがなかったので、今までやって来たのじゃダメなのかと考えましたね。でも結局は大成功、手応えありだったので学びがありました。
柴山:その2年後、「座K2T3」と合同でやられています。これは後藤さんと仲がよかったとか?
広瀬:そうですね。専門学校で講師として今も一緒なんですけど。やっぱり旗揚げした時が近かったというのがあったのと、まず褒めてくださったのが香(後藤)さんだったし僕もK2の作品が好きでしたし、メンバーも非常に仲良くさせていただいていて、一緒にやりたいねぇというのは自然の流れで。僕がやりたい脚本(成井さん)があったのと、女の子いっぱい出てくるからK2さんと…という。(演出を広瀬さんがやった理由は)香さんの役者としてのモチベーションも高い人だから、役者としてだけ参加したいと言ってくれたと思います。
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柴山:アラビアンデイズ公演というのは?
広瀬:それはプロデュース公演で、2回目まであって、1回目は香さん、2回目が僕だった。発起人は市役所の文化振興課にいた古賀(毅)さんがフットワークの軽い気さくな方で、盛り上げてくださって、ちゃんと役者が食っていけるまではなくてもギャラが出るようにしたいということで、古賀さん自身のポケットマネーで。脚本台で10万とか15万とか出してくれて、役者にも…。アラビアンデイズ1回目が後藤さんが脚本演出して、終わった時に古賀さん捕まえて「次は僕がやらせてください」と逆オファー。「じゃあ、次は広瀬君に任せるよ」となりました。アラビアンデイズというのはギャラを払う。そして縛りとして二人芝居だったと思います。あれはすごく意義があるというか…。キャビンホールでした。
柴山:その後にぽんプラザができて…
広瀬:できるまで福岡演劇人が集まってどんな劇場にしたいかと集まりもした中で、出来てから不満もあるでしょうけど、なんせ一日を12000円で借りれるなんて、まず東京の人からは信じられないでしょうし…僕らもぽんプラザでやって人の劇団もぽんプラザで見るうちに…ぽんプラザができてから福岡の芝居が変わってきたかなという印象があったんですね。その頃と符合するかわからないんですが、静かな演劇というかナチュラルなボソボソ喋る演劇と、つかこうへいみたいなのと二つに分かれると思うんですけど、結局ぽんプラザって声を張らなくてもお客さんに声がセリフが聞こえてしまう空間であるために、あそこでお芝居をする人が演劇の流れも相まって、僕からすると普段のようにぼそぼそと喋っている物にお金を出さなきゃいけないのかなと。役者も鍛えられてないし…とちょっと不満というか。その反発心から中央市民センターでやった。お客さんからすると、そこでやると客席がガラガラ、400とか入る劇場で150人だと寂しいよという指摘もあったんですけど、大きい所でも役者のパワーとか鍛えるためにやってみなくちゃというのもあって。
柴山:その頃は旗揚げして14.5年ですよね。劇団に入って来る方は圧倒的に広瀬さんより下ですよね。今「鍛える」と表現なさいましたが、その若い方を一人前の役者に、舞台で使えるように、という意識が強くなっていたということですか。
広瀬:例えばこの前の芝居(『バンク・バン・レッスン』)で梶川竜也や小沢健次、最後のシーンで僕はこの二人に任せて安心だなと思ってたんですね。昔のことを思い返すと、中央市民センターでもう全速力で走りまわったり、大声でずっと言ったりしていたことが結果的に鍛えたことになったのかもしれないけれど、僕は鍛えようとしてたんじゃなくてそういうものが見たかったんですよ。
ぼそぼそというのも全部が全部だめというのではなく、洗練されてすごく訓練しての日常なんだなと分かる…好みもあるんでしょうけれど。
演出家としてこういうことをやりたい、というモチベーションあると思うんですけど、俺はこういうことだけはやりたくないというモチベーションもあって、僕はどっちかというとボソボソごにょごにょ喋る芝居はズルだろう、したくない。平田オリザさんは大丈夫です…それは練習量だと思うんです、何回も稽古して練習しているかと。昔の「風三等星」の芝居を見ると、全員が全員、声を張り上げていて。確かにただがなり立てているだけと書かれたこともあって今見るとそれもそうだなと思いましたが、この前やって(『バンク・バン・レッスン』)、練習さえいっぱいしていれば普通にナチュラルに話してもお客さんは退屈しないんだなと。昔と違って今は「これはアリだな」と思えたんですね。そこに培われているものがあってそれをしているなら。
