インタビュー:杉山英美さん (女優)

*一度耳にしたら忘れられない声の持ち主、杉山さん。こちらまで楽しくなるような、親しみが持てる独自の声です。でもその声に、わずかな震えがにじんでいたり、怒気が含まれていたり、静かな悲しみを湛えていたり…と、彼女の演技の肝は「声」かなと思いながら、いつも舞台を見ています。ギンギラ太陽’sを経て、今はあちこちの劇団で活躍する素敵な女優さんですよね。今回、インタビューの前に「出演した作品の資料をお持ちいただけないか」とお願いしていたら、なんとキャリーバッグをゴロゴロ引いて登場 (笑)。相当な数に出演されているというだけでなく、重いのにたくさん持ってきてくださったことに感動しました。そして赤裸々に語ること2時間半! 楽しい時間でした。お人柄が分かるインタビュー、皆さんもお楽しみください。

お喋りが楽しくて撮影を忘れ…後日送ってくれました

柴山:演劇を始めるきっかけを教えてください。

杉山:福岡女学院短大の演劇部に入ったんです。出席番号の前の子が演劇の照明をしたいというニッチな希望を持っていて、私は中・高と演劇部がない学校だったからよくわからないままついていって、そのまま入らされた。87年ですね。

柴山:その半年後にはお芝居にお出になってるんですね。芸工大の『HUSHA-BY』に。

杉山:そうですね、出てますね、あはは! 訳が分からないまま。人がいなかったんだと思います。芸工(九州芸工大学演劇部のこと、現:九州大学芸術工学部)が当時ほぼ男子ばっかりで女学院は女子だけでしょう、それで一緒にやるっていうのが代々受け継がれていて。

柴山:女学院では単独の演劇公演はやっていなかったんですか。

杉山:女学院はその頃は「劇団月子さんのお星さま」という、少し上の先輩が作った劇団があって、演劇部と名乗らずこの劇団名でやってました。

柴山:女学院の公演だけれど(大学内ではなく)夢工房を使って上演したんですね。

杉山:学校にホールはあったんですけど、確か無料の公演だけ(しか使えない)。しかも芸工の人が言うには学園祭でもないのに男が女子校に入るのはハードルが高いと。先輩も「月子さんのお星さま」の公演は夢工房でやっていたので、それが当たり前と私たちも疑問に思わずやってました。

柴山:他のお芝居はご覧になってました?

杉山:演劇部に入ってから観るようになりました。夢工房で大学演劇祭とかやってんたんで、見に行ったりとか。芸工に「忍者舞台」っていう劇団があったんです。それが面白くて大好きになって。それが芝居にハマったキッカケです。それこそ鴻上さんもこれ(『HUSHA-BY』)で初めて知ったし、遊民社(夢の遊民社)も人に教えてもらってやっと知ったくらい。卒業して就職してからは友達と一緒に第三舞台を東京まで見に行ったりしてました。

柴山:見るよりやる方が先だったんですね。90年に卒業。学生に間に3本出演なさったんですね。その後就職されたんですよね。

杉山:銀行員してました。その間、芝居はまったくしていません、見には行ってました。『HUSHA-BY』の時に高橋(徹郎)さんと共演してるんですけど、高橋さんから「卒業して劇団作ったけん見に来てー」って言われて行ったのが幻想舞台。

柴山:『尾瀬沼谷の源十郎の話』ですか。イムズの1年目。

杉山:そうそれ。「うわ、すごっ」と思って。そしたら高橋さんが「お手伝い来てくれん?」って。人が足りないから。

柴山:何がすごいと思われたんですか。

杉山:福岡にプロの劇団があると思ったんです。東京に第三舞台とか夢の遊民社とかあるけど福岡にもそういう劇団がある、イムズホールで出来る劇団がある、「これプロじゃない?」って思ったんです。しかもそれに知り合いが関わっている。内容はあんまり覚えてないけど、圧倒されました。勢いがすごくて。正直、源十郎の狩人のような衣裳しか覚えてないんだけど(笑)。でもパンチを食らったような衝撃でした。

柴山:やりたいと思われたんですか。

杉山:やりたいというより、関わりたいと思ったのが最初ですね。幻想舞台に入るにあたって高橋さんに北天神のカフェ『風街』に呼び出されて、「英美ちゃんはお手伝いしてくれるってことで、劇団員でいいのかな」「はい、お願いします」って。「確認しておくけど、役者…やりたいのかな」「やれるんだったらやりたいです」って言ったら、高橋さん「あ~英美ちゃんはねぇ、ヘタだから役者はちょっとね…」

