インタビュ―:高橋徹郎さん(劇団幻想舞台)

*福岡の小劇場系劇団で「幻想舞台」は少し特別である。幻想舞台に憧れて芝居を始めた人、その面白さに驚いたという人、そのおかげで芝居を見始めた人…わずか数年の活動だったにもかかわらず、いまだにその名を時々耳にする。「劇団幻想舞台」を旗揚げして活躍していた高橋さんは、同時に、福岡ローカル人気番組だった『ドォーモ』に出ていて「スター高橋」としても有名だった。つまり、「幻想舞台と高橋徹郎」は、福岡の演劇シーンを振り返るときに外せない存在なのだ。そんなわけで、伝説の劇団幻想舞台についてどうしてもお話を伺いたかった。現在の高橋さんは糸島市議会議員そして彫刻家としてお忙しいが、快くお引き受けくださって当時について丁寧に話してくださった。ありがとうございます!

高橋徹郎さん

柴山:幻想舞台についてお聞かせください。

高橋: 23歳ぐらいの時に劇団を立ち上げて、『不美人草に愛はなし』を…どっかでやって、そのビデオを撮ってイムズ芝居に応募して受かって、24歳と25歳とでイムズ芝居に出ました。

柴山:大学4年生の時に旗揚げですか。

高橋:大学の演劇部だったので、3年生で引退して自分たちで劇団を作るというのが流れだったんですよ。それで作ったのが幻想舞台で、1回公演をしてイムズ芝居に応募して2年連続でやらないといけないから就職ができなくなったなぁと思って。1回目のイムズ芝居が『尾瀬沼谷の源十郎の話』。2年目が『不美人草に愛はなし』。

柴山:芸工大(九州芸術工科大学、現・九州大学芸術工学部)演劇部は「部を引退したら劇団を作る」というパターンがあったんですね。

高橋:そうです。僕の1つ上の代に八谷和彦さんって方がいて(メディアアーティスト。現東京芸大准教授)、八谷さんの代では劇団を作らなかったけど、もう1個上に篠原保さんという先輩がいて(怪獣デザイナー)その方も劇団を作ったんですよね。劇団名は「忍者部隊」、やったお芝居は『5年3組魔法組』。ただ4年生になったら就職して卒業していくので自然になくなっていくんですよ。そんな流れがずっとあって。

1988年 劇団忍者部隊『5年3組魔法組』@夢工房
中央の白地にラインについているシャツの子が高橋さん

演劇部の部長が作・演出をだいたいやっていくんですけれども、卒部するとその人が劇団主宰を名乗ってメンバーはほぼ一緒です。演劇部としては卒部してるから名前を付けないと格好がつかないから劇団を立ち上げてました。

柴山:幻想舞台の名前の由来は。

高橋:村上龍の『愛と幻想のファシズム』っていうすごい分厚い長編小説があって、「幻想っていう言葉はいい言葉だな」と思って。

柴山:1年限定の予定だったんですね。

高橋:そうです。たまたま僕がイムズ芝居に受かっちゃって2年やることになったんで、就職ができなくなってそのまま劇団が残っちゃった。あの当時はフリーターで生活していくのも生き方の一つとしてあったんですよ。まだバブルの残り香みたいなものがあってそんな生活も楽しいよねって言う人が周りにいっぱいいたので不安とか何もなかったですね。

柴山:卒業後の幻想舞台では同期の方は在籍し続けたのですか?

高橋:同期で仲の良かった山室君がいて、5回生になる時にその山室君も留年したんですよ。だから一緒にやったんです。イムズは2年連続だから僕はそのままお芝居をやっていこうとして、そいつは就職して東京行っちゃったんですね。そうやって卒業していくと周りから人がいなくなっていくので他からメンバーを集めて、後々の幻想舞台になっていくんです。

柴山:幻想舞台としてはいつまでやられたんでしょうか。

高橋:29歳ぐらい。27歳ぐらいの時に幻想舞台の公演の中でコントっぽい物をやったんですよ。『眠る異邦人』って作品で。確か城南市民センターでやったんですよ。女の子たちにレオタード着てもらって「うわー」ってやってもらって、そこにイムズマンが出てくる、そして悪と戦う、それが夢だった、みたいな。そこの部分だけ受けが良かったんですよね。だからここだけを取り出してギンギラ太陽’sを始めたんです。そしたらそっちの方が面白くなったんで、幻想舞台という劇団自体がいったん止まったんですよね。その後にもう一回ぐらいやったかな…『洞窟に爆弾』が最後だったかな。その後はギンギラ太陽’s。

