福岡の演劇の歴史4 福岡現代劇場④

3.第二期:停滞そして猿渡個人の活躍、1978年頃から10年ほど

 『アンティゴネ』上演を最後に、現代劇場は10年ほど劇団としてはパッとしない時期をむかえる。その理由はいくつか考えられるが、その前に第一期のピークとも言える『アンティゴネ』について補足したい。前項では現代劇場の「演劇的/哲学的意味を問う」側面から本作を紹介したが、その観点とは別にして、劇団の本作にかける意気込みの大きさや興行的成功を記録に残しておきたいからだ。

 まず本作を上演することになったのは「管理社会における人間の自由・生を探るため」だとプログラムには書かれているが、実は福岡でドイツ文化月間が開催されるにあたり演劇部門として受け持つことになったという背景がある。上演にあたって、ブレヒトの演劇論と作品を理解するためにまず戯曲の翻訳から始めた。九州大学教養部の助教授だった井本道子(のち谷川道子、ドイツ演劇、ブレヒト、ハイナー・ミュラーの研究者)とその同僚のW.ミヒェルの協力を仰いだという。二人の翻訳原稿を基に劇団で読み合わせをし、意見を出し合って谷川と猿渡で整理して脚本を創りあげたそうだ*1。この脚本はのちに本として出版されている。また、振り付けはバレエダンサーの古森美智子に、劇中の音楽は作曲家の山本成宏に依頼している。舞台美術にも凝り、舞台の四隅に馬の頭の骨を置くために、馬の頭を見つけて家で骨になるまで煮たという逸話が残っている。時間はかかったが煮ている間はいい匂いがしていたと、猿渡が楽しそうに何度も語っていたそうだ。そして、1000人を超える観客を動員し、興行的にも大成功を収めている。

『アンティゴネ』(1977)プログラム 煮て作った馬の頭蓋骨の写真

 しかし劇団は(というより猿渡は)、この『アンティゴネ』上演において作品解釈が間違っていたこと、新たな発見(コロスを用いる意味)などに気がつき、「ようやく分かってきたところで、アンティゴネの公演は終った」*2と言うように満足とはいかなかったようだ。

『アンティゴネ』舞台写真

 その後、劇団としては難しい時期をむかえる。一つは解散の危機で、2度ほど厳しい状態があったようだ*3。二つ目は旗揚げからのメンバーで主要な役者として活躍してきた者が退団したこと。三つ目は、1966年から持ち続けていた40㎡ほどの劇団稽古場*4を手放さなくてはならなくなったこと。それらの詳細な説明やどうやって乗り越えたのかなど当時を知る人はいないが、「結集最悪」と吐露した年には一人芝居に取り組み*5、稽古場がなくなると猿渡が劇団のためにマンションの一室を借り始めて*6いたから、その都度、演劇を続けるためにやれる対処をしていたのだろう。

 その一方で、猿渡個人の劇団外の仕事が目立つようになる。1980年、当時の進藤一馬福岡市長の提言によって「青年文化会議」が発足し猿渡はそのメンバーに加わる。1981年2月に、市民から政策提案を市長が聞く会として「福岡の文化を考える」というシンポジウムが開かれた。そこで猿渡は芸術創造センターの建設を提言しており*7、それが10年後(1991年10月)のパピオビールーム(福岡市音楽演劇練習場)開館に繋がっていく。なお、この青年文化会議の活動は以後10年に亘った。

 また1980年、当時の福岡市の主要劇団全て(福岡現代劇場、劇団アトリエ座、劇団生活舞台、劇団青踏座、演劇サークル大地、テアトル・ハカタ)が参加した合同公演『海の五十二万石』の旗振りをしたのも猿渡であった。それというのも、参加したのは「福岡市劇団協議会」の参加劇団であり、猿渡はその協議会の議長を務めていたからである。さらに、拙稿「現代劇場①」に記したように、猿渡の大学演劇部後輩にあたる於保清人が福岡市の文化課にいた縁で、結果的にかなり大掛かりな公演となったようだ。脚本は東京演劇アンサンブルの演出家・広渡常敏。彼は猿渡の福岡出身・九大演劇部の先輩であり、猿渡は依頼から進捗伺いも含めて足繁く東京に通ったという。内容は福岡ゆかりの歴史もの、博多最後の豪商と言われた伊藤小左衛門を題材にした*8。演出も猿渡が行った。市民会館大ホールを観客が埋め尽くし、山笠の舁き手たちが100名ほど締込み法被姿で登場し客席と共に「祝い目出度」を歌ったそうで、きっとかなりの盛り上がりを見せたことだろう。

