シアターカフェ『重力の光 祈りの記録篇 』

2024年12月1日(日)

対象作品『重力の光 祈りの記録篇』 監督:石原海 @久留米シティプラザ Cボックス

*2016年から福岡、小倉、久留米などにおいて不定期に「シアターカフェ」を開催してきた。シアターカフェとは、観劇した後に有志の観客(10名程度)でお茶を飲みながら、見たばかりの作品について語るというものだ。作品の役者・劇作家・演出家が参加してくれることも多く、毎回かなりの盛り上がりを見せる。

 今回は久留米シティプラザの「知る/みる/考える 私たちの劇場シリーズ」vol.6 映画『重力の光 祈りの記録篇』が対象作品。久留米シティプラザでのシアターカフェも4回目である。今回は、参加者に(本映画の撮影対象である)抱撲館サポーターも多く、一方で鑑賞後に理解不能だと半ば不快な気持ちになってカフェに参加した方もいる。その立場の違いも面白く、そこで今回は全体をまとめて書かずに参加者それぞれの生の言葉を書き起こしてみた。少々長いがご一読いただきたい。

柴山:この作品をなぜ見ようと思ったのか、またこのカフェで何を話したいのかをお一人ずつお願いします。

キャロライン:(NPO法人抱撲館理事を務める)奥田さんの話を聞く機会があってもっと知りたいと思っていた矢先にチラシを手にして、見ようと思いました。生きづらさを感じて消えてしまいたいと思っている人に対して本当に救いの手を差し伸べていらっしゃるんだなと感じました。

ラーメン:抱撲館のサポーターで通信も頂いています。実際には訪れる機会はないですが、奥田さんの本は読んでいてて、その中に出てきた方も今回の映画に出てるので…ああ、こういう方だったんだなと思えてよかったと思っています。

アンドリュー:奥田さんの「希望のまち」(プロジェクト)の寄付をして応援している一人です。生きづらさはどこから生まれてくるんだろうと。でも映画を見終わった今は爽快感とか、すっきり解放された気持ちを感じています。イエス様の復活の出来事は歴史上の事実として僕は信じているんですけれども、ちょっと僕には(映画が)物足りなかったです。

えみっぺ:人間性とドキュメンタリーと友情の映画だと思いました。

みい:奥田さんの春日原での講演会や入所されている方の話も聞いたことがあります。奥田さんは無償の愛を差し出されているなと前々から思っていたので、チラシを見て来ました。もう一回見たいなと思いました。

N:キリストに興味があって、それだけで内容も知らずに来ました。難しいというか今まで経験したことのないような、この映画なんだったんだと…何をつかんだらいいの、何を言いたいのって、誰かにぶつけたくなりました。言ってることは一つと分かるんです、みんな一生懸命に生きている、それを支えている人がいる。私キリストのことを知りたかったのに、なんか…中途半端というか…お金払ったけれど納得できない。捉え方が分からない。よく考えてみたら大したことは言ってない…。自分が期待しすぎたというか。それでみなさんのお話を聞くのもいい勉強かと。ひどいかなぁ。

柴山:いいえ、何だったんだろうという疑問は重要なことだと思いますよ。映画を崇める必要もないですから。なぜそう思ったのかを考えるのは重要なことだと思うので、違う意見の方と話すいいチャンスだと思います。

今日は晴れ:なぜここに来たかというと、奥田さんの活動をずっと昔から知っていて大変すばらしいと。自分も少しでも何かできたらと…。本などは知っていましたけど、映画があるのかと興味津々で来ました。感想は、少しモヤモヤしたものが残っています。皆さんの意見が聞きたいと思って来ました。

H:西成のホームレス支援に参加した時に、福岡から来たというと「あ、抱撲(館)?」と言われて、福岡を代表する支援団体なんだなと思って興味が出たのと、テーマが「孤独」と書かれていて今すごい孤独なので関心を持って来ました。印象に残ったのは、「ユダを救わないとキリスト教はなかった」という話をしている人がいたり、奥田さんは「迷惑は全然」と言っていたり、迷惑とか裏切りとか、…私には受け入れられない、そういう場所なのかなと思いました。あと、死の話、「消えたいと思った」「死にたい」とかが出て来て、そういう話も受け入れてくれるのかなと。死の話って場所とか人を選ぶけど、あの教会ではそういう話を聞いてくれるかなと。それとカンナさんが(私と)近いと思って注目して見てました。孤独な人、他の社会からはじき出された人が集まってると思うんですけど、カンナさん、あそこを居場所って感じるのかなって…年齢も違う人が集まってるし、どんな気持ちなんだろうと思いました。

