インタビュー:後藤香さん(作家・演出家・俳優/劇団go to)

*私が「演劇批評誌 New Theatre Review」というのを刊行してすぐの頃、一番に取材をさせてもらったのが当時「座”K2T3」の座長だった後藤香さんだった。忘れもしない、場所は原の「風月」(後藤さんは覚えているかしら…)。学生が始めた雑誌の取材に丁寧に色々と話してくださってありがたかったなぁ。あれからずっと30年(‼)近く後藤さんのお芝居を見続けて来た。手がける作品は少しずつ変化しているけれど、久々に対面して、話しぶりも笑い方も変わらないなぁとお話を伺いながら思う。…芝居って、続けていくのは難しい。きっとその難しさも苦しさも十分に味わっているうえで、それでも芝居を作る喜びを知っているんだろうなと、彼女と話して痛感した。

後藤:1989年に動き出したんですよ。その頃フリーペーパーとかに劇団員の募集とか載せて、10何人も集まったんです。中学生から社会人まで。それで出来上がったのが座“K2T3(以後、「K2」との呼称)。私が一回だけ参加した劇団があってその劇団で一緒だった小島美紀とうちの妹と。それで1990年に旗揚げ。その頃、青年センターが大名にあって、そこが無料で使えるから使ってる劇団がけっこうあったんですね。幻想舞台、パワフルサラダ(大石房之介さん、めちゃくちゃ男前だった)、それからPA! ZOO!! も。バカダミアンもやらんかったかいな…。その頃は年に2回ほどやってましたね、K2で。主にキャビンホール、大名にあったたばこ産業ビル、そこぐらいしか福岡の劇団が公演する場所がなかったんです。市民会館の小ホールは風三等星がホームグラウンドみたいにあそこでやっていて、あとはやるとなったら市民センターのホール系ですね、中央市民センターとか、ビブレホールとかを使っている劇団もありました。西新のビブレホール、天神のビブレホールを使ってるところがありました。

柴山:私がK2を見たのもキャビンホールでした。『THE★お見合い』からですね。

後藤:4回目の公演ですね。

柴山:女性だけで始める予定はなかったけど…と聞いてます。

後藤:(笑)思い出した。たくさん集めたくて、男の子もいたんですよ、その子は舞台美術をやりたいと言って来た大学生で。でも結局いなくなった。私たちがギャーギャーうるさいし強いし(笑)。最初、「劇団内恋愛禁止」というルールを設けてたんです。「禁止にしよっ、ダメになるから」って(笑)。いつのまにか「女性劇団」と呼ばれるようになりましたね。

柴山:私が最初に知ったのは『シティ情報ふくおか』だったと思うんですが、「等身大の女性を描く女性の劇団」みたいなこと書かれてて。でも小島さんに先日話を聞いたら、「本人たちは女性劇団にするつもりはなかった」と(笑)。

後藤:そうですよ(笑)。1回目の公演は高校演劇の既成の脚本を使ったんですよね、でも2回目から私が脚本(ほん)を書くようになって、それがオフィス物で恋愛ものだったんですね。それを梁木さんが見てくださって「等身大の」と新聞に劇評で書かれたんです。あの劇評には力をもらいました。同時にその言葉が売りみたいになったところもあったので、そこを追っかけた感がある…。いつの間にか…どっかに「等身大」というのが自分たちの良きところみたいなのはあったと思います。

柴山:だんだんと、20代女性のゆれ動くココロを描くとかそういうのが多くなった気が。

後藤:そうそう。等身大と、あと「恋愛もの」と言われるようになって、知らず知らずそれをやれば、と思っていたのかな…。

柴山:男性役はどうしてたんですか。

後藤:客演を呼びました。風三等星とか。あと、日下部君(劇団轍WADACHI)。めちゃくちゃ男前だったの、これが! 痩せてて! 

