シアターカフェ『ハムレット・マシーン』Mr.daydreamer

*2016年から福岡、小倉、久留米などにおいて不定期に「シアターカフェ」を開催してきた。シアターカフェとは、観劇した後に有志の観客(10名程度)でお茶を飲みながら、見たばかりの作品について語るというものだ。作品の役者・劇作家・演出家が参加してくれることも多く、毎回かなりの盛り上がりを見せる。

*今回は、キビるフェス2026でのカフェ最多の参加人数で、なんと11名。参加を断念した方もいるほどだ。現役高校生も参加してくれたのは、この「デイドリ」(Mr.daydreamerの愛称)がいかに若い人たちに支持されているかを示している。肝心のカフェの内容だが、難しい作品の割に(そして演出家や役者が目の前にいるにも関わらず)思ったことを口にしてくれたように思う。正直にいえば、戯曲(とその背景)やハイナー・ミュラーについては深く語れないにしても、もう少しツッコんで話したかったところもある(浦川大志さんの舞台美術に触れないままだったし、映像についてもほぼ話していない)。とはいえ参加して良かったと言ってくださった方もいて、みんなで手探りで自分の理解を深め(正解はないからね)、自分が感受したものを言語化することに近づいたのなら幸いだ。

たろう:「国民・国家」という単語が気になりました。元の戯曲でどのくらい取り入れられているかが。結構、強めに途中から入っていたような気がしたので。

テツ:1時間ぐらいの演劇だったんですが、印象に残ったのは俳優さんの声でした。左の方にテキストというか文字が出てましたけどそれをチラチラ見ながらどういう演出の意図があったんだろうと思ってました。

古川:気になったのは盆踊りが入ったのでどういう風に皆さんが見たのかを聞きたいです。

橋本:チラシの中か裏に、「もともとがたった8ページのテキスト」と書かれていたので、それをどう1時間のものに膨らませたのか、8ページって数にすると少ないけど文章量にするとどんなもんなのかとか。何よりシェイクスピアの戯曲からどう選りすぐって再編したのかとか色々わからないことがあるので皆さんと話して知見を深めたいです。

オクムラ:途中からの鑑賞なので把握は出来てないけれど、多彩な演出だなと。それと映像を携帯でリアルタイムで撮りながら映し出していたので、どういう意図でその演出をされたのかとか気になりました。

キラッピ:思想について、それと真ん中にそびえ立つ木の象徴が知りたいと思ってこのカフェに参加しました。演出の中に盛り込まれていた思想について、です。

竹三:一番気になったのは衣装の意味、作り方です。

くわ:みなさんの声がめちゃくちゃ通っていたので声の出し方について気になって知りたいと思いました。

かじ:役者さんの演技力にびっくりしたので、セリフとセリフの間の「ま」とかをどう意識していたのかも気になりますし、演出で言うと写真を破いていたのもどういう意味か気になりました。

まゆ:傘とかの小道具が気になったのと、ところどころゾッとする不気味なシーンがあったので、どうやったらお客さんに不気味だという印象を与えられるかなと考えました。不協和音…怖い印象のBGMがところどころかかってたり、映像もどんどん文字が打ち込まれたり、そういう所が不気味でした。

しょうこ:最初から自分と舞台との距離があって入り込めない感じがあって。最初に便器の所に男性が出て来てもう全然見たくない感じがして遠かったですね。それがだんだん劇が進むうちに慣れてきたのか、気持ち良くなってきたんですね、そこの場所にいることが。映像も美しいし演劇も好ましく自分の中に入ってくる感じがして。終盤になるにつれて劇の中に入り込めたなぁという感じのところで終わりだから、すごく良かったかな。と思ったんですけど、やっぱり真ん中の男性がずっとセリフはなしで、便器に集中してらした(笑)のが最後まで印象に残りました。

