日下部信さん(劇作家・演出家/劇団轍WaDaChi、九州大谷短期大学演劇表現フィールド)
*劇団轍WaDaChiの『ひびきの石』を見た時に、地元の若い劇団でもこういった骨太の作品を作るんだと驚いた記憶がある。ちょっと上の世代の芝居はともかく、自分と同じ年代の劇団が地元の歴史に真正面から取り組むの芝居は珍しかったからだ。そして見応えがあった。その頃知りあった作・演の日下部さんも、作品とたがわず真面目で誠実な人という印象。今回久々にお会いしたけれど、その印象は全然変わらない…! 「役者たちが育った、自慢の役者たちだった」とおっしゃったのを聞いて、確かに轍の役者さんたち一人一人の名前と顔を私も思い出せるもんなぁとうなずく(私には稀有なことだ)。今は劇団活動こそしてはいないけれど、学生のための創作、日韓の架け橋となる活動、さらには地域に貢献する新しいことも始めている。「演劇」は(いささか古典だと言われてしまったけどあえてこの言葉を使う)作って舞台上で見せるという行為を越えて、関係を生みだし人や社会を変えるものなのだと、お話を通じて感じている。

インタビュー
日下部:もともと高校演劇出身なんです。在籍は高校2年生の1年間だけなんですけど高校演劇を。鳥栖にいたんですね。大学は91年に西南学院大学文学部に入って最初の頃は福岡市内まで通っていて、演劇からは足を洗ってやりたいことを見つけようと思って大学に行きはじめたんですけど、簡単に言うと…やっぱり演劇をしたくなった感じですね。
柴山:鳥栖にいらっしゃるときに「劇団怒幻鳥栖ッ都」に入っていらっしゃったと聞いています。
日下部:そう、出会いました! 高校終わりごろに「ちょっと裏方で手伝ってくれよ」と言われ出入りしてました。その後、大学に入って正式に1年間ほど劇団員でした。公演も2本ぐらいは出ていて、ところが「パワフルサラダ」が客演できる役者を探していて、当時は大名にあった青年センターで…役者が足りないので誰かいないかと話が回りまわって劇団にも来て、ちょうど僕の中では、より人が多いところでやりたいというのがあったんだと思います。「一回見学に行く」というので行ったら、もうすごい体育会系の身体訓練をしていた。1時間も2時間も身体訓練と発声訓練。それでもう感化されて、ここでやりたいと。でも最初は客演だったんですね、思い出しました。
柴山:確認しますが、大学に入られてやっぱり演劇やりたいと思われた時には演劇部ではなく「怒幻鳥栖ッ都」を選んだということなんですね?
日下部:そうですね、大学の演劇サークルはあったんですけど、僕が入学してすぐに入ったESS(英語を楽しむサークル)を3カ月もたず辞めたのもあって、大学のサークルはもう入りにくくて社会人劇団を選んで入団しました。
柴山:そしてそこには1年ぐらいいらっしゃったけどやめて「パワフルサラダ」に入られたということなんですね。主宰は大石さんですよね、どのくらい所属されたんですか。
日下部:それでも長くはなかったです。94年、大学3年の4月には劇団轍WaDaChi(以後、「劇団轍」)を作ったので。1年半ぐらいですね。
柴山:とても元気なお芝居だったと聞いています。
日下部:ほんとそうなんです、パワフルな芝居ですね。旗揚げからボクサーの話…ボクシングで勝利を目指す青年のもとに、天国から坂本龍馬と西郷隆盛が現れるファンタジー色もありながら、とんでもなく体力勝負の芝居。ダンスも入ってアクションも入って。その後の本公演でも、タイムリーな話題を取り込んで、日本のPKO派遣で海外に出向く若い隊員のパワフルな芝居だったり。結果、本公演は3回出演させてもらったと記憶してます。


柴山:どちらでやっていたんですか。
日下部:千代にあるパピオビールームの大練習室で。けっこう広く舞台も取れて、かっこいい照明とロック音楽で熱い芝居やってましたね~。
柴山:劇団轍を作ったの理由は?
