*コンテンポラリーダンスはむずかしい。そう思う人も多いのではないだろうか。何しろ言葉がない。表現方法が多種多様。高尚なアートのような気もするし、何じゃこりゃ?と思うものもあるし…。私としても、あまり舞台を見ない友達を芝居には誘っても(選び抜いた作品ではあるが)、ダンスのお誘いはほぼしたことがない。――だって、見慣れない人にとっては、どこをどう見ればいいのかがわからないだろうから。
2000年代頃だろうか、福岡市でも(今は亡き)イムズがかなりの数のダンス公演をやっていた。(劇場・ホールでの演目のすみ分けが何となくできていた)そして客層もお芝居に来る人たちとは明らかに違っていて、ちょっとお洒落でサブカル好きな印象の若い子が多かった記憶がある(あくまでも個人の感想です)。あれからずいぶん経ったけれど、ダンスが一般的に浸透したとは言い難い(あくまでも個人の感想です)。そして私も、激しく心を揺さぶられるものもある一方で、まったく分からないダンス作品に出合うと、やっぱり今も戸惑ってしまう。 ――ダンスが分かるって、どういうことなの?
というわけで、企画した座談会です。
参加者(五十音順)
一田真澄(いちた ますみ)
福岡県内の公共ホールにて舞台の制作・広報を担当。大学時代に舞台の魅力にはまり、演劇やミュージカルを中心に観劇。フリーペーパーの編集者として舞台の取材や観劇ツアーの企画等に携わったのち、更なる好奇心に駆られ現職へ。目下の関心は、身体表現の言語化について。
手塚夏子(てづか なつこ) ダンサー/振付家
横浜生まれ。’96 年より、マイムからダンスへと以降しつつ既成のテクニックではないスタイルの試行錯誤をテーマに活動を続ける。’01 年より自身の体を観察する『私的解剖実験シリーズ』始動。同年、私的な実験の小さな成果が「私的解剖実験 -2」に結晶。体の観察から関わりの観察を経て、社会、世界で起きる様々なことを観察するべく実験的な試みを行う。’13年、関東から福岡県へ活動拠点を移行。’18年10月にKyoto Experimentにて「点にダイブする」を上演。’18年4月から’21年6月までベルリンでダンス活動をしていたが、現在は福岡を中心に活動している。
真吉(まさきち)
劇団四季ミュージカル、大手テーマパークにてダンサーとして活動後、渡英し様々なダンスを学ぶ。帰国後、コンテンポラリーダンス創作を開始。「福岡ダンスフリンジフェスティバル」2012年観客賞受賞。演劇作品にも多数出演。また演劇作品や市民演劇、ミュージカル作品の振付、ダンスワークショップのファシリテーターなど幅広く活動している。
峰尾かおり(みねお かおり)
福岡生まれ、福岡育ち。1999年より、地元福岡にて即興舞踏と演劇の活動をはじめる。演劇では、アングラ芝居、古典劇、日常の会話劇など、幅広いジャンルに出演している。舞踏では、舞踏青龍會のパリ、ボルドー公演、にも出演。ナレーターとして、リトルモンスターエンターティメントに所属。
座談会
(柴山)今日はお集まりいただきありがとうございます。「ダンスが分かるってどういうこと?」というテーマで語っていきたいと思います。ダンサー3人と劇場スタッフ、そして観客代表の私というメンバーです。
(手塚)手塚夏子です。コンテンポラリーダンスをやっています。横浜生まれで関東で活動していたんだけど2011年に九州、2012年ぐらいに福岡・糸島に来て、その後3年ベルリンに行っていて、2021年ぐらいからまた活動を始めています。
(峰尾)峰尾かおりです。即興舞踏をやっています。舞踏と言っても色々あるので難しいんですけれど、内側から立ち上がるおどりをやっています。お芝居もやっています。
(真吉)真崎千佳といいます。活動名は真吉です。ダンサーとして演劇に出演したり、自分で創作をしています。かたいね(笑)。
(一田)一田真澄といいます。公共ホールで事業の企画制作・広報をやっています。蜷川幸雄さんの演劇を見て舞台に憧れ劇場で働き始めたんですが、劇場に入ってダンス作品を見る機会も増えてダンスの面白さに目ざめました。
(柴山)私は、息子が2,3歳の時にダンスに連れて行ったところ息子の反応が非常に面白くて、そこから「見る」というより「感じる」というスタンスでダンスに接してみようと思うようになりました。
(真吉)具体的に聞きたい。