ゆい:小道具がすごい気になって。食べ物や飲み物、トイレットペーパーとかもあったと思うんですけど物自体が何を表わしているのか、それ以外の意味があるのかも気になるし、物の使い方も気になりました。あの白い服の人が急いで食べている、その行動に対する解釈…すごく虐げられた人なのかなとか、あの人私もよく分からないんですけど、何かしら人間の醜い部分を表わしている人かと思いました。

柴山:私はあの白い服の人はある意味わかりやすいかなと思いました。「食べる」「出す(排泄する)」所に彼はいる。この戯曲はドイツのハイナー・ミュラーがずいぶん昔…社会主義が打破される、変わる時代に書いたものですね。その文脈で考えると、白い服の男の「貪り食う」「出すだけ出す」というのは資本主義の象徴だと思います。だから急いで食べるという行為も、「貪り食う、必要以上に欲望のままに食っていく…そして咀嚼もせずに出すだけ、消費するだけ」ということではないかと。その資本主義社会を象徴するように、上手側の客席に近いところに、マクドナルドの紙袋とコカ・コーラがぶら下がっていたんですよね、あれっていかにもです。だからあの人と小道具は割と分かりやすいかなと思って見ていました。逆に私が分かりにくかったのは彼以外の4人で、その内の男性が数珠を腕にはめていたんですよね。数珠が何を意味するのかな、と。また話の中に色んなモチーフがあって、ラスコーリニコフの名前が出てきましたが、あれはドストエフスキーの『罪と罰』の主人公、高利貸しのお婆さんの頭を斧でかち割って殺す主人公の名前なんですよね。まさに「斧で頭を叩いて殺したら」というセリフが何度か出てきたので、そこで『罪と罰』のテキストが織り込まれていることが分かった、また『リチャード三世』も出てきましたよね。いろんなテキストが織り込まれている…のが何を意味するのかは考えたいなと思いました。

柴山:ではまず声について挙げていた方がいたので聞いてみます。テツさんは声がどんな風に印象に残ったんですか?

テツ:1時間ぐらいの演劇の中でかなりのエネルギーを使わないとあの声は出ないと思うんですね。たぶん独特のトレーニングをされていると思います。日頃聴き慣れない言葉が俳優さんの身体から出てくることを目の当たりにするという体験、それは日常的にはないことなので、言葉自体が身体と同じという印象を受けてインパクトがありました。

くわ:1時間の劇は長いじゃないですか、肺活量も必要だと思ったんです。

柴山:実は私は、「私はハムレットだった」で始まる冒頭のあの声、あの女性があえて低い声を出している感じがとても違和感がありました。無理して出しているように聞こえて。しょうこさんが先ほどおっしゃった「違和感、遠く感じた」というのはこの点とは違いますか?

しょうこ:そこは大丈夫。

橋本:叫ぶと…声量と活舌って両立は大変…あとスピード、まくしたてるようにバンと言葉をぶつけるように放つというのはものすごく活舌が良くないと厳しいものがあるので、やっぱり…俺の耳が悪いのか、それとも?ムムムとなりながら。でもフィクサーを出していることに無理は感じなかったんですよね、トーンを抑えめに語っている時ってすごく自然にずっーーと底の方から来るような感じがして、すごく雰囲気づくりに貢献していたんじゃないかと私は思います。

柴山:なるほど。私は無理があると感じたんですが、一方で、ではどんな声だったら合うのだろうかと考え続けながら見ていたんですね。演出家だったらどの声がぴったり合うと思うのかと。

ゆい:声を低くすることによって個性をちょっと消せると思ってて。女性が低い声を出そうと思ったら似通った声になるというか。3人女性がいましたがそんなに違いを感じなかったんですよ。普通に喋ったらあの3人はきっと全然違う声だと思うんです。私はこの物語を「わかった!」と観れてないので解釈が違うかもしれませんが、あの赤いドレスの女性二人がハムレットだとしたら、ハムレットという輪郭のはっきりした人物がいるんじゃなくて、象徴として、ぼやけた人物としてハムレットが存在すると演じているのなら個性を消した方が演出に合っているんじゃないかと思って。