オーや:北九州出身で、抱撲館の活動は子どものころから知っていてたまに炊き出しの手伝いとか行かせていただいていて、今もサポーターということもあってこの映画は知っていました。数日前に西日本新聞に映画について紹介されていて、そこに監督の石原海さん自身も生きづらくて抱撲館にた、それで感じることがあってこの映画を撮られたと読んで、その時からこの映画を見るマインドセットが出来ていたというか。映画はずっと気持ちが良かったです。映像も好きだったし、この方たちがこの受難劇を演じることの意味とかピタッと私の中で腑に落ちて、出演者皆さんの存在がこの映画の中で肯定されているというのがとっても伝わってきたので、とにかく見ている時に心地よかったです。私も引きこもっている方とお会いしたりお話したり、居場所運営とかもしてるんですけど、支援を長くやっている方から「宗教がある国の子というのは部屋の中に引きこもっていても1人じゃないんだよね、部屋の中に神様がいるから」という話を聞いてえーと思ったばかりだったんです。この映画を見ながらもずっとそのことが頭にあって。日本の孤独感は世界的に見てもものすごく孤独なのかもなと改めて感じました。

 あと、私は浄土真宗なんですけど、なぜキリスト教の神さまってこれほどに人間を丸ごと愛してくれるんだろうなと思いました。

柴山:私の感想も。この映画をどう捉えるか…「抱撲館」のドキュメンタリーとして捉えてはいけないのではないかと思いました。この映画を石原監督が作る意味は別にあるのではないかと思うんですね。「抱撲館の活動」を紹介する映画と捉えてしまうなら、抱撲館を取材したテレビの特別ドキュメンタリー番組でいいわけです。でも私はそうではない映画として見なきゃいけないと思います。そうはいっても、皆さんがお感じになったように、この映画のテーマでもある、孤独を癒す、人は一人ではないという感想は、抱撲館の理念でもあるので、その辺りが難しいんですけれど。

 Nさんがお感じなった部分はその齟齬かもしれません。この映画を抱撲館の活動紹介と捉えると、不十分であるとお感じになったかもしれない。でも石原海という監督が撮りたかったのは彼らの活動を通して、もう少し大きなものとして考えると…いかがでしょうか。

 もう一つは、キリストの受難劇が出てきますが、あれはいったい誰が指示して誰に向けて演じられていたのかが気になりました。お客さんがいるようには見えなかったし…映画のために演じたのか、あるいは彼らが自分自身のため、稽古から本番までが何か社会復帰適応プログラムで演じているのか…。映画監督があの演劇をさせたのか、奥田さんがさせたのか、その違いによっても意味が変わって来るなと思いました。

 今日は晴れさんが「少しモヤモヤした」とおっしゃたのはどういうことか、もう少し教えてもらえますか。

今日は晴れ:今、まさにまきさんが言われたけれど、私は抱撲館のドキュメンタリーかなと思って来たんです。あそこに来た人々がどういう経緯で来たのか今どうしているのかどんな気持ちなのか…そういう群像のドキュメンタリーかなと。だけど実際はキリストの受難劇が絡んでいる。その合間に、それぞれのつぶやき、言葉が入っていく。最後に劇が仕上がってそのシーンになる。すごく芸術的というか。それで何が言いたいのかな、よく分からないままに終わってしまった。一般的には分かるんですけど、一貫して伝えたいことはドキュメンタリーのようには伝わらなかった。

柴山:映像が白黒とカラーになるところがありましたね。現実に彼らが稽古をしているところなどはカラー、彼らが1人ずつ語るシーンは白黒でした。しかも白い光でハレーションを起こした撮り方。いわゆるドキュメンタリーでは使わない方法だと思います。なぜこんな方法をとったのだと思いますか?

オーや:白黒で話されてる時は日常生活では話さないような、人に言いたくないことを独白されているのかなと思います。それが日常の時はカラー。

柴山:あの光は?