(柴山)まず3歳の時に劇団四季の『マンマミーア!』に連れて行くとすごく楽しんでいて、2部では通路で踊りだしたんですね。スタッフさんがニコニコ見てくれていたのでそのまま踊らせました(笑)。イムズでの「珍しいキノコ舞踊団」に連れて行った時には、客席と舞台がフラットで最前列に座っていた息子の真ん前に伊藤千枝さんが来て踊ってくれたんです。でも息子は鼻をほじりながらよそを向いたんですね。こっちは「ごめんなさい!」と焦るんですけどね(笑)。ところがその後、「富士山アネット」に連れて行ったら、食いつくようにジーっと見ている。若い女性のダンサーがお尻を強調するように体を動かしていて、後から「あのお姉ちゃんのお尻がね、こうやってね…」と話したんです。彼女が魅せたい動きが伝わったのかと思うと面白いなと。その後…例えば「プロジェクト大山」の時はガーッと寝ていた。もう小学生でしたが。もちろん、年齢やその時の関心事、頭で色々考えるようになると変わるんでしょうけど、つまらない時の反応も含めて子どもにダンスを見せるのは面白いなと思ったんです。
私は朝日新聞に長年劇評を書いてきたんですけど、実はダンスの批評はほぼないんです。ダンスを勉強してきたわけでもないので印象批評になるからです。それでダンスを語るってどういうことかなと思って、座談会を開いた次第です。「ダンスが分かるってどういうこと?」って。
(手塚)わかんないですよね(笑)。
(一同)笑
(手塚)作家の意図と観客の印象の違いがものすごく大きいと思うんです、ダンスは。必ずしも作家の意図を受け取らなければならないわけじゃないし、十人十色の受け取り方でいい。だからお子さんのように刺さる時は刺さるし、そうでない時もあるという個人差が徹底しているということじゃないかなと。例えば批評が出た時に、それが答えというわけではなく、一つの視点の提示にすぎないということになるかと。演劇もそうですか?
(柴山)演劇も同じところはありますけれど、演劇の場合は脚本がある。脚本には完成度に違いがあると思います。私は演者の批評はしないんです。「印象に残った」という表現はするけれど、良し悪しは極力しない。となると演出と脚本で批評を書くことになる。もちろん美術・音楽・照明、客席との融合性などは触れます。その意味では、ダンスについて言えないのは役者について言えないのと似ているかなと思います。
手塚さんの話の「見方」でいえば、ダンスを長くやってきた人の身体やいわゆる「うまい」動きとかはわかりますね。ただ、そこから外れた人のダンスを見る時に多くの人が戸惑うと思うんですよね。うまい/下手で言えないじゃないですか。
(手塚)日本とヨーロッパの違いはあると思っていて。ヨーロッパではダンスってアカデミックなものとしてあるという印象です。基本的に大学や大学院で学ぶという方法があって、ドイツがそうなんですけど、特に振付家など博士号を持っているかどうかが重要で。ある種の出世の方法です。たとえ技術から離れるとしても技術を持っているのが前提です。でも日本はそういった学歴はあまりない。例えば日本以外のアジアの国だったら、お金がある人しかできないということもあるかもしれません。そういう人の多くはまず留学する。その技術を身に付けたうえで、自分たちの出自のダンス、民俗芸能を徹底して学んだりして融合したりして。だから「バイトして働きながらやってるけどダンスが本業と思っている」という日本は特殊というか。職業としても成り立たないし、基礎の技術があまりない人も多いし、突然始める人もいるわけで。またそういったものを高く評価する批評家が関東エリアでいるんですよ。桜井圭介さんという批評家は、バリバリすごい技術のバレエも好きなんですけど、それとは別にダンスとして面白がれる範囲を広げるという活動を一時期していたんですね。例えば映画に出ているある主人公がコミカルな動きをしているのを見て、これもダンスと言えるとか(一般的な意味じゃなく、彼独特の視点でダンスである動きを選んで人々に見せるレクチャーのようなもの)視点を提示する。彼なりの軸を提示して「どうですか」と。その後ダンスを作るWSをやってそこには基礎をとっかかりにしていない。ある種の啓蒙なんですけど。
またショーケースの文化があって、ショーケースは誰でも応募できるので、基礎があるとかないとか関係ない。不思議な演目がオーディションに持ち込まれることを目撃したこともありました。例えばたまねぎをひたすら切って涙を流すとか、ポップコーンを舞台上で作るとか。
(真吉)それもダンス…?
