立石義江さん(女優)
*「福岡で一番、客席で会える女優」のキャッチコピーに偽りなし! 本当に客席でよくお目にかかっていてその度にちょこちょこお話させてもらっている。私がやっている「シアターカフェ」にもかなりの確率で参加してくださっているし、蕎麦と日本酒の会(だったかな)にも声かけてもらったなぁ、そういえばストリップ劇場にも連れていってもらった(笑)。…とまぁ、舞台でもよく見ているけれど、舞台を降りた立石さんにもお世話になっている(ことに今さら気づく…)。「劇団幻想舞台」から「ギンギラ太陽’S」を経て現在はフリーランスの女優、ご存じ、立石義江さん! お酒が大好きで(よくお店を知っている)、観客としても一家言あるし(シアターカフェで話すのが楽しい)、シゴデキだし(このインタビュー原稿の直しも史上最速で返却してくれた)、姐さんタイプの女優さんです。2025年9月には、ご自身の還暦記念として何やら面白そうな企画もしているとのこと。インタビューの終わりにそのことについて少し触れているので、最後までご覧ください。

インタビュー
柴山:立石さんがお芝居を始めた時期ときっかけを教えてください。
立石:もともと中学の時からずっと演劇部、高校演劇部、大学入って、大阪大学の「第二劇場」という社会人と学生が一緒にやっている部活のような劇団のようなところでやっていました。社会人になる時に福岡にUターンで戻ってきて、岩田屋で2年ぐらいは真面目に仕事してました。
柴山:その時はお芝居をしていなかったんですか。
立石:してない。キャリアーウーマンになるつもり満々だったんですけど、2年ぐらい経ったところで福岡でも芝居をやれる所がないかなと探していたときに高橋徹郎と出会って、幻想舞台に入ってそこからまたずっと福岡での演劇生活が始まるという。
柴山:高橋さんと出会ったのが先ですか、幻想舞台を見て入りたいと思ったのですか。
立石:幻想舞台を見たことはありました。ぼちぼち福岡で芝居やりたいなと思って地元の劇団を見にいっていたので。あちこち見にいく先で高橋さんと顔見知りになってました。当時、福岡で人気劇団だった「空想天馬」のオーディションを受けたことがあったんですよ。作品オーディションみたいな1作出るくらいの感じかなと思って行ったらガッツリ劇団オーディションで、私は仕事も持っていたし違うなと思って帰ってきたんですが、その審査員席に空想天馬の劇団員でもあった高橋さんがいて。ちょうどイムズ芝居に初めて出る時に誰かいないかなとメンバーを探していた時期らしくて、いまだったら個人情報とか絶対ダメなんですけど(笑)、プロフィールをこっそり持って帰ったらしいんですよ(笑)。
柴山:それって…書いて大丈夫なんだろうか(笑)。
立石:時効だと思いますけど(笑)、ある日突然連絡があって。だから福岡で初めて舞台に出たのが、幻想舞台がイムズ芝居に出た『尾瀬沼谷の源十郎の話』というお芝居だった。
柴山:ということ幻想舞台の初期作品にお出になっていますね。
立石:幻想舞台が学外でやった作品という意味では初めてなのかな?
柴山:では幻想舞台の最後まで所属されていたんですか。
立石:そうですね、幻想舞台をずっとやりながら、ギンギラにシフトしていくんですけど、その時代もずっといました。
柴山:阪大時代の「第二劇場」の活躍や規模を存じませんが、福岡に戻って来ていきなりイムズ芝居ってかなりすごいことだと思います。
立石:そうですよね、小劇場ブームの終わりごろだったと思うんですけど、ある意味一番いい時代を過ごさせてもらったと思っていて。幻想舞台もイムズ芝居に出たことによって200が300、300が500と観客が増えていく、そのままギンギラに行って、ギンギラもスポーツバーとかイベント的に400~500集めるところから始まって西鉄ホールに行って1000になって2000になって。今ではほぼ考えられない。今は演劇というメディアで、それも商業演劇ではなく小劇場でそういう風に成長していくのは東京でもそうない…終わりがけではあるけど一番いい時期を過ごした…。
柴山:終わりがけとは言っても福岡ではまだまだだったのでは。
立石:はい、その勢いはあったと思います。
柴山:幻想舞台では東京公演もされていますね。
立石:行きました。やったのは新宿のタイニィアリスかな…。
とにかく東京に一回行きたかった、若かったし。でも東京公演をやったことで「うわ、東京は壁が厚い」とか「東京行きたい」とかはなかったです。むしろその後、ギンギラで初めて東京に行ってパルコ劇場でやった時に、「東京すげぇ!」と思いました。SNSが流行り始めた時で、福岡だったら評判が良かったら次の公演でお客さんが増える。東京は初日の評判が良かったら翌日お客さんが増えるんですよ。当時はミクシィとかだったんですけど。公演は3日間で、毎日、当日券で増えていって。その時に福岡と違うんだと思いました。
柴山:イムズ芝居に出たこともあって「幻想舞台は別格」という印象があったと聞いています。
立石:本当に勢いがありましたね。自分でいうのも何ですが、私「持ってるな」と。その後のギンギラも全国規模になるし、すごくラッキーな感じで今までやってきてるなと思います。
柴山:幻想舞台からギンギラ太陽’Sになった時期もそこにいらっしゃったわけですよね。幻想舞台のテイストとギンギラのテイストは違いますよね。その違いについてはどう思われましたか。
立石:確かに、被り物という意味では違いますけど…大塚さんがずっと言ってますけど、ギンギラって色物的に見られるけど芝居の部分を大事にしていて、やっている側としてはそれほど違いがあるとはなかったですね。

柴山:立石さんはずっとお仕事もされていますよね。その後、ギンギラは企業からのイベントの依頼も増えたのではないかと思いますが、お仕事の都合もあるでしょうから出られないこともあった?