柴山:幻想舞台は終わらせるつもりがあったわけではないけれども、なくなっていったんですね。その後、高橋さんは抜けられたんですね。

高橋:ぶっちゃけて話すと、大塚ムネトという今のギンギラ太陽’sの主宰ね、とケンカしたんですよ。方向性が合わない…芝居に対する向き方が…折り合いがつかなくて。それでやめたんです。「知るか!」って言って俺が出ていったんで、それで大塚がギンギラを引き継いでくれたという形です。

柴山:大塚さんは幻想舞台の最初からのメンバーではないですよね。

高橋:幻想舞台にいた富永成子という女優の知り合いだったんですよ。富永が「お芝居が上手だよ」って言うのでじゃぁうちでやらないかなって誘ってやり始めたんです。イムズの被り物を作るのも造形も器用で。お芝居もすごくうまかったんで、最初は仲良くやっていたんですけどケンカ別れしてしまって。4本ぐらい一緒にやりました。

柴山:幻想舞台とギンギラ太陽’s、作品の内容的にもちょっと違うタイプでは。

高橋:幻想舞台でずっとやっていた時に、イムズ芝居でやるとお客さんがガンと増える、でも通常の劇場(こや)でやるとまた減る。またイムズ芝居でやるとガンと増えて、また落ちて。2年のイムズ芝居の後は…全く増えないわけじゃないけど、思ってるほど爆発していかない状態が続いて、壁にぶち当たってるなぁという時にギンギラをやったらすごくよくなったんで、新しい客層を得たと感じられたんです。それでそこだけをフューチャーしたら面白くなるんじゃないかというので始めたんですよ。だから幻想舞台の普通のお芝居の壁みたいなものを感じていた時期だったんですよね。ギンギラが上手く行きだして、もっとこうしよう、ああしたい、という気持ちと、お芝居に対する二人の考え、時間の使い方が合わなくてぶつかって、やめたとなった時に僕はもうテレビの仕事とかもやっていたので、そっちの表現の方が面白くなっちゃって。それで僕がそっちに行っちゃった。

サイケデリックマン

柴山:そうだったんですね。経済的なことをお伺いします。劇団を続けていく費用は…?

高橋:部費をちょっともらってました。月5000円とか。

柴山:到底足りません…よね。

高橋:それはたぶん家賃補助でした。僕が2DKの部屋に住んでいて1つを劇団の事務所という意味合いにしていたので、劇団の備品を買って。それで劇団を維持してました。

柴山:では稽古や公演の時にかかる費用は、チケット代などで何とかなった?

高橋:なんとかしてましたね。だから(照明なども)格安でお願いして…荒巻さん(荒巻久登さん、シーニック)には払ってなかったんじゃないかなぁ…。

柴山:幻想舞台の公演は、大学、イムズ、以外にどこでやられたんですか。

高橋:夢工房。中央市民センター。アミカス。

柴山:夢工房はとても小さいですし…市民センターも…観客数としても400~500ぐらい?

高橋:そうですね、500人前後ぐらいでしたね。500~600.そこから増えない…お客さんも顔見知りが多くなっていた。ギンギラをやったら違うお客さんが来て、だからこっちでやったら広がるかなと思っていました。

柴山:1993年頃ですか。ということは「チケットぴあ」もありましたよね。

高橋:はい。手売りが100(僕のノルマが100、その他劇団員の手売りで全体の7割ぐらい)、残りはチケットぴあに預けて売って、あとは当日券。

柴山:幻想舞台のメンバーはその都度変わっていたんですか。

高橋:いや、基本メンバーは決まってましたよ。ぼく、富永成子(声かけ)、瀬戸優子(声かけ)、立石義江(オーディション)、松清貴樹(声かけ)、それから藤尾(演劇部の後輩)。途中から大塚ムネトが入って、前半はうたちゃんがいたんだよなぁ。杉山英美(声かけ)ちゃんが途中から入ったんだよな。立石、瀬戸、松清、杉山ぐらいかな、初期のギンギラメンバーは。大学メンバーは藤尾が一緒で、英美ちゃんは…芸工大の演劇部ってほぼほぼ男なんで公演をやる時に女優さんがいないんですよ。それをミッションの演劇部から借りるんですよ。その時の女性です。客演でうまいなぁと思ってて、自分が劇団を立ち上げてしばらくしてから声をかけて引っ張ってきたという感じです。瀬戸優子は九大の子で、九大も演劇部じゃなかったような気がするけど…声をかけて。富永はどっかのお芝居を見て上手だなと思って声をかけたんです。松清は福大の演劇部だった。当時、照明をずっとやってくれていたのが…福大の演劇部の荒巻さん。その後、照明のプロになりましたね。荒巻さんはほぼほぼ劇団のブレーン。