柴山:「風三等星プロデュース」もやられていますね。
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広瀬:男女二人芝居をやって(アラビアンデイズ)、僕が演出で、女優は酒瀬川(真世)だったんですけど、その時ですね、役者として舞台に立ちたいという欲が出てきたんですね。特に二人芝居で出たいなと。酒瀬川と芝居がしたいと思った。2回目は多田香織さんとやった。あれは僕の中で、劇団をやるというのはもしかしたらやりたいことを抑えて周りのことを一番にしてきたんだけれど、この二人芝居に関しては僕がやりたい女優さんと二人芝居をしたい、わがままを言わせてくれと。劇団員は手伝ったりとかチケット売ったりして、自分のやりたいことだけを突き通させてもらえますかと。2回やりました。これは満足。客演の女優さんたちが上手だったからどんなボールを渡しても受けてくれるし、多田さんの回はいろんな人から…それは甘棠館でやった一番最初。2007年でした。『HOLD』です。
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それから一つ差加えるなら、僕の中で一つ大きな転機があって、それがFPAPの「福岡大学合同公演」の一回目だったんです。『アロハ色のヒーロー』をやったんですね。2007年です。FPAPの高崎(大志)君から声がかかって。これも高橋いさをさんで、僕が演出。高崎君は大学の時に合同公演を経験してるんですね。それが高橋徹郎さんが演出なんですが、ぜひとも大学生を集めてやるんだというのが彼の中で大きくて。オファーを受けた時に劇団以外の役者を使ってお芝居なんかできるんだろうかと思ったんですね。自分の劇団を作らずにやっているようなやつらが俺がやりたいような芝居についてこれるかねぇと思っていたんです。しかも当時はあまり大学演劇部も盛り上がっていなかった気がするんですが、引き受けてやってみたら思いのほか彼らが一生懸命で出来も良かった。その時に、大学生だからとかそういうの関係なくて、お芝居やりたいなと思っている人、いい物作りたいなと思っている人、それが同じならば立場とか関係なしに一本ちゃんと作れるんだなという事が分かったんですね。だからその経験があったから専門学校から(講師の)オファーがあった時にこれならできるかもと思ったんです。劇団員じゃなくても僕のやる気とかモチベーションに付き合ってくれる人がいるんだと。これが僕の中では大きかったかなぁ。
それというのもですね、僕らが高校演劇出身で大学になっても大学演劇をやらずに高校出身者だけでやれるんだという事が分かった、のと同時に大学演劇が面白くなくなってきた。大学演劇に入るべき逸材が自分たちで違う所でやってると…そういう風な認識があったんですね。そんな僕が大学演劇部の連中と芝居をやるのはちょっとした皮肉というか…。面白い皮肉だなと。
柴山:それで専門学校の講師もお引き受けになったんですね。今でも年に一度の頻度で公演をなさっていますが、今も経費の半分は広瀬さんが負担を?
広瀬:それがこの間の件に関しては10万ぐらいは黒字だったんですけど、劇団員が「広瀬さんはめちゃめちゃお金出してますから、僕らお金集めました」って言って、15万ぐらいくれたんです。「俺がいつも言わんけん、気を遣ってくれたっちゃね」と。じゃぁ、ありがたくもらっておこうと。
柴山:うわぁ、嬉しいですね。いい関係を気づいていらっしゃるのがよく分かります。…すみません、まだまだお聞きしたいのですが長くなったのでこの辺りで終わりにします。これからも活動が長く続くよう、私も楽しみにしています。本日はありがとうございました。
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