2025年12月27日(日) 19:00~20:00 @塩原音楽・演劇練習場 2階会議室
対象作品:『証明』Level19プロデュース(作:デイビッド・オーバーン、翻訳・演出:黒澤世莉、出演:ヒザイミズキ、寺村恵理加、高田遼太郎、富田文子(新潟公演・松井里美)
*2016年から福岡、小倉、久留米などにおいて不定期に「シアターカフェ」を開催してきた。シアターカフェとは、観劇した後に有志の観客(10名程度)でお茶を飲みながら、見たばかりの作品について語るというものだ。作品の役者・劇作家・演出家が参加してくれることも多く、毎回かなりの盛り上がりを見せる。
*キビるフェス2026におけるシアターカフェ(キビるカフェ)2本目。本作は、物語としては分かりやすい一方で、様々な問題を含んでいるため単純に落とし込めない重さがある。ジェンダーの問題、介護の問題、アカデミズムの問題、それらを内包している社会構造の問題、共依存を含む親子関係の問題…。登場人物の誰の視点で考えるかということだけでなく、観客の体験が大きく見方に影響するという点でも、語れば語るほど芝居の見え方が広がり社会への理解は深まる作品だ。1時間しか話せなかったのがもったいない! 面白いやり取りになっているので、長いけれどぜひ読んでいただきたい。

最初に一言ずつ…
あき:数学の話だから難しいのかなと思っていたら人間ドラマだなと感じて…今回のようなシチュエーション、いろんな事情でやりたいことをあきらめざるを得ない…自分も周りの人もなりうる可能性のある話だなと思いながら当事者だったらどうするんだろうなと見てました。
ばらぞの:黒澤世莉さんのワークショップに参加したので、事前に映画も見ていたし台本もいただいていて内容も全部知っていました。どんな演出でどんな演技をされるのかを楽しみにしてました。福岡ではあまりない感じの…緻密で人間同士のぶつかり合い、心のぶつかり合いが見れてよかったです。
ます:映画の方も見てます。私が書いた台本のドラマターグを黒澤さんにしてもらって、それでかなり台本が良くなったことがあったのでその黒澤さんの演出ということできました。映画よりもジェンダー、男女の切り口もあったんだなと思いました。翻訳の言葉を使っているので暴力的なというかはすっぱな言葉を女性が使っていることに違和感があったんですが、よくよく考えてみると、「数学は男性のもの」というのに対するカウンターで、それも一つの要素としてこの作品では出てきているのかなと感じながらそこが映画と大きく違ったなと思いました。
テツ:想像してきた内容よりイメージが重たかったです。全然消化しきれてないので皆さんの意見を聞きたいです。身近な話でもありそうですし心に迫ってくるものがあるなと感じています。言葉遣いの話も含めてジェンダーの交錯もあるようだし、一般的には認められていない話、テーマなのかと思いました。
えい:世莉さんが海外戯曲をやられているのをいくつか見ていて、セリフの量が多いのに大変だという感じがしないんです、毎回面白いなと思っています。ただ今回は父を若い頃から介護をしてきたので刺さりすぎて、自分の人生と重なりすぎて最後まで見れるかなと心配ではあったんですけど、最後は明るい感じで終わったので面白いと思いました。あとアニメで『チ。』ってあるんですけどあの時代じゃないのに、近代でもこれかと。重要な発表をするとき女の人だとその人のものだとはわかってもらえないとか。そんなことを考えました。
タク:マイズナーテクニックを黒澤さんがやっているらしくて、それは交流を大切にしてるんです。俳優は自分が考えた通りに相手に反応してしまって相手が働きかけたものを自然に反応するのが難しい。それを大事にしているのが今日の舞台ではよく分かりました。けど、今の若者の言葉と翻訳調の言葉がごっちゃになっていて、それはどっちかに統一した方がいいと思いました。翻訳調の言葉で統一した方が良かったんじゃないかと。若者言葉が逆に説明的に感じました。あとはキャサリン役の女優さんが、最後の方でお父さんの思い出を話すんですけど、論文が詰まった時に父親と一緒にテレビを見てとか、あのシーンは父親のイメージができていて結構よかったと思いますね。「セリフにあるイメージを持つ」っていうのも難しいんですけど、最後の方はしっかりできてたんですけど、セリフだけ言っててイメージがついてきていないシーンが多かったので、共感できないシーンもあった。キャサリン役の女優さんは最後の方は良かったんですけど髪を金髪に染めてて長くて、ハルに信じてもらえなくて一瞬気が狂ったようになるじゃないですか、髪が前に来て全然顔が見えなかったので、あそこは重要なシーンだから表情が見えた方がいい。それから染めてるのもちょっと…アメリカ人がみんな染めているわけではないので、アングロサクソンとかアイルランド系の人は濃い茶色ほとんど黒、みんな染めてるわけじゃないのでちょっとステレオタイプのアメリカ人の外見をやってるのはちょっとと思いました。
ムネノリ:今回の舞台が大ホールだったので、大ホールじゃないところだったらどんな作りをするのかなと思いました。大道具が入ったらどんな風になるのか。照明の使い方、暗転の使い方が…休憩に入るのもなかなかないので、「ああ、次!」というのが楽しみで。音楽があまりなかったのがドキドキしたところです。
――ここで出演者と演出家が登場!