柴山:結局幻想舞台としてやられた5年に何本されたんでしょうか。

高橋:10本ぐらいですかね。最初は『不美人草に愛はなし』次が『尾瀬沼谷の源十郎の話』、『原始人の初恋』、『鉄皇』『不美人草に愛はなし』『鉄皇2』、『眠る異邦人』『洞窟に爆弾』。『ランナー』ってお芝居もやったんですけどこれはキャビンホールでやったな。これが最初かな。

柴山:東京公演もされたんですね。それはなぜ…?

高橋:なんか、福岡でやってても頭打ちになって。当時『演劇ぶっく』って雑誌があって、地方のやつあんまり載らないから自分たちも東京でやろうよと言ってやりました。

柴山:観客の反応はどうだったんですか。

高橋:7割ぐらいの客席の埋まり方、たぶん50~60人ぐらい。そこそこ反応もあったんだけど、ここから俺らがドカーンとやるにはどれだけのことをやらなきゃいかんのかなと思った記憶があります。毎回東京に来てやれる体力があるのか、50,60人の客がここから300人になって500人になって1000人になっていくのか、と思った時に大きな壁があるなぁと思った感触を覚えていますね。で、2回目行く気がなかなか起きなかった。

柴山:福岡の他の劇団とは交流はあったんですか?

高橋:はい、イムズ芝居に出て。最初イムズ芝居って僕らが出た時、3団体しか応募がなかったらしいんです。イムズでやると受けがいいんですよ、場の雰囲気なのか期待感がみんなあって。すごいよく受けたんですよ。それで幻想舞台というのを周りが認識してくれたんです。その後に僕よりも若い劇団の人たちが何となく幻想舞台を上に見てくれるようになったんで、話しやすかったのが、風三等星や座K2T3とかかな。ぼくより1つ~3つぐらい下の年齢層的の劇団で仲よくしてましたね。

柴山:ギンギラ太陽’sに高橋さんがいたのは何年ぐらいですか。

岩田屋仮面

高橋:2、3年です。天神西通りのNHK跡地、あそこに屋台村みたいなのがあったでしょう、あそこで僕らギンギラやってたんですよ。月1ぐらいで。当然ギャラも無くてやらせてもらって、終わったらお客さんを回ってカンパをしてもらって…そうして福岡のイベント会社(アップ・トゥ)さんが絡むようになって、ドームの中のスポーツバーで月一ギンギラの公演をやるようになったんです。そこもギャラはなくて飲み食い無料(ただ)、でもそうやってたら企業がパーティとかに呼んでくれるようになって。松清がジークスの被り物をしてCMに出るとか、松清がドームを被って始球式に出るとかもしてましたね。どっちかというとそれは潜り込ませてもらったという感じだったかな。

その時、「やっぱりちゃんとしたお芝居もやりたい」って大塚が言ったんじゃないかなぁ。それで『洞窟に爆弾』をやったんです。これが結局、幻想舞台の最後になっちゃうんだけど、ギンギラも幻想舞台も大塚が一番いい演技をしていたのは間違いないです。僕、演出やって作家やって自分も出るんだけど、僕は僕で自分の限界を感じてたんです。大塚ほど受けないし。そんな中で僕自身もがいていて、ギンギラはそれでも受けるからこうやりたい…でもテレビでは生活できている…大塚が芝居をやりたいと言っていてそれに応えたいというのもあって…いろいろやっているうちに僕がパンクしてしまった。

柴山:高橋さんがタレント活動をされたのはいくつだったんですか。

高橋:25歳ぐらいで『ドォーモ』に出ました。途中で事務所と『ドォーモ』の関係が良くなくて2年間ぐらい出てないんです。27からまた出始めたんです。

 27歳の時にギンギラも幻想舞台もやめちゃって、31ぐらいの時にまた一回ちょっと劇団を作ったんですよ。「天神(キング)」という劇団で、3,4年やって…それもなくなっちゃいましたね。