『海の五十二万石』(1980)プログラム
会場となった福岡市民会館

 しかしこの『海の五十二万石』公演の前後から、上述したように解散の危機、主要俳優の退団、稽古場の消失と問題が相次ぐ。対外的には猿渡が華々しく活躍していただけに、劇団活動としては勢いを失っていたように見える。数人の劇団員が「劇団員が減ると、おけいさん(前崎圭以子、猿渡の妻で女優)が女優として復活し前面に出る、逆に劇団員が増えてくるとおけいさんは裏方に回る」と述べていたが、実際にこの時期の上演は、前崎が多く活躍していた。

4.第三期:新しい人材

 時代が平成になるころ、つまり1989年頃から劇団に新しい風が吹く。それまでとは異なるタイプの若い劇団員が入ってきたのだ。この頃にはもう猿渡も還暦を迎えようとしていたから、それまでの劇団員と、新しく入ってくる20代の若い劇団員とでは、猿渡との年齢差や関係においておのずと異なってくる。年齢差が開けば開くほど力関係も偏りそうだが、面白いことに猿渡は若い人たちとの新しい演劇づくりを楽しんでいたようだ。第一期の終わりから第二期ごろに所属して活躍した沼田勲が「猿さんに物を言える人は(初期からのメンバーの)富さん(富原智一)斉藤さん(みづほ)ぐらいやった」と言うのに対し、1989年(平成)以降に入った者たち(石井まこと、彰田新平)はこぞって「自由にさせてくれた、(猿さんは)僕らの演劇を面白がってくれた」と話す。

左より、渡辺延之、猿渡公一、彰田新平、鈴木新平

 そして第一期のような「政治性」はすっかり鳴りを潜める。もちろん新劇を基調として井上ひさしや石牟礼道子、岡部耕大などを重ねて上演したことからも主義主張に変わりはないと思われるが、プログラムからも「観客に労働者の真実を伝えたい」「演劇から社会を変革する」といった主張はなくなっていた。その代わりに(といっていいのか分からないが)若い劇団員たちに猿渡が学んできた古今東西の戯曲や演劇論を教え込んでいった。後に「クレイジーボーイズ」に移籍することになる石井まことは、現代劇場に在籍した2年を「猿渡学校に行っていた気がする」と話す。「ずっと若者たちのレベルで考える演劇論でやってきたので、猿さんのヨーロッパ仕込みの演劇論はすごく刺激的でした。(略)ヨーロッパ仕込みというのは…やりたいようになるんじゃなくて、それぞれが成長するように演出していくというか…その中で芝居が産まれていくということ。作品を作るというより人間的に成長していくということを、お互いの成長を楽しむ感じになっているというのが、血となり肉となって過ごしていた時期でしたね」。それは猿渡にとっても同じで、若い演劇人の存在は刺激的で大いに楽しんだのではないだろうか。 

『闇に咲く花』1989年

 例えば『フィガロの結婚』(1991)では実験的な試みもやった。プロのオーケストラ及びオペラ歌手と一緒にやったのだが、芝居部分と演奏(歌唱)部分をしっかり分けて交互にやるという変わった構成だった。1シーンの芝居が終わり「モーツアルトの、アリア」と言うとオペラ歌手が登場してアリア(独唱)がはじまるといったぐあいだ。全体の構成や演出は猿渡が担当していたが、若い人たちの意見を取り入れることもあったという。

 またこの『フィガロの結婚』で音楽家の渡辺延之がメンバーとなり以後の現代劇場の欠かせない存在となる。ピアニスト役として芝居をやり、舞台上で生演奏をやり、オリジナルの曲を作り…と多方面から芝居を支えた。『オイディプス』では舞台下手に大量のパーカッションを舞台に並べ、稽古中にとったメモを基に即興で演奏したという。渡辺の音楽は強い印象を残したようである。 猿渡は、渡辺が音楽のプロであっても容赦なく要求し、渡辺もまたプロの矜持でそれ以上に応えようとし(本番前日に閃いて芝居のイントロを書き直したことがあるそうだ)、特に90年代前半の上演は充実していたようだ。