柴山:いろんな切り口で語れると思いました。まずアイデンティティの確立の問題。例えばキャサリンでは研究者としてのアイデンティティ、プライドを傷つけられるとか自分を認めてほしいとか。介護の問題もあります。また父親と娘という関係についても考えました。昨日、母と娘の芝居を見たこともあって、その比較という点でも、父娘の関係というのも独特のものがあって自分の父との関係を照らし合わせながら考えるところが大きかったです。そしてやっぱりジェンダーの問題。アカデミズムにおいては前近代的に女性の搾取、抑圧がなされてきた事実もあるのでその視点でも語れますよね。
ばらぞのさん、「福岡では見ないような緻密な芝居」とおっしゃいましたが、もう少し詳しく説明していただけますか。
ばらぞの:むずいですね…
ます:演じようとして作られた瞬間があまりない…会話がきちんと成立している。間があるのは当然、関係で発展せざるを得ない間…ちゃんとそういうのが繋がっているのはなかなかない、という意味じゃないですか。
ばらぞの:セリフ順番に暗記して順番に喋るという芝居を最近見てたので…
柴山:先ほどタクさんがおっしゃっていたのと同じことですね?

●なぜ女性が父親役を?
ばらぞの:キャスティングについて話したいです。なぜ女性が父親役をしたのか。
ます:最初は違和感があったんですね。映画のイメージもあったんで。言葉の中に、随所随所、キャサリンには男性言葉が飛び出してくる。ただ見てるうちに違和感がなくなって、語られてる数学の世界、キャサリンの置かれた状況と男性の役を女性がやっている事とかが、女性だけど男性的なセリフを使っていることが繋がっているような気がしてきて。
タク:私が思ったのは、キャサリンが「俺」と言っているのは最近の女子高生ってみんな「俺」「僕」って言ってますよね、だからそこから来てるんじゃないかと。
柴山:なるほど。私はそうは思わなくて、ますさんと同じでした。先程えいさんがおっしゃったように、数学の世界がとても男性的な世界で男性優位主義というか、ひょっとしたら、そのためにキャサリンが使っていたのかもしれないし、あるいは数学と一体化する意味に置いて男性的な言葉だったのかと思いました。
てつ:イメージの交錯をあえて演出されていたのかなとだんだん思ってきて、そこで自分の中で頭をチェンジしなきゃいけないかなと思って。キャサリンの男言葉も男性性の話というのが根本にあるのかな、それに対する抵抗みたいなのを言葉で出してるのかなと。
ます:父親から受け継いだものの一つという捉え方もあるかなと。父親も激しい言葉を使ってましたから。一緒に生活していたからやっぱりうつってきてと。
ムネノリ:(女性が父親役をやっていることに)最初は違和感があったんですけど、休憩が終わってからはもうお父さんにしか見えなくなったんで。特に気にはならなかったです。動きも男性みたいな動き方で。

あき:途中からその人にしか見えない感じで…個人的にはアカデミックな世界にいる友人がいるので大変な話は聞いているので、数学だけじゃなくてあの社会は縦社会で特に男性優位が若干…コンプライアンス大丈夫かなという世界観が見えるので、そういうのがなくなったらいいなという感覚ですね。