立石:いや、有休もらって。ギンギラが全国ツアーやった時も1カ月ロングランやった時も正社員ですからね(笑)。
柴山:すごい…どうやって…よっぽどシゴデキで認めてもらっていたのか…。
立石:私はずっと芝居を続けていきたいということがベースにあって、社会人として仕事しながらでもやれると。個人的な話ですけど、親が厳しい、古い方というか…女性が目立つことや四年制大学に行くことも好まない、それに反発もあって、親に経済的な心配もかけずにでも自分の好きなことを続けていきたかった。だから途中で経理職の資格もとった。親には文句を言わせない、続けていくための私のやり方があるんだと…。
柴山:あくまでも芝居を続けていくためのベースですね。一本道を貫いているんですね。
立石:私なりのやり方だと。若くて今から芝居をやろうとしている人たちにこんなやり方もあるよと示すのも、もしかしたらあるのかもしれない。
柴山:ではギンギラに話を移します。

立石:公式では幻想舞台からギンギラになったのが97年、その後99年が初西鉄ホール、そこから2011年、14年ギンギラをやったということになる。2011年12月にギンギラの体制が変わると発表されたんでそこまで。
柴山:西鉄ホールにお出になった時の件ですが、西鉄ホールは400席ぐらいですよね、となると観客がかなりいたわけですよね。
立石:いきなり西鉄ホールで2回か3回やってるから1000人ぐらいは。スポーツバーで500ぐらいはいっていたので。その後いきなり1000人ぐらいになって。
柴山:ご両親は、娘が活躍していることについて…
立石:全然…絶対見に来ない。一回ギンギラが1カ月ロングランをやった時にチケットを送ったんですね。言っちゃなんだけど人気劇団だから来ないなら誰かにチケットをやってくれと。このチケットを殺すことだけはしないでくれと。そうしたら初めて来ました。
柴山:初めてお父様がご覧になった時に何か言ってくださいました?
立石:父は何にも。母は「あんた声大きい」しか言わなかった(笑)。
柴山:その時期には反対もされなかったということは認めていらっしゃったんですね。
立石:まぁ、もう言ってもしょうがないと…この『すぎのとを』を出た時とかは、まだギンギラにいた時でしたけど、西鉄ホールがプロデュースした公演だったんで新聞とかにも載ったんです。実家の新聞にも載ってるわけですよ、すると父なんかは「調子に乗んなよ」と(笑)。
柴山:それは嬉しかったんでしょうね。西鉄ホールでやれることについて、何か感慨はありましたか?
立石:そうですね、本当に自分がラッキーだったとしか。イムズホールから始まって西鉄ホールをまるでホームの様に使っていて。
柴山:その後もずっと西鉄ホール使ってましたもんね。
立石:西鉄さんとも仲良くやらせてもらって。(『すぎのとを』も)中村(絵理子さん、当時の西鉄のプロデューサー)さんがどうしてもこの3人でやらせたいと言ってくれて。西鉄ホールの5周年記念でやったやつ。その当時は西鉄もお芝居に力を入れていたので。
柴山:ではその頃からギンギラ以外にも他のお芝居にお出になっていたということですか。
立石:いや、これ(『すぎのとを』)ぐらいですね。ほとんどギンギラの時は外の客演とかやってない。仕事もやっていたしいっぱいいっぱいだったこともありますし。
柴山:ギンギラではイベント依頼は多かったんですか。
立石:けっこうありましたね。西鉄の電車祭りに出るとか、ソラリアのゼファでイベントに出るとか。(他劇団に客演する余裕も)なかったんですよね。
柴山:他の劇団でやってみたいという欲求はなかったんですか。
立石:なかったといえば嘘になりますが、自分から動こうということはなかったです。あちこち見にいくので、地元であれ来福劇団であれすごいなと思った作品には「くやしいな、こんなの出たいな」というのはありました。「くやしい」というのは私にとっての最大の誉め言葉。
柴山:2004年、『すぎのとを』に中村さんからお声がかかった時はどのように思われました?