柴山:私の認識としては座”K2T3と劇団轍WADACHIが当時の若手の二大劇団という印象がありました。梁木さんがその二つの劇団をかっていたと感じていたというか。

後藤:確かに梁木さんが誉めてくださったのは誉めてくださったんです。

柴山:『レ・ボンヌ』と『星の王子様』を轍WADACHIとK2T3でやりましたよね。(注:1999年、第7回ふくおか県民文化祭県民創作劇場において、「性をめぐる演劇の冒険」と題し、ジャン・ジュネの『レ・ボンヌ』を劇団WADACHIが、寺山修司の『星の王子様』を座”K2T3が上演した)あれ、確か梁木さんがプロデュースじゃありませんでした? だから梁木さんは同じ世代の中ではこの二つの劇団をかってるのかなと思ってました。

後藤:確かに言われたら…イムズ芝居の10周年の時に『洒落男』の演出助手に呼んでもらうとかありました。…の割に私は恩知らずではあったけれど。

柴山:風三等星は割と既成戯曲をやっていたから…轍WADACHIとK2はオリジナル戯曲だったからその違いもあると思っていて。

後藤:ああ、そうだ。梁木さんが新聞に書いてくれたことで、それで自信にもなったし動員にも繋がって。2回目の『KINGYO』で書いてもらったんです。

第2回公演『Kingyo』

柴山:でも後藤さんとしては、「等身大」「恋愛もの」が、うまく行っている時は良かったんでしょうけれどちょっと行き詰った時にはある種の呪縛みたいになった…ということでしょうか?

後藤:ん…ありますね。呪縛までは言わないけど、縛られていたかもしれません。「等身大」がいいんだ、みたいな。

柴山:他のタイプのお芝居を書きたいと思ったことは?

後藤:あの頃は…覚えてない。あ、『Dear dear』あたりの時に、立石美智子さんに「後藤の作品は先見えするんだよ」って言われて。「わかりやすい、最後どうなるか分かっちゃうもん」と言われたのが悔しくて、この先どうなるか分からないものを書こうとはしてましたね。梁木さんの「等身大」とはまた別で。そう考えたら私はいろんな人の言葉に…(笑)。

柴山:むかーし、最初に後藤さんにお話を聞いたときにはイムズ芝居でイムズの壁に劇団名が載った垂れ幕が飾られるのが憧れで、っておっしゃってました。イムズ芝居はお出にはならなかったけど、『不思議ノ国デありんす』で脚本賞をおとりになりましたよね。

後藤:出てない。応募はしたけど…その時に行ったのが、きらら(劇団きらら)さんだったかな。池田(美樹)さんいわくその時私と初めて喋ったとのことで。そうですね…憧れだった。

柴山:そんな遠くを見つめて…(笑)。その頃の自分たちの劇団の位置づけ…どんな風に思っていました? 例えば、縛りにはなっていたかもしれないけれど、20代後半から30代の女性のことを描かせれば私たちの劇団に敵うものはないという自負があったとか。あるいは、それがきつくて…とか。

後藤:ああ、どちらかというと自負の方だと思います、その頃は。あの頃は何でも書ける、何でもできると思ってました。例えば、コーヒー1杯、お料理のことからだって、脚本(ほん)はすぐ書けるじゃん、そして色々書きたいとあの頃は思ってましたね。

第3回公演『Dear dear』

柴山:他の劇団との交流は?

後藤:風三等星とはありましたね。幻想舞台はお手伝いに行かせて頂くという感じで、青年センターでのパワフルサラダさんとかは少しお話するぐらい…でも、どこを見ても面白いと思っていたんですよ。パワフルサラダは力強いしスピーティー、風三は行ったら必ず笑わせてくれる、PA! ZOO!!は同じ女だけど、私たちにはないおしゃれでポップな感じがあって。ちっちゃいことから全部おしゃれ。受付に置いている物とか、チラシとか、お芝居の会話とかちょっと違うと思ってて。そういうので言えば、自分たちの劇団というのはあまりふざけたことをしない、泣かせる、泣かせるために前半にちょっと面白いことを入れる、という作風と思ってました。