えい:仕掛けを咀嚼できてないですけど、お父さんはきれいな赤いワンピース着て女性の格好をして「お父さん」、キャサリンは普通に見たら女の子、名前も女の子と分かる状態で「俺」だったから、最初は別々の意味がありそうだぞと脳が追い付かなかったんですけど、お父さんがきれいな恰好をしていたことにより最後に出てくる外のTシャツ――あれが私にはもう股引にしか見えなくて――「お父さん…!」という感じになったから、最初にきれいな恰好にしていたことも仕掛けの一つだろうし、女の人が男の人の格好をするのではなくて赤いワンピースを着ているということに何か意味があるだろうなと思ったけど頭が追い付いてなくて。あとキャサリンに関しては、でも彼女の性格的には「私」ではないよなと。でもキャサリンも最初から「俺」ではなく生き抜くために「俺」になっていったとか…「大学に行くね」という感じの可愛らしい感じから、「これはもう私がいないとお父さん駄目だ」となってから生き抜いていくという、たった二人しかいない、二人で生きてきたということも、誰も助けてくれないという世界の中で「俺」になったのかなと。そこにある仕掛けはめっちゃありそうなんだけど、頭が追い付いてないです。
柴山:キャサリンってちょっと素直じゃないですか? なんとかかんとか言われて「うん」とうなずくとか、可愛いなと思って。そういう可愛らしさが、言葉遣いや粗い態度の合い間に見えて。素の部分と荒々しさとのギャップもあって可愛く見えたんだけど、ちょっと話が逸れて申し訳ないんですけど、彼女が誰にも信じてもらえなくて一週間寝込んだ後に最後にクレアと話すシーンで、めっちゃ不細工に見えて。
一同:(笑)
寺村恵理加(キャサリン役):嬉しいです、ありがとうございます。
柴山:ごめんなさいね、褒めてるんですよ。だけど最後、ハル君が来て彼女の証明を説明しようとするぐらいから顔が変わって顔がぱぁっと輝いて。あんなに不細工だったのにこんなに変わって見えるんだと(笑)。私は彼女が本来持っている素直さというものも感じたんです。関係ない話でスミマセン。
えい:可愛いままで生きられなかったのがかわいそうだなと思いました。

●娘(姉妹)と父との関係
柴山:そうですよね、では…あのクレアよ、どう思った?
一同:(笑)
ばらぞの:お金を払わないとのたれ死んじゃうから私はクレアは正しいと思った。なんでこんなクレアは気を遣ってかわいそうと思って(笑)。みんなわがままだなと。
一同:(笑)
柴山:「しりぬぐいが私の役目」的なことをクレアが言ってましたよね、あの気持ちはわかるんですよ。だけど、一回でも見に来たか?とキャサリンは言いたい気持ちもあるんじゃないかと。
ばらぞの:でも16時間も働いてるんだから来れないよ!
一同:(笑)

ます:今回のお話の中で一番難しいのがクレアのバランスだと思います。単純に悪役にしてしまえば…お客さんの嫌悪感が集まる役にするのは分かりやすい話になっちゃいますけど、そうじゃないよねと思わせないとこの芝居は成り立たない。
柴山:クレアのことを「む…」と思ってしまったのは、自分の親に対する罪悪感を喚起されてしまったからなんです。忙しいのを理由に会いに行かない自分をクレアと重ねたというか。私はお金を稼いでないからクレアよりひどいんですけどね(笑)。
えい:私はめんどくさいことは全てクレアがやってくれたと思った。現実的な手続きとか。家族二人を養うことは大変なことで、それ以外にも家を維持しなきゃいけないし。「書類が大変だったのよ」というセリフがあったけど、そうよね、すっごい大変よね、そんなことをクレアはやってくれたのよねと思いながら。二人きりだったお父さんが亡くなった時の(キャサリンの)喪失感って相当なものだから、猶予をあげてると思いました。
一同:(笑)