(手塚)色々ある中の一つです。だからわかるとかわからないとかじゃないけど(笑)、オーディションだから何かしら決めないといけない。そのショーケースの場合は毎回キュレーターとか振付家が判断。次は全く違う振付家が判断。それに対して批評を直接伝えたりする関係があったんですね。不思議で面白い空間でした。今も続いているのですけど。
「コレオグラフィーアワード」だったり「踊りに行くぜ!」だったり、大きなコンペができてある種の「成功例」が生まれると、大きな基準があるんだなとなり私的には面白さがちょっと減っていくような感じも…(笑)。
(柴山)ショーケースには相互性があったわけですよね。でも出世コースというか基準が生まれるような大きなコンペができたことで全く違うものになっていったということですね。
(手塚)そうですね、はっきりは言えないけれど何かしら基準があるとみんなが感じ始めることで全く違うものになった。もちろん、競争心が高まるから切磋琢磨という意味でクオリティが上がったと言えるかもしれない。けれど入り口で「どんなことをやってもいい」という気持ちになる人が少なくはなった。ショーケースではやりたいことをやるというノリが強かった。でもどういうことが評価されるかが意識されるようになった。
(柴山)…パフォーマンスとダンスとの違いは…?
(峰尾)それは悩みますよね。お芝居もそうだけどあいまいで難しい。靑龍會では年に四回アトリエ公演をやるんですけど、いろんな方がいるんですよ。舞踏の公演という位置づけなんですけど、朗唱とか、剣舞を組み込んだものもあった。原田さん(青龍會主宰)いわく、その人の必然性とか切実さとか、その人自身の命を燃やしているパフォーマンスに対しては何も言えないだろうと。方法は何でもいいんだということだと思うのですけど。私は「全力でその場に立っている」というものを見た時に、これは踊りだって思って感動したりするんですけど、で極端なものも多くて、見る人によってはこれは引くわって言われてしまったりとか。だから基準というか、どこを受け取るかみたいな部分っていうのは、本当人それぞれだし。
(手塚)「全身全霊で立ってる」ことを求める感覚は、日本のダンスのシーン全体にあるように思うんですよ。それは欧米ではあまり感じないところなんです。オーストラリアのダンサーとの交換ワークショップの時に、日本のダンサーには、舞踏、コンテンポラリー、私みたいなのもいたし、結構多様だったんですよ。だけど共通してたのは、舞台上の在り方とか、その関わりの質感みたいなもの。それを伝えようとするんですけど、うまく伝わんないんですよ。オーストラリア側のメンバーは、基本的にテクニック、方法、考え方とかバリエーションとかが本当に多くて、たまたまかもしれないので断定は危険ですけど。日本は私が長くやってきて、コンテンポラリーの人であっても舞踏の人であっても、共通しているものとしてそれはあると思います。例えばモダンダンスはヨーロッパから来たわけですけど、舞踏はモダンダンスからの派生ですよね。そのモダンダンスの時すでに「在り方」みたいな、あるいはそれが舞踏になった時に「在り方」についての価値観みたいなものが、じわっとダンス側に浸透していったのではないか。というのは、ショーケースの中に舞踏もダンスもあった。ダンスの人が舞踏教室に行く、舞踏の人がコンテンポラリーを習うといった混ざり合いの中で、価値観の共有、つまり「在り方」「立ち方」、そういったとこに価値を見出すことがあった。たとえ綺麗な動きをしていても在り方が薄いとか、そう思う人や言語化する人が多いんですよね。
(柴山)それは、日本には先ほど手塚さんがおっしゃったように、日本のダンスには学問としての分野がない、依拠するものがないが故に、「在り方」に頼らざるを得ないっていうのも1つあるのかなって気がするんですよね。ちょっと意地悪な言い方をすれば、テクニックではないところに根拠を求めた時の1つの「よすが」というか。
