●Edward Scissorhands : Matthew Bourne’s dance version of Tim Burton’s classic
『エドワード・シザーハンズ~ダンスバージョン~』
考案・監督・振り付け:マシュー・ボーン
音楽・編曲:テリー・デイヴィス
オリジナル映画のテーマに基づく音楽:ダニー・エルフマン
オリジナルストーリー・映画『シザーハンズ』監督:ティム・バートン
出演:リアム・ムーア(シザーハンズ)、アシュリー・ショー(キム)、ケリー・ビギン、ドミニク・ノース、ニコル・カペラ、ルーク・マーフィー、ベン・ブラウン
撮影場所:ウェールズ・ミレニアム・センター
撮影時期:2024年3月
感想
本作は、マシュー・ボーンのダンスカンパニー「ニュー・アドベンチャーズ」が舞台化した『エドワード・シザーハンズ』を撮影したものである。実は私はティム・バートンの映画『シザーハンズ』を観ていない。ジョニー・デップの姿と共に「手がハサミになってる人造人間?のラブストーリー」ぐらいは知っているが、当然、映画との比較はできないのでご了承いただきたい。以下が舞台のあらすじだ。
ハサミで遊んでいた息子を落雷で亡くした父が、人造人間・エドワードを作り出してしまう。ハサミを手にくっつけたエドワードを作ったところで強盗に入られ、父親は死んでしまう。おそらくその後にでも手を付け替える予定だったのだろう、殺される時に「腕」を持っていたのだが、それは叶わなかった。エドワードはハサミの手のまま天涯孤独になってしまった。
街に出たエドワードは親切な女性と出会い、家に呼んでもらう。そこは夫婦と娘、息子が暮す幸せなボッグス一家であった。ボッグス家にお世話になることによって、最初は驚いてエドワードを避けていた近所の人々も打ち解けて受け入れてくれるようになる。さてエドワードはボッグス家の娘キムに恋をしてしまう。だが彼女にはBFのジムがいて、しかもジムは実はエドワードの父親を襲って殺していた。彼はキムがエドワードと惹かれ合っていることを察知し、あれこれと牽制し、邪魔をする。
ある時、エドワードは金物のハサミのせいで傍の木に落ちた雷に感電する…それを助けようとしたキムの弟を誤って傷つけてしまい、さらにはジムの腹にも血が…。誤解されたエドワードは元の館に逃げ込んでしまう。
正直に書くと、私は舞台をそのまま映像化したものはあまり好きではない。一つは視線が誘導(あるいは限定)されてしまうのがいやなのだ。たとえ見せ場であっても「全体が視野に入っての役者」(肉眼はそうならざるを得ない)と「その役者だけを見る」のでは違うと思うからだ。(映画はそもそもの作りがそうだと分かっているから問題ない。)また、舞台の物理的な奥行が映像では分からない気がするのも理由の一つ。
しかし今回の舞台の映像化は面白いと感じた。それは、まず「奥行」の必要がない舞台だったからだ。例えばダンスは奥に広がらずに前面だけで踊っている。また舞台美術も、ボッグス家とご近所を含めた家々はドアこそ開閉してダンサーは出入りするけれど、書き割りに近い印象だ(実際、家に帰ってトレイラー動画を見直すまで書き割りだと思っていた)。しかも小さくてかわいくて…そうか、この作品は「おとぎ話(寓話)」なのだと理解する。絵本のように、平面だけれど、深くて楽しくてきれいでかわいい世界が広がっている…のだと。絵本のおとぎ話のような見せ方が映像化に合っていると思えた。
さらに全体的な色使い、50年代風のポップでかわいい衣裳や舞台美術、コミカルなダンスの振付といったものが、「おとぎ話」感を後押ししている。エドワードが刈り込んで人型にした植栽たちと踊るシーンは全体が黄緑で、よくよく見ればダサいとも言えるが(失礼)、「おとぎ話」と言えば許される感じがしないだろうか?
本命のマシュー・ボーンのダンスだが、50年代のアメリカの雰囲気をよく伝える振付になっていて、観ていてとてもとても楽しい。(こればかりは生で見たかった!)身体能力の高さがわかるダンスで、華やか。それだけでなく、近所の家族それぞれにダンスで物語を持たせている。例えばゲイのカップルは赤ん坊の人形を常に抱えているのだが、赤ん坊が欲しいともとれるし養子を育てているという意味ともとれる。エドワードを誘惑する魅力的な人妻は少し年の離れた夫と暮していて多少欲求不満なのか(⁉)、でも最後には手を取り合っていたような。敬虔なクリスチャン一家は、エドワードをおぞましいものを見るかのようだったが、その後、受け入れて態度が変化していく。
圧巻はやはりエドワードとキムの踊りだろう。ソロで踊るならともかく、手がハサミであるエドワード役のリアム・ムーアが、どうやってキム役のアシュリー・ショーと二人で踊るのか、踊れるのか。それまで登場人物たちはほぼペアで踊ってきた。手を繋ぎ、肩に手を置き、腰に手を回し、リフトする…。そのどれもが、エドワードにはできない。途中、夢で「普通の手」のエドワードがキムと幸せそうに踊る。もちろん、他のペアと同じように互いに手で触れ合いながら。そのシーンの後に、二人の触れ合えない現実のダンスが痛々しくて見るのがつらい。互いに惹かれ始めて近づいて共に踊っていても、残酷なことに「滑稽」なのだ。ところが、思いが通じるラストでは、ハサミの手でもパ・ド・ドゥを踊る。信じられないことにリフトも! なんと、キムはエドワードの肩にまたがる形で(スカートなのでよく見えないが)乗り、そしてエドワードはキムを支えもしないのだ。エドワードの手が彼女に触れることなくここまで踊れてしまっている…。
私はまず技術的なハンディ(先の尖った物と共に踊る、両手を使えない状態で踊る)にばかり目をとられていた。やがてそれでも「踊れている」ことに驚き感心し、美しさに見とれた。そして観終わって初めて、これは二人の求愛の営みだったのだと気づいた。これは手がハサミである男と普通の女の悲恋の物語なのではない。それを乗り越えて愛を交わすことができた幸せの物語なのだ。
舞台好き、ダンス好きなら満足する1本である。