*初めて行った日から、すぐにシアターポケットが好きになった。「こんな所に劇場があるの?」という感じがNYのオフ・オフ・ブロードウェイぽかったし、このいかがわしさが福岡演劇の豊かさを示しているようで嬉しかった。狭くてすべてが一体になる経験は、シアポケならではだった。
シアターポケットは「劇団クレイジーボーイズ」の劇場である。今はもう清川の再開発によってなくなってしまったが、クレイジーボーイズの前身「劇団 舞鶴SHOW会」の第7回公演『あの大鴉、さえも』(1990年)から10年以上に亘り、他劇団も含めて、熱くて激しくて愛すべき芝居の数々を生みだしてきた。そのクレイジーボーイズの主宰はこすぎきょうへい氏。2015年に彼が他界して今年でもう10年になる。クレイジーボーイズ(舞鶴SHOW会)、そしてこすぎきょうへい氏について、元劇団員(藤岡恵美子さん、三留豊さん、集地和久さん、彰田新平さん)に語ってもらった。


座談会
柴山:今日は、舞鶴SHOW会を始めた1987年、その前後からクレイジーボーイズの終わりまでをお話いただきたいと思います。…まずは自己紹介をお願いします。
三留:三留です。私は(舞鶴SHOW会を作った)小杉経平さんの大学の後輩になるんですよ。芸工大で、僕が新入生で入った時に小杉さんが五年生だった。それで演劇部に入って出会ったんですけど、まあ五年生なのでちょこちょこしか来なかった。ただその年に、後に小杉さんの奥さんになる裕子さんが客演で来て、そのあたりから2人と付き合い始めてるはずなんですよ。小杉さんは次の年には卒業して宝塚に行ったんですね。その後僕は裕子さんと、あと津田(三朗)さんたちと「健康相談」を立ち上げて。その1回目をやった後、またバラバラになってたのを、小杉さんたちがこっちへ戻ってきて、たまたま会って声かけてきたんですよ。まあ、ちょっと悪いことたくらんでるから誘うよっていう。「ああ、じゃあお願いします」って言って誘われて集まった時に、しゅうちゃん(集地さん)とかもいて「舞鶴SHOW会」をはじめることになったんですよね。


柴山:芸工大は、学生演劇部が二年生か三年生で終わったら劇団を作るというパターンがあるじゃないですか。
三留:ああ、そうそう、その前です。その頃いた六年生の石川さんあたりが演劇部を立ち上げたところで、小杉さんがそれに巻き込まれて。だから(定期公演の)2回目か3回目なんですよ。僕が入った時で。
集地:集地と言います。今、三留が言ったのと同じような流れなんですけど、小杉さんが宝塚から戻ってきたその時は僕はあんまり知らなかったんですよ。でも奥さんはよく知ってたんで、奥さんから「小杉がこっちで演劇をやりたいから、手伝ってほしい」って連絡があって、それから加わったんですけど、その時に三留と、あと芸工の後輩の篠原(建二)だ。あと武森武志(伏見武の別名、同一人物です。どちらも芸名です)の5人で始めました。あ、5人というか、小杉夫婦を入れて6人(小杉夫妻、集地、武森=伏見、篠原、三留の6人)ですね。(第一回公演は、伏見武、大杉訕=三留、篠原建志、田ノ倉真珠、ほか)
柴山:小杉さんの奥様のお名前は。
三留:えっと、小杉裕子、旧姓向笠(むかさ)優子。旧姓は三笠さんですね。(二人の)卒業がずれたんで、小杉さんが就職で宝塚行って、(奥さんが)卒業して向こうで結婚して、向こうの劇団に加入していた。
集地:細かく言うと、その小杉裕子さんはあの筑短(筑紫女学園短大)の演劇部だったんです。その時にさっき言った「健康相談」に客演で確か出てたはずなんですよ。
柴山:集地さんは小杉裕子さんとどこで知りあわれたんですか?
集地:昔、赤坂にイベントハウスというところがあったんです。そこでアマチュア劇団とか大学の演劇部とか集まって演劇祭みたいな小さなものをやっていたんですよ。「夜間飛行」っていう劇団とか出てたんです。僕ちょこちょこそこに顔出して、いろんな人と付き合ったり出てたりして、その時に当時の三笠裕子さんが筑短の客演で出てから知り合ったんです。
藤岡:次に古いのが私です。藤岡と言います。私は演劇を中学校、高校、大学とやっていて、大学卒業する頃どうしようかなと思っていた頃、今出てきた篠原さんにお会いして「うちにおいでよ」って言われて、それからもうずっと居着いていました。入ったのは第3回かな、『星に願いを』。その時、私、東敬子さんと一緒にいたんです。おそらく篠原さんは東敬子に劇団においでよって声かけたんだと思うんですけど、私が勘違いして「はい」って言ってしまった、そんな出会いからです。