日下部:今考えると若気の至りなんですけど、芝居で食いたかったんですよね。芝居を本気でやっていきたいという時に、パワフルサラダはお客さんもたくさん呼べるけど、でも社会人劇団なんだなと分かってきて。で当時、高校や大学で知り合った仲間と芝居観に行ったりしながら先のこと考え出してましたね。80年代後半の東京中心の小劇場ブームが遅れて福岡にも入って来ていた感じで、はっきり言うと、つかこうへいさんの芝居と、鴻上尚史さんの「第三舞台」のような集団を自分たちで作って旗揚げしようぜと熱を帯びてました。世代的にものすごくはまったんですよね。とても影響を受けて、いっちょやるかと旗揚げした。でも振り返っても、強烈に何かに影響を受けてそれで自分の人生の進む道を決めるって、ほんと良かったな~と思えるんですね。
柴山:仲間はどんな方々で。
日下部:一人は権藤智海といって舞台監督やってて、芸工大(現:九州大学芸術工学部)を出て、劇団活動もしながら、のちに北九州芸術劇場でもスタッフで働いた一つ下の後輩です。彼とは高校の演劇部が一緒でした。それと西南大の演劇部にいた林力。演劇部はやめずにそのまま劇団でもやってくれました。制作スタッフでは同じく西南大にいた倉重千登勢、最初はこの4人でスタートしたんじゃないかと。もし誰かメンバー抜けてたらごめんなさい! でも劇団は、2年も経たないうちに劇団員が20人ぐらいになって…。旗揚げは94年秋、準備は93年からやっていました。
柴山:劇団轍は日下部さんの作・演ですよね? パワフルサラダの時は書かれていませんよね、つまりいきなり書くことになった?
日下部:…高校時代も名前は出なくても書いていたり、パワフルサラダにいた時も上演には至らなかったけど自分で書いて劇団に持って行って見せたりはしていたので…いきなりという感じではなかったです。
柴山:では書きたいと思われていた?
日下部:そうなんです。僕は…(しばらく考えて)どうして役者が続かなかったかというと…まぁ役者もしながら演出もしてましたけど、それは単に強烈な影響を受けたからで…本当は書いて芝居を作りたい気持ちが大きかったかなと。書こうと思っていたので劇団結成も勢いで突き進んでいけました。
柴山:その頃の他の劇団は…
日下部:おそらく「風三等星」や「座“K2T3」は、轍より3年ぐらい早く旗揚げして、「GIGA」が同じくらいに旗揚げでした、確か。仲谷一志さんが座長の「ショーマンシップ」も活動を始められた頃だと思います。轍が94年10月旗揚げで、見回したら福岡市内は劇団がすでに多くありましたね。ちょうど、ぎりぎりキャビンホール世代。赤坂のJT福岡ビル1階に小ホールがあって、そこで旗揚げでした。作品のタイトルは『コラージュ』でした。だいたい5回目までは半年に1度わーってやって、3年ぐらいしか経ってないんだけど、それでもなかなか劇団がまとまらなくなり、プロデュース公演に切り替えて。
柴山:プロデュース公演というのは?
日下部:基本、劇団員をメインに使って公演するのが劇団公演で、劇団員がやめたり東京行ったりして安定しないので劇団員2,3人は出てましたけど、いろんな劇団から役者さんに来てもらって一緒にやるという公演ですね…この頃、コントも作りながら演劇もしていた山下晶さんや岡本ヒロミツくんと出会っているので、僕が劇団員プラス、芝居を一緒にやりたい人に声をかけたんです。
柴山:ああ、では97,98年頃のプロデュース公演というのは山下さんたちもお出になっているんですか。
日下部:あれ、どうだったかな、岡本くんが閉館間近の映画館を舞台にした『ラスト・シネマ』(1997)に出てくれて、古賀今日子さんがイプセンの『人形の家』をモチーフに作った『透明な時間~新・人形の家~』(1998)に出てくれています。山下晶さんは、僕が演出を担当した県民創作劇場(福岡県主催)の舞台『レ・ボンヌ』(ジャン・ジュネ作、1999)に出ていただいて、翌年の劇団公演『ひびきの石』(1999)にも客演で出てもらってましたね。ほかにも出てくれた役者さんは多くいますけど、ごめんなさい、紹介しきれず割愛で。
