シアターカフェ『ライカムで待っとく』

2024年6月15日(土)

対象作品 『ライカムで待っとく』 作:兼島拓也 演出:田中麻衣子 出演:中山祐一朗・前田一世・佐久本宝・蔵下穂波・小川ゲン・神田青・魏涼子・あめくみちこ                @久留米シティプラザ 久留米座

*2016年から福岡、小倉、久留米などにおいて不定期に「シアターカフェ」を開催してきた。シアターカフェとは、観劇した後に有志の観客(10名程度)でお茶を飲みながら、見たばかりの作品について語るというものだ。作品の役者・劇作家・演出家が参加してくれることも多く、毎回かなりの盛り上がりを見せる。

 今回は久留米シティプラザの「知る/みる/考える 私たちの劇場シリーズ」vol.5 演劇『ライカムで待っとく』が対象作品。久留米シティプラザでのシアターカフェも3回目となるが、前日までの申し込みで満席(15名)となったのは初めて。当日にはさらに増えて17名という大所帯での開催となった。人数が多いと深く話すことが難しくなるが、それだけ本作の関心が高いということだろう。どんな感想が出たのか、抜粋する形で紹介していきたい。

 Yさんは、「共存とは何だろう」という疑問を持ったという。「寄り添う」「わかる」といった言葉に気持ち悪くて仕方がないと。劇中での、娘がいなくなったことに焦る浅野に対してタクシー運転手が「寄り添ってあげますから」というシーンを挙げ、参加者の多くがその言葉にうなずく。寄り添うとは一体どういうことなのか。Kさんは、本作を見て自分がいかに無関心だったか、分かっていなかったのかとショックを受けたという。「寄り添う」という言葉を使う時、自分はどこに立つのかという位置を意識することになる、その言葉を発する自分は何者なのかと考えたという。参加者TYさんは女優業もやっていることもあって、常に「演劇でやることは『寄り添う』ことになるのか」と自問自答しているという。社会と関わるということ、社会と演劇との関係を考えざるを得ない――。

 「寄り添う」という言葉は、「当事者ではない」ということの表れだ。YTさんは沖縄で起こっていること(起こってきたこと)に対して「無知である特権」という言葉を使った。記事にしようとする浅野、その外部者の立ち位置に無意識での差別があるのではないかと感じたようだ。

 数多ある論点で私が今回挙げたのは「物語」として捉えてしまうことについて。記者として名護で取材をした経験があるМさんは、自分が「物語」を探していたと反応してくれた。見終わって絶望感でいっぱいになったというTさんは、「物語の書き方」を考えてみたと話す。浅野が「これは私が書いているのか」と、気づかないうちに記事が書き進められていることに動揺するシーンがあるが、Tさんはそのシーンを引き合いに「分かりやすい、自分の物語を書いてしまっているのではないか」という問題提起をする。複雑な現実に対してわかりやすく書いてしまうこと、そこから零れ落ちる何かを不問にしていいのかという指摘だ。Yくんは、目の前の「状況」しか見えない若者に言及し、「物語を見つけに行っちゃう」「そういう見方しかできない」と表現した。

 TYさんは劇中の「あなたもこの物語の中だよ」というセリフを出して、それがまさしく外側にいることの証左であるという。外側にいる人間は、決して分かり合えないのだろうか。

 外部と内部の問題は本作に通底するポイントだ。私が、水俣を撮り続けた写真家ユージン・スミスを例に挙げ、彼が水俣に入り込めたのは彼が「外国人であった=どうしようもなくよそ者であった」ということはないだろうかという話をする(いくら彼が現地の女性を妻にしたとしても)。

 「境界線があると思っていたが、そうではなくあるのは水平線だった」といった劇中のセリフが印象に残った人も多い。越えることすらできない、届かない線。Мさんが、沖縄の基地問題を(結局のところ)容認してしまっている自分の加害性を述べる。Мさんは記者をしている時に現地で責められているように感じたと話したが、結局は「外部の人間にはわからない」ということなのか? 責めるというのはどういうことなのだろう? すると、同じく記者をしているTTさんが「相手はそのつもりはないだろうが、そう感じるのだ」と言った。そして「でも、外部だからこそできることはあるだろうと思う。外部だからこそ感じられることがあるのだ」と。

 「沖縄は日本のバックヤード」この「バックヤード」というキーワードが私たち観客に与えたインパクトは大きい。Tさんは「バックヤード…見えなくされるものですよね」とつぶやく。舞台そのものがバックヤードに見立てられたように大きなビニールカーテンに囲まれていたと教えてもらい、そういえばそうだった!と感心して驚く人もいる。

 Sさんが、段ボール箱の使い方が面白いと話した。答えの出ない問題を視覚的に見せているのが段ボール箱だと指摘する。そこから段ボール箱談議になる。「部屋が散らかっている時に段ボール箱に全部入れちゃって見えなくする、見たくない物を入れちゃう」というTWさん。段ボール箱を投げるシーンは、「やり場のない怒りや憤懣」をどこかに投げたいということだと感じたという声も上がる。逆に、Yくんは段ボール箱で連想するのはお引越し、そこに物を入れる(出す)という行為で時間に輪郭をつける、記憶を一つ一つ思いだしてあげることに繋がると言った。TWさんたちの意見とは全く反対のイメージである。SYさんは劇中にたびたび登場する「データ」「アーカイブ」という言葉から、「残すということ」を段ボール箱のイメージと結びつけた。

 「残す」といえば、手記を書いた伊礼さんのおじいさんは、資料が入った段ボール箱を誰にも触れさせなかったという件が出てくる。単純な疑問としてなぜなのか分からないとつぶやくと、Kさんが「語りは常に主観である、後から開くと正しい事実が分かる」ということではないかと言った。ん、それだと話が違う方向に行くけれど…?

 ラストシーンについて皆さんに質問する。飛行機の飛ぶ音(オスプレイ?)の後、「カシャッ」という音がして一瞬光り、暗転して終幕となる。これはどういうことかと聞くと、みなさんからいろんな意見が出た。あれは写真のフラッシュだろう、50年前の写真に写っている4人と同じ4人(写真では浅野にそっくりな伊礼さんのおじいちゃんが写っている、その代わりにラストシーンは浅野がいる)であるとのこと。なるほど! しかし、それは「全く同じ構図」ということではないという意見も出る。いくら似ていても写真の人と浅野が違う人間であるように、沖縄も歴史をくり返しているのではなく少しずつ変わっていっているという示唆しているのではないかと。これは開いていく未来を指しているのではないかと。カフェが始まってすぐの感想では「圧倒的に絶望を感じる芝居だった」という人も数名いたが、ラストシーンに希望を見出す意見もなるほどと思わされた。

 ライカムのすぐ近く出身のAさんは、生まれたころから基地があるという環境で育った。沖縄から出て久しいというが、彼女の本作の感想をしっかり聞く時間が無かったのが残念。

 その他…最後まで登場しない浅野の娘「ちなみ」の存在は様々なものを象徴している、「ライカム=アメリカの象徴/イオン=日本の象徴」と思った、裁判のシーンでの誘導尋問の怖さ、有罪を主張する陪審員たちに囲まれて賛同せざるを得ない圧迫した空気も怖かった、これは「逆転」の物語なのだ、…このような感想も登場した。

 

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