柴山:なるほど! では今聞いて思ったんですけど、匿名性の存在、ということかな。なるほど~。

たろう:4景か5景のところで「女性になりたい」という、それは男性側がセリフを発していたと記憶していますが、男性としてのハムレットに寄せていったのかと思っていました。

柴山:あれ、「ハムレットだった」と言っているわけで、では今はハムレットではない? セリフの中で、役柄について言ってましたよね、「お前は○○の役だ」とかって。だからこの『ハムレット・マシーン』は『ハムレット』というテキストを重ねている…単なる一つの『ハムレット・マシーン』のテキストではなく、その中に「『ハムレット』を演じている役者」という存在を入れこませている…わけですよね。単純なハムレットではない…だから今おっしゃったのは…うーんと、ごめん、今のなし(笑)。

テツ:確かに構成として二重になっている感じはしましたね。『ハムレット』の物語を言っているのか、『ハムレット』という象徴的な演劇とか、世の中であるとか人間であるとかを批評している演劇。分かりやすいものを置いたうえでそれを批評する…マシーンという言葉にどういう意味があるのかなと。

柴山:終盤に「私はマシーンになりたい」というセリフがありませんでしたっけ。それと人形っぽいロボット的な動きがありましたよね。

まゆ:この物語の時代背景が全く分からないんですけど、男性が女性になりたかったと言うシーンがあったじゃないですか、その男性が「私はマシーンになりたかった」と終盤で言っていたので、だからマシーンになったら性別という概念がなくなるから…そういう意味があるのかなと思いました。

キラッピ:私はマシーンになりたいというのは、思想の話だったり人間の欲望の話だったりが出てきていたので、人間が今まで築き上げてきた思想とか政治とか欲望…をかなぐり捨ててマシーンというモノ、そういうモノになることによって、戦争とか人間同士の負の部分を捨てる…そこから目をそらせるんじゃないかと。

柴山:確かに、ラストに近いところで、女性が「私はもう〇〇をしたくない」という中で「私はもう人を殺したくない」と言って自殺するシーンがありましたね。結局あれも、ある種、機械的な…。人間の欲望とか負の連鎖を断ち切るための「マシーン」と解釈は出来ますね。

キラッピ:自殺するところとかマシーンになる所は「逃避」だと思ってるので。

柴山:何からの逃避? 先ほどおっしゃった、戦争とかの負、からの逃避?

キラッピ:すべて。

しょうこ:『ハムレット』は、いろんな劇団が演じるのを見てますけど、あの絶望的な状況だったら死にたくなるよねとすごくよくわかるんですよね。だけど劇の中で、国家とか政治とか、原作では『ハムレット』は明らかにホームドラマなんですよね、家庭の中の諍い。そこに国家権力が結びつくので殺し合いになるのかもしれないけど、共感を呼ぶのはどの家庭にも起こるかもという人間の愛憎を中心に描いているからだと思います。それを前提にして、ハムレットはイヤだと思うのは、原作の中でもそうだし今回の演劇の中で唯一わかるのは、自殺するところ。「死にたいよねぇ」と共感しました。それと「マシーンになりたい」というのはちょっと飛びすぎな感じがしてついていけなかった。

柴山:ただ、『ハムレット・マシーン』は『ハムレット』をそのままでもなくて…今回の芝居で強烈に覚えているセリフとして自分の母親に向かって「股を開け」というものがありました。『ハムレット』は自分の母親が夫を殺してその弟と結婚して権力を手にする…それに対する復讐をというところから物語が始まるんですが、「股を開け」というのはその母親に対する罵倒のセリフなわけです。他の登場人物に対する言葉も(私は一つ一つは聞き漏らしていますが)、同じようにあったように思います。それは『ハムレット』のテキストに対しての語りではなく、『ハムレット』を何かに置き換えて読むというのがこの『ハムレット・マシーン』だろうなと思います。また例えば、傘の骨で銃や盾を模している演出をしてることを思えば、演出も同様に単純な『ハムレット』の読み替えではない…そう考えた時に、この「マシーン」というのが何なのか。キラッピさんがおっしゃったように、人間が持っている業みたいなものからの逃避、なるほどねと思います。

