花野純子さん(花野組福岡)
*花野純子さんは、福岡市出身・在住の多才なアーティストである。映画監督、脚本家、演出家、俳優…。福岡の古参の演劇好きなら彼女が主宰した「劇団ユヤユヨン」を知っているだろうし、1990年代以降なら映画監督として彼女の名を知っている人が多いかもしれない。
今回は花野さんの演劇活動を中心にお話を伺った。
インタビュー
柴山:84年に「劇団ユヤユヨン」を立ち上げられました。その当時の事を教えてください。
花野:九州大谷短期大学の1年生で、外部で活動してはいけないと言われていたんですけれど待ちきれずに夏休みに福岡で旗揚げしたのが「劇団ユヤユヨン」です。学園祭の時は大谷の友達とやったんですけど、その作品が気に入ったので…私は福岡雙葉高校演劇部、高校演劇の出身なので、そのメンバーと福岡で旗揚げしました。私は住居が福岡なので。
柴山:待ちきれなくてということは、劇団をやろうと思っていらっしゃったんですよね。
花野:中学生の頃にはラジオドラマの声優としてオーディションで合格しデビューしていて、有名声優さんたちと共演していたんですけど、福岡雙葉中学校は厳格で公にはできずに誰にも話せず自慢の1つもできず…でもバレて退学にはなりたくなかったので。高校演劇で活躍する方を選びました。
柴山:高校演劇大会に出て?
花野:県大会にまず行くことと、創作脚本賞を取ることが中学生の時からの夢でしたので…それを果たしたかったんです。
柴山:すばらしい。とられたんですか。
花野:はい。当時の審査員だったテアトルハカタの野尻俊彦先生には声をかけて頂き、私の脚本や演出も褒めて頂き、勇気づけられた事を覚えています。『昨日は車の中で寝た』という自作の脚本で、この時は出演もして初めて県大会に行ったんです。
柴山:中学生の時にもうラジオドラマで声優デビューをされて、声優を目指すわけではなくお芝居がしたかった?
花野:声優にもなりたかったんですけど、中学生だったので大人になるのがすごく遠く感じられて…当時『機動戦士ガンダム』が流行っていてその当時の人気声優さんたち(森功至さんがレギュラー、池田秀一さんもゲストにも来られていました)『日曜バラエティ/青春戦線異常あり』という連続ドラマで公開の生放送で、もうすごい人気だったんですよ。その中の不良女子高生役でした。ぜひ東京とかに行ってみたかったんですけどそれはやめました。(両親は)反対をしたわけではなかったんですけど、中学を受験して雙葉中学に入ったのに2年でやめるというのはもったいないかと。
柴山:では高校演劇大会では、創作脚本賞をとられて。この時は出演もされたんですか。
花野:3年生になったら受験のために引退しなきゃいけなかったので出演はしてません、でもそれが賞を取ったんです。
柴山:その道まっしぐらなんですね。その作品のタイトルは?
花野:創作脚本賞は『罪なき幼子の如く我を眠らせ給え』
柴山:難しそうですね…。では基本的にずっと高校のころからオリジナルで脚本を書かれていたんですね。
花野:高校が固かったのでシェイクスピアや『アルプスの少女ハイジ』をやらなきゃいけないとかだったので、もうイライラして、自分が先輩になるのを待っていて。
柴山:自由にできるのを待っていたんですね(笑)。中学の時も演劇部だったんですか。
花野:そうです。高校演劇大会を観るのも好きだったんで。
柴山:で、満を持して大谷短大に入って演劇をしようとしたら、外部活動はダメで。
花野:それだけでなく、やってる芝居の演目とかが……気に入らないとか文句ばっかり言ってて。自分で創作してやりたいんじゃないかと思い始めていた時期だったんで、私の作品…オリジナルがやりたいと、小劇場の流れとかがあったので、それは私にも出来るんじゃないかと。
柴山:「劇団ユヤユヨン」、劇団名の由来は?