柴山:(笑)

杉山:私もすかさず「あああぁそうですよね、じゃあ受付で」って(笑)。それがはじまりです。

 稽古は面白いから毎回行ってたんです。出ないけど行ってた。だから(その後、芝居に出るようになったのは)不憫に思ったんだろうと思います(笑)。役者の中に一人だけ見学の子がいて赤いジャージ着てずっと見てる(笑)。多分この頃ですよ(写真参照)。

柴山:毎回のようにお稽古を見にいって、演じたいという思いがムクムク膨れ上がったのではないですか。

杉山:稽古場がめっちゃ面白くて。まっちゃん(松清貴樹)と富永さん(富永成子)二人の掛け合いとかずっと見てられるんです。圧倒的に面白くて。高橋さんの脚本も結構フリーな部分がたくさんあって。あの当時はそういうの多かったじゃないですか。それを見たいって感じでした。

柴山:その頃はもう卒業してお勤めされてますね。

杉山:仕事は2年で辞めました。だから幻想舞台の手伝いの頃は派遣社員をしてました。親に反対されながら。

1993年『ホワイトナイト』左が杉山さん、右は松清貴樹さん

柴山:さて、92年の『原始人の初恋』が幻想舞台の初舞台。プロだと思った劇団の舞台に立てたわけですが…

杉山:あんまり深く考えてなかったと思います。宇宙人役で着ぐるみみたいなのを着て、憧れの富永さんと双子の役で、嬉しい楽しいばかりでした。それからセリフがちょっとずつ増えていって、やったーって。

柴山:94年にはタイニイ・アリスでの東京公演でしたね。どうでした?

杉山:アリスフェスティバルに参加したのかな、演劇祭のお客さんが来てくれて。初めての東京公演でしたけど、なんか夢工房でやってる感じと似てました、会場の広さとか雰囲気とか。お金ないから、知り合いの知り合いの全く知らない人の家に泊めてもらったりして。若さと勢いでどうにかなると思ってましたね。わたしはお芝居しに行くというよりみんなで東京に行くっていうお祭り感の方が強かったかも。

1995年『不美人草に愛はなし』清子役

柴山:『眠る異邦人』をやった後だから、ギンギラの公演を増やしていった頃ですね(注:『眠る異邦人』におけるコントが、後のギンギラ太陽’Sとなっていく。高橋徹郎氏のインタビューをご参照ください)。

杉山:そう、ギンギラの人気が出てきたから別ユニットでやろうよってなって。スポーツ屋台でみんながお酒飲んでるところに突然ギンギラのコントが始まって、見終わった人たちにカンパしてもらうという。私は募金箱を持つ係でしたもん。この頃はイムズマンの大塚さんと岩田屋仮面の高橋さんだけで、途中からマダム大丸の瀬戸さんが加わって3人。

柴山:杉山さんは芝居をするわけじゃないけれど嫌ではなかったんですね。

杉山:ギンギラは面白かったし見るの好きでした。お客さんが笑っているのを見るのも楽しかった。高橋さんも楽しそうにやってて、生き生きしてたのを覚えています。ただ幻想舞台で芝居がやりたい派もいて…。

柴山:『洞窟に爆弾』が幻想舞台の最後ですね。大塚さんが芝居がやりたい派で、高橋さんがこれを書いたと聞いています。

杉山:ああ、そう…でしたね。大塚さんが初めて幻想舞台に出たとき、それはもう、うまかったです。私の友達が見に来てて「プロが一人混じってた」って言ってました。

柴山:そこで言う「うまい」ってどういうことですか。

杉山:大塚さん、稽古場で見てても目が行っちゃうんですよねついつい見ちゃう。声もいい立ち姿もいいスタイルもいい、とにかく惹きつけられるんです。

柴山:そして幻想舞台で高橋さんが抜けちゃって…

杉山:うまくいかなくなったのは覚えています。月いちで脚本を書かなきゃいけない、しかもかぶりものを作りながらだから相当疲弊していたんだろうなとは思いました。

幻想舞台の別ユニットとしてギンギラ太陽’sが月に一度公演をしていた

柴山:結果的に高橋さんが抜けるとなった時に、「仕方ない」と思われたんですか。

杉山:仕方ないというか、高橋さんがいなくなったって感じかなぁ。引き留める隙もなかった拒絶ってかんじだったんじゃないかな。何を言ってももう…有無を言わさず。じゃぁ大塚さんが最後に脚本書いてくるからそれでギンギラを終わらせようって。

柴山:ただそれがなぜだか続いて。当時、幻想舞台って別格というイメージがあったんですけど、そこのメンバーとしての自負は?