柴山: K2の初期の作品は確かに笑わせて泣かせてすごくうまくまとまっていたと思うんですね。でももう一つ…舞台美術って、あまり手をかけていなかったイメージです…ごめんなさい(笑)。よそと比べてどうかという意味じゃなく…その時そう思っていたわけじゃないんですけど。

後藤:そうです。勉強してなかったな、舞台美術のこと。パネルがあればいいと思ってた。パネルと布を使って空間を埋めてました。今もへたくそだけど、形のある目に見えているものを芝居の中にどう効果的に創作するかというのは、今も苦手です。

柴山:でも、『愛の讃歌』などは…着物の布を垂らして…

劇団go to 『愛の讃歌』

後藤:あれは…なんかうまくいくときはすごい偶然ですよね。すごい作り込んだことがあるのは、劇団go toで…

柴山:あの、カレー屋さんのやつは作り込んでませんでしたっけ?

後藤:あれは作り込みました。『情熱パウダー』。思い出しましたよ、舞台美術の話で。その頃の劇団はだいたい男性が主宰をやってたんですね、そして赤字をバンバン出しているという話を聞いていた。そしてなくなっていく劇団もあったという印象だったんです、赤字を出して続けられないというような。男性の劇団で多いのは、舞台美術にめちゃくちゃお金をかかってて、私はその頃、舞台美術にすごいお金をかけて赤字になってやれなくなるよりも、人が芝居をしたい、そっちのクオリティで見せたいと言っていた気がします。…でもね、それだけじゃないの、ホントに舞台美術のこと、勉強してなかったの(笑)。今は思うんですよ、見に行った時に舞台美術というのもお芝居の空間の一つで、衣裳にしても、気持ちをあげてくれるもの。今だったらわかるけど、あの頃は演技をしたくて仕方なくて、そのために書いていたところもあるから、そこまで思い至ってないですね。

柴山:劇団の皆さんは別にお仕事があって余暇の時間を使ってお芝居をしていたということですよね?

後藤:そうですね。学生の子もいたか。

柴山:劇団費を払って、それとチケットの売り上げとで賄っていた感じですね?

後藤:一番初めに私と小島が何十万か出して、資本金がいるから、使って入ってきて使って…と回していた感じですかね。赤は出たときがあったかもしれないけど、何万か、何千円かでも黒が出ながら回していた気がします。

柴山:お客さんも右肩上がりで増えていって。

後藤:そうですね、『不思議ノ国デありんす』までは700~800(人)とか出してたんですよ、今考えるとビックリ。キャビンでやりました。うち、一日に3ステとかやってたんですよ(笑)。11時、2時、夜とかって。それでもそれぞれ満席になってチケットが足らなくなってという時代があった…今考えるとすごいな。劇団員も多かったし。それとあの頃はノルマを課してました。ノルマ以上に売ると、5枚に一枚招待券、好きな人を呼んでもいいし。

柴山:今は、1割は役者さんがもらえるというシステムも増えているじゃないですか、そんな風にはしていなかったんですね。

後藤:あの頃は、芝居をして出演料をもらえるなんて言うのは、なかった。逆にそれにお金を出している感じでしたね。団費にせよ交通費にせよ。本番の時は仕事休むし。

柴山:東京公演をしようとした時は、ぐんぐん伸びていた時期ですよね。

後藤:『不思議ノ国デありんす』で行ってますから、一番動員がのびていた時期ですね。行こうと思った理由は覚えてないんですよ…周りの人が行ってたから…? 後は、福岡でどんどん動員がのびて面白いと言われてるけど、まぁ言うても知り合いじゃないですか。全く知らない人が見たときに本当はどうなんだろうというのが知りたかったというのもあった。でも分かったのは、結局東京に行ったって手売りだよということ。知り合いに見に来てもらえないと始まらないということに気づいていなかった。東京に行けば知らない人の眼に触れられるんじゃないかという幻想で知らない場所でやってみたいというのがあった気がします。

 劇場は小島が東京に話をつけに行ってくれて、駅前劇場を決めてきてくれたんです。だから駅前劇場のステイタスもよくわかってなくて後から聞いたら、制作さんがしっかりしてない劇団には貸さないぐらいの、どんなにお金を積まれても貸さないという信念の劇場なんだと言われて、「おおおぉ~」と。

柴山:どうでした?