柴山:この役者さんに出てほしいと思って声をかけるということですか。
日下部:そうですね。脚本のイメージに合う役者さんいるかなぁと考えたり、あるいは脚本を書ける場合は登場人物を役者さんにあてて書くこともありました。
柴山:私は轍の初期のころは拝見していないんですけど、歴史ものではないんですよね? 途中から『ひびきの石』『福博桜館』(2000)と来たので、福岡の歴史を主に扱っていくのかなぁと思っていたんです。まず劇団を立ち上げた時に、どういう作品を作りたかったのか、劇団のカラーはどういったものにしたかったんですか。
日下部:…どこまでが「遅れてきた小劇場ブーム」の影響と言っていいか分からないんですけど、演劇を通じて自分が生きている実感を表現しながら進んでいきたいというのがあったはずで、それはいわゆる「自分探し」…。当時はその言葉でくくっていたわけではないですけど、「自分探し」の域は越えてなくて…どうやって生きていけばいいんだみたいな甘酸っぱい青春のテーマがずっとあったように思います。轍の第3回公演『平成贋札物語』(1995)というのは実は福岡藩の偽札事件を取り扱っているので、ちょっと地元色が出てるんですが基本的には第5回公演『Take Side』(1996)までは自分探しですね。
書きながらいよいよネタも尽き、また東京にも行かないし、福岡市を拠点にしてるって一体何なんだろうなって過渡期を迎え、それが98年ごろ。じゃぁもう泥臭くても自分が本当に書きたいものを徹底して探そうという動きになりました。見渡したら北の方には筑豊の炭鉱があり、南には大牟田・荒尾の三池炭鉱があり。でも筑豊はボタ山だなぁと思って、三池はボタ山ないな、と疑問に。全然違った性格の炭鉱で、近くに海があるないも関係していた。これ面白いなと思って半年かけて調べるところからやって、僕自身、まだまだ物語に飢えていたというか、筑豊は個々の炭鉱でいろいろあり、三池炭鉱は大きな争議や事故もあったんで、これはすごいなと思って。なりふり構わず三池炭鉱を舞台にしてみようと思いました。また当時、不思議なご縁で井上ひさしさんの戯曲にも出会っているし、マキノノゾミさんの劇団(劇団M.O.P.)に客演で出られることが出来て。マキノさんからもアドバイスをたくさんもらいました。そして第6回公演として『ひびきの石』をふくふくホール(福岡市市民福祉プラザ内)で上演したら、劇団の流れが変わったというか、一気に…例えば西日本新聞の経済部の記者さんが取材に来たり、大牟田でもやってくれと言われたり。ここらあたりで「自分探しからの脱却」みたいなのができたのかなぁ、28歳でしたね。

柴山:なるほど。確かに劇団のカラーを見つけていく上でも、自分の範疇内のものよりそれを越えているものを扱う後者の方が、観客も認識しやすいですよね。
日下部:おっしゃる通りです。まずそれがわかるまでに、劇団がもたないことが多いんじゃないですかね。
柴山:プロを目指そうと思われていたわけですが、『ひびきの石』を作るまでは経済的には?
日下部:何の迷いもなくアルバイトしていました。演劇活動に理解のあるアルバイト先だとありがたいですね。脚本を書き、劇団活動を優先させてくれる…。昔、天神コアの地下1階にあった喫茶店「白樺」には本当にお世話になりました。貧乏に鈍感だったんだと思いますけど、夢ばっかり追って、芝居の現場…稽古も含めてやり続けていたんで、そこは異常な感じもあったんだと思いますけど…だからこそ続けられたというのもある。今の僕から見たら「バカじゃないの」って思う面もあるけれど、それくらいのことがないと劇団って続けられないと思いますね。28歳ごろ、ウエイターのアルバイトをやめ、ライター仕事と演出家の仕事で生活できるようになったのは恵まれてました。
柴山:ご両親は何も言わず?
