福岡の演劇の歴史2 放送劇団② RKB放送劇団-1

 九州で初の民間放送会社としてスタートしたのがラジオ九州(RKB)、現在のRKB毎日放送である。1951年に全国14地区16社に放送の予備免許が与えられたのだが、当時は放送に使用できる電場周波数帯をほとんどNHKが使用していた。また朝鮮戦争の特需景気が物価の高騰を招き、開設の資金集めから苦労をしたという。だが八幡製鉄所が筆頭株主を引き受け、それに続いて地元の有力企業が出資して同年6月に福岡市中島町の毎日新聞福岡総局別館にラジオ九州が誕生した。仮スタジオと送信所を糟屋郡大川村(現粕屋町)に置きしばらくは不自由だったようだが、ここから九州初、民放4番目となる本放送が始まった。(同年12月に九電ビル=電気ビルが竣工・移転し、また3つのスタジオも完成した)。

 初代アナウンサーにかなりの数の応募があったが経験者が少なく、台湾放送局や元満州電電(株)などから人を頼んだ。地元のNHK福岡の放送劇団からも松野智恵子が初代のアナウンサーに名を連ねている。

 さて開局当時はNHKラジオ放送劇(初期はラジオドラマと言わず「放送劇」と呼ぶことが多かった)の全盛期で『鐘の鳴る丘』『君の名は』などが一世を風靡した。そんな中でラジオ九州はあまり期待されずに出発することとなったが、蓋を開けると予想外に好成績だったという。創業者はニュースを中心に進めるつもりで電気ビルスタジオにはワンマンコントロールでできる放送卓を作っていたそうだが、聴取者の期待と制作者の熱意によって「放送劇」に取り組むことになった。開局2年目にはベテランプロデューサーの大坪二郎、金子保が入社していよいよ制作がスタートした。

 ドラマ制作にあたって声優を集めようと、1952(S27)年2月に福岡在住の男女大学生に呼び掛けて結成したのが「RKBラジオドラマサークル」、のちのRKB放送劇団の母体である。その後、東京のように外部に依頼して声優を調達することができないために、専属の芸能団を組織してプロとして通用するレベルを維持しようと、サークルに続いて劇団を作ることになった。

 指導者として北九州若松市から鉄工所経営者の河原重巳を招く(河原はこれを機に経営から退いた)。河原重巳は、1946年のNHK放送劇団による第一回放送劇に於いて演出担当だったし(中止になったが)、同年10月には若松で劇団鴎座も設立したようで、当時活躍している地元の演劇人だったようだ。応募してきた劇団員の数は300名、5月に毎日新聞福岡総局でテストを行い、男性8名女性14名を採用した。すぐに活動できる人は局と専属契約を結び、勤務先の都合や学生など事情がある人は準専属あるいは研究生となる。折しも翌年は民放開局ラッシュで九州全域に民放ラジオが誕生しほとんどの局が劇団を持ったが、RKBのように有給のプロ劇団はほとんどなかった。基礎研修は河原重巳(肩書はプロデューサー)、徳永麟之助が中心となり、日本語の発声やアクセントについてはベテランアナウンサーの城座孝雄、細谷清吾、古家正義らが研修を行った。研修中から早くも仕事が始まり『お茶の時間・川柳コント』『グリム童話集』『幼児の時間』『くろがね劇場』『九州こども風土記』などで活躍することとなった。

 テレビ時代が本格化する1960(S35)年まではラジオ時代の黄金期で、RKBでは先に挙げた『くろがね劇場』などが局の看板番組となった。始まりは『くろがね物語』(1952年12月3日~1953年5月)という名称で、結成してまだ半年のRKB放送劇団のメンバーが出演し、劇団指導者の河原重巳が演出している。古代から現代まで鉄と人の関りを辿った連続放送劇で(提供は八幡製鉄)、「九州文学」の面々(火野葦平、劉寒吉、岩下俊作、矢野朗、原田種夫)による書下ろしだった。途中いろいろと名称は変わった*1が、週に1回の1時間番組で、1961(S36)年3月まで続く息の長い番組となる。1959(S34)年には、この時点で7年も続いた純ローカル番組という実績が認められ、第7回民放大会番組コンクール番組賞揚で民放連会長賞を受賞した。ドラマ制作に力を入れたラジオ九州は、その後も九州を題材にしたいくつもの作品を手掛け、RKB放送劇団もそれらに出演していった。特に吉川英治原作の『新平家物語』(『くろがね劇場』から引き続いた八幡製鐵の提供である)や30分の実験ドラマ『ラジオホール』などは、劇団員の演技力が求められたという。開局からわずか3年で芸術祭放送部門の奨励賞を3度も受賞するほど、活気づいていた。余談だが、寺山修司が放送作家としてデビューしたのは、実はRKBラジオである(初回は1958年『ジオノ』)。