オーや:その人の、そこに焦点を当てるというか…

アンドリュー:抱撲館の理念が好きで気持ちは応援してるつもりなんですけれども…アカデミックなキリスト教の受難劇を見せてくれるのかなと思ったら、どこにでもいると言うと失礼ですけどいろんな過去を背負った人が今の時点に至った経緯を描写しながら…それでも人と繋がりながら、最後はちょっと変だなと。あんな方法でしか崇めるというか表現方法がないのかなと思いました。

 まきさんはこの映画に関わっていらっしゃったんですか。どう思われたんですか。

柴山:いいえ。今日初めて見ました。ただ、福岡市美術館で『奮起する現代作家たち あらがう』という企画展(2024年9月14日~12月15日、李 晶玉、寺田健人とともに1990年代生まれの作家の12点の作品で構成した企画展)で、この作品の20分ほどの短いバージョンを見ました。

 私は…先ほども言ったように、この映画は抱撲館のドキュメンタリー映画ではないと思っています。「弱い存在である人間」のドキュメンタリーかもしれないですけど。例えば光の使い方。タイトルも、映画の終盤でもたくさん出てきますけど「重力」「光」という言葉が言いたいことを象徴している。「光/闇」という対比するキーワードもあって、その点では割とわかりやすい映画かもしれないと思いました。ただわからないのは、この受難劇を誰が指示して誰に見せたかったのか…ということなんです。ああいうキリスト教的なボランティア活動って…ある種の教育施設というか更生施設に似てる感じがして。カンナさんも「自分は~だったけれど、ママやオヤジが裏切らないと分かったから自分は変わったんだ」と言っていて、それを見て「信仰って教育なのかな?」と思ったんですね。この映画はそんな事を言いたいわけではないんでしょうけど…もちろん抱撲館は信仰を切り離すことはできないしだからこの映画でも切り離して考える必要はないんですけど…そう思わせてしまうのはどうなのかと思いました。

アンドリュー:ぼくは『重力の光』という言葉が気にかかった。何でこれがタイトルなんだろうと。それを思いながら見ていて…人間は下にどこまで落ちても、光というか神さまはどこまでも追っかけて行くよとそういうことが言いたかったのかなと。

N:そこが分からない。

みー:重力ではなく光の方が気になりました。自分が投げやりの人生に光を当ててくださったというか…それが答えじゃないかなと。

今日は晴れ:重力…は命かな、と。命は罪深いものと言われてましたよね(映画で)。生きてるというのは罪深い。でも命は人間を照らす光というのがあって、あれ?と。

柴山:「光は闇がそこにあったことの証」というセリフがありましたね。人は救われていいんだよ、という生きる光。でも同時に人間は誰でも重力に引かれるように下に下にいともたやすく落ちていく。でもそれでも必ず光は当たるんだよ、って言いたいのかなぁと思いました。

今日は晴れ:光っていうのは信仰なんですか。

柴山:奥田さんにとっては信仰かもしれないけれど、私はキリスト教信者ではないので、光を信仰だとは受け止めなかった。それは誰か知らない人が「寒いですね」と声をかけてくれるその一言を指すのかもしれない。具体的に助けてくれるだけではなくって、そういったことの積み重ねがある種の光って捉えてもいいのかなーと。

ラーメン:私もドキュメンタリー映画と思って見ていたので、えらい戸惑いがあって、切り替えがうまくできなかったんですけど…。ただ今聞いていて、「重力」にはいろんな意味があるんだろうけど、生きている人はみんな自分で上に上がることはない、必ず下に落ちる。奥田さんが受刑者の面談によく行かれるんですね。その時にいつも言われているのが、「今日は私が面会で、そちらが受刑者。でも席が逆であっても変わらない」と。助けられる人/助ける人に関わらず、みんな重力に引っ張られる。みんな平等に下に引っ張られる。ちょっと間違えば奥田さんであっても檻の中になりかねない…そういうことを出てる方も厳しい状況の中を生きられた人たちなので、重力という言葉については、みんな生きるのは大変だとそういう意味かと。そして光については今のところイメージができてない。光があればみんな必ずそちらのほうに行く。だから暗闇の中にいる者にとっては光はものすごく希望になるのかなぁと。

N:腹が立ったのはね、光と重力、そこが一番分からなかった。モヤモヤしたのはそこ。言ってることは理解するんだけど、光と重力というのがモヤモヤだったんだというのが今わかった。

柴山:気がついてなくても、私たちは下に引っ張られているってことなの?って思いました。重力ってそうじゃないですか。先ほど、Hさんが「今、ちょっと孤独で」っておっしゃったけど、それだって誰が悪いとかではなく、何かに引っ張られてそう感じてしまう…映画でも「妻子に逃げられて自暴自棄になってもう何でもいいやと思ってホームレスになった」という男性が出てきたけど、あの方だって踏ん張る力をなくしたわけですよね。だから下にすーっと落ちてしまったってことかなぁと。重力って言葉を使ったのはそういうことかなと思いました。