柴山:クレアに関して言えば、多少、キャサリンを羨ましいと思っていると思ったんですよね。キャサリンが父親と似ている、クレアのセリフで「私にも父の千分の一の血がどうの」というのがあったと思いますけど、「私だって少しお父さんの血が入ってるのに、キャサリンがいいところも悪いところもとっちゃって!」みたいな気持ちもあったかなと思いながら…。だから父と娘というのも――キャサリンと父、クレアと父という父娘の関係を考えたんですよね。
ます:私には娘はいないんですが、私には姉がいて父と姉との関係を見ていると、世話する関係…姉が父を世話するのを見ていると憧れる…じゃないですけどうまくいっているような、繋がりができてる関係性。だから母と子の関係性みたいなものが父と姉の間にはあったような気がしてます。今回の芝居で言うとキャサリンは世話する立場にあったけど同時に戦友に近い関係であったところがクレアとの大きな違いだったかなと。父と娘の関係性ではあるけれどタイプが違う二人の関係だと思います。
柴山:そうですね、偉大な父に対するあこがれや、変わってしまった父への残念な気持ちや悔しさや、共有できている父と妹の関係を見る姉の気持ち…とかですよね。
えい:一度も家を出たことがないというところも大きいのかなと。お姉ちゃんのクレアは離れることができたからそれによって客観視できる、でもずっと子どもの頃から大人になっても一緒にいるとちょっとそれは難しい。お父さんがいつまでも「お父さん」だから。一度外に出たクレアだったら、お父さんがあんなになったら施設に入れようとなるけど、一度も出たことがないと「全然知らん所にやるなんて、お父さんはやっぱりここで」となるから客観視の出来なさとか結びつきの強さみたいなところも元々強かったうえに、さらに数学で結びついてるから、関係性が強すぎる、傍から見たら悲劇、本人たちは悲劇と思っているかは分からないけど、なのかなと。
柴山:うん、共依存かなと。「離れないで、お願い」というお父さんのセリフがあったけど、お父さんだけがキャサリンに依存しているわけじゃなくてキャサリン自身も憧れの父、変わっていく父、が私にすがっている…という共依存の関係かなと思います。おっしゃったように、クレアは離れているからこそ見えてくるものがあるというのはそのとおりですね。
てつ:姉妹間の嫉妬みたいなのもあったかもしれませんね。母親の話は出てきませんでしたけど、父親という存在が二人にとっては大きいんですけど、数学のスーパーな人だから近づけない自分のもどかしさ、対して妹の方はその才能を受け継いでいたり(父と)過ごす時間が長かったり、客観的には(クレアも)能力は持っているんだけれども実は本当は中に入っていきたい、妹に対しての嫉妬というのも感じた。
●舞台効果
柴山:舞台美術で、中央にノートが連なった2本の柱がありましたけど、あの柱部分は鎖でしたよね、そして下に重しとして石だったかブロックだったか、それがとても象徴的。数学にがんじがらめになっている、逃れられないということをこの2本の鎖とノートの柱で表してるだろうなと思いました。先ほどムネノリさんは音楽がないとおっしゃってましたね。
ムネノリ:もっと激しいものがあるのかなと思っていたけど、シーンと…あえてそうしていることで、セリフを聞こうという気になるのかなと思いました。観客の声を出してくださいという演出もあったんですけど、音もないのもまたチャレンジだなと思いました。
ばらぞの:怖くないのかなと思いました。クレアがノートを取りに行く時、ハルは自分の顔を触るぐらいしか動きがなくて。
ムネノリ:その時間が特にリアルでしたね。
ばらぞの:そうそう。
ます:どこに取りに行ってるのかもイメージできそうな時間だったなと思いました。
柴山:ばらぞのさんは、その時間が役者として立っていたら怖いだろうなと思ったということですね?