後藤:うーん、覚えてない。

『不思議ノ国デありんす』

柴山:強い印象を残したわけじゃないんですね。九電に買ってもらった『Adolescence』はツアーで…

後藤:そうそう、『Dear dear』と『Adolescence』で4か所、九州を回らせてもらいました。

柴山:ちょうどその頃、地方も遅れてメセナの波がやって来た…という感じですよね。プロではない劇団がこうやってかってもらってツアーに出る…というのは珍しいことですよね。風三等星もだったかな。

後藤:あの頃、九電さんが続けて「文化の森シアター」をやったんですよね。夢のようでしたよ。ギャラをもらえるって。初めてです。お小遣い程度ですよ、でも役者をやって1万とか2万貰える、そしてその劇場までの交通費も出してくれる、宿代も、それにかかる経費も全部出してくれる。だから最初はびびって予算の立て方が小さくて電通さんから「もっと増やしてください、あんたたち招待で行くんでしょ、だったらこんな費目じゃないでしょ、制作を誰かに頼んだらいくらかかるの、もっと増やして!」と言われて「いいの!?」と(笑)。

柴山:社会を知ったという感じですね。

後藤:まさに! そうですねぇ。え、いいの?って。つけあがったらペシャンとやられそうで怖くって。

柴山:そんな風に買ってもらったり自負があったりすると、今まで好きでやっているだけの芝居とは違う欲が出てくるということもあったと思うんですが、どうでした?

後藤:K2だけでお芝居をするときはギャラがどうのとか思ってなかった。けれども春日市で講師を始めて、その後からまどかぴあでも教え始めました。そしてそのあと学校でも教え始めて。その頃はK2でやっていることがお金になるとは思っていなかった気がします。だけど自分が持っている知識と技術が仕事にはなるんだなとって言うのは思っていただろうなぁ。

柴山:教え始めたのは何年ですか。

後藤:学校で教え始めたのは2005年です。春日の「ドラセミ」(ドラマセミナー)は1998年から。まどかぴあの「まどかミュージカル」は1999年からです。ドラセミは28歳ぐらいからやりました。

柴山:その前には、そんな仕事をやっていたという先輩はいらっしゃいました?

後藤:幻想舞台の高橋徹郎さんがやってました。春日市で教えていたんですよ、やったそのぐらいからテレビに出始めて忙しくなったので「後藤ちゃん、やらない?」と言われて私が引き継いだんですよ。学校で教え始めたのは、K2をやめる1,2年前だったと思います。

柴山:春日や大野城はホールが企画した公演ですよね、それと専門学校で教えるのは少々異なるのかな。学校で教えるのは演技ですか?

後藤:演技です。春日市と大野城市は情操教育が多分にあって、それに演劇を使う、みたいな中で私が脚本を書いて演技指導もして本番まで行く。最初は大人だけだったんですけど何年も同じ講師じゃダメということで日下部君に渡したんです。そしたら子どもだけのセミナーが始まったので、スライドして私がそっちの講師に。2017年までやりました。大野城も10年ぐらいやったかな(1999~2006)。春日市で演出をするようになって、K2の中でアシスタントとして一緒に演技指導してもらって。大野城市の方は規模が大きかったんで劇団員の中で本職じゃない子たちに入ってもらったり風三(等星)から入ってもらったりしました。平日の夜です。

柴山:1990年代終わりから00年代にその仕事が始まって全盛期だったという感じなんですね。

後藤:そうですね。お芝居をやってそれで報酬がもらえるなんて。それまでは受付に入ろうが手伝いに入ろうが、それは有志。それでも幸せでしたからね。勉強にもなるし。

柴山:確か、2003年に北九州芸術劇場が開館しているんですけど…

後藤:思い出した~。芸術劇場の小ホールでもやったんですよ、K2。イムズ芝居じゃないけどオーディションを受けて小ホールを借りてやれるというのがあったんですよ。

柴山:あの劇場ができてからその前とその後はずいぶん変わったと思っています。見るだけじゃなく、地元の演劇人たちが活躍する場も勉強する場も生まれて。それまではワークショップもあまりなくて…