日下部:大学を卒業してくれたらいいと。あとは自立して、生活してくれたら何も言わないと言われたんで。その辺りのハードルは低くて、そこは助かりました。もちろん自分で生活していく覚悟はありましたけど、ほっといてくれたのはありがたかったです。
柴山:では28歳で手応えのようなものを感じる作品ができて、それが『ひびきの石』。社会的な評価も違ったと思います。確か梁木さんもこの作品を評価して…
日下部:その前から見てはもらっていたんですけど、『ひびき~』からずいぶんかまってくれたというか。
柴山:同じように芝居をやっていた若い演劇人たちの反応はどうだったんですか。
日下部:…そもそもそれほどすごく交流があったわけではないのでどうだったんでしょうね。…役者たちは劇団関係なく繋がっていたと思うんですよ。僕はもう、演劇やるのに必死で、作品の反応が良かろうが悪かろうが、そこらへんなりふりかまわずやっていたかもしれないです。…劇団轍ってちょっと古めかしい劇団名でもあるので、それこそ風三等星さんや座”K2T3さんの様にポップな話題にされるようなことはなかったと思います。
柴山:確かに『ひびきの石』以降は真面目な印象があったかもしれません。


日下部:ただ、ほんと劇団の役者陣は、自信をもって紹介できました。自慢の役者たちでした。本当に育ったんで、トータルで言えば九州で一番活躍できる役者陣が揃ったと思ってました。『ひびき~』から2000年に入るくらいまでに稽古場が魅力的に映りました。林力、次賀慎一朗、河原新一、山口浩二、北川宏美、長谷川美砂中心で、稽古場がすごく華やかでもあり、面白かったですね。あ、英ちゃん、前里英一忘れてました。
柴山:うわぁ、顔がどんどん出てきます。では『ひびきの石』によって劇団そのものの意識も変わり、社会的にも扱いが変わった、じゃぁこ福岡に根付いた歴史をやって行こうと思って『福博桜館』をやられて。



日下部:ギンギラ(太陽’S)ともコラボさせていただいたことがありました。大塚ムネトさんはとても上の先輩演劇人ですが、すごく気が合って。実は2002年に合同公演と銘打って、劇団ごと一緒に芝居づくりさせてもらいましたねー。(『福岡電話物語』『オムレット』)。そして同じ年に、在日コリアン2世3世の方々を取材して創った第8回公演『ツアカリ~君の族譜(チョッポ)~』で、劇団のカラーがはっきりしたんじゃないかなと思います。この時期、ひとつの作品に時間をたくさん使って作っていました。

柴山:それも拝見してます。『連鎖街のひとびと』(2001)も見てますね…。
日下部:井上ひさしさんの戯曲ですね。時間かけて豊かに稽古が出来たし、既成の戯曲をやることに挑戦して。既成の作品もいっぱいやった方がいいよと演劇の先輩たちから聞かされて来てたんで、そりゃもちろんそうだねって、「Text selection」ってシリーズ化して立ち上げました。『坂の上の家』(2004)までは実施出来ました…。
柴山:松田正隆さんの戯曲ですね。
日下部:そうです、松田さんとの出会いもあって。大野城まどかぴあ(文化ホール)が金曜土曜に芝居の公演をする「KIN-DO芝居」という企画をされていた頃に。
柴山:では福岡外のプロの演出家・脚本家と出会いや交流が増えたと。
日下部:そうですね、それがおそらく当時一番、僕は恵まれていたし、ありがたかったです。何か面白そうな人に会えると耳にすれば積極的に会いに行っていたので。例えば、先ほど出たマキノノゾミさんの『夏のランナー』(1998)で、小倉の話ではありましたが誰か九州弁を使える人をという話があって。役者の林くんのつてで、「行く行く!」って…2カ月ぐらいかな、京都でお稽古でしたけど、参加しました。その時のプロデューサーが、キャラメルボックスの加藤昌史さんで、以前キャラメルボックスが福岡で公演された時に舞台搬入と制作のアルバイトをしていたことでお会いしていたので、「おお、何でこんな所にいるの?」って。そういう刺激になるような出会い方をたくさんさせてもらったことが、演劇を続けられたひとつのエネルギーになっています。今振り返っても、面白そうな話には飛びつくし、積極的に出会うということをしないと、九州で、それがまだ人の多い福岡であっても、とどまってやるというのは難しいですね。そういうモチベーションは大きかったと思います。大野城まどかぴあで竹内銃一郎さんと出会ったのも…その時は演出助手をさせて頂きました。KIN-DO芝居プロデュース公演『月の岬』(2000)ですね。
柴山:それも見てますね。
日下部:ほんとずっとお稽古についていたんで、やっぱり一線級でやる演出家は違うなと思わされることがいっぱいありました。役者を活かす提案の仕方とか、役者が息を合わせるための工夫とか、音響や照明スタッフさんとのやりとりまで。こういう才能あふれた人と出会って、しかも少しお金をもらいながら関わらせていただいたことは、そのあとの財産になっています。
柴山:それは話が舞い込んできた…というのではなく、何かあったらどん欲に行く、という。
日下部:そうですね、それは声を大にして言いたいですね。それが無いとなかなか地方、地域でやるのは。
柴山:まどかぴあでの竹内さんの演出助手はどういう経緯で?
