インタビュー:中嶋さとさん(Multilingual Theater Fukuoka)

Multilingual Theater Fukuoka

*韓国の演出家による作品を、日本の役者たち(健聴者と聴覚障がいを持つ者)によって演じるという試みを見た。Multilingual Theater Fukuokaという発足したばかりの団体(主宰・中嶋さと)による公演である。演目は『アンネ・フランク』、3日間のワークショップを経て作り上げたとのことだ。この団体および本試みについて、代表の中嶋さとさんにお話を伺った。その前にこの演目を見た感想を述べてから、インタビューをお読みいただこう。

*7月某日、14+の中嶋さと氏から以下のようなメールを受け取った。

 興味深い。というのも、私はここ2年ほど、「劇団14+(fourteen plus)」が「福岡ろう劇団博多」や「TA-net(特定非営利活動法人シアター・アクセシビリティ・ネットワーク)」などと作品を作る活動を見てきており、その活動の意義だけでなく作品そのものの面白さと可能性に惹かれていたからだ。

★『注文の多い料理店』2024年2月25日

4月, 2024 – 劇ナビFUKUOKA (gekinavi.jp)

『注文の多い料理店』

★『変身』2024年1月20日

1月, 2024 – 劇ナビFUKUOKA (gekinavi.jp)

『変身』

 今回は新たに韓国語が加わるという。チーム名に「Multilingual(多言語)」という語が用いられているように、手話を他言語と同等の「一つの言語」と見なしていることにも好感を持った(手話は通訳のための手段だと見なされがちな気がしている)。不勉強な私は知らなかったのだが、手指動作だけでなく非手指動作、例えば視線、眉、頬、口、舌、首の傾き・振りなどによって表現され、「ジェスチャーとして真似れば伝わる」わけではないという。また日本語一語一語に対応した型の手話もあるようだが、もう一種、日本手話と呼ばれる手話の形態は非手指動作に文法的意味が含まれるらしく、なるほど確かに「一つの言語」と見なすべきだろう。

 さらにこれまでの公演を見て気が付いたのだが、「舞台手話通訳」という存在は通常の手話通訳とは一線を画し、作品作りに大きく貢献する。通訳と役者を兼ねる中で、役や作品の世界観をかみ砕いて難聴の役者と観客に伝えていく存在である。そのため、ある意味では演出の要の部分を体現する存在にもなる。まさにこの点が舞台の可能性を広げる面白さの一つになっている。

 ではそこにもう一つの言語(韓国語)が加わるとどうなるのか。ワクワクしながら南市民センターに赴いた。

 公演は15分程度の短いもので、サイレンの音や音楽はあったがセリフはない。アンネたちユダヤ人が追い詰められ、空襲に怖れ、他方で戦争のさなかの「傷つかない側」が持つ優雅な時間、そして終戦へ、という様子を10名強の役者が演じた。わずか3日のWSで作られたにしてはよくできていたが、2つほどの不満を抱いた。

*「多種の言語による協働」を謳っての試みのはずだが、その様子が全く見えない。韓国の演出家の指示に「合わせ」て一つの作品を作り上げることだけが目的化されていたのではないか。特に音きっかけの動き(二重の円になってのワルツのシーンや、空襲警報のシーン)を入れる理由は? 今回は、公演作品ではなくワークショップの時に3つの言語が飛び交っただけで十分という事なのだろうか。

 *十把一絡げの描き方であるということに不満を持った。劇中で「逃げ惑う市民(住民)」というまとめた(ある意味雑な)演技をしていた。だがこうしてろう者と一緒にやっているからこそ、住民の中には耳が聴こえない人、目が見えない人、肢体不自由な人、高齢者も妊婦…などがいたはずだという気づきがあって良いはず。当時のドイツで圧倒的に弱者だったユダヤ人の中に、さらに身体的弱者がいただろうことまで思いを馳せることもあってよさそうなものだが…。

