福岡の演劇の歴史2 放送劇団① NHK福岡放送劇団

 放送劇団とは、放送局が作った専属の劇団である。生放送で始まったラジオ番組のCMやドラマなどに出演し、時代がテレビに移行しても出演していた。地方局においては「放送劇団員」たちが、劇団の解散後に独自に劇団を作ったり俳優をしたりと地方演劇を支えていく存在となる。その意味でも、こと地方においては戦後の演劇状況を振り返る時に「放送劇団」は無視できない存在である。

 日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年のことである。翌年には社団法人日本放送協会が発足する。「放送劇団」の始まりは、1941(S16)年 社団法人東京放送局(JOAK)がラジオドラマ専門のラジオ俳優を養成する2年制の養成所(東京中央放送局専属劇団俳優養成所)の研究生を公募したことである(応募総数は546名)。同年、それより早く全国に先駆けて放送劇団を創ったのはNHK大阪放送局(JOBK)だったという記述が、現在も活動を続けている大阪放送劇団のHPにある。

 福岡はどうだったのか。「敗戦後の福岡における演劇・芸能復興年表」によると、1946(S21)年2月17日にNHK福岡放送局で福岡放送劇団編成のための選考が行われ、翌3月には「地方放送の再開と演芸放送人の強化を図る目的で福岡放送劇団(男女約30名)が編成され」たという。第一回の放送作品は雨宮毅の書下ろし『博多千一夜』(演出:河原重巳)を予定していたが、事情により放送が中止になり、代わりに菊田一夫の『南風』を雨宮毅の脚色で放送した*1。ちなみにここで名前が挙がった雨宮毅とは、戦争前は「川丈劇団」の文芸部に所属し、戦後1946年5月に編集長として雑誌『九州演劇』を刊行した人物である(九州文学にも所属)。福岡放送劇団はそののち2~3カ月に一度、ドラマを放送している(1946年5月『山鳩の宿』、1946年8月『銀簪』、1946年10月『秋の声』)。

 当時の放送劇団のメンバーは不明であるが、『九州演劇』創刊号の「九州演劇関係人名簿」には、福岡放送局放送課長(同じ号には「放送部長」との記述も)の井上精三をはじめとする9名の放送劇団・放送管弦楽団所属の者の名前がある*2。その内の一人、進仁が書いた文章「日浅く、十分なる訓練のできない事情の中ではあるが、望月孝丸の擬音、代木徹平の発声法、古海卓二の演劇史解説、加えて私(注:進仁のこと)の演技、河原重(ママ)、大内田圭彌の演出、等の実際の研究発表も着々と進ますべく草案(ママ)中である。」*3を読むに、「演劇関係人名簿」に挙がった名前は劇団員を教える立場の者たちだろう。また『九州文学』同人による作品協力もあり「これらに依って育成される福岡放送劇団の成果は、近い将来に於いて必ず九州地方文化の輝かしい道標となるであろうことを、私は信じて且つ疑はないのである」*3と、意気揚々と始まったようだ。ところがその2か月後の『九州演劇』には「地方放送劇団の貧困」と題して、視覚芸術の舞台と聴覚のみに頼る放送劇は違うということ、地方の放送劇団は(東京放送劇団と比較して)舞台演劇を基本に指導をされていることへの不満、東京と同じとは言わないまでもせめて放送局側の積極的な放送芸術に対する情熱と地方文化人の理解ある援助が与えられてもいいのでは、と論じる一文が掲載されている*4。すぐにテレビ時代になった点では前半の主張は的外れとなったが、地方放送劇団末期の扱いに関して言えば、確かに当初からもう少し「地方文化人の理解ある援助」があれば違ったのかもしれない。  ではここから、各局の社史と、2006年ごろに私がインタビューした資料を基に福岡に存在した3つの放送劇団の活動とその軌跡を見ていこう。