花野:中原中也の詩に『サーカス』というのがあって、空中ブランコに乗るサーカス団員が「ユヤーンユヨーンユヤユヨン」という言葉で表現されていて、「ユヤユヨンって感じするね、飛ぶ時に」と思って。
柴山:当時は他にどのような劇団がありましたか。
花野:自宅(福岡)から短大(筑後市)まで往復で4時間ぐらいかかってたんで、福岡の事はよくわかっていませんでした。でも当時福岡では大学演劇も流行っていて、噂に聞くだけでも、うらやましくて仕方がなかったです。アングラ演劇も流行っていたので。津田三朗さんの「劇団健康相談」ほとんど初めて見たんですよね、ああいうのを。まぁすてきと。津田さんは、後々一緒に映画に出たりいろんな付き合いがないわけではないんですが、造形とかがアーティストだからそれがすごく良くて。こんな方が博多にいるんだったら…福岡でも、もしかしたらできるかもしれないと希望を持って。私が短大を卒業した時には「夢工房」…(演戯集団ばぁくうの)佐藤順一さんが「夢工房」にいらした時に、佐藤さんと共演しています。夢工房の座長で脚本・演出家の石川蛍先生に出演を依頼して頂いたんです。
柴山:80年代後半ですね。
花野:その時に初めて佐藤さんと会いました。佐藤さんはその後かなりCМとかで博多で活躍される方で…。
柴山:「夢工房」のお芝居と、私が拝見していた浦辻さん(花野さんの旧姓)の頃のお芝居とはちょっとタイプが違っている気がします。
花野:全然違うと思います。でも呼ばれたら嬉しくて。あとは大学演劇…高校時代に、福岡大学『上海バンスキング』九州大学『ドラキュラマイラブ』を観劇したのは、今でも忘れられません。
柴山:九産大の演劇部は。松尾スズキさんがいた時代ですか?
花野:松尾スズキさんとは世代的に、すれ違った形で、まったく知らないです。
柴山:九産大の演劇部が「炎劇祭」というのをやっていたと小耳にはさんだので、九産大演劇部に問い合わせたんですが、OBOGとの交流はないので分からないと言われてしまいました。ご存じですか?
花野:いえ…松尾スズキさんの話を聞いたのが卒業して何年も経ってからで、6年間も女子校にいたために何にも知らなかったんですよ。そんな有名な方が東京に行かれたんだと後から知って。九産大のお芝居は一度も見たことはありません。
柴山:84年に『銀輪を駆くる時』に始まり、そこからずっと花野さんが脚本を書かれたんですね。劇団を作ってからは、福岡の劇団との交流を深めることはできたんですか。
花野:劇団仮面工房の芝居「寿歌Ⅱ(作 北村想)」に主演した事があります。後は芸工大の八谷和彦くん(メディア・アーティスト、東京芸大教授)とか、その時の芸工大演劇部とは…俳優としても客演して仲良くしてましたね。「劇団月子さんとお星さま」という劇団もあって、それは福岡女学院短大の演劇部の方たちだったんですけど、年が同じで取材される時も同じように紹介されたこともありました。でも学生演劇というのは社会人になる前に演劇をやる感じなんだなあと。
柴山:では女学院の方々は学生の間だけやると決めてやっている…
花野:みんなそうだったと思います。当時は。
柴山:当時の覚悟として、花野さんは学生の思い出づくりの演劇をやるつもりはなかった。
花野:全くなかったです。単純な事ですけれど、自分の作品で何とか食べていけないんだろうかという風に思ってました。
柴山:「劇団ユヤユヨン」の時の観客動員数はどのくらいだったんですか。
花野:一番多かった時で700…でも、そのあと高橋徹郎君たちが出てきた時は…(動員数が)1000を超えるというのが福岡演劇界の目標みたいな感じで、今考えてみたら、500、600、700が当たり前みたいな演劇のファンがいっぱいいらっしゃったんだと、今になって思うようになりましたね。
柴山:演劇好きな方が福岡市内にたくさんいたということ。