(手塚)先生がそれを求めるっていうスタジオは多かったと私は記憶しています。例えば黒沢美香さん、山田せつ子さんとかも。やっぱり師匠と言われる人がダンサーに求めるものの中に、すでにあったような気はしています。「舞台上での在り方の密度や、動きの必然性があるか?」みたいな。めっちゃ頷いてる(笑)。
(真吉)身につまされる…。それこそ私は幼少からクラシックバレエ、ミュージカルを経て、コンテンポラリーダンス公演を見て、こんな自由なダンスがあるんだ、やってみたいと思って気軽にイギリスに留学し、何者にもならず帰国するんです(笑)。その後、福岡で室伏鴻さん、山崎広太さん、黒沢美香さんのワークショップを受けて、こういうのを日本でやってるんだと、とある企画にも応募しました。ただその時に「踊る必然性はなにか。なんでそんなペラペラ踊るんだ」って言われた。企画者からそう言われて、私のダンスはダメなんだとずっと思い続けて。でも踊りはやめれないなって40歳の時に思い、もがき続けていますね。
「ダンスがわかるってどういうこと?」っていうテーマですけど…逆に「わかりたいの?」。
(柴山)あ、言われたー(笑)。
(真吉)コンテンポラリーダンスって難しいでしょって、何百回も言われ続けて。つまんなかったでもここだけが面白かったでも、いいと思うけど、大人の方は頭で理解したいというのが先にきちゃうから。
(柴山)劇場としてはどう?
(一田)実は最初に柴山さんからこのお題、「わかるってどういうこと?」っていただいた時に、 私もまず分かりたいのかなって思ったんです。私は分かりたいと思って見るというよりは、感じたい、という方が近いかなと。音楽の演奏を聞きに行った時に、それを良し悪しで判断しようとか分かりたいとかって思ってないなくて、多分感覚ですよね。 最近よくダンスと音楽に通じるものを感じるんですが、リズムを感じようとしてるというか。これ、個人的になんですけど。だから、わかることが前提じゃなくていいんじゃないかなって。ただ一方で、お客さんを呼ぶときは、そして後から価値付けをするときとかには、言葉が絶対的に必要になるので、わかるということも求められる。
例えば、雨っていう単語1つで1時間のダンスが生まれたとして、インスピレーションの積み重ねで。 でも、その表現されたものは、さっき出てたみたいに、受け取った人がそこに何を感じるか。雨じゃないかもしれないし、なんか悲しいっていう感情かもしれないしみたいな。でもそれこそが、身体表現の面白さですよね。逆に表現者の方は、わかってほしいと思ってるのかも気になります。わかってほしいっていうダンサーの方にあんまり出会ったことがなくて(笑)。「自由に感じてほしい」って言われる方が多いかもしれません。広報としては困るんですが。
(一同)笑
(一田)お客さんを集めるためには一定の言葉も必要だし、物語をなぞるとかではない言語化の方法で、どうやったら来たいと思ってくれるかなっていうのをいつも考えるんです。そういう意味では、最近映像が主流になってきたことはありがたいですよね。YouTubeとかTikTokとか、映像として先に伝えられる。もちろんそれと生の舞台は全然違うってことは前提の上で、広がるチャンスが生まれているのかなと思います。
(柴山)なるほど。ダンサーの3人にお聞きしたいんですけれど、体を動かしている時に言葉はあるんですか。例えば「雨」なら「雨を表現している動きです」ってやってるのか、もう雨が身体に入ってきた瞬間に言葉ではないのか。言葉って1つネックだと思うんですよね。言葉があるから理解できる、でも言葉があるから限定されてしまって窮屈なものになることもある。とはいえダンスには言葉がないからこそ、分かる分からないという大きな隔たりができるのも事実だと思うんですよ。ダンサーの皆さんが体を動かしてる時に言葉はあるのか。