彰田:彰田新平と申します。僕は働いているときに芝居が面白くなって、芝居したいなと思って。市民劇団みたいなところで参加したのが石川(蛍、「夢工房」)先生だったんですよ。演出されてて。その時にミュージカルをやったんですよね。その後うちで芝居しないかって夢工房に誘われたわけですよ。で、働きながら芝居を夢工房でしてて、その時に佐藤(順一)さんとかと出会って。でも芝居しながら夜、道具も作って、そして働いてっていうのが難しかったから、アマチュア劇団みたいなところの方がいいかなと思って、「現代劇場」に入ったんですよね。「現代劇場」でしてた時に、今では大分大学の教授やってる石井(まこと)が「舞鶴SHOW会」というところに客演に出るからそれ見に来ませんかと言われて、見に行って面白いねと。「現代劇場」では大きい芝居しかしてなかったんですよね。井上ひさしとか、シェークスピアとか。ただ、そこではものすごく勉強になったんですよ、お芝居の基本、演劇の知識というか、そういったものを養えた。ただ、「舞鶴SHOW会」を見た時に、自分の世代の人間がその自分たちの言葉を発しているというのに、すごく興味を持ったんですよね、それまでは遠い時代の人たちの芝居しかしてなかったのが、今の演劇というか若い人たちの演劇をやっているのを見た時に、熱いものを感じたんですよね。それで、客演で『人間の証明』と『戸惑いの午後の惨事』に2回出たんですよね、「舞鶴SHOW会」の。


ああ、やっぱ面白いなって思った時に、小杉さんが劇団をまた新たに立ち上げたいから彰田くんも来ないかと。その時に言われたのが「舞鶴SHOW会の面々がもうそれまで20回ぐらいやってる、だけれども気兼ねしなくていいよ」と。ゼロからリスタートだからみたいな感じで言われた。それで一緒にやりましょうと。集地さんは、クレイジーボーイズの時にはもうタッチしなくなったんですかね。
集地:そうそう。
三留:一回解散した。
彰田:…だけど、僕がなんで集地さんをよく知ってるのかっていうと、来てたんですよね。
集地:多分遊びに来てたんです。
彰田:で、仕事も忙しかったんですよね。
集地:そうそう、沖縄に仕事行かなきゃいけなかった。
彰田:僕は「クレイジーボーイズ」に入った。その後いろいろ僕も客演出たりして、「アントンクルー」とか「ギンギラ太陽’s」とか出ながら。劇場(注:シアターポケット)が立ち退きしなきゃいけないのもあったりして。活動的に難しくなって、人も、みんなそれぞれ結婚したりしてね、バラバラになっていっていった。
三留:なんとなくもうバラバラ。正式に解散ともなんともなんとも言ってないんだけども。
彰田:言ってないんだけども、もうバラバラに。で、小杉さんがなかなか芝居をする機会ができなくて。っていうのは、サラリーマンから独立して、バブルが弾けて食うに食えないみたいな時期になって、小杉さん自身がシアターポケットをもじった「煮込みBARしあぽけ」という居酒屋を作ったんですよ、事務所の中の一室を。事務所仕切って、自分がスピーカーとか音響を作って設計しているところの事務所の半分を仕切って。なんか大工仕事してるんですよ。で、小杉さん何してるんですかって聞くと、「うん、居酒屋作ろうと思う」。1週間ぐらい経ったらカウンターができてるし、また1週間ぐらい経ったら照明ができてるしって、だんだん居酒屋になっていってるんですよ。居酒屋を作って芝居もなかなかせず。ほとんどサラリーマンとかが行く飲み屋になって、それも流行ったんですよ。安いから。ビールもグラスとか出さないんですよ。缶そのまま出すようなお店で。それでだんだんと遠ざかっていって。小杉さん、体も悪くなったというのもあって。だんだん芝居の仲間とも会わない期間が。