後藤:ワークショップなんて覚えがない。だから他の劇団の稽古を見させてもらってました。

柴山:だから東京や関西の演劇情報も、『演劇ぶっく』みたいな雑誌で情報を得るぐらい…それが1990年代でしたよね。

後藤:結構後の方でイムズがプロデュースして、木野花さんとか松尾スズキさんとかのワークショップもやりましたね。あれ、けっこう後ですよね。

柴山:その前後ぐらいに福岡市もシンポジウムをやったり…。ぽんプラザができたのが確か2000年。練習は基本的に青年センターだったんですね。

後藤:そうですね。週に1回は青年センター、あとはパピオを使ってました。ない時は公園でもやってました。

柴山:2000年代になってから旗揚げした劇団とは交流は?

後藤:ちょっとだけ関係があったりして、彼らがまだ高校生の時に高文連の審査員をしたり。まどかぴあで川口(大樹)君(万能グローブガラパゴスダイナモス)が私の演出助手に付いたりしたんです。まだ大学生だったと思う。それで川口君とは交流するようになって春日市にも入ってもらって、それでビジュアルアーツにも入ってもらって…というように繋がっています。

柴山:2000年代は後藤さんの演劇の仕事が増えていった。その時代に若手の劇団が増えて…何か福岡市の演劇環境に変化はお感じになりましたか? 劇団内の変化という意味ではなく、福岡市の演劇状況に置いて自分たちの劇団の位置づけの変化も含めて…。

後藤:盛んになったな、ぐらいですかね。劇団も増えたなと思った。自分たちが旗揚げした頃は稽古場もなく劇場もなかったけど、2000年代に入ったら劇場は増えるししかもカフェとかでもやれるし。劇団もユニットが増えたからかな、若いおしゃれな才能って言葉がポンと付いてそうな人たちを散見するようになった印象。「非売れ(非売れ線系ビーナス)」とか「ガラパ(万能グローブガラパゴスダイナモス)」とか「ぎゃ。」とかよりもっと若い人たちです。

柴山:確かにフェスティバル系も一気に増えて…。

後藤:年に2本とか3本とかやっていた時期から…やらなくなった…それと私、何でも書けると思っていた、何でみんな書けないって言うんだと思っていた時期を越えて、一気に自分の書いているものが面白くないと思うようになったんですね。会話にはなっているけど何も作用していない。ちょっと客観的に自分の作品を見るようになってそれでストップしてしまう…それでいっぱい書けなくなってしまいましたね。

柴山:それは、新しい才能が現れたとかっていう具体的なことがあるわけじゃなく…

後藤:違う…と思うし、もしかしたら何か言われたのかもしれないけど、それも覚えてなくて。ただ自分の作品を面白いと思えない…昔は「よう、こんなやり取り思いついたな!」「ここからこのシーンにつなげるのにこのセリフを思いついた!」と思っていたんですけど、それがなくなったんです。一気に書かなくなったというのがあるかもしれないですね。かといって再演もしない。

柴山:当時はあまり再演ってしませんでしたよね。

後藤:なかった。うん。

柴山:劇団go toはK2をおやめになってどのくらいしてから立ち上げたんですか。

後藤:5年くらいかな。その間はドラセミもあったし学校の仕事でも1年に2回は公演があったし、永山(智行)さん(こふく劇場)がちょうどメディキットができたばかりで「時空の旅シリーズ」ができたばっかりだったのでそれに呼んでいただいたりとか、ショーマンシップの仲谷(一志)さんに呼ばれたりしてました。

柴山:春日とか他の場所でも書いてますよね、そこでは書けると思っていたんですか。

後藤:昔に比べてすごく書けるとは思ってなかったけど、苦労はしてたけど、書いてましたね。劇団でやるのは、やらなくてもいいのにやっているわけだから。

柴山:劇団go toを立ち上げたのも、やっぱりやりたいと思ったから?