(手塚)演劇は、脚本、演出、役者と役割分担があるじゃないですか。 ダンスも、場合によっては振り付け家がいて、ダンサーがいる。だけどここにいる人たちはそこが一緒ですよね。役割が混然一体としている人、そこを(自分の中でも)分けてる人がいるから、ただダンサーとしてと、作り手としてっていうのではちょっと違っている。
(柴山)確かにそうですね。作り手になった場合、俯瞰的に舞台を見なきゃいけないので言葉が介在するのかもしれないと思うんですが、一ダンサーとして踊っている時は、言葉と共に踊ってるのか。例えば、峰尾さんが『春と修羅』を踊った時に言葉があったのか。
(真吉)やる寸前はすごく言葉で考えます。けど、実際やるときはもう考えない。それが染みわたっている体になっていると自分を信じて踊ります。
(峰尾)青龍会でも、言葉で構成表を作ってます。場面のイメージを書き出して、時間軸で組み立てて。この間の『春と修羅』は、(宮沢)賢治の詩からこういうイメージを取りました、と自分の演出意図みたいなものを共有して。やる時はみんな、そんなのどうでもいいやってなってますけど、体の奥にはおそらく入ってる。踊ってる最中は、言葉がない時と、ある時があります。割と計算をしてたり。今、何分ぐらいとか、お客さんどうかなとか。
あと、あぁ幸せだとか、なんかこの、あぁ、って感じ。この溢れる思いがみんなに届け、みたいな、感覚のことば、そういうのは出てきます。そこから動きにつながったり。
私、(手塚)夏子さんが言葉を崩しながら踊ったり、最初すごくフラットにお喋りを始めて、それがだんだん言葉が崩れていて踊りに繋がっていくっていうパフォーマンスがすごい好きで。私も真似して、自分で喋って踊るみたいなことやってみたりもしてます。そういう意味では、やっぱり言葉はあります。
(手塚)そうですね。前回やった『人間ラジオ』って作品では、その大きなコンセプトとして自分の体をラジオに見立てました。自分が普通に喋っているところからチューニング。日常からちょっとずれていくみたいなコンセプトを持ってる。喋っているけど踊りになって、踊りの方に引っ張られると喋りがめちゃめちゃになっていって、最後は踊ってるみたいになるって。言葉を最初は喋ってるし、それをチューニングしてずらすっていう意識は持ったままやっている。自分がいつもなる体の状態っていうのがあって、そこにチューニングが合ったら今度はそれをずらして、できるだけちょっと違う方向に移行しようとするとか、そういった意識みたいなのはあるんです。それをなんか言葉って言っていいのか、
(柴山)今おっしゃった言葉は、メタ言語みたいなものですよね。
(手塚)あ、そうです。
(柴山)それはさっき峰尾さんが言ってた、「あと何分だ」のようなメタ言語と同じ感じってことでしょうか。
(手塚)そうですね。だから「あ、なんか戻ってきたな」「またズラそう」みたいな。チューニングをするっていうキーワードは、常にある。
(柴山)劇場側はやっぱり言葉で伝えていかなきゃいけない立場がある。でもチラシから得る言語情報と、受け手(観客)の感想がズレることがある。もちろんビジュアルだとか色々あるんだけど、言葉に規定されてしまうことも多い。特にダンスは芝居以上にわかんないという人が多くて言葉を求めると思うんですよね。
そう考えると、ダンスの批評って…(もちろんダンスだけではないんですけど)一つの解釈に過ぎず、常に「追いかけるもの」にならざるを得ないって気がするんですよ。
(手塚)ですね。それによって時にダンスを見る視点が限定されてしまうこともありますけどね。
(柴山)それは芝居でもなんでもそうですね。「言葉は規定する」んですよね。言葉によって「そういうものなんだ」と思って見てしまう。また逆に言えば、(作品が)言葉を追いかけさせる・解釈に追いかけさせるっていう、そういう、2つのアプローチがある。いずれにしても、ダンスという言葉を介在させないものの周辺で、やっぱり言葉がうごめいてるわけですよね。
わかるわからないって話に戻れば、さっき一田さんが言った「わかろうとは思ってない」…は…「わかる」っていうのは言葉、「感じる」っていうのは言葉がないってこと?