『アンネ・フランク』

柴山:Multilingual Theater Fukuokaはどういうきっかけで作られたんですか。

中嶋さと氏

柴山:先日『アンネ・フランク』を拝見して、これは元々聴覚障がいの方と作った作品ではないだろうなと感じました。もちろん聴覚障がいの俳優とのワークショップを経ていますから大元とは異なるのでしょうが、あの韓国の演出家の方は聴覚障がいのある俳優と作品を作ったことが無いのではないかと思いました。

柴山:そうするとワンテンポ遅れることになりますね。それが悪いとは言いませんが、「合わせよう、合わせよう」とすることが良い演技に繋がるとは思えません。終演後に俳優たちが「合わせる」「入っていく」という言葉を口にしていて、一緒にやってないという感じがしたんですよね。

『アンネ・フランク』

柴山:今まで中嶋さんがやって来た活動を2年程見てきました。例えばBGMはタイトルをつけて、それもその雰囲気を凝縮した説明のタイトルを字幕で見せていました。またセリフを野上さん達が手話通訳するにしてもそのままではないですよね。それが舞台手話通訳であり、通常の手話通訳と違う、それがとても面白い点だと思っています。つまり演出家は通常の演出以外に、舞台手話用の演出をすることにもなる。それが新しい可能性を開くことになると興味を持ちました。ところが今回は韓国・日本という2つの他言語だけで作られた作品でしかなく、ろう者の俳優とともにやった意味がなかった気がしました。

柴山:それから逃げ惑う群衆のシーンで、街にはいろんな人がいるはずなのに身体的弱者が1人もいないように見えました。そんな演出があっても良かったのではないかと思いました。質問すると演出家の方は演出したつもりだったと言われましたが私にはそうは見えませんでした。ろう者との作品作りに慣れていなかったにしても、ろう者と一緒にやっているからこそ舞台上にその存在が出せたのではないかと。例えばサイレンが聴こえないなんて、聴者より恐怖じゃないかと思うんですよね。

柴山:じゃぁ、ろう者はなんだったら高揚感を覚えるんだろう?

柴山:例えば、あそこで『リリー・マルレーン』が掛かっていましたよね。あの曲は当時のドイツで大流行した歌謡曲で、それを使用する意味がある。でも使用する意味を説明されてない(中嶋:うなずく)、歌詞の意味をきいてわからないなら…置いてけぼりだったんじゃないかと思ったんです。

柴山:単純な疑問を一ついいですか。公演の後に(出演者で「福岡ろう劇団博多」の代表である)鈴木さんが、本を読むのも大変なんだってことをおっしゃいましたよね。聴覚に障がいがあるなら文字情報に頼るのかと思っていたので、どういうことかわからなくて。

柴山:ああ、構造が違うってことなんですね。だとしたら、思っている以上に、手話は違う言語ってことなんですね。だから「漫画ならまだ読めるけど」とおっしゃっていたんですね。

柴山:だから舞台上でも単語を置き換えるのではなく、舞台手話通訳という演出が必要というわけなんですね、あぁ、ようやくわかった。

柴山:以前、TA-netの廣川さんにメールで権利のことについて聞いたことがあります。脚本だったら書いた人の著作権が生じますけど、舞台手話通訳にも権利は生じるんですかと。すると「例えば歌に関しては最初に作った人が権利を持つスキームを作ったが、演劇に関しては特に定まっていない。将来的には保護されるべきべきかもしれない。重要な観点ですね」というお返事がきました。舞台手話通訳の場合は、完全に意味を解釈して多彩な表現の中から手話表現を選択して表現していくわけですからね。