後藤:専門学校で教えている時に生徒に小坂愛というのがいて、小坂が卒業する時に、どっかの劇団に入りたい、私(後藤)の劇団があるなら入るのにと言ってて、じゃぁ作るかと思って。それで笹本順子と3人で。3人とも役者だから、すぐ春日市のドラマセミナーの担当をしていた職員さんの井上さんに連絡して制作してと。2012年結成ですね。

柴山:では劇団go toではすんなり書けたんですか?

後藤:いやいや…(笑)。

柴山:『タンバリン』面白かったですよ。

後藤:ありがとうございます。

柴山:私は、あの作品は戯曲そのものより舞台になった方が良くなる作品のような気がします。『愛の賛歌』でもそうですけど、人が変わっていく(自然に役が変化する、娘だったのが母親にとか)…ああいう手法はK2時代にはなかった気がします。

後藤:そう、go toになってからあの手法を使うようになりました。

柴山:そうですよね、あれ、後藤さんちょっと変わったかなと『タンバリン』で思ったんですよ。確か、ずっと(役者が)座ってたんですよね?

後藤:出ずっぱりでしたね。

柴山:それが、演技でおばあちゃんになって、とかそんな感じでしたよね? こんなことがやれたんだ、面白いなと思いました。立ち上がってくる戯曲だったと思います。戯曲って…戯曲として完成されていることも大切だけれど、芝居にするときの何かしらの余地が残されているというのももう一つ大切なことかもしれませんね。戯曲としての完成度は小説と同じで、しっかりと登場人物の行動の理由が描かれていなければならなかったりするけれど、それは役者が説得力をもって演じていたら問題ない場合もある。

後藤:うん、私はたぶんそこに甘えているんですよね。だからそう思っている。

柴山:go toでは1作品について何かしらの役者が挑戦をされてるんですよね。英語だったり楽器だったり(笑)。

後藤:趣味としてやってる時に、ちょっと上手になって来たなと思った時に、普通の会話って訓練してない人でもできるじゃないですか。感覚だけで。そうじゃない役者とやりたくって。普段生きてるだけではできないことに時間を取って役者として訓練した人とやりたいと思って、その縛りを設けたんですよ。

 日常会話を普通にする。その訓練。力を抜いて、外からの情報をちゃんと処理できて、みたいな訓練っていろんなテクニックがあります、ああいう訓練をしているところで近くに知らない。分かりやすいところでは着付けだったりダンスだったり、普段生きているだけでは獲得できないよと。

柴山:ああ、何かを習得するという制約を課してみてそれを身体化できる人は役者としてもすぐれている、と。そういう人とやりたかったんですね。

後藤:うん。でも大変でしたね(笑)。一番最初はボクシングを習うのに劇団がお金を出しました。入会金とか月謝とか。でもこういうことをしますよと最初に言うんですよ、でも一回やるとやめちゃう(笑)。

柴山:では今はgo toは何人いるんですか?

後藤:3人です。私とナナコ(福田菜々子)と制作の井上(章子)だけです。劇団員は増やしていこうとは思っておらず。

柴山:福岡市の演劇の状態、こうなったらいいなとか、あれば…。

後藤:福岡市で子ども向けのお芝居をする所があればいいのになと思います。春日市と大野城市にはあって、福岡市にはなくて。福岡市は個人の方がやっているのはあるけど、市としてやるのはないので。

柴山:後藤さんの今後は?

後藤:やりたいこと見つけました! 実家でね、おじいちゃん、おばあちゃんを相手に公民館で井戸端会議みたいな芝居を作りたいんです。旦那さんに見せるための奥さんたちだけの悪口の芝居。奥さんに見せるための旦那さんたちだけの芝居。10分とかでやりたいな。

柴山:面白い。是非見たいですね。ここに記録として載せたので、やらなきゃ、ですね。ありがとうございました。

『愛の讃歌』
タイトルとURLをコピーしました