日下部:演出助手を探されていて。プロデュースの現場は演出家だけ東京から招聘しても回らないので地元スタッフをどこまで入れて、いい芝居づくりをしていくかが問われます。でも演出助手だと稽古場に一カ月も二カ月も一緒につかなきゃならないので意外と見つからないわけです。当時、時間を調整して「僕、入れますよ」みたいに言って。
柴山:ではそれも探しているのを聞きつけて…自分からいったということだったんですね。
日下部:ええ。あ、でもまず劇団で選ばれてまどかぴあで上演したことがあって。それも『ひびきの石』なんですけど、再演して。それで批評をもらうわけですよ。そういうフィードバックも嬉しいですよね。当時、竹内さんがどういう思いでおっしゃったか…「君は脚本はまだまだ甘いけど、演出はよく出来ている」「演出は役者から慕われる人格者じゃないとできない。細かいところまで目が行き届いているし、役者が信頼しているのが分かる」とすごく褒めてもらって、その後もまどかぴあKIN−DO芝居プロデュース『リトルセブンの冒険』(2004)の演出にもつながっていったんだと思います。5日間ほど上演しました、小ホールで!作者の中島かずきさんもいらっしゃって。そういう繋がりもあって。いわゆる…演劇では「師事する」って言葉はあまり使わないけど、出会いがあって多くを学ばせてもらいました。その後の糧に必ずなりますよね。だから動くことはとても大事だったと思います。。
柴山:東京に来ないの、大阪に来ないの、と言われたと思うんですけど、そこは福岡にこだわったんですか?
日下部:そのテの話は山ほど言われました。でも…結論としては、劇団でどうにかしたかったんです。
柴山:では「僕が」プロになりたいのではなく「劇団を」プロにしたかった?
日下部:…今になって思えば、ですね。2004年に大谷(短大)の専任になって、もう22年経ちますけど、ここから個人事業主ですから…。今にして思えばあの時なんで劇団に熱かったのかな…。集団で夢見たかったんでしょうね。
柴山:劇団員の皆さんもプロ志向だった?
日下部:ああ、そうですね。プロ志向じゃないと残れなかったですね。
柴山:轍はいつまで活動を続けたということになりますか?
日下部:消滅も解散も言ってませんが、最後にやったのは2006年、福岡演劇フェスティバルのプレ企画に出てるので。それが最後じゃないかな。『ガラスの、ぶらんこ』という作品です。これがね、ちょっと方向性を変えたんですね。スマホと子育てと…子どもの成長をテーマにして。短大の幼児教育の先生たちの教えにけっこう影響を受けて。小さいころからスマホ漬けにすることがいずれ悪影響を受けることに衝撃を受けて作ったんだけど、ちょっと難しいと言われて。
柴山:では2004年に大学に勤め始めて、この2006年が劇団の最後で。基本的に劇団の活動は日下部さんが「次はこれやろう」と言わなければ活動することがなかったと?
日下部:そうですね…。
柴山:轍の俳優さんたちも北九州とかあちらこちらで見た気がします。
日下部:正直に言いますと、鴻上さんの集団論の本とかを読んで、劇団の公演がない時にはどんどんよそでやって闘って来いよ、それをまた持ち帰って劇団で活かしてくれればという精神に感化されて。それを福岡の地でやっていたと思いますし、役者をあまり集団に縛らずある程度やれていたと思います。福岡だけじゃなく「東京に半年行ってくるわ」とかってのもありましたし。
柴山:失礼ながら日下部さんが劇団のために書かなくなったことが、劇団活動の中止になったと…。
日下部:そうですね。短大で教えるのは…演劇の生活が担保されるというか、好きにやっていいと言われたし、自分が倒れたら劇団が倒れるという自覚がすごくありましたので、短大に教えに行って(両立が)やれればいいなと思ってたんです。けど、僕は良かれと思って行ったんだけど、…劇団の役者には…代表の僕だけやりたいことやって劇団が停滞するのは…これは失敗したなと思いました、あとから。大学も行きながら(仕事しながら)劇団もハイペースでやれるなら一番良かったんですけど。結局は、大学で教えるというのは責任も生じますから、全部を回すことが出来なくなりましたね。
柴山:大学に限らず、例えば芸術劇場や地域のホールに雇ってもらえる、スタッフとして入れる。あるいは代表がテレビドラマに書くようになる…と劇団内に経済格差が生まれて…。それが軋轢を生むということもありますよね。
日下部:…実際にはもめるということはなかったですけど、不安に思ったでしょう、不安を生んでしまった。そこで自分たちで何か企画する動きにはならなかったですし、僕の劇団へのかかわりが減ったらそのまま劇団の活動が減って。そういう話は当時、福岡で頑張っていた若手の劇団の人たちにはよく話したんですけど、「福岡である程度やっているとどんどん仕事が来るようになる。でもやりすぎると劇団は停滞する」と。それがどこまで生かされてるか分からないけど。
いっぱいやらせてもらったし、28歳からとりあえず演劇で食べていけるようになったし。これは九州では恵まれた方だと思うんですよ。その代わり、表現に関わる仕事は選ばずしました。それと劇団を成長させていくこととは違いますしね。
柴山:脚本提供や演出、演出助手、後には大学教員、それ以外にはどんな仕事があったんですか?