注(クリックしたら注が出ます)/

*1 「敗戦後の福岡における演劇・芸能復興年表」石川巧

*2 井上精三(福岡放送局放送課長)、伊藤釋子(布左子)(福岡放送劇団)、毛屋平吉(福岡放送劇団管弦楽団)、佐藤博(京城放送劇団、福岡放送劇団、進仁(福岡放送劇団)、中村新(福岡放送劇団、劇作)、中野俊子(京城放送劇団、福岡放送劇団)、前田淑(福岡放送劇団)、代木徹平(安田秀雄)(福岡放送劇団、劇作・演出)

*3「福岡放送劇団」進仁 『九州演劇』1946年5月

1953年2月 – 東京放送劇団の団員は41名、テレビ演劇研究生は15名を数える。東京以外の劇団には96名(大阪:24名、名古屋:18名、広島:14名、福岡:14名、仙台:14名、札幌:12名)が在籍する。

*4 「地方放送劇団の貧困」藤樹豊 『九州演劇』第3号 1946(S21)年7・8月

 上述のように福岡放送局には1946年に「福岡放送劇団」が作られたのだが、他に「福岡児童合唱団」「福岡放送管弦楽団」も作られていた。だがあくまでも部外団体扱いで、練習時の交通費と放送ごとの謝金が支払われるだけで身分の保証はされていなかった。

 それが1951(S26)年に、劇団を専属にする方針が立てられる。放送内容の拡充を図るという目的のためである。定期的に行われる技量テストの結果や過去の出演実績などを参考に、一定の報酬を約束していこうというものだった。(児童劇団は専属制をとらなかった。)1951(S26)年7月に一般から募集し25名の研究生を得て訓練にあたる。翌年の2月には再び10名の研究生を募集して養成した。その中から優秀な男子5名女子7名を選出し、同年5月に本契約を結ぶ。他の研究生はフリーとなって臨時必要の場合に出演するという形をとった。

 その契約を結ぶ前の1951(S26)年12月4日にはLK開局21周年を記念して、九州大学中央講堂で開催した放送芸能祭に、放送劇『かしら文字』(作:佐々木恵美子)を公演してその技術を披露した。本契約直後には、その門出を祝して『門出』(作:山下与一)を放送。同年10月に行われた九州管内放送劇コンクールでは『霧の中』を放送して第一位となった。また最初の全国中継放送は『一番方入坑』(島本新太郎)だった。

 1953(S28)年12月には舞台公演も行っている。『コルプス先生汽車に乗る』(作:筒井敬介)を電気ホールで上演した。

 そのほか、1955年(S30)年には全国中継放送『筑紫の虹』(作:秋元松代)など放送した。ドラマはもちろんのこと、子どもの時間、学校放送、農村番組、婦人番組にも放送劇団の面々は随時出演。テレビが始まるとテレビドラマにも出演するようになった。1962(S37)年には全国向けのテレビドラマを8本も制作したという。これはドラマ演出技法を若いディレクターに学ばせようというNHK本部の意向があったらしいが、この年に福岡局にも待望のビデオ録画機器が配備されたことも大きかったようだ。翌年も全国向けに7本作っている。これらは「九州文学」の同人作家に作品を書いてもらい、放送劇団員が出演して作られた。

 しかし、劇団員の出演の機会は減少の一途をたどる。テレビドラマ黄金時代が終わりを告げるのである。福岡放送局での全国向けの作品制作は年々減っていき、1964(S39)年に2本、1966~68(S41~43)年には1本ずつと激減する。それと同時に財政的見地から局側は放送劇団員の専属契約制度自体を見直し始め、その結果として団員の身分保障問題などをめぐって局と激しく対立するようになる。劇団労組が結成されNHKと交渉の場が何度も設けられた。

 一方これと対照的だったのが放送劇団に所属する「効果マン」たちである。機器を操作する特殊技術者と位置付けられ、またドラマ以外の番組にも関わることが多く、1952(S27)年の夏から「放送効果団」が結成された。その後、劇団から独立して活躍し、1963(S38)年10月には全国一斉に解散し、正式にNHK職員として採用されている。福岡でもこの時に5人の新しいディレクターが誕生したという。