キャロライン:光の話なんですけど、私はキリストが汚れた足を洗うってところが光なのかなと思いました。身分とか罪人とかそういうのを超えた所で、誰かを優しくするとか、それが光かなと。そういう関係を作っていいんだよと言っているような…。

えみっぺ:娘たちが結婚して後を継ぐ人がいなくて閉店する店で、支援する人が出てきて店をやっていけるようになった…

みー:それが光ってことですね。

えみっぺ:そうです。

柴山:そこかしこに、そういう「光」があるはず…だけどそれを見つけるのは難しいんだろうか。重力は勝手に引っ張って落ちて行ってしまうんだけど…。

 あの作品を、監督の石原海さんは「抱撲館」のドキュメンタリー作品としては撮っていないと思う。でも不可分ですよね。でももやっとした方がいるように、そこには意味がある。例えば、ドキュメンタリーだったら見る人は「そちら側(映像の人たち)とは違う立場」になってしまいがち。でもその垣根を崩すというのが、この映画の形なのかもしれないなと私は思いました。

 でもやっぱり、あの受難劇…なんのためにやったの?と思うんですよねぇ、わからない。

ラーメン:私もそこ全然わからなかったですね。抱撲館には「生笑一座」というのがあって、小中学校に行って劇をしたり自分たちの体験を話したりして全国を回ってあるんですね。それの別バージョンで、どこかで公演するためにやってるのかなと思ったんですけど、見ているとそうも思えなくて。だからこの映画を撮るために監督さんが指示されて受難劇を作られたのかなとも思ったんですよね。

H:全然わからないです。この映画のために作ったのかなと思った。

今日は晴れ:登場人物にすごく感情移入しにくい映画だったなと。その方の人生を追うとかだったら「大変だったんだな、何とかならないのか」とか色々考えるんですけど、見てても言葉に共感はするけど感情移入できない。そして話が途切れるじゃないですか、劇が入るし。だから入っていけない感じがしました。それは意図されたものなのかなという気がしました。あの作りは「抱撲館の映画」ではないってことを示してるかなって。感情移入を拒否している作りだなと思いました。

キャロライン:アートなのかなと。宗教性のあるアート。で、抱撲館も入って。見る前にすごく興味があって映画の広告動画を見たんです。そのショットを見ていたんで、あぁ、と。思っていた以上に面白いって感じにはなって。もっと難しくて分からないと思っていたので。

みー:もう一回見たい。だからアートと言われたらスッとするような気もします。

キャロライン:受難劇の事なんですけど、出てくるみなさん、受難の人生で…もしかしてなんですけど、受難劇を演じることで昇華されるというか、それを経てより楽になられる、救われる、のかなと思いました。

柴山:そう、だから最初に言ったけど、「教育なの?」と思ったんですよね。自分の人生を考えるとか、人との関係を作り直すとか、演劇にはそういう効能があるのもわかる。でもそしたら信仰や芸術があざといものになってしまう。結果として効果があるということと、最初からそこを求めて信仰や芸術を活用するというのは違うのかなぁと思って…。昇華するのはいいけど、誰に見せるの、昇華するためにやってるの?と。

キャロライン:昇華する様子を見ている人も、そこで感じることで救われる…というか。このように生きていてもいいんだ、難を負ってもと。

柴山:見ている人も、というのは映画を見ている人ってことですね?

キャロライン:そうです。

アンドリュー:視覚的効果を狙って(劇を)あんな風にしたんでしょうけど、僕が思うには別の信仰があるように思う。まきさんが「小さなことの積み重ねが光になる」とおっしゃったじゃないですか、それがその人の救いに繋がると思うんです。その時に重力によって引き下げられたものが引き上げられる気がします。本当のキリスト教の救いはもうちょっと厳しいのかもしれないけど、気楽な気持ちで、自分を甘やかすじゃないけど寛大な気持ちになると救いも近くなってくるような気もします。

 劇は不完全な気がします。もう少し見せてほしかった。幼稚というか単純というか…。

みー:助けてって言える国…になっているはずなのに、助けてくれる制度を知らない人が多い。それと助けてって言えない人が多い。

柴山:助けてってなかなか言いだせないですよね。映画の中にもセリフがありましたよね、「洋服も破れて、泥がついて汚いから…」とか「四葉のクローバーを集めていたら子どもが来て一緒に探していたけど、お母さんにこっち来なさいと言われて子どもが離れて行って、淋しかった…」って。