日下部:演劇セミナーですね。演劇のワークショップ。2000年になって春日市のドラセミ(ドラマセミナー)が最初かな。そのあと専門学校の九州ビジュアルアーツ(現:福岡ビジュアルアーツ・アカデミー)に非常勤で入って。当時は学科主任だった大番隆史先生から呼んでもらって、週3日ぐらい行って、1年生も2年生も全部の公演担当して。今はたぶん3,4人で分担されていると思いますけどそれを数年、一人でやっていました。そうしたら大谷短大から声がかかって。1年間だけ非常勤講師をやって、2004年から常勤になりました。
柴山:…かなりハードなスケジュールで自分の劇団の公演をやる時間もなさそうですね。
日下部:2004年に劇団十周年記念で『ひびきの石』をやってるんです。あと、劇団道化さんと合同公演で『坂の上の家』(作・松田正隆)をやって、杷木子ども国際フェスティバルと北九州演劇祭に出ました。この年までは、短大の理解と劇団の理解があって何とか。でも翌年からできなくなったかな…。2005年から計画ができなくなった。その前にすでに回せなくなっていたんでしょうね。あ、でもワークショップの仕事などは役者もつれていってたんですよ、でもワークショップをやってると逆に不安に思う役者もいて、やっぱり舞台に懸けたいと思う者には課題解決にはなりません…。
柴山:ワークショップの講師とかで劇団メンバーにも多少はお金が入ると。でも役者さんによっては「先生をやりたいわけではない」と。
日下部:ええ。ちゃんと劇団経営を考えないといけないんですけど、経営者の意識じゃなかったので。
柴山:でもそのために大きな劇団だと制作部や運営が独立してあるわけじゃないですか。
日下部:そうなんです。制作が重要だということが重々わかっていたので劇団員の中で制作も育てていったんですね。ところが家の事情で離れなければならないなどあって、それで外部に委託…その最後が福岡の芸能事務所アクティブハカタで。劇団を支えていただきました。
柴山:なるほど、そういうことだったんですね。劇団内で制作担当者を作るという時はお金も払って?
日下部:はい、そうです。単純計算、800人から1000人ぐらいお客さんを入れることができれば制作を雇うぐらいのお金は出てくるので。もちろん役者はノーギャラですけど。
柴山:では2000年代初頭の劇団は、そのくらいの観客動員があって利益が出るくらいあった。
日下部:800や1000ぐらいというの集客は大きな数字ではないですが、制作人件費くらいは出ました。
柴山:制作に専念という仕事ですね。ただそれがうまくいかなかったわけですね…。制作を置こうと思ったのはいつ頃ですか?
日下部:育てた人がやめた時に、やっぱり制作が本当に必要だと感じました…2000年頃ですかね。
柴山:ようやく地方でも、うまく劇団を回していくためには制作の存在が必要という意識が芽生えた…って頃なんでしょうかね…?
日下部:そうだと思いますね。
柴山:自分の劇団で脚本が書けないことにストレスはなかったんですか? 自分は本当はこういうのが書きたいんだけど…とか。
日下部:…確かに劇団活動が途絶え、年に一本も脚本を書かなくなったことに対して、他の仕事が忙しいからという言い訳もありつつ、ストレスがかからなかったという意味では…その欲求はなかったんでしょうね。ちょいちょいラジオドラマの仕事が入ってたから。NHKのラジオドラマとかFM福岡でも脚本書かせていただきましたね。…それと久留米で音楽劇『悲劇の天才画家・青木繁』(2006)の脚本を書かせていただいた時期でした。
柴山:ラジオドラマなどを書いている時は日下部さんの肩書は「劇団轍」ってつけてたんですか?