柴山:話しにくいので別の話題にしましょう。竹三さんが衣装について興味を持ったという話でしたが。

竹三:一番すごいなと思ったのが、キャベツ食い太郎さん(赤坂陸央さんの役)の衣装に着いた流血の部分で、流血はあふれ出してきた淡い赤色と真ん中のまだ出続ける黒い色とがあってその分け方が。見ていると手で押さえている様子だったので服には手のあとがべたべたついていて、真ん中の黒い部分が表現しづらいので…遠目からじゃよく分かんなかったんですけど…

竹三:終った後にちらっと見てたんですけど、鏡みたいなのがついてたんですよ。あれはいったい何がついていたんですか。

柴山:私、あれ、果物の…ザクロの断面図に見えたんですね。確かザクロって何かありませんでしたっけ?(注:後から、「ザクロは鬼子母神に供えられる、そこからザクロは人肉の味がするという言い伝えもある」ということを思い出しました) キャベツ食い太郎さんの存在を、私は資本主義社会の象徴だとみなしたんですが、だとしたら、彼がザクロを食べたように見えるというのは意味を持っている(注:資本主義社会が人を食う…)のかなと思いました。竹三さんは他の衣装については何か思われましたか?

竹三:統一性があったなと。全員が赤に統一されていて、一人だけキャベツ食い太郎さんが白で血が出ている…。一番気になっていたのが血の部分なので、聞けて良かったです。

柴山:私は数珠が気になって…。一人だけでしたよね、数珠は。盆踊りと数珠と、この2点かな、日本的なるものの挿入は。

橋本:最初に『君が代』が流れてた…。

柴山:そうだった、そうだった! あれ重要なポイントですよね。

たろう:国家…象徴ですよね。

テツ:アメリカの国歌に変わっていくっていうね。

柴山:日本的なるものの挿入について、みなさん、なぜ挿入されたかなど意見はありません? 古川さんも、なぜかなとおっしゃってましたけど?

柴山:難しいですよね。私は『君が代』に関しては、違う文脈でとらえました。「国家」というモノの維持と崩壊とか、今の政治的状況への何かしらの…意見とか。盆踊りと数珠はそれとは別にして捉えたんですよね。

かじ:政治的な話が入っているから…それに関して何かしら主張したいと思ったんですよ。今ここは日本だし日本人だし、日本に対して何かしらメッセージを伝えたいからそうしているのかなと思いました。

柴山:何のメッセージだろう、か?

かじ:細かいことは分からないですけど…話自体が暗いものだと思っているので…主張は分からないんですけど我々も無関係じゃないということを言いたいのかな。もうちょっと身近に捉えるべきだと言っているのかなと思いました。見ている時にこういう風に伝えたいんだろうなと思ったわけじゃなく、見終わった後にもう少しこういうものに真剣に向き合ってみるべきかなと思いました。

柴山:なるほど。それらの物が日本の文脈において自分たちも身近に考えなきゃいけないというメッセージだと。

たろう:僕は、日本的な物に持っていくのは上野さんの手癖かな(笑)という感じ…軽い解釈を持ってしまいました。

柴山:上野さんは割とそういう日本的なモチーフを随所に持ち込む? じゃぁ、あまり考えずに入れてんだろう、ってこと(笑)?