立石:これはプロデュース公演で昼間も稽古してという拘束があってその代わりちゃんとギャラもあって、本当にプロとして女優としてちゃんと仕事をいただいて、丁度その頃、勤めている会社で色々あってやめようと思っていたときだったんですよ。だからこれいいかもと思って。中村さんが選んでくれたという中村さんへの信頼と、今なら仕事をやめてやれるということでやりました。むちゃくちゃ楽しかった。
柴山:如何でしたか。
立石:楽しくて、これは今でも自分の節目になっている作品。ずっと芝居のことだけ考えてられる環境を揃えていただいて。
柴山:江口カンさんの演出、それまでの高橋さん、大塚さんとの演出と違いを感じました?
立石:演技そのものについてはあまり細かいことを言わない。中村さんがこの作品を好きで、この役はこの人に、という感じだったので。だから細かいことは言われずに3人で好きにやっていく。3人が一緒に住んでいるという設定だったんで、稽古の時間も一緒にいる時間が長くて終われば飲みに行くって感じで一体感がそのまんま、そういう作り方だったので。芝居のことだけやって、純粋に楽しかった。ギンギラは仕事が終わって夕方から稽古して…もちろんギンギラもツアーがあって家族的な繋がりができていくんですけど。そういうのが今の月光亭に繋がってると思うんですよ。それと女優としてお仕事としていただいているという嬉しさ。もちろんギンギラもある程度お客さんを集めるようになってみんなに分配しようという形でギャラを出すということもあったけど、やっぱりこれは別格で。
柴山:ではギンギラは公演ごとにギャラがあったんですね。
立石:初期の頃からいくらかずつでも払ってもらっていました。
柴山:ギンギラの東京公演はどうやって?
立石:パルコからお話をいただいたんだと思います。
柴山:幻想舞台で「やるぞ!」と東京に行ったのと違ったんですね。劇団員の持ち出しはなかったんですね。
立石:なかったと思うなぁ。東京公演は、パルコ、銀河、その後全国ツアー、後楽園、あうるすぽっとも行ったんで5回ぐらい行ってるんじゃないかな。全国ツアーはピクニックさんが組んでくれて。
柴山:役者としてギンギラにいる時間も長かったですが、変化はありましたか?
立石: 2011年いろいろあってギンギラをやめることになった時に初めて意識したんですけど、年相応の人間の役をやれるようになったのは良かったと(笑)。色物的に見られてもちゃんとお芝居やってるよとは思ってたんですけど、あまり性別も年齢も関係ないキャラクターだったので、自分の年齢相応の役をやった時に「やっとこういうのをやれるようになったなぁ」と思って。あまり年を取りすぎないいい時期に他のところでもいろんな役がやれて良かったなと思ってます。
柴山:立石さんにとってギンギラに出ていた時代というのは。
立石:本当にいい経験をたくさんさせていただいた。映画だったり全国ツアーだったり。
柴山:では2011年におやめになって、不安はなかったですか?
立石:不安があったからだとは思いますが、どこでも出るよと、演劇人の集まりとかにも出ていって言ってました。おかげさまでいくつか声をかけてもらって…初めの3、4年ぐらいは年に5本ぐらいのすごいペースでやってましたけどね。
柴山:オーディションは?
