<元RKB放送劇団員 若尾延子さん> *2006年5月に取材、New Theatre Review21号(2006年6月)より

若尾さんは1921年生まれの85歳(2006年当時)。地元福岡では、「このうまさは食べんと分からん分からん」のセリフでおなじみの明太子「福さ屋」のCМに出演している。
小さいときからお芝居好き、宝塚が大好きで入団したいとさえ思っていたが、両親に反対され断念。日本女子大に進学、新劇、歌舞伎、ミュージカル、宝塚などを存分に観劇していたそうだ。放送劇団に入団したのは33歳の時。最初はNHK熊本放送劇団の1期生としてだった。
若尾:33歳の時に公募があったので受けたんですのよ。確か試験ではペーパーテストもありましたね。当時のラジオドラマの感想を書くという問題だったように記憶しています。録音に入る前に、アナウンサーや演出家が中心になって試験の合格者に講座を開いてくれました。東京のラジオ放送も聞かされました。この時の講座が心に残っている勉強ですね。当時は新劇の役者さんを使ったり、歌舞伎の中継なんかもラジオで放送していたんですのよ。RKBに移ったのは。主人の仕事の都合です。福岡に転勤になって、ディレクターに相談いたしまして、他の方は試験で入団されているのに、私は募集後に枠外で入団いたしました。後々まで「若尾はいつのまにか入ってきて」などと言われました(笑)。河原(重巳)先生が演出をなさっていました。
――RKB放送劇団では、CМが柱となりラジオドラマにも出演したという。
若尾:CМは1年先まで予約が入っているほどでした。今考えると贅沢な話ですね。それもKBCがすぐにできたでしょう、だからよその劇団にも出るようになってそれはもう寝る間もなくなって。何しろCМは生放送でしょう、スタジオにフジジン醤油のコーナー、こちらには森永キャラメルのコーナーとあって、そこで汝にスタジオに入ってスタンバイして何回稽古をして本番行きますというような感じで。トイレに行きたくなるんです(笑)。生の舞台よりずっと大変ですね。売り上げにかかってますでしょ。「放送のおかげで売り上げが伸びました」と言われるとホイホイなんですけど。森永キャラメルありますね、それから明治キャラメルがあります。これ間違って言ったらこれです、チョン(首切り)です。生放送だから、止めて言いなおすってことができない。だから本当に悲劇がありましたよ。
ラジオドラマももちろんありましたよ。当時の大きなスポンサーだった八幡製鉄所が新日鉄になるまで続いた『くろがね劇場』は週に一度の放送でしたから。これは九州文学の同人の方が脚本を書かれていたんですよ。人気番組で、夜明けの5時までかかって録音していましたね。『平家物語』(注:『新平家物語』か)もやりましたね、これはレギュラーでした。でも自分の声を聞くのは放送が初めて。テープが劣化するから放送前には聞かせてもらえなかったんです。『生活百科」の司会もしていました。やらなかったのは漫才ぐらいでしょうかねぇ。イベントは今みたいにどんたく祭とかあんな派手ではなかったです。あの頃もそうだったらきっと呼ばれていたと思いますよ。博多玄海さんともご一緒してお仕事をやりました。あの方は発声がすごくて、それから客の息を身体で覚えているんですね。だからラジオをやっても客をつかむのがお上手でした。
――やがてテレビの時代が到来。1958(S33)年、それまで九州電力の電気ビル6階にあったRKBがテレビ開局のために渡辺通に新しく放送会館を建設し移転する。
若尾:テレビのお仕事も入ってきましたよ。テレビの芸術祭はテレビが始まった翌年から参加しましたね。ラジオでは身体がどうしても動いてしまうものですから、マイクの前でやれと言われたりして、それに比べるとテレビの方は少し楽でしたね。でもどのカメラで撮られているかをちゃんとわかってないといけないものですから、それは難しかったですね。
――またそれ以外にも舞台でお芝居をなさったそうですね。