『オイディプス』(1992年)

 現代劇場を手伝っていたプロは、音楽家の渡辺だけではない。歌唱のプロである井上壽夫、照明は瓜生良介(市民ホールサービスで長く照明の仕事をしていた)、美術は田副正武(画家、KBC・九州朝日放送の小道具)といった面々が現代劇場を支えていた。役者はプロを目指さず「アマチュアに徹する」*9との精神だが、他方で照明・美術・音楽はプロが支えている…贅沢かつかなり珍しい劇団だったといえる*10

『十二夜』(1993年)

5.第四期:猿渡の最期、そして

 もちろん充実していたかに見える第三期も常に順調だったわけではない。主役をしていた劇団員が、他の団員を巻き込んだ詐欺事件の片棒を担いで蒸発したとか、頼りにしていた若手が別の劇団に移ったとか、また他劇団からの客演が本番までセリフを覚えず妻の前崎が泣いて公演中止を訴えたとか、ダメージやトラブルはあった。それでも猿渡は、退団する者を止めることもなく、公演を中止にすることもなく、淡々としていたという。

40周年記念公演『愛と偶然の戯れ』(1998年)

 1990年代の終わりに劇団は40周年を迎えた。だがこの時期ぐらいから劇団員が少ない状況が定着していく。猿渡は公演ごとに「これで終わるけん」と言っていたという。40周年の公演を前に初のオーディションも行ったが、入団しても、本読みや発声発音訓練に時間をかけ年に一度しか公演ができないことに不満をいだいてやめていく。振り返れば、この頃に入団した小名田依子と今泉亜希子の二人だけが、最後まで劇団員として残ることになった。また長く続いていた福岡市劇団協議会による合同公演も、2002年の『やっぱり怖いお伽ばなし』が最後となった。参加劇団の主宰者の多くが高齢化したことだけでなく、現代劇場の様に人数が減りそれぞれの劇団が弱体化したことも理由のひとつかもしれない。

 しかし感心するのは、人数が減ってもその時にやれる形で演劇を続ける姿勢だ。それも「人数が少ないからキャストの少ない芝居を選んだ」と思わせないような、劇団員や劇団にとって意味のある戯曲を選び、公演ごとに新しい挑戦をした。例えば『葉桜』(岸田國士)『紙風船』(岸田國士)『花いちもんめ』(宮本研)などの一人芝居や二人芝居は、難しい会話劇で若手を鍛える公演と位置づけた。『彦市ばなし』は日本の民話だが音楽家の渡辺がアンクロンというインドネシア民族楽器を用いたおかげで、画期的だが民話の世界観に合った作品となった。『信太妻』は筑前琵琶奏者の中村旭園が弾き語りをする横で日本舞踊の名取を持つ今泉が演じるという意欲的な作品だった。これは2度の再演をしている。

『信太妻』(2004年)演出をつける猿渡
『信太妻』(2004年)

 また猿渡が演劇を用いた地域活動を始めたのも2000年代に入ってからである。かつての現代劇場の仲間から引き継いだ形で田隈公民館の「劇団田隈塾」の指導を10年に亘って行っている。同様に、地区の児童劇団「たんぽぽ」の指導も行っていた。

50周年記念公演『星の王子さま』(2008年)

 2008年、福岡現代劇場は50周年を迎えた。記念公演はサン・テグジュペリの『星の王子様』。両性具有をイメージし、飛行士役を女性の今泉が演じるという大胆な演出を施した。この時、猿渡は78才だった。しかし翌年の取材時に猿渡が「今は集団としての体をなしていないですね」と話しているように*9、劇団員が減り在籍メンバーも出産や病気で大きな公演はできなくなっていた。それでも、一人芝居『花いちもんめ』(2010)やリーディング公演『金子みすゞを読む』(2013)を行う。そして猿渡が他界する(2020)1年半前まで*11、月に1,2回、ブレヒトやメイエルホリド、その他の戯曲の読み合わせや研究を2名の劇団員と共に続けていた。