ばらぞの:そうです。音もないし、すごい勇気のある人たちがやってるんだなと。
富田文子(クレア役):でも世莉さんは、音響をガツンと使う人ではないので…
ヒザイミズキ(父・ロバート役):むしろ多いぐらい…
富田:ドアの音ぐらい
ヒザイ:鳥の音と、ラジエーターの音、あとはパーティの音ぐらい…

●介護の問題
えい:年取ってお父さんを施設に入れる手立てはいっぱいあるんですけど、精神障害の人を施設に入れるのはすごい大変だし…知人が入っていたんですが監獄みたいな、鉄製の扉閉められたらどこにも行けません、閉じ込めるだけみたいな…あの状態のお父さんをお父さんらしくいられる状態でと考えたら、特にあの当時、預けられる先なんてなかっただろうなって。でもそれを助けられる法もないし、国や地域の手立てもないし、そこが社会構造の話だなとも思ったんですよね。あの状態のお父さんにケアマネさんが入れるかというと…違うじゃないですか。ケアマネさんも高齢者に関してはプロかもしれないけれど、精神障害のプロじゃない。医者ではない。じゃ、精神障害ってプロフェッショナルな人でも難儀するような人たちを抱えた人はどうケアするか、その構造上の至ってない問題というのが詰まっているなと思いました。
柴山:キャサリンがN.Y.に連れていかれそうになる時に「私のことも病院に入れるんでしょ!」という会話が出てきましたが、紙一重の、ちょっと錯乱状態になっただけでも「この人は頭がおかしくなった」と言われる、年齢に関係なくせん妄状態だってなる可能性がある、ってことですよね。簡単におかしいと断定されて連れていかれそうになる…ことを考えた時に、介護する側だけでなく「される人」というのも曖昧なんだよなと考えました。
それとやっぱりキャサリンがお父さんの書いた証明を口に出して読む時、ちゃんとした数式が書かれているはずのノートに支離滅裂なことが書かれている…それが声に出して読んだ時に体に落ちてくる、それは娘としてたまらんなと思いました。
ます:そのシーンで、だんだん比例するように(お父さんの)言葉とかが、不安になっていく、子どもになっていく…。精神障害でおかしくなっている人っていうのは、本人は気にしてないと思われがち、周りはそう思う。でも(本人も)周りの反応を見て自分がおかしいというのが分かる。
柴山:認知症のお年寄りもわかると言いますよね。
ます:わかるから、それに対して何とかしたい気持ちもあって、でもうまくできない。自分の感覚がおかしいから、感覚がおかしいんだと分かっている感覚もおかしいのかもしれない、無限にぐるぐる悪化していくような精神状態もあるのかもしれない。
柴山:そのすぐ後にすがりついて「お願い、離れないで」のセリフですもんね。
ます:単純に「おかしくなっている人」という描き方を世の中のドラマなどの描き方もされますけど。おかしさの根っこが役者たちにない、「おかしい人です」という記号として使われているだけなので、今回の芝居ではロバート(お父さん)もキャサリンにも筋があった上でそれが世の中とずれているというのがちゃんとできてると感じました。
●何の「証明」なのか
タク:この作品て、介護してきたキャサリンの苦しみとか、介護せずに経済的に支えてきたクレアの思いも重要だと思うんですけど、もう一個重要だと思うのは、この証明とは一体何だったかだと思うんですよ。教授が書いていた証明、季節とかも書きこんだ素数の証明。それを継いで新しいものを発展させた証明をキャサリンが書いたように見えるんですよね。その証明が何だったのかというのは、今回の上演のセリフを見る限り、書いていない。どういう証明だったのかが書かれていないから、それは俳優と演出家が作るしかないと思うんですよね。そこが今世紀最大の証明が何だったのかというのはこの上演からは分からなかった。映画も見たんですけど、映画もそこは曖昧だった。ハルとかすごいと分かってるんですけどどのくらいすごいと分かっているかの感じを出すのが難しいのかなと思いました。
柴山:証明のすごさが分かるような演技? 証明の内容ですか?
タク:証明の内容、どういう素数の偉大な証明だったのかというのは、今回の上演でも映画でも曖昧でした。
柴山:演技力でわからせるべきということですか。
タク:リアリティを持って…証明に関して俳優なり演出家が学んでこれどういう証明かを設定していく必要はあると思います。映画版でもどういう証明かを考えるのに数学の専門家に聞いたらしいですけどみんなちんぷんかんぷんだったらしいです。どういう素数の証明だったかって(脚本に)書いてないですか?