花野:たくさんいらっしゃったと思います。演劇もやっぱり…演劇ファンのみなさんを裏切るようなことがあったのではないかと…私はその後、映画でデビューしていくので…。というか演劇で食べていくことがどうしてもできなかったんですよね。30になった時になんとかなってくるんですけど、それはやっぱり映画に転身できたからで。結局グランプリ受賞というのがあって有名な女優さんが出て…となるともう全然仕事の量も変わってそれで一気に仕事のレギュラーが取れて、プロダクションの演技指導ですとか…。大金持ちにはなれないけど食べていける、それが30歳の時。
柴山:それは映画でということですか。お芝居だけでは無理だったと。
花野:(映画に進んで)仕事が多くなったいうことはあると思います。今みたいに専門学校などの演技の講師の仕事とか全くありませんでしたし、東京に行かないとまずいだろうと言われるんですけど、子どもが小さいということ…言いづらいんですが一人で育てていて、その事を誰にも言えず付き合いが悪かったと思います20代の後半からは、活動はしていたけど「あの人は顔は出さない」とみんな思っていたと思います、言い訳はできないままで「すみません」としか言わず。だからどうしても「食べていきたい」と思ってました。
柴山:「劇団ユヤユヨン」を終えて「Theatre Agate」を作られたのは心機一転という…
花野:そうですね。『ヒロインコンフューズ』(2作目)の時なんかは(会場の)スカラエスパシオがすごく借りるのが高かったんですけど、勝負しようという気持ちが強くて。
柴山:「劇団ユヤユヨン」はどちらの劇場を使っていたんでしょうか。
花野:『銀輪を駆くる時』は小劇場「夢工房」、それを再演した時は「日本浪漫座」。『ネケステスヤントラービハインドナウ』は西新パレス。『上海殺人人形』は秀巧社ビルのスペースメディアMAっていう所があったんですけど、磯崎新さんの建築で、いいとこなんですよ、中2階があってオシャレな場所だなと思っていたんで、今となっては懐かしい…。最後の『What is perfection?』の時はパピオビールームの練習場で。映画の『ロンリープラネット』もそこで撮りましたね…。当時やっぱり希望をもって見つめていた場所だったんで。
柴山:「劇団ユヤユヨン」から「Theatre Agate」になったときはメンバーも一新したのですか?
花野:そうですね、30になりかけてましたから、やっぱり横のつながりがどんどん…みんな(演劇から)足を洗っていく時で、もう25ぐらいでだいたい、「まだやってるのか」って友達からも言われてたので。でも私はやっぱり希望を持ってもういっぺん最初にやった小劇場「夢工房」に戻るんですけど、その時にはいろんなこと(家族)が破綻した時だったので、「夢工房」で『Coffee Home Ground』をやって、その作品が転機になって。石井監督(注:現在は石井岳龍、当時は石井聰亙)が観に来てくださったんですよね。『怪人Q作ランド』っていう夢野久作の展覧会があって、夢野久作「少女地獄/何でも無い」の主人公、姫草ユリ子の遺書を私が朗読したのがきっかけで、石井監督と知り合って、それで夢工房での芝居も見に来てくださって「才能あるよー」と言ってくださってそれで…福岡では全然そんなこと言われたことがなかったので。足の引っ張り合いがあったのか、どうなんだどうなんだ、なかなか自分の中で手応えみたいなものが、年齢を重ねるにしたがってやっぱり駄目なんじゃないかといろんなことを。
柴山:96年の『Coffee Home Ground Inegralバージョン』は。
花野:アクロス円形劇場です。
柴山:「劇団ユヤユヨン」は女性ばかりだったんですか。
花野:最初はそうですね。でも『地獄の季節』という中原中也を主人公にしたのを「夢工房」でやったんですけど、その時に初めて男女で共演して。女ばっかりだったのは1回だけです。劇団という形ではなかったのかもしれません、友達みたいな感じで誘ってたので。ゲストを呼ぶこともあったし知り合いに「やんないか」って。だから団費とかもなかったし。自分で出してましたし。
柴山:え、全部お一人で?