集地:一つはね、本業で食えなくなった。それでお店を出して食べていこうって。
彰田:小杉さんが亡くなった時に、僕らと携わった人が葬儀の司会の仕事をしてたんですよ。「あの小杉さん?」って僕らに知らせが来たんですよ。初めて。
三留:みんな知らなかった。誰にも言わないで、一人で、病気で。
集地:知らせる予定じゃなかったんですよ。家族葬みたいな感じで。
彰田:そしたら、僕らはほっとかないわけです。その司会の人間も、みんなどうにかしましょうみたいな風になって、そして、その会をしようみたいな風になった。シアポケのお客さんが来るわけですよ。「ああ、マスター、こんなことやってたんだ」って、芝居をやってたっていうこと全く知らなかったんです。
藤岡:「煮込BER しあぽけ」。煮込みバーのお客さんはね…
彰田:全く芝居のことを知らずに。あの亡くなった後に「おーい、こすぎさん!」という会を開いて、小杉さんがドラマとか脚本とか書いてたのを見て、へえってびっくりしてるんですよ、みんな。僕らはバーの方を知らないから、どういうマスターだったんですかとか逆に僕らが聞いて。「いいマスターでした」みたいな。全く知らない顔を二つ持ってた。僕はその煮込みバーには時々「芝居しましょう」って言いに行ってたんですよ。集地さんは芝居しましょうっていうよりも、その旧知の中というか。
集地:まあね、たまに顔を見に行くみたいなね。
柴山:2015年にお亡くなりになっているということですか。
集地:そうですね。
柴山:解散はしなかったけれども、結果的に最後になった公演というのは…
集地:『ハムレット』これが一応最後かな。
柴山:梁木さんが演出した作品? …でもクレイジーボーイズのメンバーが出ていたけれどクレイジーボーズの作品ではない…?
彰田:いや、クレイジーボーイズの作品でいいと思います。ただ客演を呼んだんですよね。木村君っていう。
集地:でもクレイジーの名前が出てないってことですよね。
彰田:クレイジーにしなかったんですよね、小杉さんがね。要するに主役を木村くんにしたから。クレイジー(の名前)にしたら、申し訳ないっていう。

柴山:つまりもう十数年にわたって、小杉さんはもうお芝居しなくなっちゃってたってことなんですね。皆さんもそのまま…まず集地さんはクレイジーボーイズになってからされてなくて。逆に彰田さんが入られて。(三留、藤岡に)お2人はそのままクレイジーの間はいらっしゃったんですよね。
藤岡・三留:そうですね。
柴山:なんとなくクレイジーボーイズではお芝居しなくなっちゃって、その後お2人は?
三留:僕はもうしないです。
藤岡:私は『今は昔、栄養映画館』の前にやめました。99年。
彰田:この時は意外と客演も入れてた。作品的なものをやる上で自分たちだけではもうできない、それまでは全部自分たちで賄ってたんだけど…っていうのがあったよね。そういう不満が出てきたようなんじゃないかな。
藤岡:不満があったのは私だけかと思ってたんですけど。
彰田:あの頃、人数は少なくなっていったよね。
柴山:なぜお辞めになったんですか?
藤岡:頭にきてやめたんですよね。原因としては、次の作品を決めてやろうってしたのに、なかなか稽古に入らなかったんですよ。なんで稽古に入らないんですかって言ったら、「うん、ちょっと」って小杉さんがもう言葉を濁してずっともう埒が明かないので、「もうそんな稽古に入らないんだったら、私は責任持ってお芝居できないからやめます」って言って。辞めたっていう。『ら抜きの殺意』をしようとしていて、配役がなかなか決まらなくて。配役に当てようとしていた女優さんに連絡を取ったのか聞いたら、「うんうん」とか言いながら、取ったのか取ってないのか分からないから。だから小杉さん、もう…って。彰田さんは役が決まってて、「練習しましょうしましょう」って言ってたんですよ。
彰田:そう、僕は芝居をしたいからねえ。
柴山:小杉さんはやるまでに時間がかかる?
藤岡:そうでもないんですけどね。
彰田:いや、要はあの気遣いではあるんでしょうね。
三留:気遣いだと思うのと、どっかやっぱり自分のスタイルでもあって、合わないと絶対ダメなのよ。なんらかの筋があるんですよ、あの人の中で。合わないと絶対やらないんですよ。それが僕らに伝わるかって言ったらよく分からない。
柴山:クイレジーボーイズが始まったのが何年です?
彰田:クレイジーボーイズは『インカフェ』が1994年の5月です。年に3~4回やってたんですよ。3~4回やってる中で意外と途中から…あの頃はあれが流行ってたじゃないですか。電通とかが企画して、九電が買ってくれる。企業が買ってくれるシステム…