Hさんがさっき、カンナさんについて「彼女は本当に抱撲館を居場所と思っているのか」と言ってましたよね、そこをもう少し聞かせてもらえますか。

H:あそこはホームレスだったおじちゃんたちばかりですよね。そもそもホームレスに若い女性が少ない。だからおじちゃんたちの中にカンナさんは居場所だと感じられるのかなと思ったんです。

柴山:ただ楽しそうには見えましたね。

ラーメン:映像でしか見てませんけど、性別とか年齢とか超えているような感じで。無理しているようには見えなくて、会話も自然だった気がするので、私は居場所になっていると思いましたね。人としての付き合いができてるってことかなと。うらやましいなくらいに思いました。自分を開放して過ごしていける場所になっていると思いました。

オーや:カンナさんにとってはおじちゃんたちは友達なんじゃないかという感じがします。

今日は晴れ:誰でも最後には自分を見捨ててしまう、でもママとオヤジは見捨てないと言ってましたね。そういう人がいる所が居心地がいいかな。

柴山:では最後にみなさん、映画というものについて聞きたいんですけど。石原海監督はなぜこの映画を撮ったと思いますか?

キャロライン:難があっても光があって生きていける、ってことを宗教も加えながら…。

アンドリュー:石原さんは奥田さんに同感共感しているのかもしれんけど、人は生まれてこなかったほうが良かった、なぜなら罪を犯してしまうから、でも罪を犯してもなお生かされている、それを言いたいのかなと思いました。

今日は晴れ:全体的に画面が暗かったじゃないですか、暗闇、悩み。暗闇っていうのはこの世の重力。だけど時々明るくなる。人との関り合いとか彩られていく、そこに光がある。そういうことを画面で捉えていたのではないかと思います。

アンドリュー:石原さんも聖書について勉強なさって、何の予備知識もなく撮ったわけじゃないと思うんです。けど、聖書によるとこの世の中は闇だ、でもキリストが来られた事で希望の光が与えられた、ということが言えるんじゃないかと思います。

ラーメン:たぶん監督さんが抱撲館に来なかったら作ってなかったと思うんですよ。キリスト教会に行かれたことがないのかもしれない…。あそこはコミュニティが独特で、信者にならなくてもいいんですね。信者じゃないと救われないのはおかしかろうというのが根本にあって、そこがまたすごいなと思うんですけど。そういうところに監督さんが、本当の救いとは何かと、ご自分が経験されたことを他の人にも経験してほしいという…何を象徴して映画に入れるかというときに監督が周りの人にお願いしてあの劇を入れたのかなと感じました。

H:私、映画のために劇をやったのかなと思っていたんですけど、やっぱり今違うんじゃないかと思って。それは受難劇としては完成度が高くないじゃないですか、作るんだったら演劇の専門家を呼んで指導してもらって作ればいいのにセリフも棒読みだし衣裳もありあわせのものだし変な間があったり、絶対プロの手が入ってない。だからやっぱり自分たちのためにやったんじゃないかと。演劇って絶対役割があるじゃないですか、役割があることで居場所って感じられることもあるかなって思って。救われるだけじゃなく、自分も救いたい。その役割が欲しいから自分たちのために受難劇したんじゃないかと思いだしました。

今日は晴れ:ユダが自分の憎む事ばかりしてしまうんだと言って、でもユダさえも救うと言いますよね。カンナさんもそうなんですけど、ひどいことをしても見捨てない人がいる、それを伝えたかったから作った。それが光かな…と今思いました。

柴山:この作品が、どこにでも光はあるからねというメッセージを持っているということですかね。

今日は晴れ:そうですね。難しいけど、命がある所には光がある。「命は人間を照らす光」という言葉もありましたけど、闇もあるけど光もある、ということを感じました。

みー:ここに来てよかったと思います。いろんな意見があると知って。最初はモヤモヤしてたんですけどいろんな角度からの意見を聞けてすっきり帰れそうです。

柴山:ありがとうございます。そろそろ時間なのでここで締めますが、最後に一つ。福岡市美術館で見たショートバージョンのこの映画上映では、真っ赤なライトが場内をぐるぐると回りながら照らしていたんです。学芸員さんに聞くと、監督の指示だったそうです。その赤は何を意味するのか、私にはよくわからなくて。今回はまったくライトはありませんでしたが、想像して考えながらお帰りください。今日はありがとうございました。

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