花野:そうですね。親からお金を借りたりしてやってました。劇団をやってるとどうしても、誰かに役を書かなきゃいけないとかそういう風になるのはイヤだったんです。ぬるい集団みたいなのが好きじゃないんです。
柴山:それで、ご自身の想いは貫き通せたんですか。
花野:どうしても活動費に困って、ひと月に3000〜5000円ぐらい(集める)とか、結果的にそうなった時には、やや雰囲気悪くなる事もあって……劇団という形がいいのかわらないままでした。
柴山:公演の度に人を集めて公演が終わったら解散する固定メンバーがいない団体、そういうものだったと。
花野:…そうです…ね、私自身作品が書けない時もあると思っていたので、そこの心配の方が大きくて、定期的に上演できるんだと、あてにされても困るなぁと。(メンバーが)その間バイトして待っていたりとかいうのは、その当時(劇団ユヤユヨンの時)はバブルだったので、就職するとなると演劇とかできなかったと思うのでそういう足止めはしたくなかった。
柴山:作品として、こういうものを作りたかった、というのがあるのですか。私は後半からしか拝見していないのですが。
花野:テーマみたいなもの…ですか。一番最初は自分の感情を爆発させたいという気持ちでやっていました…人生の中で不思議だと思っている事などが題材で、例えば亡くなった人の事、そういったものからスタートして、20代の頃は、誰かの事を想う、愛情について…。30代「Theatre Agate」ぐらいになってからは、愛情を失う、ということ、他者を想うこと、亡くなった人…喪失が多い20代だったので、親も早く亡くなって、そういうことで思うことが多くて…。作品にぶつけていたと思います。
柴山:90年代に入ってからの事についてお伺いします。その当時の福岡の演劇状況についてはどんな様子で。
花野:高橋徹郎君とか彼は80年代から、まだ大学生の頃から知ってますけど、その時90年代に頑張っていた人、私や大塚ムネトさんなどは地元でもちょっとマスコミから話が来たり映画の話が来たり、チャンスを求めていた時期だったので…正直、自分は他の劇団と、飲み会や観劇も含めて関わることが、ほとんで出来なかったです、90年代。子供を一人で育てて親も…ですからそれどころじゃなくて。誰かがテレビに出たとか、高橋徹郎君が『ドォーモ』でレギュラーを取ったとかそういうのが印象でありましたが。でも、劇団「ドリームカンパニー」に客演したことがあります。ミュージカルなんですけど、主宰の徳満亮一先生に声をかけて頂いたんです。声優プロダクションの講師を始めた時に、そこで出会いました。そういうことで。郵便貯金ホールで。客演も出演料をくれるところじゃないと行かなかったんじゃないかなぁ…。
柴山:その当時、講師もなさるようになっていたんですね。
花野:31才の時ですね。映画に縁ができたので、福岡でもちょっと話題になって。
柴山:それが『ロンリープラネット』ですよね。
花野:はい。96年です。
柴山:そうですね、話題になったので私も記憶していますし、拝見しています。ではその前の数年がきつい状態だった。
花野:公私共に混乱していました。
柴山:高橋徹郎さんはメディアに出始めて、大塚ムネトさんの劇団も大きくなり始めていて、でも地方において演劇をやっている人が食べていく構図があまり見えなかった時期で…
花野:見え隠れしていた時期だと思うんです。テレビで…福岡にそういう芸能の活動をしていけるところがあるんだと知った時に…。
柴山:東京以外での地方では、そういう芸能活動はできないとはなから思っていたら、意外とそういうことができている人がいるのかと。
花野:私もテレビ、短期間ですが出てましたけど、レポーターの仕事とか食レポとか。そういうのが様々あった時期でもあって、福岡の業界がわいてた時期だったのでどっちかというと演劇界というよりもそっちの方が新鮮で興味があったかな。
柴山:タレントという形ですか。それでも演劇はやられていた…?