 なお、ラジオドラマの番組として代表的な作品を挙げておく。『笛吹童子』『新諸国物語』。またNHK福岡放送劇団出身で、後に上京して活躍した俳優としては今福将雄(本名は正雄)がいる。

*NHK福岡放送局 広報・中島正夫さんに2006年にご協力をいただいた。

*参考資料『九州演劇 1946~48ー敗戦直後の芸能文化復興』出版:金沢文圃閣、2024年、解題:石川巧/『NHK 福岡放送局史』1962年/『NHK福岡放送局50年史』1981年/『博多放送物語・秘話でつづるLKの昭和史』編集:NHK福岡を語る会、海鳥社、2002年

 中川豊子さんは、NHK福岡放送劇団の出身であり、「劇団道化」の創始者の一人である。…というよりNHK福岡放送劇団の団員たち数名が作ったのが「劇団道化」である。

 1926年生まれの中川さんは、東京で過ごした女学校時代から築地小劇場に通っていたという。だが放送劇団に入るまではお芝居をやったことはなかった。戦後の混乱期を熊本で過ごし家族や親せきを養うために働き通しだった彼女を見かねて、同級生が内緒で応募してくれたのが熊本の放送劇団。ご本人は舞台に立つなんて考えたこともなかったそうだが、お芝居についてあれこれ語る中川さんの芝居好きっぷりをお友達はよく知っていたのだろう。中川さん22,3歳の頃である。

中川:東京のNHK放送劇団は黒柳徹子さんなんかが五期生ですね。東京が最初でその後各地にできたようですよ。熊本も福岡よりも先にできたんです。それまで九州は熊本が中央放送局だったから。それまでも福岡放送局にもクラブ活動というかグループ活動的なサークルがあったんですよ。それが東京の第五期生の募集と同時に全国の地方放送局に専属の劇団を作ったんですよ。昭和26年解説ですね。その時は福岡放送局のサークルから採用されていないみたいです。熊本でも福岡の「生活舞台」のように劇団があって、職場演劇から何から、戦後はやっぱりほんとうにたくさんできましたね。

 私は昭和23,4年ごろに熊本放送劇団の募集をした時に応募して入ったんです。素人の集まりなのに第三次試験まであったんですよ。かなりの受験者がいましたねぇ。筆記が最初で、次に面接で、そして音声だったと思います。

――晴れて熊本のNHK放送劇団のメンバーとなられたんですね。昼間は別のお仕事をなさったまま、ですか。

中川:夜中ですよ、録音は。今みたいなきちんとした防音設備がないから。それと皆さん、昼間はお勤めしていて集まるのが夕方以降だから。若い時っていうのは一晩寝なくても大丈夫なんですね。(劇団の仕事が終わってから)アイスキャンディーを一晩中かかって作っていたんですね。古い機械だから作るのに時間がかかって。それを打ったりして、その後、劇団の仕事に行って。

 アクセントとかの講座も受けたんです。アクセントやイントネーションが主だったと思いますね。ラジオの演技といっても違和感とか何もないですよ。お金はもらってなかったんじゃないかしら。素人の集まりだから。その代わり研修をやってもらったりレクレーションをやってくれたり。時々、東京から演出家やタレントさんが来て一本作って、それが研修となってたんですよ。

 福岡でできるって聞いた時に、福岡に移る人がけっこういたんです。私は家に年寄りとかがいたから「行かない」って言ったんです。熊本には5年近くいましたねぇ。

――その後、福岡のNHK放送劇団に移られたんですね。昭和27年に熊本のディレクターが福岡移動の際に中川さんを誘ってくれたからだとか。熊本では中川さんお一人にだけお声がかかったんですよね。