日下部:いや、所属まで音声にのることはないので、名前だけだったと思います。
柴山:制作の話に戻りますけど、最終的にアクティブハカタに入れたのは…
日下部:入るとか入らないは曖昧で…お付き合いとしては98年くらいか、主宰の伊集院晃生さんから、児童劇団用の脚本を書いてくれと頼まれて。早くからオファーいただいたことは感謝しています。制作委託を正式にしたのはおそらく2003,4年でそれほどすぐではなかったんです。それまでに演出の仕事もして、夏休みを使って子どもたちのミュージカル、音楽劇を作ってほしいとか児童向けが多かったですね。1時間半くらいの台本を書いてくれないかとか。次第に脚本や演出の依頼があった時はさせていただいて、劇団としてはアクティブハカタに制作をお願いしてという形が出来上がりました。
柴山:日下部さんは演劇のプロとして生活されているわけです。でも劇団としてプロではない。最初に想定していた姿とは違う…?
日下部:人生思うようにいかない(笑)。
柴山:いえ、演劇に携わって食べていけるのは羨ましい話と思っている人はたくさんいると思います(笑)。
日下部:はい、だからもっと貢献していかないといけないと思います。
柴山:ハナロプロジェクトについて伺います。あれはどういう形で話が来たんですか?
日下部:もともとは、韓国釜山出身で東京在住の金世一(以下セイル)さんとの出会いが2013年なんですよ。その後、コロナの時には活動がストップして、そのあとは僕の事情もあって、実際は山下晶さんに運営をお願いして…。
柴山:『クリスマスに30万ウォンと出会える確率』がハナロプロジェクトの1回目でしたね。その時から関わっていらっしゃったんですか?
日下部:立ち上げメンバーです。日韓を繋げて演劇をやりたいんだという人がいると西日本新聞記者の内門さんに紹介されて。ちょうど2013年2月ごろに福岡に来る、協力者を探しているようなんで、と。その中で紹介されて会ったんです。僕も韓国の演劇が気にかかっていた時期で、同じタイミングで同じようなことを考えていたことから、意気投合したということでしょうね。
柴山:では二人で始めたんですね。
日下部:最初の最初はそうですね。すぐ2013年の6月に福岡の役者を集めてセイルさんにワークショップをしてもらって。すると「すごい役者がいっぱいいるじゃないか」って感激してもらって、そこに山下晶さんも酒瀬川真世さんもいて、椎木(樹人)君もいました。それで2014年からハナロプロジェクトを企画してやり始めたという。
柴山:これは助成金をもらって?
日下部:最初のころは日韓文化交流基金を3年続けてもらって。その助成金が渡航費に使えたんです。あと、毎年じゃなかったんですけど、福岡市文化芸術振興財団の助成金も取れて。日韓文化交流基金は韓国式で、お金を先に支払っていただけて。信用して出してくれる文化ですか。2014年から2016年まで毎年やることができました。
「劇団14+(フォーティーンプラス)」も日韓交流を同時期にされて、シンクロ現象でした。代表で演出家の中嶋さとさんが、韓国亀尾(グミ)市の「(社)文化創作集団Gongter_DA」と芝居を一緒にやるという動きがあって。総じて2013年14年って日韓の企画がぐわーって増えたんです。そういうこともあるんだなと。山田恵理香さんのGIGAはずいぶん前から日韓交流をやっていたと聞いて、そういう先駆的な活動がつながってきた面もあるかもしれません。
柴山:セイルさんと出会う前から、日韓を繋ぐぞ!という意識があったんですか。
日下部:ありました。日本では、2002年あたり韓国ドラマ『冬のソナタ』が流行ったじゃないですか。何でこんなにブームになったんだろうと思って全部見て、あんなに純粋で年齢が上の人でもときめくようなドラマを作れるスケールがすごいなと、そして役者さんもうまいなと思って。で注目し始めました。それと、僕の中には、福岡で演劇をやっているという意識は持ち続けていて。これ、東京よりも韓国に行く方が近いじゃないかと。地の利を生かして演劇活動をする方が面白いんじゃないかと。そういう意識でしたから、韓流ブームが来た時にちょっと違う意識も働いて「これ、韓国の演劇はどうなってるんだ」と思って「どうやら大学で演劇をちゃんと学んだ俳優さんばっかりいる」というのが分かってきて。そこから10年くらい経って、セイルさんと出会ったわけです。あのタイミングで出会うというのは、何かあるなと思いました。ハナロプロジェクトを3,4年だーっと続けていく内に、どんどん充実させていったんですね。1回目は福岡と釜山それぞれの作品を交換してやる。2回目と3回目は一つの作品を福岡チームと釜山チームがそれぞれどう演出するか(2回目『ドラマ』チェ・ドヨン/作を、3回目は『ひと部屋の教会』日下部信/作)。そして、4回目(『セレモニー』パク・フニョン/作)でいよいよ共同演出。場面が3つあって、1場面は福岡チームが作って、2番目は釜山チーム、3番目は一緒に。これは船の上の結婚式の話でしたけど。いよいよ5年目の2018年に完全合作(『ナ・チャレッチ』幸田真洋/作)。釜山に3週間、役者が行って。5年目で完全に一緒に作るということができました。
柴山:評価はいかがでしたか?