 特筆すべきなのは、1954(S29)年に制作された放送劇『ボタ山』である。本作のためにRKB音響効果団を誕生させたのである。筑豊のシンボル・ボタ山(採掘後のクズ石炭や石などを積み上げた山のこと)のかげの炭住(炭礦長屋住宅)で暮らす貧しい人々の姿を描いた作品で、どうしても音響効果の専門家が必要となり、当時フリーでLK(NHK福岡)にて活躍していた高木一郎に頼んで契約したのだ。その年からただ一人のRKB効果団が誕生した。高木によって効果団充実のために人が集められ効果団の人員は増えていくが、経験がものを言う職人的な世界なので大半はNHKの熊本・長崎・小倉で働いていた人たちを引き抜いた形となった*2。(その内の一人、野上宏道へのインタビューは後掲する。)これらの人々は、のちにテレビ時代になるとRKBからKBCをはじめとする各局に貴重な放送経験者として移籍していく。なお、同年、RKB児童劇団、RKB児童合唱団も誕生している。児童劇団は誕生してすぐに『ボタ山』にも出演を果たした。ちなみにこの30年後に福岡市で「演戯集団ばぁくう」という劇団を立ち上げることになる佐藤順一も、RKB児童劇団に所属していた(S40年入団)。管弦楽団が誕生するのはもう少し後のこと1957 (S32)年のことであるが、こうして放送劇制作の環境が整ったのだった。

 放送劇(ラジオドラマ)全盛期はテレビが始まるまでの10年ほど続く。のちに上京し文学座を経てテレビドラマ『太陽にほえろ』などで活躍した俳優の下川辰典(後に辰平)を含めRKB放送劇団員たちは数多くの作品に出演し大活躍だった。

 1956(S31)年には公開録音がスタートし、第一回目を電気ホールでやっている。作品は北条秀司の『麦踏み』一幕、これが好評で、以後劇団員による定期公演も始まった。『にしん場』(中江良夫作、河原重巳演出、電気ホールにて、翌年には再演も)『俺たちは天使じゃない』(アルベール・シュッソン原作、天本一雄演出、大牟田市民会館にて、小倉公演も)『娑婆に脱帽』(松木ひろし作、河原重巳演出、戸畑市文化ホール、大牟田市民会館にて、翌年には電気ホールで再演)と続いた。

1957(S32)年ラジオドラマ『花と龍』出演の放送劇団メンバー 写真提供・菊地宏道さん

 その後、1958(S33)年にいよいよRKBもテレビ開局となる。劇団員たちの活躍の場も広がった。開局記念として自社制作したドラマは『博多人形師』、これもまた演劇畑の河原重巳が脚本執筆(出演も)している。開始早々のこの頃は全生放送で(翌年以降に一部VTRの使用が可能に)、同年11月の『消防芸者』などは公開スタジオに火事場シーン、別のスタジオに座敷と病院のシーン、美術部の廊下を道路シーンに仕立てて大変な制作だったようだ。RKBテレビ初の芸術祭参加作品で、出演は新東宝映画のトップスターだったが脇を固めたのはRKB放送劇団だった。

 RKBのドラマ制作は花開いていく。全国ネットドラマへの委託制作の要請が来ると、地元に題材を求め、中央の俳優とRKB放送劇団が共演するという形が定着する。九州弁を操る人材として放送劇団員が重要だったそうだ。例えば、RKBテレビが初めて芸術祭の大賞「芸術祭賞」をとった『海より深き』(1965年)も北林谷栄・南田洋子・小林昭二と、RKB放送劇団からは下川辰平・北川湛子・若尾延子らの出演となっている。

 ところが、1965(S40)年ごろからキー局の制作体制が整い、地方のドラマ制作環境が激変する。ローカル制作の注文が激減したのだ。(それでもRKBは大阪以西唯一のドラマ制作局として「東芝日曜劇場」を30余年に亘って年に数本手掛けていく。)放送劇団員たちはドラマの仕事もなくなり、次第にテレビ番組の司会に移行したり上京したりするようになった。そしてついに1971(S46)年10月にRKB放送劇団は20年の歴史を残して解散する。対照的に、後からできた音響効果団は局にそのまま採用されたそうだ。

 RKB放送劇団からできた劇団として「檜の会」というものがあったということを追記しておく(2006年、生活舞台の高尾豊氏インタビューより)。ただ、放送劇団が活躍中からのことなのか、解散後のことなのか定かではない。 ここから放送劇団員だった若尾延子さんと、音響効果団員だった野上(菊地)宏道さんのお二人のインタビューを掲載する。

*参考資料:『RKB放送史事典 RKB毎日放送創立50年記念』2001年

注(クリックしたら注が出ます)/

*1 「くろがね物語」52(S27)年12月3日~53(S28)年5月

   「九州の人々」53(S28)年6月~8月

   「西国よばなし」53(S28)年9月~54(S29)年2月

   「くろがね物語」第二次 54(S29)年3月~6月

   「くろがね劇場」54(S29)年7月~12月

   「九州女風土記」55(S30)年1月~6月

   「九州事はじめ」55(S30)年7月~12月

   「九州五十三次」56(S31)年1月~8月

   「新版江戸文学選」56(S31)年9月~12月

   「九州千一夜」57(S32)年1月~58(S33)年12月

   「くろがね劇場」59(S34)年1月~61(S36)年3月29日

   *なお、「くろがねシリーズ」が1960(S35)年2月17日放送で400回を迎えたのを記念して、新人脚本を募集した。選者は「くろがね」劇場の作家たち。

*2 長崎からは馬場恭二郎(のちに長崎放送、長崎文化放送役員)、熊本からは清田浩義、豊野弘介、高橋三喜雄、藤木大二郎、富永英明、相賀弘光、小倉から野上宏道、遠藤裕己ら。

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