一同:(笑)

たろう:そうっすね…そもそもハイナー・ミュラーの戯曲をどう解釈するかというのが、世の中の演出家がどう演じ分けるか、どう解釈するかが一番面白いところだと思っているんですけど、当時1970年代の東ドイツでそれを現代に持ってきた時にどうずらすかを考えた時に、国が違うからずらす、時代が違うからずらすという両方向のやり方があると思っています。多分スマートフォンの演出は現代っぽくずらした時の表現かと思ったんですけど、個人的には時間軸でずらす方がやりやすいだろうなと思うんですよ。時間軸が違うからそれを今やったらどのようになるかという方がやりやすい。そこをあえて…アングロサクソンと日本人は違うし、ヨーロッパと列島では全然話が変わってくるし、当時は東西ドイツの分裂の話がメインだったと思うので、日本人で解釈するのが難しいと思う。だから行かなくていいところにわざわざ行ってるんだろうなと(笑)。

柴山:じゃぁ、思わせぶりだな、と?(笑) 例えば、見ている時は全然思わなかったんだけど…盆踊りを入れた理由をむりやりこじつけて解釈をするとしたら…例えば、失われていくモノ? 私たちがノスタルジーを喚起されてしまうモノ…を出す、という効果はあるだろうか? 伝統的なるもの、消えゆくもの、それでも固執してしまう…「昔はね、あったんだよ」という共同体的な幻想…を出す意味があった、というのはどうだろう?

テツ:テキストも難しいし、『罪と罰』の話もあったけど、ストーリー的にもこのへんで人間とは何かという話をしている気がするんですけど、『君が代』を聞いたり『ぼんちかわいや』を聞いたりをするといきなり現実に引き戻されるその落差を僕は感じて。『ぼんちかわいや』なんかは博多の街のみんなが歌い踊るものなので、スッと自分に戻るというか…。

柴山:ということは現実に戻るということ?

テツ:さっきかじさんが言ったみたいに、これは自分のことなんだという風に意識を向けさせられるというか。

橋本:客席に俳優の方たちが入り込んでくるというのが、舞台と客席をガッと線を引くのではなく、ちょっと境界を侵食して、舞台の上で語られているテキストをちょっと自分事として捉えさせてくる効果はあるかなという気がしますね。

柴山:なるほど。音の話…曲の話が出てきましたので一つ言えば最初の方で出て来た、変調の『結婚行進曲』あれが私は面白かったんですよね。『リチャード三世』の話が出てきた所なんですけど…

一同:シーン。

柴山:はい、わかりました、私だけでしたね(笑)。

一同:(笑)。

橋本:考えることが多い、みんなまとまってないから、どういう角度から触ろうかなと二の足を踏んでるんじゃないですかね。(演出家や出演者の)目の前で的外れなことを言いたくないというのもあるかもしれないし。

柴山:(笑)いや、もうすでに「的外れだよ」と思われているかもしれないし、いいんですよ、それは!

橋本:77年に書かれた脚本(ほん)なんですよね、50年近く経ってるのになんでこんなまだ全然固まらないんだろうな、ずっと悩まされるんだ、すごい戯曲だなと思いますね。

柴山:だから今この戯曲をやる意味というのを劇団は考えていて、じゃないと本作を選ばないと思うんですよね。古いから、困難だからやるという以上に、今やる意味って…。やる側の人たちだけでなく私たちが見る意味を考えたいですね。かじさんがおっしゃったように「自分に引き付けて考える」というのはあるでしょうけど、引き付けて、何を考えるか。非常に政治的な意味があるんじゃないかと皆さんも感じたわけですよね? では今この日本で、どう受け取ったのかな…。

オクムラ:前提部分が分からないので…

柴山:そうですよね、東ドイツの劇作家で…1977年に書かれたとさっき橋本さんがおっしゃってましたね。その前には例えばハンガリー暴動があったりプラハの春があったり、また書かれた20年後にはベルリンの壁が崩壊する…だからこの時期は社会主義というのが諸々崩れていく時代の話…その文脈で書かれたんですね。では今、社会主義的の国が様変わりしている状況、そして資本主義も今「成長」が見込めなくなってモデルを失いつつある、そんな時にこの作品をやる意味を考えたいなと。

たろう:個人的に僕は政治的な着想はあまりなかったかもしれない。個人対個人の加虐性みたいなものを感じました。そっちの方が親近感を持ちました。

柴山:なるほど。…今思ったんですけど、その考え方ってある意味重要なことで、ハイナー・ミュラーが書いていた時代はある種「国」がしっかりしていた。もちろん今も国はあるんだけど、それよりも単位が「個人」にシフトして来た…とか? 語りの主体が小さいものになってきている時代…になった…と考えたら繋がる…?