(手塚)いや、ただ作品の構造とか、受け取る点はいっぱいあると思うんですよ。踊りそのものの部分が意味不明であっても、作家が作品としてアウトプットしたかったものっていうのはあると思うし。受け取り手が正解にたどり着けなくても、作家がそこにアプローチしたっていう手触りみたいなものは、受け取れると思うんですよね。
(柴山)例えばお芝居の場合は、 演出家や作家がこう受け取ってほしいってものがあるとするでしょう。観客がそれを受け取れなかった場合、失敗とまでは言わないけれども、成功はしてないって見なされると思うんですよ。ダンスの場合、何かの意図を持ってダンスをしても芝居よりは伝わりにくいかもしれない。言葉がないから。乱暴な決めつけですけど。その点は…「受け取り方は十人十色ですよ」と言いながらも意図が伝わらないことについては…どう解釈したらいいんだろう。
客の立場では、わかりやすいってことはありがたいんですよね。コンセプトでも構造でも美しさでもなんでもいい、自分の中で分かる、受け入れられる、そういうのがあったらストンと腑に落ちるものがある。でも、わからないものに出会うとやっぱりどう消化していいのかわからない。先日、北九州芸術劇場で『コレオグラファーズ2023』の時に、(ダンス評論家の)石井達郎さんが「わからないから面白いんですよ」て言った。頭ではわかるんですよ。分からないから面白いこともあるけれど、面白さも分からないということもある。どう消化すればいいのと戸惑うことがある。
(手塚)分からなさにもいろいろ種類がある。
(一同)それそれ。うんうん。
(手塚)わかんないけど引きつけられるのもあれば、自分の中で通り過ぎていっちゃうのもある。
(柴山)でも審査では、合格/不合格を決めちゃうわけで…。
この間、わかりにくいパフォーマンス公演の後で、「シアターカフェ」をやったんです。すると、参加者から「少し気持ちが落ち着いて帰ることができる」と言われたんですね。同じように、ダンスもこの鑑賞体験をみんなどう消化したのか聞きたい、話したいなと思うんですよね。
(手塚)ダンスのショーケースを始めたSTスポットという劇場の、その時の館長はアングラの演劇畑の人で、演劇に関して好き嫌いがめちゃめちゃはっきりしてたから演劇の企画バリバリやって、音楽も好きだからたくさんやってた。でもダンスの企画については「私ダンスわかんない」と言う。それでキュレーターを入れてずっと続けたけれど、ずっと「分かんない」。その人には演劇の1つの基準があるから、それと全く違う基準で何かを見るのは混乱するのかなって。今お話を聞いてて、めちゃめちゃ演劇見てきてご自身なりの色々な基準みたいなのがあるから混乱が起きるだろうなって私は想像しました。
(柴山)わけがわからないもので混乱して心地よいものもあるんです。だけど、なんかほんとに向こうにいる…と感じるものはある。でも否定するつもり全くない。
(峰尾)引っかかる引っかからないはありますよね。その人がもってる必然性みたいなものに、共感性がある人の方がより多く引っかかる。
(柴山)そうなるとかなり個人の体験によるのがダンスかなって気がしますね。
(手塚)そうですね、はい。
(柴山)2022年に北九州芸術劇場でやった浅井信好さんの『Silence』がめちゃくちゃ面白くって。動きももちろんだけど、ダンサーたちの使い方、配置、構造、全体として力をどう働かせてるのかって部分が。あぁ、私はそういう見方をするのかもしれないな。ダンサー個人の身体以上に。コンセプトがわかるなり、構造として理解ができるなり…演出家の意図が伝わるかどうかを私は重視しているのかもしれない。浅井さんの舞台では、彼の思考が私にストンと入ってきた気がした。彼に「私はこう思ったんです」って話したら「あっ、よくわかってくれましたね」と答えてくれて。だから、自分にうまく合うかどうかっていうのも大きいですよね。
(手塚)それありますよね。それと自分の見るタイミングによってというのも。
(峰尾)舞踏を最初に見た時はなんじゃこりゃで。なんかめちゃくちゃで無秩序に思えた。群舞だったんですけど、どこがいいのか、さっぱりわからなくて。でも、その1年後に見た時に何か引っかかったんですよね。で、気づけば自分も、おどっているので不思議だなって。今は青龍會の稽古に通ってるんですけど、自分がやってることに疑いは常にあります。疑いがあるから続けてられるのかなって気もしています。
(柴山)何を疑ってるんですか。その時に疑ってるものは。
(峰尾)これって本当に体をなしているのかしらって。何をやるにしても信じないとやれないけど、自分がちゃんと表現として成立しているのだろうか、みたいな部分。それを常にやっぱり疑っていて。
(柴山)それは人のお金と時間を頂くこと、それらに値するかどうかってこと?