 「僕は劇団一代論で、僕が死んだら集団も終わりって思ってます」*9と語っていた猿渡が、それでも若い劇団員と最後まで稽古や研究会をしていたことを聞いて、私はひどく心を揺さぶられた。「福岡現代劇場」を継いで欲しくてやっているのではなく、きっとこの人は、素朴に尽きぬ興味を追い続けていたのだ、それほど心から演劇が好きだったのだ――そう感じて、死ぬまで演劇と共に在った彼の人生に静かな感動を覚えたのだ。

 もちろん、誰かが「福岡現代劇場」を続けてくれるならニヤリとしながらあるいは照れながら首肯するに違いないし、言葉通り自分と共に劇団が終焉を迎えるのも良しとするに違いない。なんであれ、現代劇場の60余年は福岡の演劇史に刻まれ、今に繋がる多くの演劇人を生みだした。そんな功績もどこ吹く風で、紫煙をくゆらせている猿渡の姿が目に浮かぶ。

演出をつける猿渡 『海の五十二万石』稽古において
注(クリックしたら注が出ます)

*1 福岡市文化活動功労章受章スピーチ「観客に支えられて半世紀」猿渡公一 より

*2 『セチュアンの善人』(1979)プログラム

*3 何が起こったのか、どういう状況だったのかはわからないが、『演劇会議』の各劇団の近況報告コーナーに、1978年頃(11月予定の『虹を架ける石工たち』公演前)「5月以降、国内意志統一に時間がかかった、解散の危機も秘めての稽古」という文字が見える。しかし、7月には劇団員を伴って熊本に舞台となる橋を見学に出かけているから、問題は解決していったのだろう。これが初の脚本執筆となった猿渡はその後も熊本で取材を重ねたようで、公演は上首尾に終わったようだ。しかしその後また1982年にも「結集最悪」と弱音のような報告が掲載されている。

*4 初期メンバーだった富原智一と妻の富原美智子の家の敷地内に、団員のカンパで稽古場を建てた。富原が劇団をやめた後もそのまま劇団が使用し続けたが、1981年ごろに富原が家と敷地を売ることになって稽古場はなくなった。

*5 『演劇会議』Vo.51 1982.8

*6 2017年まで薬院のマンション一室を借り続けている

*7 「その会で、わたしは芸術創造センターの建設を提言しました。それは、日常的、そして集団的練習を必要とする、音楽や演劇や舞踊などの舞台芸術のために練習場を建設するというものでした。その当時、音楽関係者や演劇関係者は稽古場がなくて本当に困っていたのです。それらの創造集団の多くはアマチュアの集団でした。つまり、福岡の芸術文化はこれらの集団が支えていたのです。わたしの提言は特に音楽関係の団体に強く受け止められました。運動も始まりました。」 猿渡公一 福岡市民文化活動功労章受章スピーチにおいて

*8 「私達は、近松の『博多小女郎浪枕』のもととなったという伊藤小左衛門の話を舞台化しようと考えた。魅力的な話である。国際都市博多の、天下に名を轟かせた豪商たち。その最後の豪商といわれる伊藤小左衛門は、博多浜口町に本店、長崎、平戸をはじめ全国200か所に支店を持ち、伊藤小判を発行し、大阪の鴻池と肩を並べる天下の富豪であった。長崎丸山の遊女貞歌との恋、貿易船数十隻を動かす海外貿易、そして悲惨な刑死――。」『海の五十二万石』(1980)プログラム

*9 「劇団を訪ねて アマチュアの心を忘れるな 福岡現代劇場(福岡)」『演劇会議』Vol.130 2009.7

*10 劇団員ではないが、多くのプロに支えられたことを猿渡がスピーチにおいて感謝している。「美術関係で言えば寺田健一郎、菊畑茂久馬、舟木富治、中西久吉、小山正、高向一成、竹中正基、舞台美術家の岡島茂夫、恋し藁焼きの梶原藤徳、デザインの鎌田勝美、久留米絣の森山虎雄、音楽関係では山本成宏、中島定良、内田寿志、筑前琵琶の中村旭園、琴の二階堂秀筝、日舞の花柳三紫、バレエの古森美智子、川副恵躬子、ジャズダンスのマユミ、作家の上野英信、石牟礼道子、石橋研究家の山口祐造」の名を挙げている。

*11 猿渡の妻・前崎圭以子が大病したことから、それ以降の稽古ができなくなった。

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