柴山:チラシを覚えています。イメージとしてギンギラ的な物かな…?と。

高橋:そう、ギンギラ的なヤツも1回やって、そうじゃない普通のお芝居も何回かやって。役者さんはうまかったんだけど、ここでも壁にぶち当たって。そうこうしている内に劇団員が遠方に行ってしまって自然消滅。

柴山:では、お芝居をやめようとは思ってなかったんですね。

高橋:なんか表現活動はしたかったんだと思います。最初は大学の演劇部から始まって、幻想舞台やって、ギンギラやって、テレビとかラジオの表現もこれはこれで面白いなと思って、それでもう一回お芝居をやりたくなって。でもそれも自然消滅したんでテレビラジオでやって…という感じですね。

柴山:ご自身としては役者と作家、演出家、どれか一つ肩書をと言われた時には…

高橋:作家が一番好きなんだろうと思います。ちなみにですね、これ(『洞窟に爆弾』)、僕出てないです。作家と演出だけです。

柴山:タレント活動の時には書いていなかったんですか?

高橋:ドラマを書いてました。FBSが24時間テレビの前に1時間の枠があるんですよ、そこでずっとドラマを作ってたんですよ。それから後、『世にも奇妙な物語』などを書いてたんです。そこは楽しくやってたんです。

柴山:それは「書かないか」と声がかかったんですか。

高橋:そうです。幻想舞台をやっていたのは『ドォーモ』の人たちも知っていて、ディレクターが自主映画の監督だったんです。それでKBCでもドラマを作るから「高橋書いてみろ」と言われて書きました。34,5歳ぐらいの時に。『爆走姉妹160㎞突っ走る』を。その脚本をFBSのドラマ作ってるディレクターが見て声をかけてくれて作るようになったんですよ。7、8年ぐらい。その後、ドラマを作らなくなったので自然になくなってしまって。

で、FBSでドラマを作った時の出演者が東京乾電池のベンガルさんで、その時のマネージャーさんが僕が芝居をやっていることを知って、それで僕、東京乾電池にも入ってるんですよ。事務所所属になったんです。お芝居の脚本も1,2本書いたんですけど、ただオーディションがあっても仕事の関係で(東京に)行けなくて、そんなことが続いて、いまは名前だけです。所属した時にマネージャーさんに連れられて共同テレビジョンとかあいさつ回りをしたんです。その時に企画書を持っていくと『世にも奇妙な物語』を1,2本作れと。ただ、なかなかそこからは続かなかったですね。

柴山:テレビドラマと劇団に書くのと、何か違いがありますか。

高橋:劇団に書くのは自分がOKを出したらOKなんですよ。テレビドラマの場合はハードルがいくつもあって、演出、プロデューサーとかそれぞれのOKがいって、それで何回も何回も書き直しをしないといけないというのが大きな違いですね。どこが完成になるのか分からない。

柴山:不満のまま、それが形として世に出るということもあるわけですか。

高橋:ありますね。

柴山:テレビドラマは現在お書きになっていない?

高橋:いっさいないです。それで40中頃にテレビもやめちゃって選挙に出て議員になって、4年議員になった後、市長選に出て落ちて何もなかったんで小説を1冊書きました。ショートショートの。それを本で出版して。半分自費出版みたいなものなので、売れるわけもなく。なかなか難しいなと思っていたところ、『ドォーモ』のディレクターだった人が映画監督になっていて「映画を作るから手伝って」と言われて映画の脚本を書きました。『なんくるないさぁ』という映画です。沖縄の伝説的女優さん(仲田幸子さん)がいらっしゃってその人を主演にした映画です。こちらでいうバッテン荒川さんみたいな方で、沖縄で知らない人はいない。映画の脚本も2本ぐらいその監督さん一緒にやったんですけどこの間の選挙でまた市議に通りましたので映画もまた中断。今は何もなくなったんで、彫刻をやってます。

柴山:もう書きたいとは思わないんですか。

高橋:さっき小説を書いたって言いましたけど、その後に長編を書いて賞とかに応募したんだけど引っ掛からなかったんです。なかなか今の自分の感性で書いても難しいんだなという事が分かったんで、それで書くよりも彫る方が楽しくなっちゃった。自己表現の場が変わりました。