(峰尾)それもあります。けれど、今そう問われて、それだけじゃない気がしました。それがなんなのかっていうのが、ちょっと今言えないけど。
(柴山)作品として成立しているのか、見せるに値するっていう問いを自分に投げかけるのかということと、投げかけた時に自分で納得できる部分は何なのか。言語化できないかもしれないですけど…。
(手塚)上演するっていうことは見に来てくれる人とのコミュニケーションだと思っていて、だからその人がお金出した分満足するかどうかは個人差なんで、それを一般化はしないと思ってる。多様なコミュニケーションになるのがいい状態だな、と思ってて。
(柴山)あー、なるほどなるほど。わかりやすい。
(手塚)面白がる人もいれば怒る人もいて、疑問を持って帰ってくれる人もいる、そこで多様なコミュニケーションが生まれたら、私にとっては成立。だから怒るでも面白がるでもなく、とっかかりあんまりなかったなってみんなが帰っちゃったら、コミュニケーションが成立しなかったと思う。だからそこはあがくっていうか、自分のやっていることに対してのコミュニケーション力がちょっと薄いなって思ったら、舞台上で、コミュニケーション力を自分の方から上げていく。
(一同)納得した。なるほどなるほど。
(峰尾)今お話聞いて、あ、そうかって自分も思いました。独りよがりになってるんじゃないかな、ちゃんと交換ができてるのかなっていうところを疑ってる。芝居の時は共演者に対してもだし。自分は会話してるつもりだったけど、会話じゃなかったんじゃないかなと。ちゃんと働きかけられてたかな、受け止めてたのかなって。たまにこれは独り善がりじゃないかなって思っちゃうときがある。
(真吉)独り善がりね…(笑)「そんな1人カラオケみたいなダンスだったら踊らないで」って言われたことがある。
(柴山)なんか結構きついことたくさん言われてるね…!
(真吉)そうですよね(笑)。演劇の時は演出家の要求を最大限やるだけですけど、自分の作品となると、自分で尻を叩いてやっていかないといけないからそこが非常に大変で。
(柴山)劇場側としてはどうです? 事業をする側として、例えば賞を取った人を呼ぶのはお客を呼べる。企画も通りやすい。公共施設だし言葉が必要になるわけですよね。公演が終わると、集客数など記録…評価を劇場としてするわけですよね。それは作品の評価とまた別とわかってるけれども、これは成立した、良かった、受け入れられたみたいなものをどんなふうに判断するか知りたいです。
(一田)作品の強度はもちろん信じて企画しているし、最大限集客力を高めようと努力しますが、評価の軸はやはりそれだけではないですよね。空席もあったけど、客席に座ってくださったお客様の手ごたえはものすごかった、という事は多々あるし、だからこそ、やはりもっと座ってていただかなければいけなかった、とも思うのですが。あとは全体的なラインアップとしても考えるので、多様なプログラムになることは意識していると思います。それこそ公共ホールだからこそ、収益性だけではない新しい表現であったり、まだお客様が見たことないもの、みたいなことも含めて考えていて、やっぱり演劇に比べるとなかなかまだコンテンポラリーは土壌がないので、でも、それをやってかないと次にも繋がらない。
さっき言われていた「多様なコミュニケーションが起こる」ってすごく面白いですね。もちろんそれは喜怒哀楽なんでもいいし、やっぱり何も受け取れない時が1番しんどいなっていうのはあるんじゃないでしょうか。でもその多様なコミュニケーションが起こるってやっぱりダンスだからだとも思うんですよね。ダンス面白いなって、聞いて改めて思いました。
(柴山)マザーテレサの「愛の反対は、憎しみではなく無関心だ」って言葉を思い出しちゃった。
では最後に皆さんが、忘れられないダンス作品を教えてください。
(真吉)私は、ロンドンで見た、『Play without words』っていう作品で、振付がマシュー・ボーン、ダンサーが2、3人でずっと同じ動きでシンクロして美しいし、ストーリーも感じるし、それは忘れられない。双子感があるんですよね。ダンサーの見映え、背格好や肉付きが似ている。もちろん衣装も。もう1回見たい。
(峰尾)生で見たやつじゃなくて、しかもダンス作品として見たわけじゃないんですけど、『Talk to her』という映画で踊りの場面が出てきて、すごい感動して。ピナ・バウシュがレストランみたいなところを幽霊のようにさまよってて、で、男性が椅子をどけるんですよね。彼女がの行く先を邪魔しないように。その場面にものすごく心を打たれて。
(柴山)心を打たれるってどういうことですか。
(峰尾)すっごい切なかったんです。それこそ切実さが溢れていて。あと『ボレロ』ギエムのボレロは福岡に来たとき二回見てます。あの群衆のやつがもうほんと好き。あの周りの。
(柴山)私、ジョルジュ・ドンの『ボレロ』好きなんです。ジョルジュ・ドンが福岡に来たとき、中学だったんですけどサンパレスに見に行きました。『ボレロ』じゃなくて『春の祭典』だったんだけど。
(手塚)じゃあ、すごい好きなものがあるってことなんですね。
(柴山)ありますよ(笑)。好きですよ、だから、見には行ってますよ。ピナ・バウシュも東京で見てるし。でも、わかんないなって思うものもあるという話です。わかんないことを否定するつもりはないんですよね。
(手塚)ピナ・バウシュは「分かる」範疇?