柴山:メセナ活動ですか?
彰田:うん。福岡でもそういうのが多かったですね。だから僕は現代劇場の時には、『きらめく星座』っていうのに出て。その後クレイジーで『星に願いを』で買ってくれて。電通の人から言われましたもん、「2回出たのは彰田さんだけですよ」って。その他には色々ね、買ってくれた。メセナ活動だね。
柴山:時系列で確認したいのですが、まず舞鶴SHOW会の時は6名で始めたんですね。
集地:そうですそうです。決起会が6人でした。それでいろんなところに声かけをして。とにかく6人しかいないから。裏をやってくれる人、客演をやってくる人。
三留:6人、あと旗上げまでにもう少し(増えた)。
柴山:既存の戯曲でとにかく芝居をやりたいみたいな感じだったのですか。オリジナルより。
集地:途中から(オリジナルになった)。
三留:ネタがなくなって、しょうがない、書くかみたいになった。やれる戯曲がなくて。
柴山:それは人数との兼ね合いとか?
三留:兼ね合い。役者も限られてるし、なかなかはまるのがないんで。
柴山:この頃の舞鶴SHOW会のお芝居の特徴は、どんな印象、どんな風に言われてたんでしょうか?
三留:基本的にオーソドックスにやってたと思います。
彰田:いや僕は、はたから見てるじゃないですか。初期の頃は知らないんですよ、でもビデオとか見るじゃないですか。劇場がまず変なんですよ、鉄骨が。シアポケ(シアターポケット)って鉄骨があるじゃないですか。あんな劇場ないでしょ。


柴山:シアポケっていつできてるんですか。
三留:『あの大鴉、さえも』の時からです。旗揚げの時はだからない。
集地:7回目。
三留:だから旗揚げの頃の特徴はどうかというと、初期はオーソドックスだったと思う。台詞のテンポもどんどん上がっていくんだけど、最初だからそんなにテンポも上げられなくて。
集地:その当時、小杉はすごく芝居をやりたかったんですよ。
三留:しかも役者をやりたかったんだよ。
集地:作品どうのこうのより、とりあえず芝居をしたかった。その時に場所がなかったんです。そしたらもう自分たちで作ろう、持とうっていう話になって。いろいろ探して路地裏で、もともとキャバレーだった所を貸してくれて。中は好きにしてっていいって。
彰田:ミラーボールがあったんですよね。
集地:それも普通のキャバレーじゃないの。エッチなキャバレーですね。
彰田:そこで(劇場内の梁)ぶら下がるやつとか出てくるとか、普通ないじゃないですか。普通の劇場でぶら下がるって言ったら、鉄棒も作らないと絶対ぶら下がれないわけですよ。なんか知らんけど、裸になってましたね、男はね。なんか肉体派が多かったよね。女性でもなんかこう体張るみたいな芝居が結構多くて。つかこうへいとかも体張るようなところがあるじゃないですか。。
柴山:つかの影響が大きかったんですか。
彰田:それと竹内銃一郎ですよね。
集地:どっちも大好きです。
彰田:だからスポーツ合宿とかやってたんでしょう。
集地:例えば、ずっと走っていく。(注:清川の劇場から大分の湯布院までマラソンするという、舞鶴SHOW会レクレーションクラブ、略してMLCの企画。劇団員は、「いや、無理」といって車で行きましたが、当時劇団員だった丸山君だけが参加して、小杉さんと二人で交代で走っていきました。一泊レクレーション。舞鶴SHOW会オリジナル作品RETURN TO FOREVERのなかでもヒンズースクワットのシーンがありますね。)
彰田:体育会系のノリですよね。
集地:冬にはみんなでスキーに行くとかね。
彰田:なんかレジャークラブみたいな。
柴山:では、演劇論交わすということはあまりなかったんですか?
集地:それは、行った後の宿で、ずっとやる。みんなもう劇団員だから。
柴山:彰田さんが初めてご覧になって面白いと思った作品ってなんだったんですか?
彰田:『ドッペルゲンガー殺人事件』。
三留:竹内さんの作品。
藤岡:竹内銃一郎さんの作品、多かったですよね。
彰田:あの時に確か石井君とかが(梁から)ぶら下がったんじゃない? そう、僕と一緒に芝居していたやつが、こんなことこいつやるんだってね。現代劇場ではシェークスピアとかやってるのにね。