花野:はい。ややこしい言い方をしました、声優プロダクションの講師で食べれるようになっていて、そこの学生たちと舞台を1本、自主映画1作を撮っています。あとはNHKラジオドラマの脚本を書いたりそういう仕事もして。その前の「Theatre Agate」の3年間というのがお金も何もないのにやっていて、極端な話、靴も1個しか持っていなくて舞台の上にもそれで立つし、それが壊れたらどうするんだろうって。それが96年、でも97年からいろんな…ミュージカルの演出「くろくろ沼のかっぱくん(作 成井豊)/大野城市民ミュージカル」とか。演出とかも含めて、仕事ができるようになった…ラジオドラマも主演クラスに…地元の業界では「すごいね」と言われるようになって、それが90年代後半でしょうか。
柴山:『ロンリープラネット』が有名になったのは…
花野:脚本を応募してグランプリとをった人は監督になれて映画化もするという。
柴山:それを勝ち取ったということですね(注:石井聰亙(現:岳龍)監督が塾長を務めた映画ワークショップ「福岡実践映画塾」のグランプリ)。「花野組」の前の「Theatre Agate」は3本で終わっていますが、なんとなく活動が終わってしまった…という感じなんでしょうか。
花野:自分(の私生活)に何が起こっていたのかみんなにはひしひしと伝わっていたと思うので、もう96年が終わった時(「Theatre Agate」の最後の作『Coffee Home Ground Integral』)当然のようにこの人は(演劇界に)帰ってこないんじゃないかと思われていたと思います。
柴山:その後、実際、お芝居を作られるようになるまで時間がかかっていますよね(2011年『4時48分 サイコシス』。その間は映画の方に?
花野:はい。映画化された脚本(2003年『Dead End Run』/監督 石井聰亙・出演 浅野忠信 永瀬正敏 脚本を担当)この後、波に乗って、映画脚本を2作書いたのですが難航して、中々モノにすることが出来ず、そんな時に「映画に関する12ヶ月のワークショップ」を立ち上げました。結婚もしましたし ( 花野組福岡代表 花野孝史) 公私ともに忙しかったんで…だから私もあのころの活動…映画脚本家だけの活動に専念したいと思っていたんです。
柴山:それは他の方に気兼ねして、という意味ですか?
花野:集中力に関する問題で…東京の一流どころと一緒に仕事する事ができることになった時に、このままどうやって進歩していけるのかなという悩みがありました。福岡にいて。今でもなかなかその「映画」という敷居の高い世界で、脚本が重要な部署だったので、どんなに時間をかけてもダメな時はダメだし、私の脚本によって…何度か失敗してるんです。流れてしまった、脚本が買ってもらえず、おかげで映画化も流れた、そうなると。
柴山:つらいですね。
花野:そうですね。だけどまあ、新しい人生も歩み始めていた時で、映画ワークショップに続いて映画脚本塾を始めてお金も稼がなきゃいけなかったし、だから演劇には手を出さなかった。
柴山:あぁ、ではここで言う「脚本」とはあくまでも映画の脚本の事なんですね。
花野:そうです。
柴山:…人の人生がかかって、大金が動いて、大きなプレッシャーがかかる中、結局仕事が「無し」だと言われた時の重みたるや、落ち込みたるや…「強い」なんて簡単に言うと失礼ですが、それをばねにいいものを書いてやろうと思われたということですよね。
花野:そんなにポジティブではないのですが、打たれ強いとは思います、性格は。だけど、お布団の中に入って泣くというようなシンプルな悲しみというか、死ぬわけではありませんから、そこはお金と時間だけで済んでますから(笑)。遠くから、こちらに追いかけてきてまで批判されているわけじゃないし(笑)。
柴山:いい開き直りですね。でもそれが実は一番正しくて、どんなに逃げても次にいいものを出せばいいわけですよね。そして実際にいいものを書いて信用を勝ち取ってこられたんだと思います。そしてご自身も自信をつけていかれたんですね。
花野:その時は守らなければいけない家族がある中で、良い作品を書きたいというより、出来なかった事はしょうがないので、出来ることをやろうと。