立石:北九州のオーディションで出たやつは2つくらいあるかな。(『帽子屋さんのお茶の会』と『続・世界の日本人ジョーク集』)これもオーディションですね、柿喰う客が一週間ぐらいのレジデンスで作った『ゴーゴリ病棟』。この頃は北九州のオーディションにもせっせと行きましたが、そんなに受かることもなく…。
柴山:立石さんの姿を舞台で見すぎて、一体どれで見たのか分からないくらいです(笑)。M.M.S.T.も出てるんですね。
立石:出たというより所属だったんです。ここも劇団員というよりプロデュースみたいな感じですから。あの頃平尾にあった劇場、Fuca baceでやることが多かったんですよ。そこでやるM.M.S.T.のかなりマニアックな作品に出てます。イヨネスコの『授業』とか。『女中たち』とかけっこう古典的なヤツを。
柴山:立石さんが入りたいと思って所属されたんですか。
立石:「演玩カミシモ」って山下キスコと上野敦子がやってるユニットに客演した時に演出が百瀬さんで、ちょうど団体を立ち上げるからやらないかって。私はちゃんと演劇の勉強をしたことがなく小劇場ブームに乗っかってやって来たことにちょっと引け目があったので、これはいいきっかけだと思って。週3くらいコンスタントに訓練とか戯曲の勉強会とか。ギリシャ悲劇から順番に古典を読んで要約するという宿題をやって、それをお互いに発表したり。勉強とかやってみたかった時期ですね。
柴山: 2013年10月からM.M.S.T.に所属されたんですね。月光亭はいつ始めたんですか。

立石:2010年。まだギンギラに所属してた時に演劇と全く違うことを4人でやろうということで始めたんです。
柴山:なぜ落語だったんですか。
立石: 1度ギンギラの東京公演が延期になったことがあったんですね。演劇ってみんなで作るからいいんですけど、一人がだめになると作れない、逆に弱い所がある。音楽はギター1本あればやれるっていいよね、って。ギンギラの照明をやってた荒巻さんから4人(立石義江・杉山英美・古賀今日子・上田裕子)がやってる芝居を見てみたいとずっと言われていて、その時は俺が名付け親になってやる「キンキラムーン」だって。で、その延期の時に「今じゃね?」って。東京公演延期が決まった日だったと思うんですけど、稽古場出てパピオのロビーでその場で「何やる?」って。「アドリブ弱いし、大喜利みたいなのもできんしね」「大喜利?」「え、落語?」そのまんまみんなで自転車こいで天神行って落語のCDとか本とか探して。その勢いで。キンキラムーンじゃなくて月光亭ですけどね(笑)。公演中止になった悔しさが。
柴山:よくYouTube先生みたいなことをおっしゃってますよね。
立石:そうそう「師匠YouTube、インチキ落語」って(笑)。ミュージシャンみたいにできるだけ身軽にやりたい、でも一人だけでやる度胸はねぇから4人でやりたいと。いいペースでやれてると思います。
月光亭はギンギラをやめる前に始めたんですけど、ずっとどこかでこの4人でいつかまた芝居がやりたいと思っていたんです。それで2016年に月光亭落語会シアターシリーズとして『梨の礫の梨』をやった。「iaku」の横山(拓也)さんの作品で、その1年ぐらい前かな、サキトサンズっていう大阪の役者さんが二人でやったのを見て自分でやりたいと思ったんですよ。福岡公演を三坂とか中村雪絵ちゃんとかが現地制作で手伝ってたんで、「打ち上げの店紹介しちゃーけん打ち上げ参加させてよ」って打ち上げ乱入して「この作品をいつかやりたいです」って話して。月光亭で芝居をやりたいと思っていたから月光亭の名前を付けました(月光亭シアターシリーズ)。


柴山:でもこれは出ているのは…
立石:月光亭からは私だけです。これはバージョン愛眼で、翌年バージョン春吉で『まだ旅立ってもいないのに』を「劇団Pa!! Zoo!!」のぎゃおさんと古賀今日子が二人芝居でやってます。そうやってシリーズ化していこうと思ったんですけど、2016,17年とやった後ちょっと途切れているんですよね。そうやって一人バージョンをやった後に4人芝居ができればいいなと思っていうのが最初に立ち上げた時のイメージだったんです。それを今年、4人そろってやってみようかと。月光亭で落語をずっとやって来て、あれが初めてだったんですよ、4人そろって芝居らしきものをやったのは。柴山さんに頼まれたあれ(注:柴山がやっている文章表現教室の同窓会にて、月光亭の4人に依頼してリーディング公演をしてもらった。過去の子どもたちが書いた詩や物語の中から17本選び、うまく繋いで動きのあるリーディング公演を上演した)。
柴山:4人でやったお芝居はあれが初? ありがとうございます、嬉しい。
立石:客演で二人くらいが一緒になることはあったけど、4人そろって舞台に立ったのは初めて。還暦で何かをやろうと思ってはいたけれど、あれをやってやっぱりこの4人でやりたいなと。
柴山:4人の息が非常に合っているんですよね。観客として見ていて一つのリズムになっているのがわかるので、長くやっていらっしゃるのが分かる。
立石:それと声の相性がいいとはよく言われます。4人落語をやってる時も重なる声が良いと。あの時(前述のリーディング公演)も稽古2回ぐらいしかしてないのに(笑)、なんとなくわかるんですよね、「こういう風にしようか」とこがきょが言うと「ああ、あれね」と。
私の還暦にかこつけてやりますけど、でもどっちかというとこの4人でちゃんと芝居がやってみたいと思っていたので、9月にやります!
柴山:還暦お祝い公演ですか! 大阪時代の「第二劇場」から42年、長い芸歴ですもんね(下にここ10年程の舞台写真を掲載)。観客としてもお祝いしなきゃいけませんね。9月の還暦プロデュース公演、楽しみにしています!