黒澤:書いてないですよ、それは、戯曲には。
ばらぞの:でもハルが聞いてもわかんないだから、私たちが聞いても分かんない(笑)。そういう所が重要ではないのかなと思いました。
ます:そういうのを検証するのに何年かかかるというのを聞きました。
柴山:なんだっけ、数年前に数学の…ABC予想を京大の先生が発見したけど、それが分かる人が世界に3人ぐらいしかいないって(笑)ニュース。
タク:私もイギリスの大学院に行ったんですけど、ハルが、キャサリンが書いた証明はあなたが書いたんじゃなくて教授が書いたんだと主張するじゃないですか。後で新しい数学の理論を使ってるからこれはキャサリンが書いたって変わるじゃないですか。これは博士レベルの論文だと思うんです、だから口頭試問すればわかる。それは戯曲の設定として甘いところかなと。博士課程に行った人だったらこれがキャサリンのものと証明するのは口頭試問をすればわかるということがわかる。口頭試問はそのためにするものだから。この証明に関して2時間ぐらい聞かれますから。
柴山:ただそれよりも、ここはキャサリンが「私が書いたことをあなたに分かってほしかった」ということだから。
ます:もっと手前の部分、口頭試問の手前で、キャサリンがどうやって書いたんですかということの証明の話でもある。
タク:論文を書いたことがある人は分かると思うんですけど、この論文について質問して答えられなければ、書いてないとすぐわかります。
柴山:まぁ、ハル君は質問すらできないって言ってますけど(笑)。ただ、現実的には、確かにそうですけど…
タク:質問出来ないんだったらすごいってことはわからないんですよ。
えい:質問の機会すら与えられなかったってことでは。『チ。』の話になりますけど、結局女の人が書いたというだけでチャンスがない。これを私が書きましたというところが、ジェンダーの問題が隠れている…。
柴山:ジェンダーだけでなく、キャサリンは大学に行ってないという点もありますよね、ハル君のそういうセリフがありませんでしたっけ。
黒澤:あります。
えい:あなたが書いたと認めるかどうかの所にすら行かせてもらえない…んじゃないかと思ったんですよね。口頭試問の手前で止められているんじゃないかと。
柴山:そののちにキャサリンが遭うであろう状況を、ハルの態度で示しているということだと思います。アカデミズムの世界で信じてもらえないという状況。
えい:最後は信じてくれたけど、ラストのシーンが来るまでは絶望的だったと思います。
ます:映画では、一度キャサリンは「私が書いたのではなくお父さんが書いた」と主張を覆します。その後にN.Y.に連れていかれる。個人的にはあのシーンでモヤモヤしてたんです。この芝居であのシーンが出てくるのかと気にしてたところだったんですけど、無くて良かった。あそこで納得してしまうとさらにもう一回ひっくり返すのがしんどいだろうと。逆に言ったら諦める、自分が証明したという主張を諦める方が絶対楽だったんで…。
●関係者の方々のコメント
柴山:時間が来てしまったのでそろそろ終わらねばならないのですが…
ばらぞの:え~、せっかく(演者と演出家が)来てるのに、ファンミーティングみたいに(笑)
柴山:はい、では一言ずついただきましょう。
富田:クレア役だったんで、意見の食い違いが面白いと思って聞いていました。キャサリン、クレアに感情移入する人たちの意見がバチるというのがマジで面白いなと(笑)。自分がやっててクレアの方に意識を置いて役作りをやるので正当性があると思ってるんですけど、実際に介護をした人はキャサリンの方に気持ちが行くよなあと。でも金ないと生活できないとよ私は思うよ…
一同:(笑)

富田:でも「あなたがよければ」と言いながら先に段取りしているのはまじでひどいなと(笑)。
ヒザイ:ジェンダーの話、父親役を女性がやっているという前提で話が進んでいましたけど、これロバートが女性だと思った人は誰もいないですよね。えいさんは衣装とか違和感、解釈が分からないと言ってました。でもまきさんは男性の役を女性がやっていると言っていた。でも私は女性の格好をして女性のメイクをしていた。女だと思った人はいないのかな。
タク:でも「お父さん」と言ったから。
柴山:そうそう、「お父さん」と言った瞬間にお父さんなのね、と。
ヒザイ:女装をした男性とは思わなかった?