日下部:どうでしょうか。…日韓で交流しながら演劇を作るっていう…興味持ってもらえているお客さんにはよくやってくれたと言ってくれて、それで頑張って続けられましたけど。むしろ評価については僕らが聞きたいくらいですね。
柴山:作品の出来という意味での観客の反応ではなく、例えば福岡の経済界とか行政とか…反応は。
日下部:…これは思ったよりなかったですね。僕の比較対象は『ひびきの石』だったので、もっともっと反応があったので、出会いがあるかと思ったら…いや僕だけかもしれませんが。どうなんですかね、「アジアの玄関口」と言われてアジアとの交流が盛んなようだけど、そんなに熱く反応する土地柄じゃないような。
柴山:今まで普通に何も考えずにハナロプロジェクトの作品を見て来て…確か2000年代初頭かな、小松杏里さんが演出して『豚とオートバイ』のリーディング公演をして、その前後に韓国の大ヒットミュージカル『地下鉄1号線』が福岡に来て…という記憶があります。…それから北九州芸術劇場でも韓国版ロミオとジュリエットを韓国の「劇団木花」がやった…二人芝居だった気がするんだけど…その辺りからぽつぽつと韓国の作品が福岡でも増えてきたのではないかと思います。ただハナロプロジェクトの様に続いてはいなかったですよね。
日下部:その点では、これからテーマになると思うんですけど、僕らが韓国を相手にするときにソウルにするか釜山にするかすごく悩んだ。でもすでにソウルは東京との関係性でやってるし、日本列島と朝鮮半島をつなげて見たときに、ちょうど福岡とお隣の釜山が二国を結んでいる感じがしています。
柴山:では「日韓」というより「福岡・釜山」と限定してるんですね?
日下部:方針として、くらいです。「日韓」という大きなことを考えていたかというとそうでもなかったし。日韓交流センターの資料の中には、ハナロプロジェクトの公演データも全部入れてもらっているので、日韓の交流史の一部にはなっています。ただ地方対地方なので、これからどういう評価になっていくか、それはこれから…。
柴山:分かりました。最後の質問ですが、日下部さんご自身は演劇において新しくこういうことをやりたいということはあるんですか。
日下部:演劇という言葉とイメージがやや古くなってきている気がします。古典化してきていると言いますか。舞台芸術も、若い人の芸能活動も今や、多様な感じがして…。従来の劇団を維持して演劇活動をするという形は大事にしながらも、2.5次元ミュージカルやアイドルだけの舞台公演が定着してきたように、いろんなパフォーマンスの舞台が創られ、減少したと言われる観客がもう一度戻ってくるような状況になることがいいなと感じます。…そして自分自身は何をやるかというと、大谷短大ではもっと汎用性のある表現教育を展開できることを考えています。さらに言えば個性が豊か過ぎて、そのでこぼこの特徴ゆえにうまく社会に適応できないけれど、芸術の分野でその表現力を発揮できそうな若い人たちをプロデュースしていこうと思っています。抽象的な言い方ですみませんが、新しいことにアプローチしているので今後、成果が見えてきたらまたお伝えさせて下さい。今日は、たくさん聞いていただいてありがとうございました。