柴山:舞鶴SHOW会で旗揚げして3年後に劇場であるシアターポケットを持つことになりますが、これは劇団で持っていたと考えていいんですか?
集地:そうです。劇団で持ってるっていうか小杉が全部。
柴山:借りてるんですよね?
集地:借りてます。小杉が全部敷金とかを出して。中も全部自分たちで作った。資材など最初の費用は全部小杉が。
彰田:僕が聞いた話では、集地さんが仕事関係の展示会とかやったフローリングとか、そういうのをもらってきたと。だからお金をかけて全部新品でやったとかじゃなくて、あの時は展示会とかいっぱいあったじゃないですか。よかトピアとかね。どこかしこで展示会とかあって余った資材を持ってきて。
柴山 手作りの劇場ですね。当時、夢工房さん、テアトルハカタさんも自前の劇場を持ってたかな。演戯集団ばあくぅはそのちょっと後…だから当時、劇場を持っていた劇団っていうのは、その三つぐらいですかね。
集地:ただ、純粋なアマチュア劇団としては最初だったらしいですよ。興行的な観念がない劇団。NHKから取材に来たんですよ。ローカルニュース。その時にNHKが調べた時に、純粋なアマチュア劇団としては福岡で最初っていうことで。
彰田:そういう意味でも僕は興味深く思ったんですね。なんでこの人たちこんなことしようと? 特に小杉さん、そこまでやって。で、謎の人物がいるでしょう(と集地さんを指す)。芝居もしてないのに、いつもいると。どういう関係性なんだろうっていう。いろいろな劇団あるけど、みょうちくりんですよね。
三留:うん。
彰田:僕は大御所と言われる演出も結構受けてたから、同世代の人間で初めて受けるわけじゃないですか。で、やっぱりちょっと小杉さんの演出で変わってますもんね。とにかく「待ち」なんですよ。待つ。自分の中でプランはあるんですよ。プランはあるけど、何も言わないんですよ。普通、大御所は「ここはこうなんだ」って講釈を述べて、こう作りたいとか言うんだけれども、小杉さんは待つんですよね。待って「違う」としか言わないんで。「なんで言わないんですか」って聞いたことがあるんですよね。「いや、言ってすることじゃないから、演劇って」。
三留:自分がやりたい方だから、役者さんの頭で考えるんですよ。
彰田:考えないとダメだっていうね。それまで待つんですよ、普通はね、傍(で見ている)方がわかったりするわけですよね。でも小杉さんが言わないから周りも言えないみたいなね。
三留:結構僕らはそれぞれ好き勝手やってるんですよ。
彰田:だから個性を大切にするのは大切にするんですよね。
三留:多分、小杉さんじゃないと、僕と彰田さんとたけちゃんとか同じ劇団いないよね。まあ、この3人が揃って同じ劇団でやってるっていう、この現実自体がありえない。
彰田:三留君から言われた言葉も今でも覚えてるのは、「彰田さんとは、芝居がなかったら出会ってない」って。だからクレイジーボーイズ、舞鶴SHOW会も含めて、小杉さんじゃないと揃わない面々がいたよね。
柴山:小杉さんが誘って入れていたっていう感じなんですか? それともなんとなく集まってきた…?
彰田:舞鶴show会を見たり、クレイジーを見たりして入ってきた。小杉さんが誘ったっていうことはないです。
集地:でも来るものを拒まず。
柴山 ああ、じゃあ去るものも追わず。
藤岡:追われなかったです(笑)
集地:ちょっと思い出しました。どうして劇場作ったか。回数が4回できると。金土日日。だから回数がいっぱい打てる。で、あと練習もずっとそこでできる。
彰田:まあ寝泊まりしよったもんね。そっから会社行きよったもんな。
集地:打ち上げもそこでしたしね。
藤岡:なんか毎週、週末そこに行ったら芝居がやってるっていう、そういう空間を作りたいっていう。劇団費ちゃんと取って、そこで家賃まあ回ってましたからね。
三留:それと公演でなんとかギリギリ回せるぐらいですもんね。
彰田:小杉さんが「彰田君よく考えて。一生で(芝居を)50年やったとして、年に2本やったとしても100本しかできんとよって。それを考えたらね、自分が今貯めとる教育費をつぎ込んで、建てた」みたいな話を。 三留:年に四本とか五本とか気違いですよ。
②に続きます