(柴山)はい。だからね、わかるものに落ち着いてしまう自分がいいのかってこと。
(手塚)ていうことは、興行として日本に来るものは、やっぱり理解しやすいものってこと?
(柴山)そうかもしれない。やっぱり呼ぶ側(プロモーター)の言葉・枠組みで観客も行くかどうか判断する。だから分かりやすい言葉が必要になる。「○○受賞」「新進気鋭の」「誰それが認めた」とか。感想もその中に納まる。ただ、こんな言い方したら横柄かもしれないけど、私は舞台そのものは見慣れてるわけです。だから、その用意された枠組みや「言葉」以外に、私なりの見に行く理由と楽しみ方がある。同様にバレエを習っている子たちはバレリーナ目線でダンスも見るだろうし、ダンスに詳しくなくても美的アンテナが立って行く事もあるだろうし、必ずしも制作側の「言葉」に踊らされているわけじゃない。
(手塚)私も最初にダンスいいなって思ったの、マギー・マランだったんですけど、でもみんな(ここで挙げられたのが)欧米のやつだから…それですごい手前みそで恥ずかしいんですけど、”Passport Blessing Ceremony”を挙げます。私の作品『私的解剖実験-6』の言語化したアーカイブを誰かに渡してダンスを作ってもらうっていう企画で、その時にスリランカのVenuri Pereraさんが作ったものです。スリランカのパスポートって、めちゃめちゃ弱いんですよ、ビザとかがないと国に入れない。日本は世界で2番目に強いパスポートらしいんです。日本に来た時に、パスポートの強い方たちに私のパスポートが強くなるように祈っていただきますみたいな作品。ダンスというよりパフォーマンスに近かったかな。スリランカの古い儀式的なものを使い、自分の髪の毛を燃やして瓶の中に入れ、それをミルクと一緒に混ぜ、頭の上に乗っけて舞台の上を一巡し、最後にそれを浴びる。
(柴山)うわ、なんか呪術に近い。
(手塚)そう。それをパスポートの強い国の人たちはこっち、弱い国の人たちはこっちと分けられて、強い国の人たちはそっちからエネルギーを送る。もうそれは不平等さ、不均衡さみたいなやつを、バーンって叩きつけられるんですよ。彼女がミルクを自分にかけた瞬間に、自分たちがいかに強い立場かってことを投げつけられる。だからそれはダンスというよりはストーリーっていうか、結構強烈でした、はい。
(一田)公のコメントになってしまいますが…バットシェバ舞踊団は、身体性の素晴らしさはもちろんですがやはりその背景に背負っているもの、社会的なメッセージや漂っているエネルギーとかも含め、初めて目にした時は衝撃的でしたね。あとはその繋がりでいくと、バットシェバに在籍されていた柿崎麻莉子さんは、今熊本にもベースを作って活動されていたりするんですが、この間初めて拝見した作品がすごく面白くて、個人的には気になっています。
(柴山)みなさんが挙げたダンサーや作品、今後チェックしていきたいです。残念ですが時間が来てしまったので、ここで締めにしたいと思います。ありがとうございました。