柴山:演出家もかなり言語化が求められますね。

柴山:それは役者と観客のろう者では感じ方は違うんでしょうか。

柴山:恐怖を感じるのかもしれませんね。

柴山:文脈が無いからいきなりと感じるってことなんですね。

柴山:「さいとぴあ」でやった時には、芝居が始まる前、観客が客席につくときからすでに舞台上のスクリーンでイメージ映像が流れていましたよね。森の中のイメージをしているんだなと思いましたが、普通の芝居だったらあれは要らないですよね。だからそういうものをする意図もあるんだろうなと思ってみてました。

『注文の多い料理店』

柴山:ろう者と捉え方がちがうんでしょうね。具体的にやりすぎると面白くない点から、その間を考えていくってことですか。

柴山:だとしたら、ろう者の方々も見ることに慣れないといけないということですね。

柴山:『注文の…』2作と『変身』は「完成」「終わり」ではなく、どんどんバージョンアップというか更新させようとなさっていますよね。そのことが何よりも素晴らしいなと思っています。聞こえる人の満足と、聞こえない人の満足は違うかもしれないから、そこを探るのは難しいですね。

柴山:外に出て見に行こうとすることに慣れていない、見ても分からないと思って見ない…ってことでしょうか。

柴山:ああ。…中嶋さんは、元々どうして「福岡ろう劇団博多」と一緒にやろうとしたんですか。

柴山:普段やられている、作られている物とは全然違いますよね。ろう劇団博多との共作が役に立ったなという事はありますか。

柴山:ちょっと想像がつきません。

柴山:ひょっとすると聴者のミュージカルからすると「ずれ」に見えることもあるかもしれませんね。でもそれそれは聞こえる世界と聞こえない世界の二つを一緒に見ていると考えることもできますね。私たち聞こえる人は聞こえる世界に慣れきっているから、「ずれ」を「おかしい」と見るけれど、聴者のミュージカルではそれが徹底されているからなんですけど、そうでなくてもいいわけですよね。。

柴山:そうですね。拝見していて面白いと思うのが、聞こえる/聞こえないの領域をすり合わせていく(工夫していく)中で新しい可能性が開けていく所です。

柴山:うんうん。そうなんですね、ミュージカルをやりたいと思っている人、見たいと思っている人が、ろうの方にもいるということなんですね。これは重要なことだ。

柴山:作品選びも考えていかなきゃいけないんでしょうね。その点では、(ろう者の役者と一緒になる上で)『注文の多い料理店』と『変身』は素晴らしいチョイスだったと思います。

『変身』野上まり(左)吉田忠司(右)

柴山:ああ。でも私は全くそうは思いませんでした。完全に役を割り振っていたわけではないですよね。全体で虫になることもあったし。それと舞台手話通訳をする人というのは、他の作品でもそうですが、「部分でもあり全体でもある」わけですよね、そういう位置づけの人がいると、役と役者が1つずつ対応するような見方は自然にしなくなります。作り方にもよりますけど。

柴山:違うんですね。

柴山:面白いですね。

柴山:あとは、ろう者の方が舞台を見にいく、そこをどうやっていくか、ですね。

中嶋:いい作品を丁寧に作っていくことですかね。…おかげさまでろうの方と接する機会ができていろんな話を聞けます。塩原の練習場は振動がなかったんですね。私たちは足音がしないような所を選びたいんですけど、「伝わりづらい」と言われて、ああそうかと。視野も広いじゃないですか。

柴山:光に敏感になるのも同じですね。

柴山:え~! 視野に少しでも入っていたらわかるってことなんですか。じゃぁ…ろう者だけが観客という公演はやったことないですよね、その場合はどうなるんだろう⁉ 観客からの反応がきっと違いますよね。一度それやってみません?

柴山:そうしたら逆に、聞こえる役者さんが気づくこといっぱい出てきますね。今までの反応と違うだろうし、暖簾に腕押しのようなこともあるだろうし。アウェイな状態でやるということを感じることができる。

柴山:では今後の活動をお聞かせください。

柴山:今後の活動も注目していきたいと思います。ありがとうございました。

(2024年8月21日)

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