杉山:たぶん私は大学の時から高橋さんと知り合いだったから、よくわかってなかった。お友達感覚でお手伝いが始まったし。最初は「プロ!」って思ったけどお友達がやってるわけだったから、みんなが見てる目線とは違ってて。幻想舞台が別格だとしたらそれは、私が入る前の富永さん立石さん瀬戸さんの3大女優と、主役やってたまっちゃんのことだったんじゃないかな。

柴山:高橋さんが抜けた後のギンギラの劇団としての雰囲気は、幻想舞台とはまたちょっと違う…?

杉山:そうですね、この頃は大塚さんのことをまだ知らなかったし、すごくお気づかいの人だから…。脚本もコントからお芝居に徐々にシフトチェンジしていった感じでした。お馴染みのキャラクターたちが出てきて一言いって笑わすみたいな形は出来てたから、それを膨らませていったような。

柴山:それがいつ頃ですか。

杉山:98年の『天神開拓史』頃。で、初めての西鉄ホール公演(1999年)で、ドドンと大塚色で演出もがっつり。

柴山:大塚色というのはお笑いだけじゃなくてそこに強いストーリー性を持たせて、情に訴える部分もあり、ドラマティックにした…ってことでいいでしょうか。

杉山:そうですね、泣きも笑いも盛りだくさんな、THEエンタメ。わかりやすく言ったらドリフ。お年寄りから子供までわかるように。

柴山:高橋さんがやっていた頃のギンギラも分かりやすかったのでは?

杉山:分かりやすかったけど、笑いはとんがってたし、泣きとか全然なかった。ブラックな笑いも高橋さんは好きだったから結構入れてた。ま、万人に受けるかと言ったら…お酒を飲んだ大人には受けるけど、と。大塚さんは「ちゃんと伝わるかな」「楽しめるかな」とか、「これは誰かを傷つけてないかな」を気にしてたし、今もそこは変わらないと思います。

柴山:1999年に初めて西鉄ホールでやることになった時に、感慨はありましたか。

杉山:まずはお客さんが酔っ払ってないよって(笑)。んで舞台はでかいし、天神のど真ん中でやるってことに感激して、気合い入ってましたね。

 ギンギラの舞台は、基本は二段舞台で黒いパンチ(床に敷く黒いカーペット)を敷くだけなんです。被り物が舞台装飾を兼ねてるから。でもこの時は、玉屋さんのお葬式から始めたんです。玉屋が閉店した時期だったので、舞台にでっかい祭壇作って菊の花でバーッと埋めつくして。玉屋のでっかい遺影を飾って客入れ中に川端とか他の商店たちが泣きながら焼香してて、開演時間になったら川端が「本日は玉屋の葬式に来てくださってありがとうございます。それでは…ギンギラ太陽’S始まるよー!」って、そしたら祭壇がバァッと二つに分かれて中からバス軍団が登場してくる…。

1999年『夏休みギンギラ祭り豪華3本立て/女ビルの一生』より玉屋の遺影

柴山:凝り方という点でも、それまでのギンギラとは少し変わったんですね。

杉山:そして2000年『翼をください』が完全新作、大塚さんの。オリジナルの飛行機キャラが初めて出てきました。

 実はこの時、あまりにも稽古がつらすぎて公演が終わったら芝居をやめようと思ってました。「あの」ってセリフの「あ」の音が違うって。みんな稽古に来てるのにわたしの「あ」のせいで稽古が進まない。もう何をやっても全てダメでどこをどうしたらいいかもわからなかった…何も出来ないんだってことを思い知らされました。

柴山:それは確かに…。大塚さんは音を大切になさるんですね。

杉山:大塚さんは、最初は音なんですよね。台本の読み合わせでもちょっと立ってみようかってなっても。「その音は違う」「もうちょっとここら辺から(声が)出ないかな」って。役者さんって耳がいい人多いって言うじゃないですか、大塚さんは絶対それ。耳がいい。

柴山:さてその後も快進撃を続けていきますが、2003年、水害で嘉穂劇場での公演が中止になりましたね。確か翌年に改めて上演できたんでしたね。

杉山:感動しました、あんな芝居小屋初めてだったから。奈落、花道がある舞台も初めてで、劇場の作りがこうなってるから家が出て来たとき必ずこっちに玄関があるんだよとか、何もかも初めて聞くことばかりで。それを嘉穂劇場の方に教えていただいたのが嬉しかったですね。