中川:ちゃんと福岡法オス劇団として専属劇団が活動したのが昭和28年。熊本から私と、大分から江藤茂利と小倉から新井みよこ(「劇団東宝現代劇」に所属、舞台『放浪記』やテレビドラマでもバイプレイヤーとして活躍)という3人が中途で入る形になったんですよ。東京に行った人がいたから補充だったんじゃないかと思いますよ。福岡に入ってから、毎年、契約の時に一時間いくらにするとかいう支払いになったんです。それだけでは食べていけないから、台本をガリ版で刷るアルバイトを局が用意してくれたんです。私なんか字が下手でものすごく読みにくくてもアルバイトをしてましたよ。けっこうその頃は忙しかったですね。時間が不規則でしょ。だからこの時は専属で入団したという形。「薄謝協会」ですから(笑)、おうちが裕福だとか他に職業がある方じゃないとやっていけなかったですね。NHKには放送劇団とは別に「ひこばえ」という劇団があって、ラジオなどに人手が足りない時には出ていたようです。

――当時は天神にあったようですね。

中川:前は、今の岩田屋の新館の場所にNHKがあったんですよね。ある夜、録音している時に、なぜかイタチがスタジオに迷い込んできましてね(笑)、速いからつかまえることなんかできないじゃないですか、でもその当時のスタジオっていうのは防音壁はとっかかりがないからさすがのイタチも登っては落ちて。でも強烈なにおいを残して(笑)。それでやっと玄関から追い出したんです。イタチが出ても当然という場所じゃないんですけど、でも今みたいに不夜城じゃないですからね。そんなことを覚えていますね。

――放送局を越えて出演や交流があったんですか。

中川:その後に、NHKとRKBとKBCという放送局の垣根がなくなって違う局の番組にも出演してよくなったんですよ。RKBは芝居の豊富なところだったんですね。それで「東芝日曜劇場」なんかのテレビにも出たんですよ。NHKもテレビドラマをやってましたけど、それこそたまにですからね。ローカル局では皆さんディレクターが腕試しとして、研修というかそれは毎週のように短い番組を作ってましたよ。それには出てました。

 東京のタレントさん、浦部粂子さんにまぁかわいがられました。年に1,2本、RKBでも呼びますからね。他には長岡輝子さんとご一緒にラジオをやって可愛がってもらいました。東京に変えられた後で長岡さんから個人的にお菓子が送られてきたんですよね。ちょうど長岡さんの息子さんがディレクターで福岡にいらっしゃってたんですよ。

――局を超えて放送劇団が交流し、合同公演(芝居)を作ることになったそうですね。

中川:三つの放送劇団で一緒にシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』をやってんですよ。電気ホールで。合同はこれが最初ですね。その前は、NHKでは音楽番組のディレクターだった人が、いわゆる子ども向けのミュージカル形式の舞台をやるということはしたんですよ。今考えれば、よくぬけぬけとやったもんだと思いますよ(笑)。『ウィンザー…』では長岡さんの息子さんの篠原さん(ディレクター)とRKBの小川さんが演出されたんですよ。この芝居では、斉田明(RKB放送劇団所属、劇団道化の創設者で初代代表、かつ中川豊子さんの夫)が広告取りに追われましてね。局がある程度は出してくれますけど、とにかく舞台ってお金がかかりますでしょ。そりゃもう、大変でした。その頃はもう、結婚していましたからね。これを機に放送局に左右されない芝居作りをしようということで、3劇団の者が集まってたから声をかけて劇団道化を作ったんですよ。

――昭和52年にはNHK放送劇団も組織解消となりました。

中川:NHK放送劇団の最後までいました。解散という形じゃないですね。もう、あんまり別に専属といっても…ラジオがまずなくなりましたでしょ、番組数が減ったのと、結局向こうから「契約を切ります」と言われた時私も「もう潮時だな」と思っていたんですよ。続けていたのは、道化をやっているのに(昭和40年度受け創立)お金が要りますでしょ。NHK福岡にも10年以上はいたことになります。私が切られた時にはもう誰もいなかった。そうですねぇ…KBCはもっと早くになくなったし、RKBも早くに劇団としてなくなりましたからね。記念品もをもらったんですけどね、置時計を最後に記念に。なんか賞状ももらったのかもしれませんけどね…(笑)。

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