しょうこ:私は最近、家庭内の殺し合いだとか身近な人が殺し合っているニュースが気になっていて、それと国同士の諍いと「ちょっと連鎖している?」という不安があるんです。家庭内の殺人のニュースを見たときに感じる不安が、国同士が勃発するかもしれない不安と似てて、無関係じゃないかというモゾモゾする気持ちはありました。

柴山:ということは、しょうこさんは個人のレベルで話しているんだけれどもそれが奥底で繋がっているようなと解釈できるんじゃないかということですか。

しょうこ:解釈とかじゃなくて、すごく感じるみたいな話です。

たろう:ハイナー・ミュラーの時代から社会主義の玄海みたいなのは分かりつつあると思っているので、その段階で国家の在り方や国の帰属意識が薄れるのは彼自身が持ったというのはあるだろうなと今思って。そうなった時に、戦争の時の方が人は幸福度が高いというのがあって、何かに帰属されなくなった時に個人の幸福は…資本主義になるということは自由が増えるということなので、個人の自由が増えた時の人の幸福度は何に左右されるかみたいな危機感が当時からハイナー・ミュラーも持っていたのではないかと思いました。

柴山:ごめん、確認していいですか。個人レベルでの幸福度とか生き様の問題を…、社会主義的な国家の崩壊の先に行きつく先は個人だと。で…

たろう:1970年代後半の時点で危惧をしていて、そうなったよねというのが今やる意義かもしれないし、当時は国は帰属していれば国民全員が繋がりがある状態、それがなくなった時に誰と繋がればいいのか、個人がどうつながっているのかというのが、デュシャンの言う「独身者の光」にも繋がっているのかと。

柴山:個人としての不安定性を描いている、と?

たろう:それを当時描いていて、それを改めてやってみたということでは、と。

テツ:引きこもりという話がありますよね。割と内向きにどんどん入り込んでいく…戯曲の解説にもAIのことが書かれていて、たぶん僕やまきさん(柴山)の世代と、ここにいる若い人たちの世代とはAIに対する考え方とかスマホに対する感情とかも違うと思うので…それはマシーンということにも関わるのかもしれない…。中心に座っていたキャベツを食べていた人…食べなきゃいけない、人間のドロドロした…

柴山:そうか、マシーンとの比較で言えば、彼は人間だよね、食べて出してるんだもん。私も見ながらAIのことは考えていたんですよね。ロボット的な動き、マシーンが登場しているけど…何かで聞いたんですけど、AI搭載のロボット?に「あなた臭いよ」と言ったら、腕を鼻に近づけて臭う行動をとるのだそうです。つまりもうそこまで、人間の行為と違わないところまで来ている…となった時に、ここで描かれているマシーンの姿はちょっと古いのかもしれないなとも考えた…んですよね。人間像や無機質なロボット像が従来のものとは違っているかもしれないですから。

柴山:議論もつづけたいところですけど、時間がきたので、せっかくここにいらっしゃる関係者の皆さんに聞きたいこと、伝えたいことがあれば…。

かじ:すごく声が通っていてビックリ、すごいなと思ったので、どうやって声を出しているのか知りたいです。高校の演劇部です。

柴山:このテキストは完璧にわかるってことは難しいと思うんですけれど、演出の解釈に頼りきりでやるのか、役者たちも自分の解釈で演じて創りあげるのか…やればやるほど解釈も変わると思うのですが…。

まゆ:劇を見ていて、役者さん皆さんが不気味というか怖い感じの演技をされていましたが、どういう風に意識してやっていたんですか。

柴山:話は尽きませんが、時間もきたのでここで終わりたいと思います。ありがとうございました。

劇中で傘の骨を銃として扱うシーンがあります。そのポーズ…です。
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