若尾:RKBに入った翌年に、河原先生の演出で舞台をやりました。ラジオドラマで入った役者が出たんです。お稽古の合い間に先生とお話することが勉強になりましたね。お芝居は年に一度、公演は二日ぐらいでしょうか。キップを売るのが大変ですからね。当時はタロウ劇場(古い市役所の横に演説用にできたホールがあったんです、大人数は入れませんけれど)や大博劇場(これは大きい劇場だから声が届かなくて大変でした)がありました。芝居の内容は、涙、笑い、怒りありの商業演劇の内容です。やりやすかったですよ。観客がどのくらい入ったか見張りを立ててね、今何人ぐらいですなんて楽屋に報告に来てもらったりして(笑)。お仕事としては、田舎の祭りの時に演し物の一つとして地方に行ってお芝居をすることはありました。
――RKB放送劇団のお給料は。
若尾:劇団にはまずフリーで入り、定着しても大丈夫となると3カ月契約で1カ月いくらという支払いでした。それが半年契約、1年契約となり、後からはずっと1年契約でした。契約も最初は制約があり、そこ(入団した劇団の放送局しか)出られなかったんです。それが5年ぐらい経って五社協定が結ばれて他のところにも出ていいということになったんです。自由になりましたね。途中で「1本いくら」という契約の形に変わりましたけれど、そうすると何しろ数が多いでしょう、出演料が大きくなってやめてくれということで、元の年間契約に戻りました。役者さんによって契約金額は違いました。ですから今のプロ野球のように、契約時になると一人一人呼ばれて考証してもっと上げろとかありました。失敗なんかした人は下げられる。だからね、同じ劇団といっても、だんだんまとまりが悪くなりましたね。
それからRKBは年金をつけてくれたんです。部長がね、後に参議院議員になった部長ですけどね、わりあい物分かりがよくて、その代わり劇団員をもう少し少なくしてそれで年金をつけてくれたんです。契約の時に、社員と同じ健康保険をつけて厚生年金組合に入ってRKBの年金組合に入れてくれたんです。それはとても助かりました。それはどこもしてないんじゃないですか。大事なことです。

――テレビが台頭しラジオは陰に追いやられますね。放送劇団でもラジオは完全に陰の仕事となり、テレビもローカル局では制作することがあまりなく、どちらも制作が下火になった。「東芝日曜劇場」や芸術祭参加ドラマも年に数本は制作していたが、仕事そのものが減り、放送劇団は大きな壁に突き当たる。
若尾:RKBには18年いました。主人の転勤で東京に行くことになって退団しました。やめてしばらくして劇団は解散しましたね。その頃はもう皆さんが東京へ、東京へ、一回でいいからチャンスがあれば東京へ行ってこようと。半分ぐらいは出たんじゃないでしょうかね。団員の下川辰平さんだとか、私なんかもNHkで使ってもらえてテレビ小説なんかで使ってもらえましたから良かったんですけど、それで東京からまたこっちに帰ってきて、東京で学んだことがこっちで花が咲きました。劇団をやめた方たちはフリーでお仕事をやってらっしゃいましたね。やっぱりお芝居好きの方と放送好きの方と、持って生まれた好みがあるんでしょうね。フリーでやると言っても本当に純粋にフリーでというのは、どこかの映画会社とか劇団のトップとかじゃないとやっていけませんよ、だからフリーでやってる方は下働きの下働きを、細かい仕事でも否応なしにやっているというのが実情ですね。ですからね、私が東京から帰ってきてからも東京に行きたいんですという相談を受けたんですけど、私は「東京って言うけど、あなた、どこに住んでどんなご飯を食べて生きていくか考えてる?」ってきくと「いいえ」って。東京はちょっと放送局に行くまでにすぐ千円はかかるのよ、そんなことを考えないと、と言ってました。その頃は民藝、俳優座、文学座、この三座に入っていれば下っ端でも何とかやっていかれるというのがありましたが、今はそんなことがなくなりました。ただ芝居だけじゃなくて歌が上手とか絵が上手とか売り出すものがいっぱいないと売り出せないよと言うんですよ。その辺りを考えていただきたいですね。