柴山:ああ! そんな風には思いませんでした。
タク:お母さんの設定に変えたのかと思ってたんですけど、途中で「お父さん」というセリフが出てきたので。
ヒザイ:そこはちょっと私たちの中でも議論になっていたので。一つ前に黒澤世莉の演出で私が出演していた作品で全部、性を逆転、お父さんと言われている私は女性、お母さんの役を男性がとやってその時はそのように受け取られたんです。でも今回の芝居は私だけが逆転してる時にどう受け取られるのかなと思ってたら、「父親を女性がやっている」というのが多いのか…と。やってみないと分かんなかったので。
ばらぞの:女性がお父さん役をやると事前情報にあったので…めちゃくちゃ宝塚みたいな人が来るんやろうかと(笑)。めっちゃ「男!」でやるんかなと思っていたら、赤いドレスの人が来たので「わかりました、私はこれを受け入れましょう!」と受け入れることにしまして。
ます:私も知っていたので、「男の役を女性がやっている」として見始めたんですけど、途中からもう「あの役はこの人がやっている」という見方になっていたので、ちょっと時間はかかりましたけど途中からはたぶん、「男の役を女性がやっている」という見方ではなくなっていたかなと思います。
ヒザイ:どっちに振るか…もうちょっと女、もうちょっとお父さんみたいじゃないかとか思いながらやったんですけど。先ほど「共依存」という言葉が出てきましたけど私の中でキーワードとしてあったので、母子の方が密着しやすい、私と恵理加(キャサリン役)が背格好も似ているしセリフ上もキャサリンは「俺」と言うし映し鏡になりやすいんじゃないかとか、ハグとかもするとかお父さんだとそこまでベタベタするだろうかと考えると、今回は私が身体的に女と言うのがロバートとキャサリンの密着感がほぐれないというところに繋がるかな…と。男をやるとは思ってなかったんですけど、答えがあるわけじゃないので聞いていて「そういう受け取られ方一つ一つが答えか」と思ったので聞けて良かったです。
ます:男性にはできないロバートだったと思います。
寺村:感動しっぱなしで、ヤバい泣きそうと思って聞いていました。キャサリンの口調が荒っぽいのを「男性言葉」と数人がおっしゃっていたのが面白いなと。じゃぁ女性言葉ってどんなものをイメージしてるんだろうと。キャサリンが荒っぽい口調をしているのが親の介護をしているなかで強く生きていくからそうなったのじゃないかという意見も興味深いと思って。厳しい社会で生きていくためには男性っぽいものを獲得しないと生きていけない、そういう考えがあるのかなと…。それとアカデミックな場で生きていくためには男性っぽく生きていかねばならないという…そんな社会があるということが、改めて思ったしみなさんにもじわじわと伝わっているのかなと言うのが面白いなと。
柴山:確認したいのですが、本戯曲は黒澤さんが改めて翻訳されていますよね。キャサリンのセリフについては初演の時とどの程度違うんですか。
黒澤:全然ちゃいますね。
柴山:ではこの荒っぽい口調と言うのは今回の戯曲で…
黒澤:完全に意図的にやっています。前は違った。
ヒザイ:初稿は違ったんです。最初は女言葉だったのを替えました。
柴山:英語の字幕は?
ます:女性の言葉で。
ヒザイ:英語はジェンダーが出にくいですから。日本語にするときに一人称が変わるから。
松井里美(新潟公演でのクレア役):感想をたくさん聞けるのが楽しいなと思って。すごい情報量の芝居なので、それをここまで拾い上げてくれるんだって思って聞けて良かったです。世莉さんが、テーマ的にホールケーキみたいにしたい、登場人物みんなにスポットライトが当たるようにしたいと言っていたので、クレアがそれに負けないようにやれたらなと新潟公演でやったので、ちゃんとクレアのところも見てくれていて嬉しいなと思いました。


黒澤:客力、高ぇ~と。めちゃくちゃ頑張って一個に絞ると、キャサリンとクレアの対立というお話に受け取られたくないなと思っていて、やっぱり構造の問題、何でこの二人はケンカしないといけないのか、おかしくない!?と思ってもらえるといいなぁと…お金稼いだからいいわけでもお父さんの面倒を見たからいいわけでもなくて。最近僕は、見えないものを見える化できるといいな、聞こえない声を聞こえたらいいなと思っていて、ヤングケアラーの問題も見えなくなってると思うんですね、すごく苦しいのにケアに繋がらないということがたくさんある。それはやっぱり僕も見えないから僕が作品を作ることに意味があるのかと悩んじゃうんだけど、少なくともこういう所で見えない人がいるんだということをみんなで共有できるのはいいこと…僕にとっては必要なことかなと思っているという感じ。精神疾患のある生きづらさはみんな違う、でもそれはみんな違う…生きづらくないですか? 生きづらくないですか? 社会で生きていくってすごく複雑だし、書類の話が出ましたけど、書類が書けるかどうかで価値が決まるっておかしくないですか。
ばらぞの:一番助けられなきゃいけない人が書けない。
黒澤:この世界は、文字が書けて書類が書ける人が豊かになれるという構造自体が見えないじゃないですか。当たり前になっていて。そういうことをみんなで考えられるようになれるといいなと言うのと、生きづらさを持っている一人一人に対してエンパワーメントができるといいなと思って作りました。だから応援された感じになってくれたら嬉しいなと思いました。
柴山:ありがとうございます。話し足りませんが、ここで終わりたいと思います。