柴山:そしてその年の年末に西鉄のプロデュース公演『すぎのとを』。名指しでお声がかかったんですよね。

杉山:そう、中村さん(中村絵理子さん、当時の西鉄ホールプロデューサー)がどうしてもやりたいのがあるんだけどって。最初はビデオを見せられたのかな、東京でやったのを。演出の江口カンさんもその時初めましてで、その頃は今ほど忙しくなかったからかほぼベタ付きで稽古来てくれました(笑)。

柴山: 11月に嘉穂劇場でやって、その後12月末に西鉄プロデュース公演。杉山さんもお忙しかったのでは。

杉山:そうですね。稽古は丸々1カ月、脚本は元々あるやつだったけど結構書き変えもあって、午前中から夕方までがっつり稽古だから丸々1カ月空けておいてくださいって言われました。

柴山:その間、お仕事は?

杉山:ちゃんとギャラが出ました。西鉄ホールさんからお給料が出ていた感じです。

2004年12月 『すぎのとを』 @西鉄ホール

柴山:いかがでした、お稽古など。

杉山:カンさんの演出は、好きにやらせてもらいました。それまで立石さんとはやったことあるけど、うっちー(内田ゆみ)とは初めてで、飛ぶ劇場、北九州にすごい役者さんがいるってのは知ってたからすごいドキドキして。どんな役者さんだろうと思ってたけど、うっちーが性格的にあまり前に出るタイプじゃない。でも芝居はすごく勢いと安心感があって、そのギャップにやられました。圧倒されちゃって。本当に稽古が楽しかった。毎日のように朝から3人で集まって、昼すぎにカンさんと演出助手の西田優史さんが来てそこから夕方まで稽古して、終わって必ず飲みに行って、そしてまた朝から稽古して…濃密な1カ月。座組にはすっごい恵まれましたね。

柴山:何の問題もなく。

杉山:一回だけ、カンさんが中村さんに「相談があるんだけど」って。私がブラとパンツになるシーンがあったんだけど、「英ちゃんが全然脱いでくれないんだよね…」って。それ直接言ってよーって。

柴山:脱ぐ抵抗はなかったんですか。

杉山:全裸じゃないし…抵抗も何も考えてなかった。でも、親が見に来て「あの恰好はちょっとないやろ」って父親が言ってたらしいです。

柴山:観客の反応は?

杉山:いろんな方が見てくれて嬉しかったです。賛否はあったんけどあの時の私の精一杯だったと思ってますし、ギンギラ以外でちゃんとお芝居やれるんだという自信になりました。新しい繋がりも出来たし、役者としてもターニングポイントになった作品です。

あ、個人的な話ですけど2000年の『翼をください』の少し前に結婚したんです。もう芝居をやめようって思ってた時、義理のお母さんがギンギラを見てくれて「これは面白い。やめるなんて言わずに続けなさい」って言ってくれてそれでもう少し頑張ろうって続けたんですよ。んで『すぎのとを』の稽古始まる前に離婚したんですけど。もし結婚してたらブラとパンツになるの反対されてたし、パルコにもその後の全国ツアーにも行けてなかった。

柴山:では『すぎのとを』はふっきれた気持ちでガンガン行ったんですね。

杉山:そうですね、言い方がちょっとアレですけどちょうど良いタイミングでした。

柴山:その翌年、2005年はギンギラ太陽’Sの東京初公演ですね。『翼をください!』でしたね。

2005年『翼をくださいっ! さらばYS-11』パンフ表紙

杉山:西鉄ホールでの『翼をください』が地震で中止になって…その年の10月にパルコで。地震で中止になったのを聞いたパルコが呼んでくれたって聞いてます。

柴山:東京公演の様子を聞かせてください。

杉山:パルコ劇場ってプロデュース公演ばかりされてる所で、劇団としてギンギラが初めて公演することになったって。芝居のことだけ考えてれば大丈夫って言われて。こんな幸せなことあるのかってくらい恵まれてました。

柴山:興行として買ってもらったってことですね。

杉山:そうです。ピクニックさんがいろいろやってくれて、パルコ劇場についているお客さんが見に来てくださって。TEAM NACSの大泉さんが見に来てブログに書いてくださったり、リーダーがアフタートークに出てプッシュしてくださったりして。

柴山:すごい。それで全国的にも知名度が上がったんですね。

杉山:NACSファンがたくさん応援してくれて心強かったです(笑)。

柴山:舞台に立ってどうでした?