柴山:たくましい(笑)。
花野:今思ったら、演劇も映画も、時代が変わって来てるので、移行している時期に前と同じような状況でなくて当然だっだんじゃないかとは思ってます。
柴山:水物…ってことなんですね。
花野:いい物を書いたとして、それだけで解決する問題ではないと。
柴山:そんな風に客観的に一歩引いて考えられれば全て「私が悪いわけじゃない」とか思えるんでしょうけれど、その直後は落ち込みますよね。
花野:2回ぐらい負けた時は負け慣れてきて(笑)、家族には本当に迷惑をかけました。信じてくれた旦那さんとかに申し訳なくて、一生懸命ワークショップとかで働きました。
柴山:ではしばらく10年以上、映画を中心にやられて、石井監督以外にもいろんな監督とお知り合いになられて。それはもう花野さんの人徳ですね。2011年に、サラ・ケインをされましたが、そのきっかけは。
花野:まさか、また演劇をやれるとは思ってなかったんですけど、私ちょっと演劇やれるかもしれない、と高揚したのがサラ・ケインの戯曲です。この作品は…作者が99年に自殺して亡くなってるんですけど『4時48分サイコシス』は90年代に書かれた戯曲でかっこいいねと思って、いいわぁって思って、花野組で製作も担当している旦那さんに「ちょっとこれ面白そうやね」って言ったら、賛成してくれて「映画がダメだったんだからやるしかない」って言ってもらって(笑)。断片しか読んだことなかったんですよ、でも『舞台芸術』って本に載ってると聞いて。読むまでにあんなにわくわくしたことはなかったですね。
柴山:私もたまたま90年代頃に知ったんですけど、やるにはちょっと難しいですよね。ただ私が花野さん(花野組福岡)のこの作品で感心したのが、ロングランでやるということでした。確か月1ぐらい公演なさってましたよね、そして公演ごとに役者を変えるとか演出を変えるとかなさってましたよね。
花野:はい。観客は総数ではけっこうな人数が来たんじゃないですかね。1000円だったし。10人しか入ってない時もあれば、満席の回もあったりして。演劇からしばらく離れていましたので、作品の内容が良くなればお客さんも何回も見に来てくれるんじゃないかと思ったりしたんですけど、前と違うなとも気がついて。
柴山:どういうことですか?
花野:前はリピーターとかが目立っていらっしゃってましたけど、もちろんそんな方もいらっしゃいましたけど、そこまで…毎回、意外と、初見の方も多くて…私も演劇から離れていたし、旦那さんは演劇の製作がほぼ初めてだったので「一年かけてやろう」と、演劇を知らなかったからできたことで、それが良かったのですが、お客様に関しては80年台のような芝居熱ではなかったと思います。一つの作品にじっくり取り組んで良いだなんて機会を、私はそれまで経験した事はありませんでしたからもう全力で、あの戯曲の真実を形にしようと。そういうものも含めて楽しんで欲しかったんですけど、そんな悠長な時代でもないんだなと感じましたね、その時。
柴山:世の中のスピードが速いという意味ですか。
花野:そうです。今ほどではないですけど、別の楽しみとか、2.5次元芝居とか、華やかでわかりやすい様々な…私が「ユヤユヨン」をやっていた頃は、(演劇が)オシャレで尖った人たちが何か新しい真実を与えてくれる、知的な喜びと興奮を与えてくれるという感じだったんですが、美的でアーティスティックなものに私はすごく憧れていたんですけれど、でも今はそれだけでは誰もついてきてはくれないなと。
柴山:確かに、今はコンテンツを「消費するもの」という印象があります。
花野:そうですね。
柴山:その後、『黒蜥蜴』などの演劇公演もされていますが、今はまた映画を撮られているそうですね。また機会があったらお芝居も?
花野:演劇を自分たちが主宰するのは、今は中々難しいですが…。でも実は今年、歴史物の大作 戯曲を書きました。90分の長編で自信作です。採用されれば良いのですが。本当は演劇にも未だ希望を持っているんです。
柴山:では近くその日が来ることを望んでいます。今日はありがとうございました。