柴山:賞をもらえなくても書き続ける、お金にならなくても芝居に出続けるという人もいますが…

高橋:小説は、書いて賞をもらわないと誰も読む人がいないんですよ。ショートショートではコミュニティーFMという福岡市内の小さなFM局があるんですけどそこでショートショート朗読劇を4年間ぐらいやってました。そこで書いたものをFacebookとかに載せて4年やってたら広がるかなと思ったけど広がらなかったんで、それと200数十話書いたらもうネタがなくなってしまったんで。

柴山:それを本にされたんですか。

高橋:それは別のやつ。それで彫刻をやってコンテストに出すと賞とかもらって見てくれる人もいるので、いまはこれでいいかぁって。

柴山:幻想舞台の時は、こういうものが書きたい・作りたい、というものがあったんですか。

高橋:自分が面白いと思うものはきっと面白いと思って書いてましたね。エンタメが好きなので、見て単純に楽しいというものを書いているつもりでした。ですけど、あんまりお客さん(の数)がのびなかったから何が原因なのかなぁ、福岡が原因なのかなぁ、俺が作ってるのが面白くないのかなぁと。劇に出た自分に対しては、うまいつもりでやってるけどやっぱり大塚君の方がうまいなぁとかそんなことをずっと悩みながらやってましたね。

っていううちに、なんかね、演劇ブームもこんなに(低空)になっていったんだよね。それこそ90年代中頃かなぁ。

柴山:イムズ芝居にお出になってるのは90年と91年。そして幻想舞台が終わったのが96年。その後に、演劇が下火になっていったとお感じになったということですか。

高橋:東京の方で言うと、僕らが学生の時に夢の遊民社や第三舞台がグワーッて。大学を卒業してしばらくやってる時は遊◎機械/全自動シアターとか山の手事情社とか劇団☆新感線とか、もうなんかすっごい勢いで、そっから何年かしたらそれ以外は名前をだんだん聞かないようになっていって、気がついたら遊民社も第三舞台もなくなって(注:夢の遊民社は1992年解散、第三舞台は2001年活動封印、遊◎機械/全自動シアターは2000年解散)。そして『演劇ぶっく』もなくなったんですよ(注:1986年刊行~2016年)。それでも地元の劇団というのは元気よくやっていたんですよ。

柴山:では2000年代に入る頃には元気がなくなっている感じが支配していたんでしょうか。

高橋:僕らが学生の時に、アンテナを張ってた才能のある人たちってグワーッて演劇に流れた感じがして、それが5年10年ぐらいしてゲームに行ったと僕は受け止めていたんですよ。それで、遊民社とか第三舞台に次ぐ劇団というのがなかったんじゃないかと撲思ってるんですよ。それこそつか(こうへい)さんがもう一度お芝居を始めたのが最後みたいな感じで。今も新しい劇団がどーんと社会現象になるいうのは聞かなくなっている気がして。僕がアンテナを張ってないからかもしれないですけど。

柴山:才能のある人がお芝居に行かなくなった…なるほど。

高橋:あの頃はすごいうねりがあって、お芝居、お芝居、僕の感覚ではそんな風に受け止めてた。当時、僕が幻想舞台でうわーってやってる時は『演劇ぶっく』がすごいきらびやかで、遊民社や第三舞台そんなのがぶわぁってあってすんごいワクワクして見てたんですよね。

柴山:確かにその後はコンテンポラリーダンスが市民権を得て広がって来たり、チェルフィッチュが出て来たり(2001年)、それまでとは少し流れが変わったのは事実ですね。

 高橋さんとしてはもうお芝居に関心はないんですか。

高橋:全くないかというとそうではなくて…友達何人かでカフェで二人芝居をやったら楽しいんだろうなと妄想することはありますよ。でも実際にやろうとするところまではいかないです。現実的なことを考えると。でも客演の話とか、この年になってくるんですよ。5年前にはショーマンシップのお芝居に出ました。それともう一個ね、コロナの時に頼まれたんですけどコロナでできなくなって。で、この前も頼まれたんですけど、もう僕は議員をやってるので練習にちゃんとした約束で行けないんですよ、あと本番も臨時議会が入ったら行けないから断りました。今やったら力が抜けて楽しい演技ができるのかもしれないなと思う時はあります。

柴山:そうなんですね。もう一度、舞台で高橋さんのお名前を拝見できる日が来るといいなと思います…。今日はありがとうございました。

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