杉山:私、パルコ劇場って行ったことがなくて。それでどんな劇場か調べようとしたら、ピクニックの堀さんが「調べなくていい、君たちはそういうのを知って行くんじゃない」って。委縮しちゃうから知らない方がいいんだって。で、行ったら前日まで美輪明宏さんが公演してたって聞いて、おおおーってめちゃくちゃテンション上がりました。パルコ初日のトラブル、聞いてます?

柴山:教えてください。

杉山:『翼をください』はオープニング映像から始まるんですけど、その映像がでなくって真っ暗のまま。どうするどうするってみんな袖でアワアワしてたら大塚さんがバーッと舞台に出ていって「ちょっとごめーん、もう1回やり直していいかいな。ごめんね」って。それで客席の空気が一気に緩んだ。「ほんとごめんね、え、どっから来たと?ちょっと時間潰させて」ってお客さんに話しかけてとにかく繋いで繋いで。「もしまた映像でらんかったらみんなにコーヒー1杯ずつおごるけんちょっと話ししよう」って。パルコはそこから始まったんです。それでお客さんが全員味方になった。大塚さんは本当にすごかったです。私の知り合いが見に来てて「え、アレって演出かと思ってた」ってびっくりしてました。

柴山:そこで博多弁というのもまた素晴らしい。

杉山:「申し訳ありません」じゃなかった。舞台に飛び出していくのが)早かったですもん。それから口コミでどんどんお客さん増えて嬉しい感想をたくさんもらって、役者続けてて良かったって思いました。

柴山:さて、杉山さんは2011年にギンギラをおやめになってからはフリーランスですか。

杉山:はい。後から言われたんですけど「ギンギラの時は声かけにくかった」と。ギンギラの人に来てもらうのはちょっとねって…なんだろ、かぶりものだしお芝居とちょっと違う区分けをされていたのかな…と。

 2010年に月光亭0回を始めました。その年、東京公演が中止になって悔しくて…ギンギラの女子たちと何かできないかなと話して。最初は一人1本短編を書こうとかって話も出たけど、照明音響に頼らずにもっと自分たちだけでやれるものをって、それで落語を探し出した。それまで落語聞いたことなかったんですけど…。

柴山:ギンギラをやめてからは…

杉山:しばらく月光亭しかスケジュール入ってなかったです。それからPa!! Zoo!!、hen house、ピロシキマン、ガラパ(万能グローブガラパゴスダイナモス)と徐々に声をかけてもらって。

柴山:ガラパもずっとお出になってますね。ガラパが初めて下北沢に行った時も。

杉山:その前にも何回か呼んでもらってたんですけど、『西のメリーゴーランド』から一緒に下北沢に行って、それから続けて呼んでもらうことが多くなりました。今は、年に一回会ったり会わなかったりする親戚のおばちゃんみたいな気持ちです。

2014年 月光亭落語会 in 八女

柴山:月光亭はあちらこちらで呼ばれているんですよね。

杉山:そうです、ありがたいことに。身一つでいけるし楽しいし本当にやっててよかったと思う。4人で集まれる場所があって。今はいろんな人たちにお世話になりながら、一緒に楽しく続けてます。

柴山:楽しそうにやってますよね。それにしても出演した数の多いこと。

杉山:ギンギラやめてからしばらくは暇だったんですよ。このままお芝居に出なくなってやめてしまうのかなぁと思った時期もありました。どう転ぶかわかんないですね。

柴山:テレビの『めんたいぴりり』にもお出になってます。

杉山:テレビドラマは初めてでした。その前に福岡パルコ開業のCМに出たんです、カンさん演出の。それがたしか6話仕立てのドラマみたいな作りで楽しくて。映像も好きだなぁと。けどなかなかオーディションに受かりません(笑)

柴山:今は6月のギンギラのお稽古ですね。

杉山:はい。それと9月に義江さんの還暦祝いの公演…これはまだ稽古も始まってないけど、お祝い事なんでね、楽しみたいし楽しませたいですね。

柴山:ながーい、お芝居人生ですね。

杉山:行き当たりばったりで運よく(笑)。周りに恵まれてるんですよね。

柴山:今やってみたい作品、組んでみたい役者さん、脚本家さん、演出家さん…は?

杉山:こないだ見に行ったマジデラ(マジカル超DXランド)がすごい面白くって、今一番出たい劇団。それからギム早(ギムレットには早すぎる)とか。まだ見たことないんですけど、若手の勉強会に参加させてもらった時に、ギム早のメンバーもいたので興味あります。

柴山:おお、その組み合わせも面白そうです。ギム早なんかは出ている姿が目に浮かぶ! これからも舞台で私たちを楽しませてくださいね。

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